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第四章 父の仇の正体

 第四章 父の仇の正体



 興明は重い足取りで自室へ戻った。刀を置くと、疲れが、どっと押し寄せてきた。

 父の仇が誰なのか、叔父は結局、教えてくれなかった。仄めかしはしたものの、足軽たちの前で、気軽に話せる内容ではないからだろう。だが、興明には、わかってしまった。

 叔父と交わしたやり取りから察するに、憎むべき仇は一人しか考えられなかった。

「俺は叔父上と話してくる。そなたらは先に休んでよい」

 興明は新左衛門と足軽二人に命じて、襖の引手に手を掛けた。

「おっと、そうだ。その前に」

 小僧の瘤だけは冷やしてやるか。気は急いていたものの、先刻の痛そうな泣き笑いが、ちらついた。

 幸丸に任せようにも、陶の陣では、右も左もわかるまい。水の在処(ありか)を探すだけでも、一苦労だろう。

 新左衛門に命じたら、「なぜ、拙者が、たかが内藤の足軽風情を?」と、十倍の文句が返ってくるに決まっている。新左衛門は見事なくらい、興明の他に、決して誰の世話もしない。

 気がつけば、新左衛門と幸丸はもう、足元で大の字に伸びていた。

「先に休んでよい」を合図に、遠慮なく倒れ込んだと見える。ぺたんと床に座り込んだ前髪立てが、興明を心細げに見上げていた。

 興明は薄暗い灯火を頼りに、(たらい)に水を張ると、固く絞った濡れ手拭いを前髪立ての頭に載せた。

「あふぅ」と、欠伸を漏らした顔が、嬉しそうに興明を見つめた。

「俺に手当てをさせておいて、呑気(のんき)に欠伸と来たか。そなたは、なかなかの大物だな」

 無作法な振舞いにも、不思議と腹は立たなかった。むしろ、とろんと眠たげな微笑みに返した失笑で、がちがちに強張(こわば)った気持ちが、多少なりとも解れた気がする。興明も改めて笑みを返した。

「よかった、血は出ておらぬ。まずは、この水で冷やしておけ。と言うても、今はみんな寝込んでおって、生温(なまぬる)い水しかないが。後で、きんきんに冷えた井戸水を支度させよう。楽しみに待っておれ」

「こんな遅くに、まだ何か大事な用が?」

 大きな瞳が、心配そうに興明を見つめる。興明のただならぬ心情を感じ取って、控えめながらも、案じている気色(けしき)だ。不意を突かれて、ぎくりと全身が強張った。

「……いや、大事ない。そなたも早う休むがよい」

 笑ったつもりだったものの、頬が動いたかどうか。代わりに、柔らかな頬を緩く摘んだ。

 興明は覚悟を決めて、部屋を出た。叔父を訪ねると、向こうの様子も似たり寄ったりだった。

 顰めっ面では、「地蔵の兵庫」の渾名も泣く。唇の端を上げようとしているが、笑顔とは認めがたい。興明は叔父の正面に腰を下ろすと、潔く切り出した。

「叔父上。もう一人の仇とは、いったい誰だ。俺はさっき、肥後守の親父と弥七の名前しか出さなかった。叔父上は、そのすぐ後に、もう一人の仇が判明した、と言うた。あれでは、内藤の親父が父上の仇だと言うておるように聞こえる」

「儂は、そう言うたのだ」と叔父は低い声で認めた。

 興明は呼吸を止めた。それと察してはいたものの、肯定されれば、胸がざわつく。得体の知れない巨大な魔物に、ぎちぎちと全身を絞め上げられていく気がした。

「いったい、どういうわけだ、叔父上。俺には話の筋道が見えぬ」

「まあ、そうじゃろうな。実のところ、これこそが、その証じゃ、と示せるような、動かしがたい証拠はない。それでも聞くか。我主には辛いぞ」

 挑むような眼差しが興明を貫いた。興明は真っ向から受け止めた。

「俺の気持ちなんて、どうだっていい。父上の仇かもしれぬなら、とにかく、詳しゅう教えてくれ。だいたい、今宵の襲撃だって、動かしがたい証拠とやらは、何一つ残っておらん。あの親父が賊の朋輩だと示せる証人は、一人残らず消された。十年も昔の話を聞くのに、ちゃんとした証拠がなければ信じられん、なんて、俺は言わん」

「よい覚悟じゃ。ならば、話そう」

 叔父は「ふーっ」と、胸の奥から息を吐いた。ずっと一人で抱え込んできた重荷を、ようやく分かち合えると言いたげな、安堵の歓呼に聞こえた。

「あれから、十年も経ったか。儂の兄者――我主の父上が殺されたとき、儂は筑前におった。お館におらなんだことを、どれほど悔やんだか。あのとき、近くにおったならば――と、昼も夜も考えた」

 叔父の言動は、よく覚えている。父が死んだ直後、叔父は幾日もの間、位牌に向かって謝りながら、微かに肩を震わせていた。

 涙を啜る萎れた姿は、幼心にも痛々しかった。同じように嘆く母には、兄が常に寄り添っていた。五郎は叔父の傍らに座して、己が影になったように、ぴたりと躰を擦り寄せた。

 何か言おうとは思わなかった。ただ、黙ったまま、一緒にいた。叔父の無念が、痛いくらい伝わってきた。ときどき、背中合わせで泣いた。

「覚えておるか、五郎。我主は父の死を知ったとき、『他にも父上を殺した奴がおる』と叫んだ。儂には、あの言葉が、どうにも引っ掛かった。確かに、兄は様々な面で、他人(ひと)よりも(ぬき)んでておった。我主の言うとおり、そう簡単に殺されるわけがない。誰か、手引きした者がおるのやもしれぬ。それで儂は、兄がどうやって殺されたのか、自らの足で訊いて回った」

 何もできなかった弟としての、せめてもの償いだったのだろう。筑前守護代として多忙を極めていた当時の、不眠不休の努力を思うと、今更ながら、胸が熱くなる。叔父は重々しく続けた。

「会所の広間で、兄の間近に席を占めておった者たちが、こう噂しておった。能登守(吉見信頼)は、いつの間にか、尾張守の脇におった、とな。まるで、弾正忠(だんじょうのじょう)(内藤弘矩)の背後から現れたようだったと話す輩もおった。兄は殺される寸前に、肥後守から極秘の話を持ち掛けられておったようじゃ。そこへ、能登守は、こっそり近寄った」

「つまり、内藤の親父は父上の注意を引きつけて、吉見の隠れ蓑になってやったのか」

「そうじゃ。能登守は既に刀を抜いておった」

 どんなに短い刀であろうと、物騒な抜き身をぶら下げたまま、広間を突っ切れるわけがない。信頼は弘矩の背後まで来て、刀を抜き、斬り掛かる機会を窺っていたのだろうか。

「そうじゃろう。そういう手筈であればこそ、肥後守は、『気でも触れたか』と叫びながらも、能登守を止めなかったのじゃ。奴は、兄の耳元でこそこそ囁くほど、側近くにおったのに」

 叔父の語る光景が、興明の目の前に、ありありと浮かんだ。

「兄を殺した能登守は、振り返って、広間の相客たちと向き合うた。能登守の正面におったは、真っ先に抜刀した肥後守。能登守は肥後守に向かって、殺してやったぞと、血塗れの姿で笑うた」

 ――殺してやったぞ。約束どおり、殺してやったぞ。(それがし)が、貴殿の代わりに。

 一度も聞いた覚えのない声が、耳の中に木霊(こだま)した。

「でも、その後で、あの親父は、能登守を斬ったんだろう?」

 興明は拳を握って、身を乗り出した。吉見信頼を討った、その事実こそが、興明にとっては肝心だった。父が死んでからの十年間、心の拠り所とした一点だったのだ。

「そのとおりじゃ」と、叔父は乾いた声音で応じた。

「能登守は、肥後守に向き合うたときから、大上段に構えておった。構えたまま、刀を振り下ろすこともなく、肥後守にばっさりと斬られた。わかるか。能登守は、斬らせたのじゃ。肥後守に斬られるために、胴をがら空きにさせて、待っておったのじゃ。肥後守に花を持たせるがために」

 ざっ――と、凄まじい太刀風を受けた気がした。眩暈(めまい)がして、時が止まった。全身の血の気が一挙に冷え冷えと引いた。

 何という狂言だろう。興明が弘矩に抱いてきた感情の最たるものは、父の仇を討ってくれた行為に対する、感謝と憧れだった。一度として疑わなかった原点が、まさか、根底から覆るとは。

「本人に尋ねる以外に、もはや確かめようもない。したが、そういう約定(やくじょう)だったのじゃろう。肥後守は、何が何でも、能登守を斬りたかったはずじゃ。まずは、兄を殺す計画に荷担した疑いを、綺麗さっぱり晴らすために。次に、幼い我主らの好意を、ずっと己に向けさせるために。能登守は喜んで斬られてやったじゃろう。津和野攻めを()めさせるという、譲れない条件を呑ませたうえでな」

「津和野攻めを止めさせる」と、そっくりそのまま呟いて、興明は十年前に思いを馳せた。

 父の横死の直後、大内家の領国では、吉見の本拠地である津和野三本松城を攻める気運が高まった。

 当然の成り行きだろう。内乱の際にはお屋形さまに盾突いた石見の謀叛人に、お屋形さまの信頼篤い周防守護代が殺されたのだから。周防の国衆は競うように、吉見討伐を口にした。

「いいや、周防どころではなかったわい。長門も、豊前も、筑前もだ」

 叔父は一言、一言を噛み締めるように、諸将の名前を挙げていった。

 とにかく、広い領国の隅々まで、大小問わず国衆の誰も彼もが、お屋形さまのお気持ちを(おもんばか)って、戦の支度に余念がなかった。お屋形さまは「吉見を捻り潰さん」と、大軍を率いて出陣された。

「それを、あの男は退()かせた。見事に退かせてみせた。たった一人でな。お屋形さまに何と申し上げたのか、儂も詳しゅうは知らん。おおかた、このまま戦を続ければ、大乱で脆弱となった国力が、更に衰えましょう、とでも言うたんじゃろう。お屋形さまには、たぶん、それが一番効く」

「親父が戦を止めさせたのか。吉見を滅ぼせる、またとない機会だったのに」

「儂は先兵を率いておって、評定に出ておらなんだが、臨席した武将たちは、まさかと、言葉を失うた。誰もが、なぜと、目を見張った。それは、そうじゃ。能登守を斬り捨てたうえに、兄の亡骸を掻き抱いて、誰よりも大泣きした舵取り役が、真っ先に(てのひら)を返したのだからな。したが、今や大内家第一の重臣に躍り出た長門守護代の、領国を憂える言葉じゃ。重みはあった」

 叔父は暫く口を噤んだ。

「お屋形さまとて、領国の安定に触れられたら、考えぬわけにはいかん。何しろ、周防で最も頼りにしておった一の家来を、あんな形で失うたばかりじゃ。周防は浮き足立っておった。そこへ、能登守の父親の三河守(吉見成頼(なりより))が、平身低頭の恭順を示してきた。お屋形さまは大いに迷われた」

「それも、親父が糸を引いたのか」

「そうとしか、考えられぬ。実に絶妙の頃合いに、三河守は現れたでな」

 興明は舌を鳴らした。身の内に逆巻く炎に、全身を焼き尽くされる思いだ。

「三河守は、こう申し上げたそうな。愚息は、お屋形さまに弓を引いたわけではない。お屋形さまが広間にお越しになる前に、自身ともども片を付けた、とな。お屋形さまの祐筆から聞き出した」

 ふんっ、と、叔父は鼻の穴を広げた。

「三河守は争いの元々の発端を、得地の所領問題と訴えた。三河守の意を汲むならば、能登守が引き起こした刃傷沙汰は、領地を接する家来同士の勝手な私闘、と解釈できる。単なる私闘であるならば、お屋形さまが直々に兵を遣わす必要はない。家臣団の考えは次第に変わっていった」

「まさか、それも、親父が導いたのか」

「そうじゃ。お屋形さまは、説得を受け入れて、兵を退いてしまわれた。儂らも益田も、まだ吉見の領内で戦うておったのにな。さすがに、済まぬと思われたのじゃろう。吉見から得地を取り上げて、全域を陶に与えてくださった。したが、所領の多くを失うても、吉見は改易には至らなんだ」

 結局、吉見は津和野で生き延びた。事件は風化し、兵乱はいつの間にか治まって、陶には深い悲しみだけが残された。叔父は悔しそうに拳を握った。興明も俯いて唇を噛んだ。

「それから暫く経ってのことじゃ。肥後守は、能登守の跡を継いだ弟(吉見頼興(よりおき))めに、娘を嫁がせた。今や権威どころか、評判まで地に落ちた吉見と、縁を結びたい阿呆はおらん。所領だって、ほとんどを失うた。それを、奴は儂に、能登守が夢枕に立って脅すのだ、と頭を下げて、いけしゃあしゃあと送り出した。これも約定のうちじゃろう。内藤にとっても、吉見がおれば、陶の抑えになるからの」

 叔父は腹立たしげに荒い息を()いた。

「縁談……内藤の娘か」

 呟きながら、興明は、兄が弘矩の娘を嫁に欲しいと言い出した際の腹立たしさを思い出した。

 あのとき、叔父は真っ先に反対した。今にして思えば、既に真相に至っていたからに違いない。

 さりながら、誰にも打ち明けていなかった叔父は、父の仇であるとは切り出せず、反対する論拠を相婿の問題に置いた。興明にとっては、兄に反駁するに十分な理由だった。

「叔父上の言うとおりだぞ、兄者。今更、内藤と結ばなくたって、陶は爪の先ほども困らぬ。それを、兄者はなぜ、手間暇を掛けてまで、吉見なんぞと相婿になりたがるのだ。蒲冠者(かばのかじゃ)源範頼(のりより))の末裔だか、何だか知らんが、父上を殺した男の弟を、義兄上(あにうえ)と呼ぶつもりか」

