2話「勉強やばい」
万年皆勤賞の健康優良児という稀有な存在でなければ、誰もが一度くらい経験があるだろう。遅刻して教室に入り、黒板やテキストに向けられていた視線が一斉に注がれる感覚。それを一度でも経験したことがある上で、再び同じ状況になった際の扉の重さ。それを何十、何百倍に煮詰めたような緊張感。
「どうした。やはり、腹でも痛いのか?」
首をブンブンと振り、否定をする。腹と言うより胃が痛くなりそうではある。
「なら、早く入れ。ホームルームが始められないではないか。」
この教師には、優しさや思いやりといったものが欠けているのではないか。そんな些細な苛立ちで、緊張感が少し和らいだ。
ドアを開ける音。
ホームルーム前ということもあり、其処此処に大小の浮き島が形成され、駄弁が繰り広げられていた。
足を踏み入れる。
授業中という、ある一定以上の静けさを必要とされる時間ではないため、そこまで視線を一挙に集めることは無かった。しかし、奇異の目はどうしたって向けられる。他人の視線に釣られる形で、注がれる視線は次々に増えていく。
「お前らー!さっさと、席に着けー。」
机や椅子がガチャガチャと音を立てる。
ひとつだけポッカリと空いている、窓側から2列目1番後ろの席。自分の席が、席としてちゃんと置かれていたことに少しだけ安堵した。来たくて来た訳では無いが、自らの居場所というものがあるのは意外と嬉しい。
さっさと席に着こうとしたところ。
「おい、なにサラッと席に向かおうとしている。流石に、自己紹介くらいはしたらどうだ。」
当然といえば、当然だ。しかし、声が出ない。声が出ないのから、声が出ないことも伝えられない。焦りからオドオドとしていると。
「あー、わかったわかった。ここで無理にやらせて、帰られても面白くないしな。」
長い黒髪の間に指を入れ、頭を掻きながら言う。
この教師には、人の心というものが無いのか。
例え思っていても、本人に対して言うことではないだろう。それに面白い、面白くないという問題なのか。聖職者としての前に、人としてどうなのか。
「彼女は、イリノ イクミ。事情あって、いままで休学扱いとなっていた。仲良くしてやってくれ。以上。」
さっぱりとしている。というよりか大味だ。
「席に着いていいぞ。ホームルームが始められん。」
一礼して、席へ向かった。
「それじゃあ、連絡からだ。来週から格技場の改修工事が始まる。あそこも大分ボロいからな。そのため、柔道の授業が持ち越されて、何かしらの球技だそうだ。ジャージを忘れるな。それから…」
「お、やぁりー!」
「ッしゃー!」
先生の話は聞きながらも、チラチラと視線が向けられる。席に着いてからは、コソコソと噂話が交わされているのがわかる。
窓側から2番目の列、最後尾。それが私の席だ。教室最奥の好立地、つまり左側には話も聞かずに突っ伏して寝ている男。右側には、なんと金髪にピアスのメガネをかけた男。目線に気づいたのか手を振ってくる。それを一礼してやり過ごす。
この高校は平々凡々、偏差値も中の中。それなりに校則もある高校であるはずだが、いいのか金髪。いや、良くは無いはずだよね金髪。
そう言えば、入学早々金髪で登校してきたアホがいると1年の時に聞いた事があった。あれは彼のことだったのか。
「連絡は以上だ。1時限目は数学だろ?ちゃんと教科書出してないと、ミクニヤ先生うるさいぞー。」
「「「うーぃ。」」」
手帳で肩を叩きながら担任が教室を後にした。
快活で少し雑な印象の担任。その影響か、少し不真面目さが感じられるけど、切り替えが早い悪くないクラスみたいだ。
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両親を亡くして不登校だったという噂は既に出回っているようで、極端に関わろうするクラスメイトはいなかった。都合はいい。それはいいのけど…。
勉強についていけない。
全く分からない。何をどうしているのか、どうしたらいいのか。まずい。いや、わかってはいた。予想はしていた。心のどこかで"あれ、勉強ついていけるかな"くらいには考えていた。しかし、それ以前の教室に入ることなどに対する緊張感の方が大きかったため、誤魔化されていた。実際に直面すると、勉強面の方が余程問題だ。
当然の結果ではある。1年の中から2年の序盤まで学校に来ていなかった、授業を受けていなかったわけだし。様々な計らいや、配慮の結晶で留年は免れていた。でも、これはまずい。もちろん、膨大な量の補習も待ち構えている。
" 動径OPを表す、一般角で答えよ。"
なんて言われても、なにを言っているかさえわからない。これだから数学は嫌いだ。日本語を使っているようで、全く日本語とは思えない。
嗚呼、帰りたい。
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結局、授業のほとんどが理解出来なかった。
ホームルームで寝ていた男。黒髪短髪で目付きが悪い。学生服のボタンを2つ目まで開けていて、中の赤いシャツが見える。The硬派な不良といった風貌だが、授業となると一応は起きて話を聞いている。1時間丸々起きていることは、あまりないが。
対して、金髪ピアス男。ただのチャラ男かと思っていたが、意外や意外。これが真面目にノートを取っているのだ。
「Ms.Ilino,Read this sentence.」
やばい。やばい。やばい。読めない。その以前に声が出ない。
「Ms.Ilino,Stand up.」
椅子の足と床の摩擦音。
言われたままに立ち上がるが、どうすることも出来ない。どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうし…
椅子と人が倒れる音。
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ッ…
「大丈夫かよ。椅子巻き込んで、派手に倒れてたけどよ。」
粗野な口調だが、優しさの感じられる声がする。
「保健室のばぁさんが、貧血とか栄養不足じゃねーかってよ。」
目を開けるとヤンキー風の黒髪短髪が近くにいた。保健室に運ばれたらしい。
「_。」
お礼を言おうと口を開け、必死に動かしても何も伝えられない。
喉を抑えて、口の前で手をパクパクさせ、バツを作った。ジェスチャーでなんとか、話せないことだけでも伝えようと。
「お前ッ!頭やったせいで、声がでねぇのか?大丈夫かよ。」
もっと他の言い方がないのか。頭に血が登ったため、頭がズキズキする。
「とりあえず、先生呼んでくる。」
手を掴んで、口パクで"待って"と不機嫌な顔で伝える。
も・と・か・ら、と口パクしてみるものの。
「なに?」
「ぜんっぜん、わかんねぇ。」
この繰り返しだ。理解する気がないのか、バカなのか。
「声が出ねぇなら、紙に書きゃいいだろ。」
私も人のことは言えないと思った。いや、言えないし、言っていないのだからセーフだ。
そう言ったあと、保健室の机から紙とペンを取ってくれた。
声が出せないこと。それに気がついたのが昨日であること。そんなことを伝えると。
「お前バカだな。」
と、言って腹を抱えて笑い始めた。
「先に教師に伝えるなり、そもそも先に病院行けよ。」
全くのその通りとは言え、この男はデリカシーというものを持ち合わせていないのだろうか。
【わたしは、イリノ イクミ!お前呼ばわりしないで!】
と、殴り書きし男に突きつけた。
「イクミね。オレはマサル。マキモト マサル。よろしく!」
ありがとう