1 衛士見習い
よろしくお願いいたします。
衛門府の訓練場では何十人もの衛士たちが木刀による打ち合いを行っていた。衛門府2階の窓から彼らはその様子を見ていた。
「そなたが言っておったのはどこだ?」
「向こうにいる、ほかより小さいのです」
指さすほうを見れば、確かにひとりだけ明らかに小柄な衛士が頭二つ分も身長差がありそうな相手と向き合っていた。
「あれか」
見られていることなど知らずに、ふたりの衛士は烈しく木刀をぶつけ合った。
「押されているではないか。そなた本当にあれを推すのか?」
小柄な衛士が力負けして吹き飛ばされ、だがすぐに立ち上がって前に出た。
「なぜあの中であの者だけが目立って小さいか、おわかりですか?」
「ひとりだけ子どもだから、であろう」
「そのとおりです。本来ならあれくらいの歳の衛士はまだ見習いですから新人訓練か幼年訓練の課程に属しますが、あいつは一般訓練を受けています。ちなみに相手の男は前回の剣術大会で3位でした」
小柄な衛士が素早い動きで一気に相手の懐に飛び込んだ。その木刀が相手の脇腹を掠める。
「なるほど、将来有望というやつか。よし、会おう」
直後、小柄な衛士の体が再び後方に飛んで地面に転がると今度はそのまま動かなくなった。
「うん、死んだか?」
◆◆◆◆◆
朔夜は救護室で目を覚ました。うつ伏せで布団に寝かされ、後頭部には濡らした手縫いが乗せられていた。ゆっくりと顔の向きを変えると、すぐそばに朔夜と同じ年頃の男が座っていた。衛士ではない。
「起きたか」
男が声をかけてきた。女のように綺麗で整った顔立ちをしている。着ている物は高級そうだが、どこかで似たものを見たような気がする。
「はい」
朔夜が身を起こすと、男の斜め後ろにもうひとりいるのが目に入った。こちらはやはり同年代と見える色白の丸顔で、いかにも文官らしい姿をしていた。
「気分はどうだ。頭はまだ痛むか?」
「痛みますが、大丈夫です」
「では話すことは可能だな」
朔夜はふと思い出した。何度か警備のおりに近くに立ったものの、その御顔を目にしてはいけないと言われたため、首から下しか見ることのなかったお方。あの方は朔夜とそう変わらぬ歳だったはず。
「わたしが誰かわかるか?」
「皇太子殿下、でございますか」
使い慣れない敬語でたどたどしくなってしまった。
「どうやら馬鹿ではないらしいな」
皇太子殿下はニヤリと笑った。だが後ろの男は朔夜を睨んだ。
「わかっていたなら礼をとらぬか」
「ああ、そうか」
朔夜は布団から下りると礼をとったが、これもぎこちない動きになった。それから名乗ろうと口を開いた。
「私は……」
「ああよい。そなたのことはすでに調べた」
朔夜は顔を上げた。いったい殿下はなぜこんなところにいるのかと、ようやく疑問に思った。
「松浦朔夜、そなたは明日よりわたしに仕えよ」
殿下の言を聞いてただポカンとした朔夜に対して、再び殿下の後ろから声が飛んだ。
「返事をせぬか」
「ありがたくお受けいたします」
朔夜は慌てて頭を下げた。
「では、わたしはついでにここの見学をするゆえ、詳しいことはこの真雪から聞け」
そう言うと、殿下はさっさと救護室を出て行った。残された朔夜は真雪と呼ばれた男の顔を見た。
「東宮殿守護隊に仮配属になった、ということですか?」
「仮配属はその通りだが、守護隊ではない。もちろん守護隊とは連携して動くことになるが、おまえの役目はあくまで皇太子殿下の御身をお守りすること」
真雪は袂から紐のついた板片を取り出して朔夜に差し出した。皇宮で働く者が持つ身分証だ。