 兄を責めつつも、興明は堪らなかった。先に娘を送り出した年数の分だけ、内藤が陶よりも吉見を重んじているかに見えた。

 それが今、真実として語られている。いや、弘矩は、陶を軽んずるどころではなかった。

「兄者の嫁取りは、もちろん潰すよな?」

「当然じゃ。内藤と縁組など、断じて許さぬ。仇の弟が相婿どころか、仇そのものが舅だぞ」

 叔父は忌々しげに吐き捨てた。興明も苦く笑った。

 今度ばかりは、さすがの兄も、文句の一つも言わずに、大人しく従うだろう。

「陶の惣領は、俺だ」と、最近では、叔父の言いつけを突っ撥ねてばかりだったが、岳父と敬うつもりの大恩人が、謀叛人と判明したばかりか、父の仇とまで発覚したのだから。

「兄者は腰を抜かすだろうな。逃げておる僅かの間に、国を揺るがすほどの大事になった」

「腰を抜かすくらいで、ちょうどよい。三郎も、これに()りたら、少しは大人になるじゃろう」

 期待を口にしながらも、地蔵の丸顔に影が差した。

「万が一にも、彼奴(あやつ)がまたぞろ駄々を捏ねたならば、この事実を突きつけて、駄目を押してやろう。さすがに、納得するじゃろう。あの日の前夜、能登守は秘密裏に肥後守の屋敷を訪れて、夜中に(いとま)を告げた、と言えばな。ここまで突き止めるには、実に長い年月を要したわい」

 それは、もはや、動かしがたい証拠に他なるまい。とにかく、形跡や物証など、全く残さない男なのだから。興明は一言もなく項垂(うなだ)れた。

 今や興明と弘矩が並び立つ足元は、どこまでも深く裂ける亀裂で隔てられていた。

 いいや、足元どころではない。胸を抉った裂傷は、底なしに暗く、切なかった。

 何の屈託もなく、弘矩に笑い掛けていた己を、どう振り返ればよいのか。慈しみを疑うことなく、朗らかに過ごした歳月を、いかに懐かしめばよいのか。

 興明は今、弘矩に纏わる過去の全てを、厭わしく呪う。呪いながらも、一つの疑問に突き当たった。

「なあ、叔父上。どうして、あの親父は俺たちに、あんなに優しく接したんだろうな。罪滅ぼしか」

 この謎ばかりは、いくら頭を捻っても、簡単には解けそうにない。

 仇と認めれば、認めるほど、辻褄は合わなくなっていく。弘矩を信じたい気持ちが、まだ、どこかに残っているのかもしれない。叔父は確信に満ちた面持ちで、突き出すように胸を張った。

「それこそが、まさに今宵、氷解した謎よ。今宵の襲撃がなかったら、いや、我主が肥後守の関わりを突き止めていなかったら、儂の中では、まだ全てが繋がらず、今も我主に告げていなかったじゃろう。儂にも、罪滅ぼしにしか、見えなかったでな。肥後守が我主らに心を砕いたは、当然じゃ。兄を殺した理由は、恐らく、三郎や我主を、(おの)が陣営へと引き入れるためだったのじゃろうからな」

「俺たちを引き入れるため? ようわからんぞ。因果が逆に思えるが」

「もちろん、最初は、逆ではなかった。兄を味方につけようと画策したじゃろう。どんな陰謀を企むにしても、兄が味方するなら、それこそ百人力だからな。しかし、努力は恐らく、徒労に終わった」

 叔父は興明の目をじっと見つめた。

「尾張守は味方にできぬ。したが、いつか必ず、陶の協力は必要になると肥後守は考えた。だから、もはや邪魔にしかならぬ兄を亡き者にして、まだ幼い跡取りを抱き込まん、と企てたのじゃ。つまり、三郎をな。さっきも言うたじゃろう。能登守を斬って、父の仇を討ってやったは、()すれば、間違いなく我主らが懐くからじゃ」

 あの頃から、今宵の種は蒔かれていたのか。興明は深く息を吐いた。

 何と気の長い、遠大な計画だろう。それなら、弘矩が興明たち兄弟を息子同然に可愛がったとしても、何も不思議はない。興明は将来の味方として、大切な手駒だったのだ。

「ならば、兄者が内藤の娘を嫁に貰うだなんて、ますます、親父の思う壺ではないか」

「そのとおりじゃ。肥後守の狙いが誰にあったかが、はっきりと判明した今、三郎が肥後守を義父(ちち)と敬うなど、断固、許さぬ。とにかく、縁談は白紙に戻す」

 叔父は再び、揺るぎない決意を表明した。興明はひとまず安堵して、肩の力を抜いた。

 それにしても、釈然としない。どうして弘矩は、これほど長い時を掛けてまで、今夜の襲撃を成功させたかったのか。昔から数々の戦で輝かしい手柄を立てて、お屋形さまから重用されてきたのに。

「あの親父は本当のところ、お屋形さまを嫌うて、いや、憎んでおるのか。領国で一番の重臣が、その立場を(なげう)つなど、理屈では押え込めぬほどの憎悪があるとしか思えぬ」

「さてな。あの男の表情からは、好き嫌いなど、これっぽっちも読み取れぬ。特に、お屋形さまに対しては、何を考えておるのか、さっぱりじゃ。ただな、格別な情を向ける相手がおるとするなら、儂にも一人だけ、推し量れるぞ。嫌うておるではなく、好いておるほうだがな。氷上(ひかみ)大護院(だいごいん)さまじゃ。あの男は大護院さまを、誰よりも大事にしておるのじゃろう。左様、お屋形さまよりも、誰よりもな」

 叔父は自信たっぷりに宣言した。



 氷上の大護院さまとは、お屋形さまのご長男にあらせられる。新介さまにとっては、一回り以上も年齢(とし)の離れた、腹違いの兄君にあたる。出家して、名を尊光(そんこう)と仰せられた。

 興明には、尊光さまのお名前と最近の経歴くらいしか、頭に入っていない。どういう人物であるのか、見てくれや性格を含めて、ほとんど知識はない。

 なぜなら、尊光さまは、ここ数年の間、大内家の菩提寺である氷上山(ひかみさん)興隆寺(こうりゅうじ)の別当職にあり、興明が顔を会わせる機会など、全くなかったからだ。

「大護院さま? ううむ、修二会(しゅにえ)でも、一度も会うた覚えはないな。そんな機会もなかったし」

 興明は昔を振り返った。

 興隆寺では毎年二月に、修二会と称する一大典礼が催される。領国を挙げての祭りには、大内家の方々のみならず、家臣団一同も必ず参加する。興明も毎年、叔父に連れられて、大祭の見物に行った。

 最初は、ただの野次馬として。長じてからは、いずれ頭役(とうやく)を担う予備軍として、それこそ毎年、訪れた。しかし、別当という立場の人物に会った覚えは、ただの一度もなかった。

「いや、違う。お会いする機会なら、毎年、あった。したが、我主(わぬし)は毎回、会おうとしなかったのだ」

 叔父が記憶を導く。興明は、だんだんと思い出した。

「そうか。そういえば、親父は毎年のように、現場で俺を捜しておったな」

「左様。せっかくだから、この機会にと、肥後守は我主を大護院さまの許へ連れて行って、ご挨拶をさせるつもりでおった。それは、もう、毎年な」

 それが、ついぞ実現には至らなかった。

「原因は、俺か」と、興明も思い至った。

「なるほど。氷上の祭りといえば、昔の俺は、亀童丸さましか目に入らなかったからな」

 久しぶりにお会いできる嬉しさに、五郎は、いつも我を忘れ、大好きな亀童丸さまを目掛けて突進していった。亀童丸さまも、「待っておった」と大喜びで、五郎を内陣へと迎え入れてくださった。

「思えば我主は、決して肥後守の手が届かぬ飛び切りの結界に、いつも匿われておったのじゃな」

 叔父は安堵の息を吐くとともに、難しそうに眉を(ひそ)めた。

「そう考えると、三郎は正反対だ。あの頃の三郎は、我主よりも遥かに聞き分けがよかった。煩わしい大人たちにも分別顔で従うておった。肥後守は三郎だけを伴って、大護院さまの許へ赴いた。そう、毎年だ。三郎は毎年、肥後守と一緒に出向いては、大護院さまと親交を深めたのだろうて」

 叔父は腕を組むと、暫くの間、口を噤んで瞑目した。興明も黙ったまま、当時の記憶を手繰った。

 修二会が終わると、五郎は必ず、がみがみと説教された。これもまた、毎年のお約束で、叔父と弘矩の両方から、「捜したぞ、どこにおった!」と、いつも同じ文句を食らった。

「亀童丸さまと一緒におった!」と、間髪を入れずに返事をしたときの、二人が浮かべた表情の違い。

 違いの本質を今ほど深く考えた(ためし)はない。思い至った違いの理由に、もはや疑いを(さしはさ)む余地はなかった。

「なあ、叔父上。大護院さまとは、確か、母君が内藤の血筋だったよな? (さき)の肥後守(内藤盛世(もりよ))の娘ではなかったようだが、内藤には違いないはずだ」

 叔父は目を見開くと、静かに頷いた。

「気づいたか。左様、内藤の傍流じゃ。お屋形さまに見初められて、側室に上がった。先代の直系でないどころか、その先代か、先々代あたりで枝分かれして、家臣となった一門の娘じゃ。我が家で(たと)えるなら、新左衛門の又従兄妹(またいとこ)あたりじゃろう。それで、先代の猶子(ゆうし)として、輿入れした。稀に見る大出世よな。鬼籍に入って久しいが、肥後守の最初の正室とも血は近かった、と聞いておる」

「ならば、大護院さまにとって、あの親父の息子たちは、兄弟も同然だな」

「両者とも口には出さぬが、聞くところによれば、大護院さまと肥後守の結び付きは今も相当に強い。今小路さまに男児がお生まれにならなければ、大内家の跡取りは大護院さまであった。その辺りに、大護院さまも肥後守も、思うところがあるのじゃろう」

 叔父は陰謀の源を、弘矩と尊光さまの野心と断じた。興明にも異論はない。

 西国一の大大名たる大内家の当主。その響きは、一滴でも大内の血を受け継いだ一門にとって、逆らいがたい、甘やかな誘いなのだろう。

 こうして話している間にも、「新介さえいなければ」と、尊光さま夢見ているかもしれない。

 弘矩もまた、新たな当主の(もと)で権勢を振るう己を思い描いては、尊大な絵姿に、うっとり酔い痴れていると考えられる。

「ならば、叔父上。今宵の襲撃は、もしや、お屋形さまが狙いではなく……」

「そうさな。儂の読みが当たっておるなら、本当に狙われたは新介さまじゃろう。お屋形さまのお褥に刀傷があったは、単に賊が腹を立てたからじゃ。計画が上手く運んでおったとしても、お屋形さまを狙うは、新介さまの(つい)でか、もしくは偽装のため」

 興明は小さく息を呑んだ。

「では、お屋形さまが、公方さまにも内緒にして、こっそり上洛されたのも――」

「今にして思えば、とにもかくにも、新介さまをお守りせんがためじゃろう。影武者を立てて上洛なさるなど、尋常では考えられぬほどの理由があったとしか思えぬ。肥後守は、この遠征の間に、新介さまを(しい)し奉る所存であった。新介さまさえ死んでくだされば、保寿寺(ほうじゅじ)御座(おわ)す、躰の弱い弟君など、容易く除ける。あとは、お屋形さまが大護院さまを還俗させる日を、じっと待てばよい」

 何と壮大な密謀か。興明は言葉を失った。

 新介さまは十六歳。弘矩は、実に十五年もの長きに亘って、新介さまを亡き者にしようと、謀を巡らせてきたのか。

 驚きつつも、すとんと納得できた。内藤弘矩という人物をよく知ればこそ、かもしれない。

 弘矩は、虎視眈々と機会を窺い、訪れた好機を(あやま)つことなく、ものにしてきたのだろう。興明たち兄弟が弘矩に心酔した現状も、張り巡らされた広大な罠の、ほんの一部に過ぎない。

 弘矩には、常人には全く思いも寄らないほどの、大掛かりで長丁場の罠を仕掛ける度量と忍耐力がある。敵に回せば、これほど恐ろしい男はいるまい。

「返す返すも、兄者は、よくぞ逃げてくれた」

 興明は、しみじみと胸を撫で下ろした。

「まったくじゃ」と、叔父も大きく頷いた。

「戻って来たら、縁組だけは、何としても解消させねばならん。もっとも、相手は謀叛人じゃ。お屋形さまが決断なされば、三郎が帰還する前に、肥後守の首は、胴体から離れておるやもしれんな」

 地蔵に似た丸顔に、満足げな微笑みが浮かんだ。興明は急に胸苦しさを覚えた。胴体から離れた弘矩の首を思い浮かべて、言葉が出てこなかった。叔父は更に目を細めた。

「我主の心情を思えば、真実を告げるに、迷いはあった。だが、この機会に伝えられて、実に嬉しく思う。十年も掛かったが、これで兄の仇を討てる。兄は喜んでくれるじゃろう。何しろ、己の自慢の息子が、己を殺した男の野望を、見事に打ち砕いてくれたのだからな。我主も遠慮なく誇るがよい」

 涙まで浮かべた、ほっこりした笑いだった。地蔵にしては、少し残酷な笑みかもしれない。

「曹司へ戻る」

 興明は左右に揺れながら立ち上がった。他に何も言えなかった。

 なぜだろう。叔父のように笑えない。笑おうとすれば、するほど、違う表情になる気がする。

 泣けば、楽になるだろうか。少しは吐き出せるかもしれない。けれど、今、ここで流す涙は、誰のための涙だろう。父のためではない気がした。

 己はまだ、弘矩を慕っているのか。心から父を悼む涙でなければ、流す意味など、一つもないのに。

 たとえ一粒でも、弘矩と過ごした日々を偲ぶ涙が存在するなら、断じて、誰にも見せてはならない。いや、そんな涙であるならば、流すことさえ許されまい。

 叔父は黙って興明を見上げた。叔父だって、甥たちの成長を十年も見守ってきた。興明の心情くらい、とっくに察しているに違いない。余計な慰めは一言もなかった。

「よう休めよ。我主は今宵、実に見事な働きをした」

 興明は無言で頷いた。うん、と絞り出すさえも、思うようにはいかなかった。



 足が床に着いているのか、全く感覚のないまま、興明は自室へ辿り着いた。襖をそっと開けて滑り込むと、健やかな寝息が耳に入った。

 三人とも、よく眠っているようだ。ほっとして、小さく息を()いた。

 どんな表情をしているか、知れたものではない。こんな顔を、誰かに見られて堪るか。

 壁に(もた)れると、かくんと膝が勝手に折れた。ずるずると(くずお)れて、とうとう、床にへたり込んだ。

 片膝を抱えて額を乗せた。頭が重くて、このまま果てしなく、どこまでも沈み込むかと思われた。

 嬉しくもなければ、悲しくもなかった。ただ、血が流れている――と感じる。

 ざっくりと抉られた心ノ臓から、真っ黒に淀んだ血が、どくどくと流れていく。抉られた傷の痛みだけが、悪夢を見ているわけではないと、(うつつ)を辛く教えてくれた。

 気づけば、外が騒がしい。夜明けとともに、人が起き出した様子だ。微かに馬の(いなな)きが聞こえた。

 興明は子供の頃から、馬の背で風を切りたかった。一人で仔馬にも(またが)れなかった昔は、「乗せてくれよ」と、誰彼なしに、毎日の如く頼み込んだ。

 父に抱かれて所領を駆けた、(おぼろ)な色の記憶がある。今では、弘矩とともに紡いだ思い出のほうが、遙かに多彩で鮮明だった。頼れる腕に(くる)まれて鞍上にあった、遠乗りの帰路ばかりが蘇る。

