3 真雪
「真雪とだいぶ打ち解けたようだな」
いつものようにふたりで連れ立って街へ出ながら、殿下が言った。
「そうでしょうか。相変わらず叱言もいただいていますが」
「真雪にはそなたを剣術以外の面で一人前にする責任があるからな。それは仕方ない」
「なぜ、私のことが櫻井どのの責任になるのですか?」
「言わなかったか? 真雪がそなたを推薦したからだ。わたしが側に置くのに良い衛士を探すよう命じてすぐだったゆえ、以前から目星をつけておったのだろうな」
「そうだったのですか」
朔夜の胸のあたりが少しだけ温かくなった。
「あれは苦労人だから、甘やかされて育ったそなたを歯がゆく思うところもあるだろうが」
「私は別に甘やかされてなどいません」
「朱雀門の鬼が末の息子にだけは目尻を下げる、というのは衛門府では有名な話なのであろう」
「母や兄は厳しかったです」
口をへの字にした朔夜を見て、殿下は吹き出した。
「父に関しては否定せぬのだな。まあよい。では今日はあそこへ行くとするか」
そう言うと、殿下は先に立って歩き出した。朔夜も殿下から離れぬようピタリとついていった。
殿下が向かったのは皇宮から南西の方角だった。あたりに並ぶのは大きさも形もさまざまな貴族屋敷だ。その中の一軒の前で殿下は足を止めた。周りは背の高い塀に囲まれているが、ところどころ崩れていて中が覗けた。貴族屋敷としては小さなもので、庭も狭い。パッと見は整っているようで、よくよく見れば傷んでいたり壊れていたりと粗が見えた。
「この屋敷の前の主は大した官位も持たぬ下級官吏のまま死んだ。ゆえに息子たちは官吏になるには養成所を出るしかなかった」
突然始まった殿下の語りを朔夜は黙って聞いた。
「だが、跡継ぎの長男は何度受けても入試に通らず、結局は裕福な商人の娘を嫁に迎えて商いを始めたがあまり上手くいってないようだな」
屋敷の状態を見れば、そうだろう。
「対してその弟は一度めの受験で首席で合格した。すると兄はいつか全てを奪われるのではと怖れて弟を家から追い出した」
ようやく朔夜は殿下がこの屋敷に朔夜を連れて来た理由を知った。
「それ以来、弟は一度もここに帰っていない」
殿下は淡々と話すが、朔夜は自分の顔が歪むのを感じた。
「阿呆だと思わぬか。真雪がこんな小さな家やわずかな財産など欲しがるわけがなかろう。あいつはこれから己自身の力でもっと大きなものも手に入れられるのだからな。もう少し優しくしておれば今頃屋敷の修繕費くらい出してもらえただろうに」
「櫻井どのの母上はどうされているのですか?」
「もちろんここで暮らしておるが、会わせてもらえぬそうだ」
朔夜は項垂れた。確かに己は甘ったれだ。
「一部の高位官吏の跡継ぎだけが何もせずとも官位を得られることに問題がないとは思わないが、わたしはそれを偉そうに言える立場でもない。それに、養成所があるからこそ掘り出し物の下級貴族の次男を拾えたという面もある」
「殿下は偉そうにしていらしてよいと思います。それだけのことはしておられるのですから」
顔面に力を込めたせいで、怒ったような声になった。
「なぜわたしがそなたに許しを得ねばならぬのだ」
殿下も腹を立てたように言ったが、その表情はどこか嬉しそうにも見えた。
「わたしたちは真雪を見ているから官吏養成所など大したことはないように思ってしまうが、実際には入所は狭き門で、卒業するのも簡単ではないのだ」
「櫻井どのは本当に優秀なのですね」
「優秀も優秀。養成所で二十年近くも教鞭をとっている博士が自分の教えた卒業生の中で一番だと言っておった」
殿下はやはり自慢げだった。
朔夜は真雪の前では今までどおり何も知らぬように振る舞っていたが、どうやら無意識のうちに真雪を見ていたらしい。
「おまえ、このところ視線が煩わしいぞ。どうせ殿下に何か聞いたのだろう」
「いいえ、ただ櫻井どのはすごい人だと改めて思っていただけです。官吏養成所を首席で卒業されて、殿下に必要とされて」
朔夜は微妙にごまかした。
「前にも言ったが、養成所を出なければわたしは官吏になれなかったのだ。首席は努力したらついてきたおまけみたいなものだ」
「努力したからといって誰もが首席にはなれません」
「人より多少頭の出来は良かったかもしれぬが、やはり最後は人よりどれだけ机に向かい本を読んだかだろう。朔夜の剣術だって同じはずだ。おまえは人より才能を持っていたが、それがしっかり実ったのは誰よりも刀を振ったからではないのか」
「はい」
「殿下に必要とされているのだってわたしだけではない。必要とされる場所が異なるだけだ」
しばし迷う風ののち、真雪が再び口を開いた。
「わたしには剣術の才はまったくない。朔夜と比べてとかではなく、な。一応貴族の嗜みとして基本は習ったのだが……。殿下にはいざという時には邪魔になるだけだから間違っても盾になるなど考えるな、さっさと逃げるか隠れてろと言われている」
一瞬の間のあとで、朔夜は声をたてて笑った。真雪の眉間に皺が寄った。
「もちろんおまえがわたしを庇うこともないからな。どんな時でもおまえは殿下のことだけお守りすればいい」
朔夜は真面目な顔になって頷いた。
「わたしたちとは違って殿下にはあらゆることが求められる。あの方は何でもそつなくこなすが、それを少しでも支えられる者が必要だ」
真雪は難しい顔で呟いた。