「これで東宮殿の門を出入りできる。それから東宮殿寮の食堂と東宮殿衛士控所も使用可能だ。衛門府の身分証とともに必ず携帯するように」
朔夜は身分証を受け取ると、それを確かめた。表には東宮殿への所属を証明するとの文言、裏には朔夜の名が記されている。
「わたしは殿下の秘書官の櫻井真雪だ。よろしく頼む」
「はい、お願いいたします」
昔は士族だけが衛士になれた。しかし現在の衛門府は「来る者は拒まず、去る者は追わず」。希望すれば身分に関わらずほぼ入府が認められるが、訓練で脱落する者も少なくない。入府してくるのはだいたい10代前半の者だ。
入って最初の1年は新人訓練、次の数年は幼年訓練過程になる。幼年訓練で認められると実地訓練としていくつかの隊に短期配属され、その後正式な所属が決まると同時に衛士として一人前と認められるのが通常だ。
だが朔夜は新人訓練は7か月、幼年訓練も1年3か月で終えて以降、一般の衛士に交じって訓練を受けてきた。すでに皇都守衛隊と玄武門守護隊での実地訓練も経験し、おそらく次の仮配属ののちにはどこかの隊に正式に配属されるだろうと考えていた。そんなところに突然皇太子殿下直々の来訪があったのだった。
翌朝、指定の時間よりやや早めに東宮殿の門に到着し、門前に立つ衛士に身分証を提示した。
「ああ、話は聞いている。すぐそこの建物が東宮殿だ。この時間ならもう殿下は執務室だな」
「ありがとうございます」
東宮殿まで行き今度はその入り口にいた衛士に名乗れば、執務室まで案内してくれた。
「申し上げます。松浦が参りました」
衛士が戸の内へ呼びかけると、中から「入れろ」と声がして戸が開いた。戸のすぐ傍に立っていた衛士に促され中へ入れば、文机の向こうに皇太子殿下が、その横には真雪が座っていた。
「ここへ」
殿下が指さすあたりに膝をつき、礼をとった。
「しばらくはそこにいる中川から守護隊の仕事を学べ。東宮殿に関してわからぬことがあれば真雪に聞け」
「承知いたしました」
「励めよ」
再び一礼してから戸の前まで退がり中川に挨拶をした。
「松浦朔夜です。お世話になります」
「ああ、よろしく。今はお役目中だから、細かいことはまたあとで」
朔夜は頷くと、中川を真似て戸の傍に立った。
午後になってから別の衛士と交代し、朔夜は中川に連れられて東宮殿寮の食堂に行った。出てきたのは衛門府寮で出される士族風の大皿料理とは異なり、ひとり一膳の貴族風料理だった。
「正直、衛門府の飯のほうが性に合うんだが、こっちのほうが近いからな」
朔夜もその意見に賛同だった。
食事が済むと中川は衛士控所に向かった。そこで休憩中らしい数人の衛士の目がいっせいに朔夜に向けられた。
「そいつが例のやつか」
「朱雀門の鬼の子、にしてはずいぶん可愛いな」
「だが殿下のご指名なら剣の腕は鬼並みなんだろう」
男たちの声が止んだわずかな隙をついて、朔夜は名乗った。
「松浦朔夜です。よろしくお願いします」
「おお、頼むぜ」
「殿下をしっかりお守りしてくれよ」
一度奥に入った中川が戻ると、朔夜に萌木色の羽織を渡した。今までに会った東宮殿の衛士が皆同じものを身につけていた。
「これが東宮殿守護隊の制服だ。朔夜は隊員ではないから着る着ないは任せるが」
衛士は羽織の色でどこに所属するかがわかる。朔夜がこれまで身につけただけでも新人訓練時代は撫子色、幼年訓練のときは水縹色、玄武門隊はそのまま玄色。皇都守衛隊はそれぞれの地区ごとに何色かを組み合わせていた。
朔夜は礼を言い、その場で萌木色を羽織った。