 薄桃の花影に暮れ(なず)む、淡い色の空に見とれた。いつまでも続く午睡(ごすい)のような長閑(のどか)黄昏(たそがれ)に、「まだ帰りとうない」と、手足をばたつかせて駄々を()ねた。

 山口で、ともに眺めた夕暮れは、富田(とんだ)でだって、いつでも見られる、珍しくもない景色だった。

 けれど、黄金(こがね)の稲穂の向こうに追った、燃えるような夕映えも、山の()に寄り添う入り日の、影絵のような残照も、どの思い出を取り出しても、一緒に眺めた夕焼けは、痛いくらい胸に染みた。

 心行くまで笑った声が、今でも耳に残っている。騙されたと知っても、悔しくはなかった。欺かれていた日々は、紛れもなく幸せだった。

 この十年の、そこかしこに、弘矩と弥七がいた。早く大人になりたいと願った日々は、母や叔父などの身内を除けば、二人に支えられていた。いつか、忘れられる日は来るのだろうか。

 お屋形さまの敵でもよかった。父の仇であるなどと、ずっと、気づかずにいたかった。

 急に目頭が熱くなった。袴の膝に、ぽたぽたと、幾つもの染みが広がっていく。涙は止め処もなく溢れて、強張(こわば)った頬をぐっしょりと濡らした。

 ふと、すぐ間近に、人の気配を感じた。新左衛門を起こしたか。

 俯いたまま、視線をずらすと、床に着いた小さな手が目に入った。いつから、側にいたのだろう。どっぷりと浸っていたせいで、少しも気づかなかった。

「見るな。寝ておれ」と興明は乱暴に命じた。

 こんな子供に醜態を(さら)すとは、堪らなく情けない。時折、「うぐっ」と、惨めな嗚咽まで漏れる。頭を膝に乗せたまま、涙が止まるよう、ひたすらに願った。

 前髪立ては、いつの間にか、興明に寄り添うように、ちょこんと隣に座っている。小さな(てのひら)が、労るように背中を撫でた。たまに、頭にも手が載った。

 ぽん、ぽんと撫でる仕草は、幼い頃から慣れ親しんだ、叔父の慰めに似ていた。

「きんきんに冷えてるよ」

 横から、そっと、目元に冷たい何かが当てられた。濡れ手拭いだ。いつの間に、井戸水を調達したのだろう。もしや、起きて待っていたのか。

 迂闊にも顔を上げて、心配そうに覗き込む目と、目が合った。

 興明は慌てて外方(そっぽ)を向いた。見られるとは、不覚だった。

「ええい、見るな。見てはならぬ」

 首根っ子に手を回して、小さな躰を引き寄せた。前髪立ては濡れ手拭いを放り出して、腕の中に転がり込んだ。胸に顔を(うず)めさせれば、二度と泣き顔は見られまい。

 小さく呻く細い躰を、渾身(こんしん)の力を籠めて、思いきり抱き竦めた。こうして誰かに縋りついて、思う存分、泣きたかったのかもしれない。

 暫くして、躊躇(ためら)うように僅かずつ、背後にやんわりと手が回った。母親が幼子を慈しむような、慈愛に満ちた抱擁だった。きゅ、と直垂を掴んだ手は、やがて、背中にゆっくりと、大きな円を描いた。

 元服もまだの小僧に慰められるとは、この上なく不甲斐ない。普段だったら、恥ずかしさに、大声で叫びたくなったろう。けれど、背中を懸命に摩る柔らかな掌は、温かくて心地よかった。

 全身から(かよ)ってくる労りが、(えぐ)られた傷を優しく埋める。(かじか)んだ気持ちが、ゆったりと(ほぐ)されていく。躰の芯まで仄かに温かい。胸を切り裂いた深い痛みは、いつしか、静かに遠退いていった。

 気がつけば、頬の涙は乾いていた。気温も上がって、汗ばんでもくる。それでも、腕に閉じ込めた小さな躰は、何とも放しがたかった。

 抱えていると、遠い昔の、子犬が生まれた朝を思い出す。抱いたまま眠れば、こんな、どん底の気分のときでも、悪夢を見ないで済むだろうか。

 しなやかで、柔らかくて、抱き心地の()い躰だった。細っこい、とは見ればわかるが、見た目ほど骨張ってもいない。そういえば、と首を傾げて、頬の感触を確かめた。

 叔父の局に向かう前に(つま)んで、柔らかさに目を見張った。改めて頬摺りすれば、ふわふわで、まるで羽二重の餅そのものだ。こんなに心地好い肌触りならば、今少し、(ねんご)ろに楽しみたい。

「はは、卦体(けたい)な小僧だな。美味(うま)そうな頬っぺたをしていやがる」

 何を言うか。卦体は、己だ。あんなに苦しかったのに、今は笑い声まで漏れる。

 調子に乗って、もう一度、ふわふわの心地を堪能した。次の瞬間、興明は飛び上がった。

 ――違う! こいつ、(おなご)だ!

 息が止まった。なぜ、とは思わなかった。不思議な安堵感が、じわりと全身に広がっていく。

 むしろ、「やっぱり」と、即座に合点がいった。頭の奥の、針先ほどの一点で、きっと、そうだと予感していたのかもしれない。

 まったく、自分はどうかしている。この容貌で、幾度も抱き寄せておきながら、(おのこ)の肉付きとは明らかに異なる躰に、何の疑念も抱かなかった。見過ごした原因は、己が遠国(おんごく)にあったせいだろう。

 在所の戦であれば、顔を見ただけで、即刻、疑ったかもしれない。一端(いっぱし)の武家の娘ならば、それなりに武芸を嗜んでいるものだ。村の(おなご)とて、田畑や暮らしを守るためなら、形振り構わず、どんな真似だってする。何より、(おのこ)よりも淑やかな(おなご)など、興明の周りでは一人も見当たらない。

 そんな故郷を離れたせいか、(はな)から思いも寄らなかった。百里を隔てた彼方にまで、のこのこ遠征に乗り出してくる物好きな娘がいるなんて。興明だって、来たくなかったのだから。

 おかげで、出で立ちにも、ころっと惑わされた。興明を先刻、見送ったときまでは、凛々しくも、かっちりと腹巻に身を包んでいた。

 横になる際に外したのだろう。薄物一枚で寛いだ今、胸の辺りに、ぽよんと触れる、この、やわやわとした、どうにも触ってみたくなる感覚は、つまり、その……。

 ――うわあ!

 慣れてなんていない。気づけば、頭に、かーっと血が上る。内藤がどうこうなんて、どこかへ軽く吹っ飛んだ。

 子供と見做していた理由(わけ)は、頭から(おのこ)と決めつけていたせいだ。(おなご)ならば、年格好は興明と変わるまい。(はばか)りもなく絡めた腕が、とんでもなく、()しからぬものに見えてくる。

 心置きなく、すりすりと、頬摺りまでも堪能した。気づいてみれば、今もなお、頬はぴたりと引っついている。覚束(おぼつか)ないが、さっきは身を竦めていたかもしれない。(おなご)であれば、当然だ。

 他にも、不埒な振舞いに及ばなかったろうか。頭の中を、昨夜の記憶がぶんぶんと、巣を突っつかれた蜂の群れさながらに、あっちへこっちへと乱れ飛ぶ。

 身に覚えは……あり過ぎる! 何度も抱いた残像は、仄かに淡い色をしていた。

 不埒といえば、今だって、不埒な真似を強いている。いつまで、このまま過ごしてよいのか、てんで見極めがつかない。品位を保った思考など、肌の触れ合う全ての部位に、一気に四散する。

 若い娘を抱きしめるなんて、正真正銘、初めてだ。筆下ろしは済ませているが、武家の子としての儀式に過ぎず、相手は興明の襁褓(おしめ)を変えた(ためし)さえある、叔父と年齢(とし)の近い大年増だった。

 ――落ち着け、五郎! 狼狽えておる場合か。相手がむさい(おのこ)でなくて、まず、よかったと思え。

 興明は胸の内で己を叱って、暴れる心ノ臓を懸命に鎮めた。

 陶の若君を拒める者など、国許にだって、ほとんどいない。この娘とて、抗えまい。このまま過ごしても構わぬどころか、遙かに無体な行状だって、誰にも気兼ねは要すまい。

 しかしながら、ただ今日ばかりは、誇りに思う出自にも、でんと胡座(あぐら)を掻きたくなかった。

 身分や血筋を口実に、力尽くで無理を強いれば、慈悲の気持ちも、何もかも、(ないがし)ろにしてしまう。

 大の男が倒れ込むほど、疲労と緊張に(むしば)まれた夜だった。(おなご)の身では、さぞや精も根も尽き果てたろうに、強張った興明を気遣って、眠らずに待っていてくれた。

 堪えきれずに忍び泣いた、あまりにも辛い一時を、黙って傍らに寄り添って、一緒に分かち合ってもくれた。血を吐く思いで縋りついた小さな躰に、どれほど深い情けと憐れみを与えられたことか。胸の痛手を癒した温もりは、氏素性への(おもね)りではなかったはずだ。

 思いやってくれた素振りは、陶の若さまだったから――などと、寂しい理由は欲しくない。この娘とて、そう思われては不本意だろう。娘が拒んでいないなら、少しは自惚(うぬぼ)れてみたかった。

 もう少し、抱いていたって構うまい。固唾(かたず)を呑みつつ、力を籠める。

 娘は(いささ)かも抗わなかった。きゅ、と背中が小さく()れて、もう一度、力強く頬を押しつけた。

 考えてみれば、興明だって、抱きつかれているに等しい。後ろに巻かれた細い腕を、誰が好んで解くものか。望めるものなら、このまま放すな。いつまでだって、こうしていたい。

 抱えたまま、興明は首を捻った。はて、この娘は何者か。いったい、どういう境涯にある。

 ――まさか、幸丸の言うところの、「姫さま」ではあるまいな?

 日々、生傷が絶えないと、嬉しげに語っていた。覆面衆の刃からも、身を盾にして庇っていた。

「姫さま」でなくて、何なのだ。

 弘矩も弥七も、娘を連れ出そうとした興明に、心の底から激怒していた。息女であれば、理に(かな)う。

 さりながら、「姫さま」は、兄の許嫁でもある。

 だったら、まったくの的外れだ。二人は想い、想われる仲。相愛の想い人を許嫁に持つ娘が、大人しく他の男に抱かれているわけがない。()してや、己から腕を回すなど。

 そうとも、「姫さま」は遠くにいる。幸丸に薬を持たせて、許嫁の身を案じながら、所領の屋敷で、輿入れの日を指折り数えて待っていよう。

 実のところ、「姫さま」であっては困る。あり得まいと、押っ取り刀で片付けた。

 ――ならば、幸丸の弟ではなく、妹か。兄者と呼んでおったしな。

 似通う点は生っ白い肌だけだろうが、猫可愛がりは腑に落ちる。兄の人柄も気に入った。それならそれで、喜ばしい。

「そいつに手を出したら、ぶっ殺すからな!」

 突然、弥七の怒号が蘇った。

 ――もしや、弥七の想い者か? 曹司へ連れ込むつもりでおったし。

 思い浮かんだ過酷な疑念に、頭が沸騰しそうになる。

 だとしても、この娘は弥七の手から、無礼を承知で逃げていた。きっと、本当は、嫌なのだ。

 弥七には、めっぽう気は強いものの、容姿は十人並みを超える、なかなか麗しい奥方がいた。

 赤子の一人も()さぬうちから、余所(よそ)の娘に手を出すとは、何と業腹(ごうはら)な。遺恨を(はら)んだ苛烈な敵意が、むらむらと湧き上がる。

 この娘を失ったら、弥七はどれほど嘆くだろう。大切な者を奪われた悲しみを、幾らかでも思い知らせてやれるだろうか。それもいい。弥七に、どう反撃しよう。

 今まで一度も縁のなかった(くす)ぶりに浸ったとき、曹司の中が白々とした光明に満たされた。

 天井近くの明かり窓から、清浄無垢(しょうじょうむく)な朝の光が、一直線に、すうっと差し込む。明るい中では気恥ずかしい。興明は腕を緩めて、躰を離した。同時に、背中の(てのひら)が解かれた。

 心地好い温もりが消えていく。しんとした冷たさが、また胸に蘇る。この娘から、離れてはならぬ。両手は今もなお、か細い肩に縋っていた。

 白い薄明かりの中に、娘の姿が鮮明に浮かび上がった。大きな瞳が、興明を眩しげに見上げる。

 夜のうちは、暗くて、よく見えなかった。興明もまた、娘をまじまじと見つめ返した。

 新雪を欺く肌に健やかそうな(すが)しい面持ち。ほんのりと染まった頬が堪らなく初々(ういうい)しい。飾り立てた化粧っ気など、毒々しくて似合うまい。

 さっぱりとした四幅袴(よのばかま)に、艶やかな黒髪を高く結い上げた少年の趣は、雪に耐える薄紅梅の固い(つぼみ)を思わせる。凛然(りんぜん)として瑞々(みずみず)しい可憐な風情に、ときめいた。

 まさか、これほどの(ゆか)しさとは。弥七が執着する理由(わけ)もわかる。あと何年か経てば、間違いなく、咲き誇る大輪の緋牡丹(ひぼたん)と映るだろう。

 これでも、まだ小僧に見えたら、興明の目は節穴以下の、白蟻の巣穴だ。長い(まつげ)に縁取られた、危うく潤んだ瞳から、どうしても目が離せなかった。

「えと……あの、もう、大丈夫?」

 心配そうに、娘が首を傾けた。黙ったままの興明に、温かな眼差しの笑顔が向き合う。

 ふんわりとした微笑みに、突然、胸が締めつけられた。こんな息苦しさは初めてだ。また、ぎゅうと抱きしめて、泣きたくなる。酷く切なくて、首肯一つ、まともに返せそうにない。

 この娘は誰にでも、こんなふうに笑うのだろうか。幸丸にも? 弥七にも?

 誰にも渡すものか。娘の(おとがい)をくいと引き上げる。抱き寄せて、唇を重ねた。

 一瞬にして、腕の中の躰が強張(こわば)った。逃がさぬ――と、興明は力任せに抱き竦めた。

 誰に何と咎められようと、俺のものだ。もう、理屈なんて、どうだっていい。

 初めてだった。唇がこんなに柔らかいなんて、ついぞ知らなかった。頬と同じくらい、ふわふわしている。三盆(さんぼん)の菓子みたいに甘く蕩けてしまいそうで、くらくらと目眩まで感じた。

 こんなに頼りない躰を、総身の力で抱いている。骨でも折れやしないかと、急に不安が込み上げてくる。それでも、このまま閉じ込めておきたくて、力尽くで回した腕を、少しも緩めてやれない。

 娘は興明の腕の間で、かちんこちんに固まっている。抗うな、と切に願う。じっとしておってくれ。もう少し、このままで……

「いやあ! 若さま、もうやめて」

 突き抜けた金切り声に、二人して飛び上がった。

 鈴の音の響きではない。娘は全身を竦ませて、ぱっと真横に顔を背けた。このまま飛び出してでも行かれたら、二度と会えないかもしれない。興明は飛び掛かるほどの勢いで、細い肩を引き寄せた。

 ――新左衛門め! きんきん声を張り上げて、何て与太を抜かしやがる!

 叫びそうに振り向くと、床には今もなお、二人の男が伸びていた。おいおい、寝言か!

「うふん、若さま、もう、いや~ん」

 新左衛門は寝返りを打って背を向けると、また艶っぽく呟いた。

 ――いったい、どんな夢を見ていやがる。後で、絶対に吐かせてやる。

 興明は胸の内で毒突くと、娘に向き直った。

 俯いた、白い(うなじ)が目に眩しい。知らず知らず、吸い寄せられて、無体にも唇を押し当てたくなる。食い入るばかりに眺めれば、細作りのなだらかな肩が、静かに大きく波打っていた。

 ――泣いておる? 泣かせたのか? もしかして、俺が?

 不意に、ずきんと、胃の腑に衝撃が走った。興明は己を責めた。俺は馬鹿だ。大馬鹿だ。

 勝手に弥七と張り合うばかりで、この娘の気持ちなど、少しも考えもなかった。これでは地下人(じげにん)に当たり散らす兄と、何も変わらない。もっと増しに扱えだなんて、誰が大きい口を叩ける。

 何と詫びればよいのだろう。これ以上、触れてはいけないのかもしれない。理屈のうえでは理解できるが、槍の雨でも手放しがたい。興明はもう一度、娘の躰をそっと抱いた。

 (おなご)だなんて、気づくのではなかった。気づいたら最後、ろくな運びにならない。今日は幾つめだ。

「泣くほど、いやか」

 きっと、そうに決まっている。訊いた自分に嫌気が差す。娘は(にわか)に顔を上げて、ぷるぷると首を横に振った。

「違うの、違うの、つっかえただけ。だって、息ができなくて」

 涙はどこにも見当たらない。ただ、耳まで赤く染まっていた。

 肩で息をしていたのか。脅かすな。本気で打ちのめされたろうが。

「そうか、よかった! いや、よくないが。その、泣かせたかと案じたのだ。その……初めてか?」

 娘は更に頬を染め上げて、こくんと小さく頷いた。

 ならば、間違っても、弥七の想い者ではない。他に男がいるわけでもない。興明は猛烈に安堵した。

「よかった、俺もだ! いや、その……こんなこと、口にするのも面映(おもは)ゆいな」

 照れて笑えば、娘も潤んだ瞳で、熱っぽく見つめ返す。最後に、くふっと、蕩けるような笑顔をくれた。もう少し、思い上がってもよいのだろうか。

 確かめたくて、もう一度、唇を塞いだ。背中が、きゅっ、と引き攣れた。

 ――都に来て、よかった!

 もう、どこの誰でも、何だっていい。どんな障りがあろうと、絶対に富田(とんだ)へ迎える。

 (おのこ)と疑わなかったときでさえ、小姓として手元に置きたかった。

 実は(おなご)であったとは、願ったり叶ったりだ。夢中で口を吸った。漏れ聞こえる吐息から、翻弄していると覚えるが、きゅうっと縋りつかれては、抑えられるものではない。

「ああん、若さま、もうだめえ」

 寝言が再び邪魔をする。

 ――起きておる。あいつ、絶対に起きておる。後で覚えておれ。

 腹立ちは、すぐに忘れた。そんなもの、幸福感に、息吐()く間もなく押し潰される。この程度の諧謔(かいぎゃく)ならば、むしろ祝福のうちだろう。

 娘の躰が、くたりと萎えた。興明は後ろ髪を引かれつつ、これ以上を諦めた。

 両の瞼を閉じたまま、力なく(もた)れる上体が頼りない。このまま、どこかへ連れ去って、誰もいないところに隠してしまいたい。

 ――何があっても、守ってやる。

 抱きしめて、胸に誓った。

 床の上に、娘の躰をそっと寝かせた。不安そうに見つめる眼差しに、愛おしさは(いや)が上にも募る。

「そんな目で見るな。無体はせぬ、本当だ」

 こんな場所で、これ以上、どうこうできるわけもない。ただ、慈しんでみたかった。拒まれなければ、それだけでいい。興明は静かに覆い掛かると、餅みたいな頬を(ついば)んだ。

「俺は、そなたがいい。そなたも、俺にしておけ」

 途端に、娘の全身が硬直した。見る見るうちに、顔付きが変わっていく。娘は怯えたように興明を見上げると、突然、(てのひら)で顔を覆った。

「やだ……どうしよう!」

 何だって? やだ、どうしようって、どういう意味だ。おい、まさか、「やっぱり、迷っちゃう」なんて、言い出さんだろうな。

 問おうとした矢先、呆気に取られた。見開かれた特大の瞳から、やたら大粒の涙が次から次へと、引っ切りなしに溢れてくる。もう一度、「どうしよう」と、情けない嗚咽が続いた。

「おい、どうした。怖かったのか? 泣くな、泣くな、これ以上は何もせぬ。本当だ」

 必死の()(ごと)も空しく、娘は声を上げて泣き出した。

 理由もわからず大泣きされて、ひっくと、盛大に(しゃく)り上げられては、興明こそ、「どうしよう」と泣きたくなる。興明は娘を慰めるべく、しどろもどろに言葉を尽くした。

 悪さなんて、一切していない。実は、少しはしてみたかったが、嫌われては堪らないと、大人しく、じっと耐えた。思い当たる節は露ほどもないのに、こんなに、わあわあ泣かれてしまうとは。

 泣いている(おなご)の扱い方なんて、一度も教わった覚えがない。そもそも、興明の周りには、弱々しく泣き出す(たぐい)(おなご)なんて、一人もいなかった。

 いや、この泣き方は単純すぎて、(おなご)というよりも、本当に子供みたいだ。黙っていれば凛々しいし、笑顔はとびきり可愛いのに、いったい、何が起きたのか。

 ――おおい、お春、助けてくれ。こういうときには、どう接すればよい。

 興明は思わず知らず、おっかない妹の名を呼んだ。

 富田(とんだ)で留守を守る妹は、どういう理屈か知らないが、いずれ他家へと嫁ぐ身の花嫁修業の一環として、男女の機微をあれこれ追求している。屋敷に仕える郎党や侍女ばかりでなく、村の若衆や娘たちをも総動員して、領内に暮らす男女の間の、あらゆる噂の収集と分析に励んでいた。

 まだ十五歳の、当然、乙女でありながら、今や並外れた耳年増だ。領民たちの間では、「どんなに遊び慣れた浮かれ()よりも、男女の機微に長けている」と、冗談半分に囁かれている。

 半分は冗談でないあたり、兄としては、母や叔父の育て方に、疑問を差し挟まずにはいられない。だが、妹本人は真面目も真面目で、天職とさえ奉じている。ざっくばらんな人柄ゆえか、近隣の村娘たちからも、ことあるごとに、恋の相談に泣きつかれていた。

 おかげで成就して、何組も夫婦(めおと)になったというのだから、菩薩さまは、もはや伝説だ。

 最近では、市の立つ日に、お悩み相談処を設けているとか。興明が留守にしている間に、縁結びの神さまに昇格しているかもしれない。

 ――あいつの、最も得意とするところだ。ええと、何と指南しておったかな。

 遙か彼方の菩薩さまに、必死のお伺いを立ててみる。駄目だ、ちっとも浮かばない。代わりに、興明を虚仮(こけ)にする、赤目(あっかんべー)の顔が浮かんだ。わんわん泣き(じゃく)る娘を下敷きに、興明は途方に暮れた。

 どすっ、と鈍い音がした。驚いて振り返れば、新左衛門の片足が、幸丸の背中を蹴飛ばしている。

 女子供の機嫌を取るなど、うちの若殿には、とても無理。身内に任せよ、と判断したようだ。

 眠たげに眼を擦っていた幸丸は、噦り声に気づいた途端、撥ねるように飛び起きて、娘の許へ這い寄ってきた。

「どねえしよった。あれま、若さまが乗っかっちょる。いったい、何が起きたわけで」

「口説いておるうちに、泣かれた。無体な真似は一切しておらん……たぶん……そんなには」

 興明は仏頂面で目を逸らした。

 泣いている娘を組み敷いている状況では、誰がどんな目で眺めても、まさに今、無体な振舞いに及んでいるところだ。陶の若さまが、いやがる娘を押し倒した。それ以外に、どう見える。

 いくら穏和な幸丸でも、さすがに食って掛かるだろう。暫し、罵られる覚悟を決めた。

「えええ、口説きよった? (それがし)の……ええと、弟を?」

「この期に及んで、まだ言うか! 俺は子供にも、(おのこ)にも、そういう興味は一切ない!」

「あちゃあ。やっぱし、ばれよったか。へへへ、どうか、ご勘弁を」

 幸丸はへらへらと笑いながら、己の(でこ)をぺちんと叩いた。笑いの陰に、微かな悲哀が汲み取れた。

 非難の言葉は一言もない。怒ってくれれば言い返せるが、これでは弁解もままならない。いつまでも、誤解されたままか。興明は戸惑いながら、娘の躰を抱き起こした。

 娘は傀儡(くぐつ)のように従うものの、泣き止む気配は微塵もない。幸丸は、涙でぐっしょり濡れた娘の頬に、優しく手拭いを押し当てると、あやすように語り掛けた。

「じゃけえ、惚れよっちゃあ、えらい、ちゅうたじゃろ。これ以上は、はあ、いけんちゃ。きっぱり思い切らねえと、もっと、えろうなりよる。わかるじゃろ? 諦めんと、のう」

「何だって? おい、幸丸。本人の前で、何を勝手に抜かしやがる。他人(ひと)の恋路を邪魔する気か!」

 興明が(いき)り立つとは反対に、娘は説得を受け入れたように、幸丸の胸に頽れた。興明は咄嗟に娘を引っ剥がした。

「違う、こっちだろうが。いいから、とにかく、俺にしておけ」

 娘は興明の胸に飛び込むや、そのまま、ひしと抱きついた。自ずと、細っこい躰に腕が回った。いつの間にか、それが当たり前になっていた。興明は娘を抱えたまま、(とく)と言い聞かせた。

「そなたは俺を救ってくれた。だから、俺はそなたが欲しい。そなたが、どこの誰であろうと、俺は一向に構わぬ。誰が何と妨げようと、断じて諦めぬ。そなたも同じだ。俺を好いておるなら、断りもなく身を引くな」

 もともと、欲しいものを諦める育ちはしていない。生まれて初めて好いた娘が、同じ気持ちでいてくれる。何を理由に、思い切らねばならぬのか。金輪際、手放すものか。

 それでも、娘は(しゃく)り上げる。これ以上、どう言い聞かせてやればよい。いい加減、腹が立つ。

「ええい! とにかく俺は、そなたを放さぬと言うたら、放さぬ!」

 腕にすっぽり包み込むと、娘は興明の胸に深く顔を埋めた。力強く掻き抱けば、また背中が、きゅっと攣れる。ああ、何だ。こうしてやればよかったのか。

 子供だと思っていたときと、どこも変わらない。そういえば、さっきと、まるで反対だ。ようやく安堵の一息が()けて、溜息にも似た笑いが漏れた。

「けど、こればっかしは、どねえにもならん。ああ、某まで泣けてきよった」

 ぐすんと、傍らで幸丸が(はな)(すす)った。

「酷な話じゃけど、早う諦めねえと。思い合うちょるほど、余計に、えらいけえな」

「縁起でもない! これ以上、()しからん与太を抜かすな」

 とっちめようとした瞬間、滑るように襖が開いた。またもや叔父が、息急き切って飛び込んできた。

「五郎は、おるか! あんな話を聴かされたゆえ、自棄(やけ)を起こしておらねばよいが」

 興明は目を見張った。なぜ、こんな時に来てくれる。

「おるぞ、叔父上、よい朝だな。あんな話の後であっても、気持ちのよい朝は来るものだ。はは」

 驚きのあまり、更に腕に力を籠めた。こんな愁嘆場に踏み込まれて、脈は数倍に跳ね上がる。今からでも、娘を抱えて、ここから逃げ出したい。

 娘も同じくらい、飛び上がったと見える。更に身を竦めるや、ひしと興明にしがみついた。

 叔父と行動を共にして、これほど動揺した(ためし)はない。床の上で覆い被さっていたときでなくて、まだ救われたかもしれないが、娘と抱き合った状況で、どうすれば切り抜けられる。