それからは中川のあとを追う日々になった。殿下の側につくよりも、東宮殿の守りに立つことが多かった。3日に1度は不寝番にもついた。警護の合間には訓練を受けたり、東宮殿を歩き回って建物や部屋の配置を頭に入れた。衛士たちは概ね口は悪いが親切だった。一方で真雪にはたびたび礼儀作法や言葉遣いなどで注意を受けた。
夜になって朔夜が東宮殿を退がる前に殿下に挨拶に行くと、引き留められることが常だった。殿下は朔夜に話しをさせたがった。衛門府に入ってからの日々のこと、小学校に通っていたころのこと、家族のこと、家のこと。殿下に求められるまま朔夜は語った。
半月ほどたって、朔夜は中川から離れた。そこからは守護隊のいずれかの衛士とともに殿下の側に立つことになった。
殿下は執務室ではひたすら机に向かって書き物や調べ物をしたり、人を招いて話をしたりしていた。あるいは正殿の各部署に出向いて同様なことをした。
当然、皇陛下や皇后陛下、皇太后陛下には毎日のように挨拶に伺う。御簾越しに頭を下げたままとはいえ初めて皇陛下の存在を間近に感じ、朔夜は震えた。
「いくら陛下の御前とはいえ、もっと堂々としていろ。護衛があのようにビクビクしていては殿下の恥だ」
あとで真雪から叱られた。
「わたしの前では最初から平然としていて、平気で顔も見ておったではないか」
殿下も揶揄うように言った。
「あの時は気がついたら目の前におられたので緊張する間がありませんでしたから」
朔夜が反論すると、殿下は目を眇めた。
「わたしとて颯爽とそなたの前に現れるつもりであったのに、そなたが訓練中に気を失ったゆえ予定が狂ったのではないか」
「はあ、すみま……申し訳ございませんでした」
朔夜は小さくなった。真雪がジロとこちらを見たのでまた何か言われるかと思ったが、口を開いた内容は殿下に対してだった。
「そこにこだわるのなら日を改めればよかったではありませんか」
「忙しいわたしがわざわざ出向いたのだ。すぐ会うほうを選ぶに決まっておる」
「朔夜が目を覚ますまでしばらくお待ちになりましたよね。時間を惜しまれるなら直接東宮殿に呼んだほうが早かったでございましょうに」
「まったく、そなたは年寄りのようにうるさい。本当に18か」
「え、18?」
朔夜が思わず声を上げると、真雪が今度こそ朔夜を睨んだ。
「それはどういう意味の驚きだ?」
「てっきり同じくらいの歳かと思っていました」
「3つしか変わらないだろ」
「3つも上なのですね」
「真雪はこんな顔だが、おととし官吏養成所を主席で卒業しておるからな」
殿下が何気ない風に付け足すが、その顔はどこか自慢げだ。朔夜は自分とほぼ同じ高さにある真雪の顔をまじまじと見つめた。
「養成所を出なければ官吏になれなかったというだけのことだ」
真雪は面倒臭そうに言った。
いつもより早めに帰寮した夜、入り口で父と出会した。何か書類を抱えているのでまだ仕事中なのだろう。
「朔夜、久しぶりだな。東宮殿はどうだ」
「皆さまに助けられながらどうにかやっています」
父は幼い朔夜にはひたすら優しい人だった。その父が現役時代には朱雀門の鬼と呼ばれるほど仕事に厳しい隊長だったと聞いても、朔夜にはその姿を上手く想像できない。今のように宮中で会うとことさら厳めしい顔をしている父にも違和感を感じてしまう。一線を退いてからこうして事務仕事に就けたのは、現役時代の実績があるからこそなのだが。
「直哉はおまえも朱雀門隊に入れたがっていたが、皇太子殿下にお仕えするなど名誉なことだ。しっかりやれよ」
「はい」
父は少しだけ緩めた表情を見せてから、衛門府へと戻っていった。