 下手に叔父を煙たがれば、叔父は変な方向に勘違いするかもしれない。

 皆で美童を甚振(いたぶ)っていたか。さもなくば、連れ込んだ遊び()に、(おのこ)(なり)をさせて戯れていたか。どちらにしても、不名誉に過ぎる。

 興明は努めて取り澄ました笑顔を作ると、余裕綽々(しゃくしゃく)の素振りで叔父を見上げた。

 暑苦しく滲んだ汗。ぜいぜいと弾んだ息。加えて、真っ白に血の気が引いた顔色。何から何まで、真夜中の繰り返しに近い。

「何だ、叔父上。まさか、三郎兄者が、また何ぞ、仕出かしたのか」

 叔父の気を逸らすために、目眩(めくら)ましの諧謔(かいぎゃく)(ろう)したつもりだった。(あに)(はか)らんや、叔父は大いに目を見張った。

「おお、なぜわかった! そう、三郎じゃ。三郎が、出奔しおった! 今度こそ、出奔しおった!」

 いやはや、叔父はまた、騙されたのか。興明は今回も、「ふん」と鼻で笑った。

 叔父に何かを仕掛けたとしたら、兄は既に安全圏にいる。さっさと戻ってこようともせず、叔父を揶揄(からか)う兄の帰趨(きすう)など、今は本気で、どうだっていい。

 それよりも、娘の居場所のほうが大問題だ。目の前に、どっかと座り込まれては、このまま抱えているしかない。叔父は娘に目を留めるや、「うん?」と、不思議そうに眉を(ひそ)めた。

「何じゃ、五郎、その者は。我主(わぬし)の膝で、何をしておる。まさか、我主。遂に、そっちの道へ?」

「兵庫頭さま。(それがし)の弟が、失礼をば」

 答えようとした興明を遮って、幸丸が慇懃に平伏した。

「まだ子供じゃけえ、ちいとばっかし駄々を()ねよって。若殿さまには、面倒をお掛けしちょります」

 幸丸は、娘を(おのこ)と申し立てて、最後まで(しら)を切り通すつもりか。ならば、作戦に便乗しよう。興明は一呼吸を数えて、腹を括った。

「叔父上。このちび助は、俺に従うた足軽たちの一人だ。離れで、賊にも立ち向こうた勇敢な奴なのだが、いかんせん、まだ前髪立てでな。今頃になって、怖かったと、べそを掻いておる」

 娘を抱えたまま、叔父を欺こうとは、我ながら、偉く大胆な料簡だ。しかし、抱いているうちは、叔父から娘の顔は見えない。支離滅裂にならないよう、このまま押し通すしかない。

 娘は縮こまって震えている。大丈夫だ、と伝えたくて、柔らかな頬を、そっと撫でた。

「叔父上。兄者の件なら、こいつらがおっても、気にせんでくれ。兄者がおらなんだとは、こいつらにも知られておる。それよりも、このちび助が落ち着くまで、こうしていてやりたい。よしよし、賊は、もうおらぬぞ。安心いたせ、な?」

 興明は叔父に怪しまれないよう、娘の頭を撫でて宥めた。

「でもでも、さっきは怖かったよう」と、涙声が乗ってきた。なかなか、面白みもありそうだ。つい、口元が(ほころ)んだ。

 心ノ臓の鼓動が、やけに大きく感じられた。弥七の殺気に気づいたときよりも、なお激しい。

 こんな突飛な状況にあっても、娘の体温を全身で感じていられる、この一刻一刻が、何ものにも代えがたい。異様なまでの胸の高鳴りは、叔父が踏み込んで来たせいばかりとはいえまい。

「内藤の足軽どもか。まあ、よい。我主は昔から、子供らの面倒見はよかった。泣いておる童がおれば、百姓の子でも、放ってはおかなかったな。そのせいか、子供らにも、よう好かれた」

「おう! 子守なら、任せてくれ。叔父上のところの坊主だって、俺に懐いておるものな」

「はは、まったくだ。我主が上洛すると告げたときは、大泣きしたものだわい。父親の儂がおらんでも、けろっとしておるくせに。まあ、我主の徳じゃろう。これが三郎であれば、抱いておる相手は、間違いなく、(おなご)であったろうな。儂も間違いなく、雷を落としたじゃろうし。ほほう、この小僧め。我主に噛りついておるとは、何やら、次郎を思い出すな」

 いいところで、弟の名前が出た。今の今まで忘れていたし、こんなに可愛い顔でもないが、

「そうなのだ。こいつ、次郎みたいで放っておけぬ」と、真面目くさって取り繕った。

 いつの間にか、娘はぴたりと泣き止んでいた。(おなご)と見破られてはいけないと、さすがに(わきま)えている。びくついてはいるものの、妙に聞き耳を立てている様子が微笑ましい。

 幸丸も、平伏しながら、明らかに耳を(そばだ)てていた。大切な「姫さま」の夫が消えたとなれば、気に懸かっても致し方あるまい。

 何が起きたか知らないが、昨今の兄だ。逃げた先で、好ましくない騒ぎが持ち上がったのだろう。

 これ以上、陶の恥を(さら)したくはないものの、幸丸としては、兄の去就がとことん気になるに決まっている。女主人に忠節を尽くす幸丸であればこそ、聞かせてもやりたい。

 ええい、構うものか。どうせ、潰す縁談だ。興明は率先して呼び水を向けた。

「叔父上。今度こそ出奔したとは、どうした戯言(ざれごと)だ。兄者なら、そのうち戻って来るだろうが」

「それが、ようわからん使いが来てな。三郎め、どこかの寺に入って、出家したいと言い出した」

「へっ? 兄者が、何だって? うわっ、(いて)っ!」

 興明は思いきり()()って、後ろの壁に頭をぶつけた。壁がなかったら、危うく娘を放り投げて、引っ繰り返るところだった。

 叔父を無視して、ずっと狸寝入りを決め込んでいた新左衛門も、堪り兼ねたとみえる。

「似合わんわー!」と吹き出して、とうとう、勢いよく撥ね起きた。

 夜中に叔父が駆け込んで来たときは、人の()い叔父が、兄や側近たちに一杯まんまと食わされたのかと(いぶか)った。

 今、即座に浮かんだ考えは、叔父ばかりか、興明までもが、担がれ、笑われている構図だった。

「違う、叔父上。絶対に違うぞ。出家したいだなんて、そんな立派な御仁体(ごじんたい)は、間違うても、俺の兄者ではない。どこかの、別の三郎どのだ」

 大真面目な叔父の前では笑うに笑えず、声が詰まった。

 威張(いば)りん(ぼう)の兄が殊勝に出家するとは、あまりにも荒唐無稽(こうとうむけい)。狂言回しのお屋形さまでも、さすがに思いつかれまい。考えた奴は、どこのどいつだ。興明は娘を抱えたまま、大袈裟に笑い声を上げた。

 新左衛門も、興明が笑うまではと、堪えていたのだろう。また床に突っ伏して、大いに腹を抱えた。

「二人とも、そう笑うな。儂にだって、わかるわい。三郎が出家しても、生臭坊主にしかなれん」

 頭から馬鹿にしきった甥たちの反応に、叔父も緊張が解かれたのか。苦渋に満ちた表情は、曹司に飛び込んで来たときとは打って変わって、和んだ苦笑に変わっていた。

「そうさ、叔父上。兄者が坊主になんて、金輪際なれるものか。父上やご先祖の法要だって、頭痛だ、歯痛だ、肩凝りだと、昔から爺みたいな理由を持ち出しては、しょっちゅう抜け出しておったくせに」

「まあな。寺に入ったところで、経を読めるかどうか。難しい読み書きは苦手だったでな」

「どこかの寺って、どこの寺だ。あっ、わかったぞ、尼寺だな? 尼寺に飛び込んだなら、そいつは、兄者やもしれん」

「ならば、戒律に女犯(にょぼん)があると教えてやるか。とっとと戻ってくるじゃろう」

 もはや、失言と放言の応酬だった。他家の家来に聞かせるには(はばか)られる内容なのに、陶の三人が笑い転げていては、全く話にならない。幸丸も娘も顔を上げて、我を忘れたように聞き入っている。

「実はな、五郎よ。我主が元服した今だから、隠さずに教えるが」

 叔父は人差し指を(わざ)とらしく口元に宛がうと、内緒話の構えを見せた。

「三郎は富田(とんだ)と山口に、こっそり(おなご)を囲うておった」

「その話ならば、知っておる。お春から聞いた。あれは、まだ寒い頃だったかな」

 妹は早暁に飛び込んでくるや、興明の掻巻(かいまき)を引っ剥がして、「聞きなさいよ!」と高らかに叫んだ。

「あいつが言うなら、確かだろ? だから、女好きの兄者に、(おなご)が一人もおらぬところで一生を過ごす、なんて与太を言われてもな」

「何じゃ、知っておったのか。いやはや、あれほど大騒ぎした縁談が纏まったとき、それなら、女どもと手を切れと、儂は言いつけたのだがな。三郎は、絶対に別れぬと、烈火の如くに怒りおった」

「手を切るつもりがあったならば」

 むっくりと起き上がった新左衛門が、訳知り顔で割り込んだ。

「若山城の麓にも新しく囲うなど、なさらなかったでござろうよ」

「ええっ、若山にも増えておったのか。おい、新左。そういう知らせは、とっとと俺に教えろよ」

「何とまあ、儂でも知らなかったぞ。三郎め、さすがに三人目は、儂に隠したか」

 興明は叔父と二人して、新左衛門に詰め寄った。

「あわわ、申し訳ござらぬ。腹の(ふく)るる思いでござったが、喋るわけにもいき申さず」

 新左衛門は大慌てで、両手を顔の前で合わせた。

「と申すのも、拙者、若山の村娘がご寮人さまへご注進に及んだところに、たまたま居合わせただけで。ご寮人さまより、『兄上と叔父上には高く売るんだから、喋るんじゃないわよ』と、固く口止めされたうえに、『喋ったら、あんたの一物(いちもつ)をちょん切るからね』とまで言われては、怖くて怖くて、夜も寝られず。ああ、でも、今、うっかり喋ってしまったわい」

 新左衛門としては、効果的に披露する絶好の機会を窺っていたのだろう。

「お前、これで間違いなく、ちょん切られるぞ」と、興明は受け流した。

「それにしても、まだ一人前とはいえぬのに、そっち方面は三人前か。困った奴じゃ」

 叔父は深く息を吐いて、大仰に腕組みをした。初恋の(おなご)の尻を今も追い掛けている叔父にとって、二十歳そこそこで女を三人も囲った兄の行動は、理解不能だろう。

 もっとも、せっかく時を経て結ばれた愛しい女を、興明と兄の筆下ろしに喜んで登用する叔父の思考――もとい、嗜好のほうも、興明には、やはり理解不能だが。

「それだけではござらぬぞ。三郎さまから、(おなご)の影が消えた(ためし)は、唯の一度たりとも、ござらぬ」

 先の秘密を匂わせて、新左衛門は叔父と同じく、口元に内緒話の指を添えた。

「都にいらしてからも、内藤のご兄弟と(つる)まれては、よく明け方に帰陣されてござった。洛中に、馴染みの遊女がおられるのでござろうよ」

「何だって? それって、お前の戯言(ざれごと)ではなく、本当の話だったのか! だったら、兄者が今になっても帰ってこようとしない理由(わけ)は、まさか、本当に、その遊女の宿におるからでは」

「ええい、こんな、とんでもない日に、あの頓珍漢(とんちんかん)が! しかし、それなら、わざわざ出家せずとも、今だって極楽に……おっと。我主らには、まだちいとばかり、刺激の強い話題であったな」

 三人で、腹が痛くなるほど笑い転げた。そんなに(おなご)が好きなのに、出家しようなど、噴飯(ふんぱん)ものだ。

 きゅ、と背中が引き攣れた。大きな瞳が心細げに、じっと興明を見つめる。せっかく目が合ったのに、笑顔を見せてはくれなかった。

「そんなの、やだ」

 娘は怯えたように呟くと、新たな涙をぽろぽろと(こぼ)して、(しお)れるように(うつむ)いた。まだ大笑いを続ける叔父に気づかれないよう、興明は娘の耳元に口を寄せた。

「今のは、俺の兄者の話だ。俺は兄者とは違う。そなた一人がいてくれればよい」

 叔父の前で、大胆不敵にも頬を寄せて、力強く抱き直した。だが、直垂を掴む力は、憐れなくらい弱々しかった。不品行な兄と一緒にされて、同じように不安に思われるとは、迷惑な話だ。

「のうのう、若さま。兄上さまは本当に、そねえに(おなご)がお好きなんで?」

 無礼は承知と言わんばかりに、幸丸が口を挟んできた。嫁を貰う前から女を三人も囲う夫では、仕える「姫さま」が案じられてならないのだろう。興明は肩を竦めて頷いた。

「すまぬ、幸丸。言いにくいが、本当の話だ。身内の醜聞を聞かせとうはなかったが、こうも見事に露呈してしまっては、隠しようもない。そなたが今、聞いたとおりだ」

「ほうじゃったか。ほいで、兄上さまは本当に、出家なさるんで?」

 落胆を隠しきれない顔には、「どうか出家してくだされ」と、はっきり書いてある。

「いや、それは、ないさ。絶対にな」と、興明は力強く首を横に振った。

「内藤に置き換えてみよ。弥七が出家なんて、するか? いろいろと仕出かしてくれる兄だが、それでも、陶の惣領だ。どこにいようと、連れ戻す。誰が考えたかは知らんが、よくできた戯言(ざれごと)だ」

「残念じゃのう」と、幸丸は深く息を吐いた。そのとき、外から慌ただしく声が掛かった。

「大殿さま! 殿さまからのご使者にござる!」

「ほら、さっそくだ。迎えでも寄越せと言うてきたのだろう」

 興明は幸丸に笑い掛けると、杉戸に向けて顎を(しゃく)った。

 新左衛門が飛ぶように立ち上がり、素早く杉戸を開け放った。娘を抱えている興明は、動こうにも動けない。濡れ縁に飛び出した叔父と新左衛門の背中を、幸丸の視線が追った。

 娘も、おずおずと泣き顔を上げた。もの言いたげな眼差しに、やるせなく胸が詰まった。

「なあ。何がそなたを、そんなに悲しませるのだ。言うてくれ。俺は、まだまだ半人前だが、ありがたいことに陶の御曹司だ。大抵の望みなら、今の俺でも叶えてやれると思うぞ。そなたのためなら、何だってしてやろう」

 娘は思い(あぐ)ねたように、悲しげな瞳で興明を見上げた。言っても困らせるだけと、(はな)から諦めている気色だ。

「俺では役に立たぬのか。そなたに何もしてやれぬと思うと、俺も辛い」

 娘は弱々しい笑顔を見せて、ぽふっ、と胸に顔を埋めた。

 頼られているのか、いないのか、判断に苦しむものの、これ以上は泣かせたくない。せめて、将来(さき)の不安材料くらいは取り除こうと、思いきって、懸念のありそうな心当たりを突いた。

「その……くどいかもしれぬが、俺は、そなた一人だからな。兄者みたいに、二人も三人も要らん」

 娘は、きゅーっと縋りついた。やれ、一安心かと安堵の息を()いたものの、微かな嗚咽は、いまだに消えない。笑顔を取り戻させるには、まだまだ至らないようだ。

「いやはや、五郎よ、妙な事態になった」

 叔父が慌ただしく戻ってきた。また表情が一転して、苦渋の色に塗り潰されている。

「今度は何だよ、叔父上。まさか、お屋形さまでも迎えに寄越せと言うてきたのか」

「いや、出家じゃ、出家。捨て置けると笑うたばかりだが、三郎から、本気と思える使いが来た。これを見てみよ。直筆じゃ、ほれ」

 叔父は一枚の紙を差し出した。我が家の産物として興明も愛用している、使い慣れた得地紙(とくじがみ)だ。兄に遅れて参陣したとき、「土産に持ってきた」と兄の懐にねじ込んだ、あの紙束の一枚に違いない。

 紙面には、よく見覚えのある文字が並んでいた。

 かなり乱れた走り書きで、文字によっては、目を凝らさなければ解読できない。細やかなところもある兄にしては、(かす)れて汚らしい手跡だ。逃亡の恐怖で、手でも震えていたのだろうか。

「なになに? 天王寺に於いて、出家致したく候。何とまあ、これだけか。せっかく使いを寄越すなら、もう少し、子細を書けばよいものを」

「しかし、もう、どこかの尼寺どころではないぞ。天王寺と、はっきり名前まで出ておる」

「でも、叔父上。こんな奴は、やっぱり俺の兄者ではない。誠意の欠片(かけら)も感じられぬ」

 大笑いした興もすっかり覚めて、興明は走り書きをぽいっと放り投げた。

 あり得ない話だ。内藤から逃走したとして、なぜ、出家という発想に、いきなり繋がる。陶の惣領が家督を投げ出すなど、全く以て、正気の沙汰ではない。

「参ったのう」と、叔父は俯いて考え込んだ。

「お屋形さまが目を覚まされたら、儂らはすぐに、お側に呼ばれるじゃろう。ご報告をせねばならんが、さて、三郎がおらぬ事情を、どう申し上げるか」

 確かに、困った事態になった。興明も唇を歪めて頭を捻る。叔父は観念したように顔を上げた。

「我主が調べたとおり、内藤の陣から()う這うの(てい)で逃げ出したまでなら、それでよかった。したが、そこで出家となれば、何を勘ぐられるか。まず、お屋形さまに事実を申し上げるか否かというところから、よくよく検討せねばなるまい」

 なるほど。頭を丸める行為は、どうとでも解釈できる。悪くすれば、痛くもない腹を探られて、「陶三郎も、もしや賊の一味では?」と、受け取られるかもしれない。

「ううむ、兄者はいったい、どういう思考を辿ったんだろうな。出家したいなら、したいとして、一旦、逃避行から戻ってきて、お屋形さまに伝えてくれればよいものを」

 お屋形さまからのお呼び出しに、当主の兄が応じなくてもよい理由など、一つもない。昨夜の捕り物に兄が参加していなかったとして、それは別の問題だ。

 況してや、お屋形さまは今、この陶の陣におられる。昨夜は、実質的な(あるじ)といえる叔父が対応したとしても、今朝は、当主たる兄が真っ先にご挨拶に向かわねば、頼うだお方に対する筋が通らない。家督とは、そういうものだ。

「なあ、叔父上。申し上げない、という選択肢も、本当にあるのか?」

 尋ねながら、興明は暗澹(あんたん)たる気分になった。

 お屋形さまと新介さまには、一点の曇りもない忠節を誓った。元服祝いの御礼に伺候したときの、あの晴れがましくも誇らしい一念は、今もなお、胸の内に熱く尾を引いている。それなのに、あれから僅か数ヶ月で、もう、隠し事の算段とは。

「あるといえば、ある。しかし、永遠に、とはいかぬ。たとえ今、お屋形さまを言い(くる)めたところで、また、すぐに別の問題に直面するでな。嘘は、次の嘘を呼ぶ」

「じゃあ、やっぱり、包み隠さず申し上げるしかないな。俺はさっき、お屋形さまに嘘を()いた」

「これが、平時であればのう」と、叔父は肩を落とした。

「平時であれば、お屋形さまは山口におられる。三郎は重い病に(かか)ったゆえ、富田(とんだ)で療養させると、数ヶ月は押し通せよう。あるいは、病を理由に出家したとも、ご説明できる。しかし、役者が皆、陶の陣に揃うておっては……」

「仮病を使うたところで、見舞ってやろうと仰せの時点で、全てが露見するな」

 これ以上、漆喰の如くに嘘を塗り重ねても、事態は少しも改善されまい。興明は腹を決めた。

「わかった。お屋形さまには、最初から最後まで、とにかく正直にお伝えしよう。俺が嘘を()いたから、俺が自分で申し上げる。そのうえで、兄者は出家を考えて陣にはおらぬと、非礼をお詫びする」

「致し方ないが、それ以外にあるまい」

 叔父は更に肩を落として、溜息交じりに同意を示した。

 明け方に帰陣したときは、陶はお褒めに与るばかりと、これっぽっちも疑わなかった。それが、まさか、謝罪の役回りを演じさせられる破目(はめ)に陥ろうとは。またぞろ、兄に恨みが募る。

 項垂(うなだ)れた気配を察したのだろう。直垂を掴んでいた手が、背中を大きく、ゆっくりと摩った。明け方と同じく、優しくて温かな振舞いだった。

 ――そうだ、俺には、この娘がおる。大丈夫だ、すぐに立ち直れるさ。

 興明は、回した腕に力を籠めた。

 それにしても、本気で出家しようとは。先刻は笑い飛ばしたものの、嫌な予感が押し寄せた。

 兄は二十歳そこそこの、ただの若造に過ぎない。父や先祖の回向(えこう)を振り返っても、世辞にも熱心だったとはいえず、この微温湯(ぬるまゆ)の陣中で、世を捨てたいほどの絶望を味わったはずもない。

 しかし、たとえ一時(いっとき)の気の迷いにしても、兄をそこまで駆り立てた理由が、必ずあるはずだ。

 その動機は何だろう。兄と疎遠だった興明に、すぐにわかるはずもない。だが、事態が事態であるだけに、知らねば済まされない気もした。

「それにしても、天王寺とはな。また遠くまで出向いたものじゃ」

 こきっ、と叔父が首を傾げた。

「知っておるか? 摂津にある、聖徳太子の建立で有名な大寺じゃ。寺の西門が、極楽浄土の東門にあたるとか。(ここ)からだと、十五里近くは離れていよう」

「十五里だって? だったら、いろいろと怪しいだろう。兄者は無事に着いておるんだろうな。明け方まで、月も出なかったんだぞ」

 雲間から漏れる星明かりだけを頼りに、他人の馬で、そんなに速く駆けられるものだろうか。道だって、碁盤の目のように整った都を抜ければ、曲がりくねっているかもしれない。

「兄者は、俺ほど馬が得意ではない。いや、そんな条件なら、俺だって自信はない。それに、一騎では、どこで、誰に襲われるか。六角方の(しのび)だって、どこかに潜んでおるやもしれんのに」

「言われてみれば、そのとおりじゃな。この一筆も、途中で書いたと考えるのが妥当やもしれん」

「まったく、面倒な兄者だ。どうせ坊主になるなら、この寺で出家したって構わんだろうが。出奔だなんて、大騒ぎしなくても済んだはずだし、剃りたての坊主頭を、思いっきり笑ってやれた」

 興明は、放り投げた書き置きを拾い上げて眺めた。

 そうとも。出家なら、この寺にいても、事足りた。法花堂(ほっけどう)でなくたって、洛中には、掃いて捨てるほど、寺はある。天王寺にも、何か意味があるのだろうか。

 そういえば、先日、執り行われた猿楽の演目に、天王寺を舞台にした『弱法師(よろぼうし)』があった。

 都で馴染みの遊女に(うつつ)を抜かしていた兄が、何を好んで摂津の寺を選んだのか。嫡男でありながら家を追われた俊徳丸(しゅんとくまる)の憐れな(おもて)がちらつくばかりで、さっぱり見当はつかなかった。

 叔父は暫く俯いた後、さばさばした口調で顔を上げた。

「まあ、信仰など、本人にしか、わからぬものじゃ。三郎にも、それなりに、出家を望む理由があったのじゃろう」

「ええっ? 叔父上は本気で、そう考えておるのか? (おなご)を三人も囲っておったんだぞ? 内藤の娘だって、欲しい、欲しいと、大騒ぎをしたくせに」

 口にすれば、するほど、わけがわからなくなっていく。己ならば、相思の娘を放り出して、世を捨てるなど、金輪際できるものか。兄だって、似たようなものだろう。

「なあ、叔父上。兄者は陶の惣領だ。とことん手は掛かっても、はい、左様ですかと、あっさり放り出すわけにはいかん。三日ばかり放り込んでおいて、俺たちが恋しくなった頃に、恩着せがましく連れ戻しに行く、という手は、どうかな?」

 寺には(おなご)がいないから、三日もあれば、目が覚めるだろう。しかし、自分から飛び出した手前、戻るとは言いにくい。だったら、迎えに行って、恩を売る。昨夜の苦労の代償に、ちょうどいい。

「なあ、そうしよう、叔父上。我ながら、妙案だと思うが」

 興明は、わくわくしながら、叔父の判断を仰いだ。

「どうかのう」と、叔父は浮かない顔で首を捻った。

「妙案を云々(うんぬん)する前に、一つ、大事な想定を忘れておるぞ。我主が正直にお伝えしたとして、お屋形さまが、三郎の出家をあっさり認めてしまわれた場合じゃ。どうなるか、わかっていような」

「どうなるかなんて、わかっておるさ。そりゃあ、俺が……」

 一瞬、頭は真っ白になった。真っ白けの空白に、進むべき道は、一つしか浮かばない。

「いやいや、叔父上。何も、そこまで危ぶまなくても」

「いやいや、ひょっとすると、ひょっとするぞ。我主は新介さまのお気に入り。お屋形さまとて、ご承知じゃ。覚悟はできていような?」

 覚悟って、そんな、突然、言われても!

 ――三郎に、もしものことがあったなら、我主が陶を継ぐのだぞ。

 幾度となく、叔父から戒められて育った。告げられるたびに、「父上の名を辱めぬ領主にならねば」と、たいそう意気込んだものだ。

 けれど、一度として、実感は伴わなかった。流行病(はやりやまい)どころか、風邪気(かぜけ)にだって目一杯に嫌われる、頑健が取り柄の兄がいた。

 今だって、まるで実感は湧いてこない。この穏やかな後詰めにいて、兄が討死にする危険は、文字どおり皆無だ。なのに、百歳まで死にそうにない兄が、いきなり出家すると言い出した。もしものこととは、こういう形で起きるからこそ、もしもなのか。

「五郎よ。これがお屋形さまの御前であれば、何と答える。わかっていような」

 叔父は静かな口調で、重々しく問い質した。

 肩にも、背にも、ずしっと重圧を感じる。だが、逃げてはならない。逃げたら、兄と同じになる。

「大殿さま、若殿さま。お話中に失礼仕る」

 襖の外から声が掛かった。叔父が重用する、新左衛門の父――興明の傳役(めのと)の声だ。野上(のがみ)の親父は襖を開けると、他の部屋の者たちに聞こえないよう、小声で用件を告げた。

「お屋形さまが、大殿さまと若殿さまをお呼びでござる。肥後守さまもお目通りを願うてござるが、別室でお控えいただき、まずは、お二人のご報告から聞いてくださるとの仰せで」

「そら、五郎、とうとう来たぞ」

 叔父は興明に向き直った。地蔵に似た丸顔が、嘗てないほど強張っていた。

「わかった、叔父上、覚悟を決めよう。お屋形さまが本当に、そう仰せになるとは思わんが」

 興明も、叔父の目をまっすぐに見つめ返した。僅かばかり、口元が引き攣ったかもしれない。

「そこまで、(かしこ)まらんでもよい。手を見せてみよ、五郎」

 叔父は、やおら興明の右手を掴むと、(たなごころ)を上に向けた。

 節榑(ふしくれ)立ったうえに、荒れている。わざわざ見せびらかしたくなるほど、自慢できる手ではない。おまけに、最近では、興明の手を握りたがる輩が跡を絶たず、つい身構えてしまう。

「何だよ、叔父上。叔父上まで、俺に妙な気を起こさんでくれよな」

 軽口を叩きながら、興明は手を引っ込めようとした。

「そう急ぐな。相変わらず、かちんこちんじゃのう。この手は、一朝一夕にはできあがらぬ」

 叔父は、ぽん、ぽんと、嬉しそうに手を撫でた。

 御曹司の身分にしては、田畑を好んだかもしれない。物心ついたときには、屋敷よりも(あぜ)にいた。霞む山々を遠景に、若い緑に彩られていく田圃(たんぼ)や畑を、厭きもせずに眺めていた。

 あれほど好きだった木刀を、(くわ)(すき)に握り替えた時期は、いつ頃だったろう。

 泥まみれの毎日は、(うえ)(かた)が戯れているとしか思われなかったかもしれない。初めて教えを請うた(おきな)は、邪魔をするなと言いたげだった。

 それでも、毎日、鍬を入れた。草を抜き、水を撒き、芽吹いた苗を慈しんだ。

「若君が育てよった」と、百姓たちの輪の中で食べた芋の味は、とても言葉にならなかった。

 幾年もの間、山の神が田の神となり、また山へ帰る日まで、田畑を訪れなかった日は、一日もない。かちんこちんの厚い皮膚は、興明が領民とともに田畑を耕し、農事に勤しんだ証だった。

「儂は、よう知っておる。我主は実に鮮やかに刀を振るうが、それ以上に、農作に腕を振るっておる。まだ若いのに、もう何年も、民と同じ汗を流してきた。我主は、この手を誇ってよい。儂にとっても、我主は誇りじゃ。我主は、よい領主になるじゃろう」

「何だよ、いきなり。叔父上は、口が上手いな。そこまで褒めてらったら、照れ臭いぞ」

 照れ臭いが、悪い気はしない。少しだけ頬が熱い。叔父に乗せられて、興明は、いい気分で腹を決めた。と同時に、一抹の寂しさを覚えた。

 父を亡くした兄弟四人を、叔父は分け隔てなく、可愛がってくれた。気の()い、温厚な叔父だった。兄とて、叔父を好いていた。増上慢(ぞうじょうまん)に見えて、その実、誰よりも叔父に甘えていた。

 叔父は、兄を見限ったのだ。たとえ、お屋形さまのご機嫌を損ねずに済んだとしても、天王寺に迎えなどやるまい。何とはなしに、直感した。

 さて、この場で覚悟を決めるなら、もう一つだけ、決めておきたい。口実に過ぎないが、時間を稼げる、もっともらしい理由を見つけた。興明は真面目くさって、叔父に告げた。

「叔父上は先に行って、ご挨拶を申し上げてくれ。俺は失礼のないよう、直垂だけでも着替えたい」

「確かに。朝っぱらから、そんなに皺くたでは、お屋形さまの御前に出るは、(はばか)られるな」

 叔父は特に訝しみもせず、うん、うんと頷いた。

 娘に縋りつかれた上衣は、よれよれに濡れそぼっていた。袴には、興明自身の涙の跡が新しい。(たすき)掛けをしたままの袖は、この期に及んで解いたところで、かなりの皺になっていよう。

「びしっと決めるのだぞ。その(なり)では、三郎どころか、我主までもが、(おなご)を抱いておったようじゃ」

「嫌だなあ、叔父上。兄者と一緒にしないでくれよ。俺は、女好きじゃないって」

 痛いところを突かれて、興明は、取ってつけた笑顔を貼った。

「それもそうじゃな。我主は、(おのこ)どもに、もてるのであった」

 それも、やめてくれよ。爽やかさを心懸けた笑いが、口元で、ひくひくと()れる。叔父が襖を閉めるまで、興明は背筋を伸ばして見送った。

「はぁぁ」と、全身の力が抜けた。後ろめたさは残るものの、何とか騙しきれたようだ。

 安堵の一息を入れると、俯いたままの娘に、また腕を巻きつけた。ちゃんと抱いていないと、華奢な躰がどこかへ飛んでいってしまいそうで、どうにも落ち着かない。

 娘の躰に戻した手に、細い指が絡んできた。指先が、愛おしむように、荒れた(てのひら)を撫でる。

「うん? ああ、この手か。いや、叔父上は褒めすぎだ。俺は、好きにしておるだけだ。さほど上手なわけでもないし。でも、そなたには、俺の育てた菜っ葉や清白(すずしろ)を食わせたいな」

 柔らかな指が、硬い指先をきゅっと握った。興明は小さな手をそっと包み込んだ。兄を憐れむより、民を思うより、今は、この手を堂々と取りたい。

「新左衛門、それに、幸丸。そなたら二人は、そっちの隅で、暫し耳を塞いでおれ。見てもならん。とにかく、口を出すなよ」

 興明は断固として命じた。

 本当は、野次馬を追い出したい。しかし、この場を外せと命じたところで、新左衛門は護衛の役目を盾にして、絶対に出て行かないだろう。

 幸丸は部屋から出せるが、「また、押し倒すおつもりかいな」と、下手に勘繰られたくもない。

「まあ、何かしら? どきどきしちゃう。あんなことや、こんなことまで、されちゃうかも」

 声高に囃しながら、新左衛門が幸丸を部屋の隅へ引き摺っていく。追い払ったと確かめると、興明は娘を床に下ろして、居住まいを正した。高名な敵将に挑むよりも、一世一代の気概で臨んだ。

 まだ涙の乾かない瞳が、思い詰めたように揺れている。見つめ返せば、躰の芯に、ぽぅっと淡い火が灯る。胸の上で不安げに合わさった両手を、興明は力強く握った。

「俺は、そなたを迎えたい。出会った日に、いきなり何を言い出すかと驚くやもしれんが、本気だ。そなたは、どうだ。俺の嫁になるのは、いやか」

 黒目勝ちの瞳が、見る間に大きく見開かれた。娘は「ううん」と、頭を左右に振った。

「ならば、俺にしておけ。何を困っておるのか知らんが、差し支えがあるなら俺が何とでも処置してやる。陶の名が役に立つなら、遠慮なく振り翳そう。それで駄目なら、新介さまに泣きついてもよい。死ぬまで、笑いの種にされるだろうが、そなたを手に入れられるなら、何があろうと、構わぬ」

 娘の目から、ぶわっと涙が溢れ出した。ああ、また泣かせた。

「泣くなよ! 俺は、そなたに泣かれると、どうしてよいか、わからんのだ」

 わからなくても、両腕は勝手に娘を求める。絡め取ると、娘の腕も興明の首に回った。また、子供みたいに、わんわん泣かれた。

 とはいえ、最前のような悲壮感は、どこにも漂っていない。凄まじい泣きっぷりでも、機嫌は直ったと見える。慣れてしまえば、単純なだけに、わかりやすいのかもしれない。

「陶を継ぐなんて、そんな大層な話には、ならんと思う。でも、いずれは、叔父上のように、分家させてもらうつもりだ。そうしたら、大手を振って、そなたを所領に迎えられる。それまで、待っていてくれるか? もちろん、長くは待たせぬつもりだが」

 大内家でお役目を担える者は、各家の当主と、十五歳以上の嫡子のみ。部屋住みでいる限り、幾つになろうと、お役目にはありつけない。お屋形さま直々の采配による所領の安堵も、得られない。

 しかし、分家を立てれば、小さくても領主だ。好いた娘を迎えるのに、誰に気兼ねも要らぬ。一家を立てることが、娘を早く迎えられる、地に足のついた策だろう。

「待ってるね」

 風にそよぐ風鈴を偲ばせる声で、娘は頷いた。初々しく目元まで赤く染めて、泣き顔であっても、例えようもなく愛らしい。

「ならば、笑うてくれ。俺は、そなたの笑顔が……その……とても、好きだ」

 娘は恥じらいながら、くふっ、と笑った。朝霧に(けぶ)るような微笑みに、切ないほど胸を突かれた。

 ああ、やっぱり似ている。一気に胸が熱くなった。

「これを、約束の品としよう。二所物(にところもの)でな、同じ図柄の小柄(こづか)(こうがい)があるのだが、小柄がよいだろう」

 興明は刀に腕を伸ばして、小柄を取り出した。元服の祝いにと、叔父に強く強請(ねだ)ったものだ。

 時を要するだろうからと、二年も前から頼み込んだ。公方さまお抱えの彫金師、後藤四郎兵衛(祐乗(ゆうじょう))に制作を依頼しただけに、思い入れは深い。

 余人を介在させては、細部まで要望は伝わるまいと、五郎は自ら書状を(したた)めた。手習いの師では心許なく、叔父の右筆(ゆうひつ)の許に押し掛け、礼儀に(かな)った文の書き方を教わった。

 右筆から話を告げられた叔父は、陶の申次(もうしつぎ)でもある、お屋形さまの右筆の相良(さがら)どの(正任(ただとう))に頭を下げ、更に厳しい書札礼(しょさつれい)(のっと)った形式を教えてくれた。文を書き始めるまでに、ひと月を要した。

 いったい何回、下書きを重ねたか。大人を真似て、背伸びして捻り出した花押も、今、思い出せば、顔から火が噴き出すほど、辿々(たどたど)しいものだった。ようやく五郎が書き上げると、叔父は立派な添状(そえじょう)(したた)めた後、贈り物を山ほど持たせて、都へ使いを送ってくれた。

 子供からの熱烈な直筆の文に、(さきの)筑前守護代からの(いか)めしい添状など、極めて異例であったろう。だが、後藤家の棟梁は、遙か西国の熱心な前髪立てに、破格の好意を示してくれた。

 以降、都合三度に渡る書簡の往復を経て、注文どおりの二所物が、元服に間に合わせて(こしら)えられた。仕上がりは、興明の好みそのものだった。

 さりながら、それで、すんなり手に入ったわけではない。興明は長らくお預けを食らった。

「都に参るなら、我主にやろう」

 さすがに十年間も陶家を率いてきただけに、叔父は駆け引きに長けていた。二所物は、新介さまに命じられてさえ、遠国での初陣を渋った興明を連行するための、またとない好餌(こうじ)となった。

「わあ、綺麗。こんなに艶々(つやつや)の、真っ黒な赤銅(しゃくどう)は、初めて。魚子(ななこ)の粒々も、すごく小さくて、よく揃っていて」

 娘は身を乗り出して、大きく目を見張った。興明も意表を突かれた。

 ――えっ、地金(じがね)から褒めるのか。そりゃあ、後藤らしく、金性(きんしょう)も申し分ないが。

 格調高く、漆黒に輝く赤銅地には、地紋と片付けるには惜しいほど細かな魚子が、みっしりと端麗に打ち込まれている。その中央を占める高肉彫(たかにくぼり)のうっとり色絵は、(たがね)の抜けも、すっきりとして、名人との評判に(たが)わない。魚子もよいが、まずは、そっちに目を向けてくれ。

 興明の気持ちを察したように、娘は目を輝かせて、興明を見上げた。

「これは、天女?」

「うん、技芸の飛天だ。謡曲の『吉野天人』を題材にした。(うたい)の中で、どれより好きでな」

 棚引(たなび)く羽衣を纏った(あま)つ乙女が、横笛を奏でつつ、優雅に舞い遊ぶ。妙なる香気に満たされて、降り注ぐ天花(てんげ)までが目に浮かぶような、婉然として典麗な構図だ。

 花に戯れ、虚空に天衣を(なび)かせる飛行(ひぎょう)の姿は、得も言われぬ雅趣に富む。耳を澄ませば、そこはかとなく、天上の(がく)が聞こえてきそうな趣があった。

「私も、『吉野天人』は、とても好き。憂いとか、(かげ)りとか、悲しいところが全くなくて」

「えっ、そうか? いや、俺も、そう思う。深みが足りないとか、幽玄の正反対とか、悪し様に言う輩もおるようだが、俺は、心が浮き立つくらい、開けっ広げで明るいのがいい」

 図らずも、嗜好が似ているとは、嬉しい。顔を見合わせて、小さく笑い合った。

 ああ、やっぱり似ている。初めて、ふわりとした笑顔を前にしたとき、脳裏に浮かんだのは、この天人の影向(ようごう)だった。

「そなたの笑う顔は、この飛天を思わせる。俺は、この小柄に釣られて都に来た。おかげで、そなたに巡り会えた。俺の一番の気に入りだ。そなたが持っていてくれ。笄のほうでもよいが、(おなご)には、小柄のほうが、何かと使い途があるだろう」

「でも、執心のある、大切なものなのでは……」

 娘は頬を一気に赤らめた。嬉しくないわけがなかろうに、興明を気遣う心根が奥床しい。

 もちろん、格別の愛着はある。生まれて初めて、思いのままに誂えた、元服記念の小道具だ。金も、時も、手間暇も、偉くたっぷりと掛けさせてもらった。それだけに、大切に扱っている。

「だからこそ、そなたに持っていてほしい。俺の執心は、今や、そなたにある。俺は笄を持っておく。二所物が再び、一つところに揃うよう、願を掛けて、楽しみに待つとしよう」

 興明は小さな手を取って、(しか)と小柄を握らせた。両手で包み込めば、耳朶まで、さあっと(とき)色に染め上がる。望んだとおりの蕩けそうな笑顔が、目映(まばゆ)げに向けられた。

「あと何年かしたら、嫁に来たがる女に囲まれて」だなんて、とんでもない。今だって、嫁に欲しがる男に囲まれて、大変だろう。

「そなたが心変わりせぬか、それだけが心配だ」

「いや、疑いは人間にあり。天に偽りなきものを」

 娘は悪戯っぽく目を細めた。おお――と、興明は目を見張った。

 謡曲『羽衣』の、名高い一節だ。シテまで同じく、天女と来た。こんなふうに切り返すとは、なかなか頭も回る。

 この娘は女猿楽だろうか。猿楽衆なら、将軍家を始めとして、いずれの家中でも奮闘している。

 見目の()い女猿楽が、暇人だらけの法花堂に出入りしていても、一向に不思議はない。(おのこ)(なり)も、興業を触れ歩くには、それなりに役立つだろう。

「そなたは普段から、(おなご)の格好はしないのか?」

「えへ、あんまり。飛んだり跳ねたりが好きだから」

 ああ、なるほど。この娘が演じれば、『巴』など、壮絶に凛々しくて、絶品だろう。

 それに――と、興明は眉根を開いた。間違いなく他人目(ひとめ)を引く(おなご)の姿など、何があろうと、他の男に見せたくない。

「ならば、俺の前でなら、どうだ。もし、俺が小袖を選んだら」

「えーっ? 何があっても、着る!」

 ぱあっと、顔が輝いた。冥利に尽きる手応えだ。

 いつか、娘に、花嫁衣装の小袖を贈ろう。薄紅梅が似合うだろうか。羽衣のように袖を(ひるがえ)して、溌剌(はつらつ)と胸に飛び込んできてほしい。気恥ずかしくて、まだ口にはできないが。

「わかった、天人の真心を疑うまい。だが、約束の品として、俺は、これを預かっておこう。羽衣の代わりだ。これで、そなたは天へ帰れぬ」

 興明は、娘の髪を結び止める細い麻紐を解いた。豊かな黒髪が、柔らかに丸みを帯びた二つの膨らみに、はらりと静かに零れた。花恥ずかしい風情が増して、また胸が切なくなった。

 謡曲『羽衣』のワキは、舞と引き替えに天衣を返した。昔語りの『羽衣』は、高尚な風雅から掛け離れている。羽衣を隠して天女を妻とした男を、嘗ての五郎は、子供心に、卑怯者と(さげす)んだ。

 見下げ果てた卑劣な男に、今は恐ろしいほど共感できる。興明は、手にした麻紐に、「俺のものだ」と強く念じた。

「そなたの髪が腰に揺蕩(たゆた)う頃までには、何としても迎えよう」

「わあ、早く伸びないかな。縁結びの神さまにも、毎日お祈りしないと」

 すぐさま、妹の顔が浮かんだ。つい、本気で祈った。

 娘は恥ずかしそうに微笑みながら、白い指先に髪を巻く。しどけない垂髪の姿は、瑞々しくも艶めかしい。隙だらけで、無防備すぎる。このままでは置いておけない。

「いかん、早く結い髪に戻してくれ。ええと、そうだな、これを使え」

 興明は、(たすき)に掛けた刀の下緒を外して、娘に握らせた。嬉しそうに、ふんわりと微笑まれると、再び唇を求めずにはいられなかった。

 だんだん大胆になっていると、自分でもわかる。都へ出立する前日に部屋へ押し掛けた妹から、

「いつ、どこで、ためになるか、わからないわよ?」と、無理やり聞かされた、ぶっ飛んだ講釈が、こうも早く役に立とうとは。興明は無我夢中で、甘やかな口を吸った。

「げほん、げほん。あら、夏風邪かしら? 嫌だわあ、げほん、げほん」

 背後の咳払いが(わざ)とらしい。気づいた娘が、また泣きそうに、じたばたと抗う。

「やだ、恥ずかしい。もう、堪忍」

「堪忍なんて、できるか。そう抗うな。懲らしめておるわけではない。そなたが愛しいだけだ」

 恥じらう娘を気遣う余裕など、爪の先ほども、あるわけがない。身を(よじ)る娘を力尽くで押さえ込むと、興明は遠慮なく唇を割った。芸人なればこそ、無性に不安に駆られた。

 こんなに見目好い女猿楽では、遠からず、座の後援者に身を、(ひさ)破目(はめ)になるかもしれない。それ以前に、ここは陣中だ。あっちにも、こっちにも、荒くれた男どもが、うじゃうじゃいる。

 もしも、(おなご)と露呈したら。考えただけでも、正気でいられそうにない。おかしくなりそうな己の衝動を、興明は遠慮なく娘にぶつけた。

 だいたい、紅梅色に上気した顔で、熱っぽく目を潤ませているほうが悪い。そんな表情(かお)をされて、どうしたら、やめてやれる。

 むしろ、こんなに逆上(のぼ)せ上がっても、悪さもせずに耐えている、健気な自制心を褒めてほしい。

「んも~う、若ときたら、拙者という者がありながら! こうなったら、実力行使!」

 耳に慣れた足音が、どたどたと駆け寄る。興明は襟首を引っ張られて、上衣を剥がされた。

「うわ、待て、新左。いくら乳兄弟のお前でも、それは、いかん」

「朝っぱらから、何を寝惚けた与太を。若こそ、暑さで頭をやられてござるぞ。いい加減、参りませぬと、お召し替えどころか、行水までしたと思われるでござろうが」

 そうだった。お屋形さまへのお目通りを、綺麗さっぱり失念していた。

「まったく、もう」と差し出された直垂に、興明は肝を冷やしつつ、袖を通した。

 興明の手を逃れた娘は、「あれま」と慌てる幸丸に介添えされて、目を白黒させている。

 少しばかり深く唇を求めただけで目を回す初心(うぶ)な娘を、どうすれば、守ってやれるのか。軟弱が持ち味の幸丸一人きりでは、何とも心許ない。

「そなたらは二人は、今日も陶の陣におれ。話は、俺が戻ってからだ」

 そもそも、まだ、名前も訊いていない。焦ったせいか、順序をかなり間違えた。興明は「よいな」と、強く念を押した。

「そう、そう。お楽しみは、後ほどでござる。さあ、行った、行った」

 新左衛門に背中を押されて、興明は部屋から追い出された。暫しの別れも名残惜しい。未練がましく見返れば、へらへらと笑う幸丸に支えられた娘が、「えへ」と、手を振っている。

 嬉しそうに小柄を握った娘の麗らかな微笑みを、興明はもう一度、瞼に強く焼きつけた。



「おお、五郎か、よう参った。昨夜は、苦労であったな」

 素っ飛んで参じれば、お屋形さまは快活なお声で、にこやかに興明を迎え入れてくださった。

 あまり寝てはおられないのに、お元気そうで、何よりだ。新介さまも、いつもどおりの旺盛な食欲を誇っておられる。

「よう、五郎。陶の飯は美味いな。もう三杯目だ」と、満ち足りたお顔で粥を啜っておられた。

 他家の陣での、急拵(きゅうごしら)えの夜明かしとなったものの、お二人のご機嫌は(すこぶ)る麗しい。

「それは、ようございました」と、まずは胸を撫で下ろした。

「はははは、五郎は男っぷりが上がったな。彼奴(あやつ)は風呂でも焚いておるのだろうと、ちょうど今、兵庫と笑うておったところよ」

 しまった、行水どころではなかったか。遅参の理由が理由なだけに、全く以て、面目次第もない。瞼に残る、潤んだ眼差しに胸を焦がしつつ、興明は深く謝罪の頭を下げた。

 一睡もしていないのに、お屋形さまを探して駆けずり回った昨夜が、遙か遠い昔に思える。

 まさに一生に一度、経験するかどうかの、喫緊(きっきん)の一大事だった。にも拘わらず、今、このときも胸を占めているものといえば、初めて想いを懸けた娘の、ふんわりとした微笑みばかりだ。

 やわやわと甘く蕩けそうな感触が、まだ唇に生々しい。一旦、思い出せば、息苦しいほど胸は熱く焼けつく。お屋形さまの御前で、己を見失うほど(おなご)一人に耽溺しては、亡き父に顔向けできない。

 せめて、今だけは忘れようと、興明は唇を噛んで、緩みそうな気を引き立たせた。

「さて、五郎。昨夜の顛末における最大の功労者は、我主(わぬし)である。よって、そなたから順に聞こう」

 はて、(それがし)からとは? 興明は目で叔父に問い掛けた。これだけお待たせしたのだから、先に伺候した叔父の口から、あらましくらいは、お伝えしているはずだ。

 叔父は興明を流し見て、地蔵の微笑みを口元に湛えた。我主から直にお伝えせよ、と読み取れた。

 一人前に扱ってくれたのかもしれない。だが、巣離れのための試練にも思える。背筋は、ぴしっと、真一文字に伸びた。興明は前置きもなく切り出した。

「内藤は、賊の朋輩かと存じまする。首魁かどうかまでは、まだ判断できませぬが」

「ほう、そうか。ふうむ、左様か、肥後守か。わかった、それで? 先を続けよ。まずは、聴こう」

 いきなりの口上にしては、さほど驚かれた様子にも見えない。お屋形さまは、ゆったりとした口調を保ったまま、顎に蓄えた立派なお髭を満足げに撫でておられる。

 新介さまは粥の匙で椀を叩いて、「肥後守は嘘吐きだな」と、頬を膨らまされた。

「まったく、酷い嘘吐きだ。奴は一番、綺麗な娘を余にくれると申したくせに、反故(ほご)にするつもりだ」

 何と、それは初耳だ。閨房(けいぼう)からも攻め込もうとは、加味して考慮すべきだろう。

「あの親父が、そのような申し出を。聞き捨てなりませぬ。はて、いつの話にございます」

「ちょうど、我主と知り合うた頃だ。いや、それよりも前だったかな」

 ならば、十年以上も大昔の、幼児相手のおべんちゃらか。

 がくっ、と気勢を削がれたものの、興明は気を取り直して、お屋形さまに向き直った。

「証拠としてお目に掛けられるものは、何一つありませぬ。お耳に入れられる報告は、ありのままの事実のみ。某の見聞きした全てを、余すところなくお伝え申し上げまする」

 興明は、別棟に駆けつけてからの血生臭い経緯(いきさつ)を、言葉を尽くしてお二人に語った。話し終えると、お屋形さまは晴れやかなお声で、「わかった」と顎を引かれた。

「内藤は、まさしく賊の朋輩であろう。曲者を一人も生かして捕えられなんだは、ちと口惜しいが、我主のせいではないゆえ、気に致すな。それよりも、斬り合いに携わった足軽どもに聴取すれば、生き証人を得られよう。いや、ようやった、ようやった」

 呵々大笑(かかたいしょう)と表現するに相応(ふさわ)しい笑い声が、曹司に朗々と響き渡る。静けさが戻るよりも早く、叔父が得意げに身を乗り出した。

「お屋形さま。実は五郎めは、賊に襲われた足軽を二名ほど、こちらへ連れ帰ってござる」

「何と、真か! さすがは、五郎よ。抜かりないな。いや、将来(さき)が楽しみだ」

 興明をご覧になる目の輝きが、何倍にも増した。

 そんなつもりで、あの二人を連れ帰ったわけではない。むしろ、今の興明は、あの娘に(うつつ)を抜かして、かなり見上げた腑抜(ふぬ)けだろう。

 それなのに、思いも懸けず、よいほうへと話が転んでくれた。これも、天人の(もたら)してくれた僥倖(ぎょうこう)か。興明は娘の笑顔を(しの)びながら、ありがたく、お褒めの言葉を頂戴した。

「さて、五郎よ。肥後守への仕置きであるが、どうするか」

 お屋形さまは一頻(ひとしき)り、目を瞑って考え込まれた。ややあって居眠りから覚めたかのお顔には、弘矩に劣らぬほどの、何をお考えか窺い知れぬ、完璧な笑みが貼りついていた。

「まあ、よい。内藤は成敗いたすまい。可愛い手勢を一人残らず、手に掛けてくれたわけだが」

 何と仰せだ。聞き間違えたか。興明は思わず膝を進めた。

「お屋形さまは、まさか、肥後守をお許しになられると? しかし、肥後守は……」

「いやいや、許すではないぞ、五郎。奴めは恐らく、新介を(うと)んじる輩であろう。のう、兵庫」

「御意。その件につきましては、五郎にも先刻、聞かせ申した」

 叔父は意味ありげな視線を流した。興明は「ははっ」と、素早く腰を折った。

「左様か。となれば、話は早い。つまりだ、五郎。肥後守には、朋輩が大勢おるのだ」

「大護院さま」と、思わず、口を()いた。

「左様。認めたくはないが、新介を亡き者にして、大護院を次代の屋形に担ぎ上げんとする、よからぬ謀が我が家中にある。肥後守は、それに深く携わっておったわけだ。しかしな、五郎よ。いくら、内藤の勢力(ちから)が大きいというても、単独で企んだと考えるには、さすがに無理がある。大なり小なり、数多(あまた)の御家人や国衆が、数多の理由で肥後守に寄騎(よりき)しておろう」

 お屋形さまは噛んで含めるように、丁寧に説いてくださる。そこまで、知っておられたのか。

「そういう輩がわんさかおるのに、突き止められんうちに内藤だけを処罰するは、もったいないぞ。強情な肥後守は、そうそう口を割らん。一人の朋輩もわからぬまま、奴を成敗すれば、此度(こたび)の謀に携わった余所(よそ)の連中を、余計に用心させる。儂は、他の不届き者たちをも炙り出したい。さもなくば、いつか必ず、また起きる。他を油断させるためには、肥後守を盛大に褒めちぎってやらんとな」

 お屋形さまのお考えは、理解できる。だが、気持ちは()いていかない。興明はがっくりと項垂れた。

 内藤は、厳罰に処せられるのではないのか。打ち首にはならずとも、せめて、腹でも()(さば)いてくれるなら、これで父の仇を討てたと、少しは溜飲(りゅういん)を下げられたろう。

 この十年を思い返せば、弘矩の死の報せに、また、どこかで泣きたくなったかもしれない。だが、決して振り返るまいと、誓った。武士の子として、耐えてみせる。

 それが、何という逆転か。他にもいるはずの一味を捕らえる目論見とはいえ、内藤はお咎めなし。それどころか、お褒めにまで(あずか)るだと? 興明は別の意味で泣きたくなった。

 不意に、舌の先に塩気を感じた。生温(なまぬる)くて、血の臭いも漂う。噛んでいた唇が切れていた。

「口惜しいか、五郎。ならば、少しばかり、無駄話につき合え」

 お屋形さまは興明を宥めるように、掠れた声で呟かれた。

「我主は、大内武治(たけはる)の名を知っておるか。武を以て治めると書く、嫌な名だ。初めは次郎と、後には弾正少弼(だんじょうしょうひつ)と称した。家中の名乗りではないぞ。帝より賜った、歴とした官途である。公家衆にはもちろん、公方さまにまで二千疋も献じた。もちろん、口利きへの礼物よ」

「弾正少弼さま……でございますか。いいえ、生憎(あいにく)と存じませぬ」

 興明は正直に首を横に振った。まるで覚えのない名前だ。度忘れしたかと、記憶の底まで(さら)ってみたものの、誰にも思い至らない。

「奴は、そなたの父御(ててご)が内乱において戦うた、儂の伯父の朋輩だぞ」

 ちっとも知らなかった。若き父の武功話は、幼い頃より何度も叔父にせがんだものだが、武治の名は、初めて聞く。大内家の主立(おもだ)った方々の名であれば、一通りは(そら)んじられるよう、叔父から、みっちり仕込まれてきたはずなのに。

「それも存じませなんだ。不勉強で、誠に申し訳ありませぬ」

琳聖太子(りんしょうたいし)より儂に至るまでの大内家歴代の名を、そなたは全て(そら)で言えると、儂は新介から聞いておる。その陶五郎にして、武治の名は知らぬと申すか」

「……申し訳ございませぬ。恥じ入るばかりでございます」

 興明は震える声で頭を下げた。

 全く以て、失態だ。昨夜の最大の功労者と賜った、先刻のもったいないお言葉が、あっという間に無に帰する。ぴんと伸ばしたはずの背筋は、今や無残に(しお)れきっていた。

「そうか、知らぬか。いや、それでよいのだ。それでよい」

 お屋形さまは、たいそう満足げに頷きながら、ゆったりと微笑まれた。

「その名を口にするは、内乱の平定より、この方、家中の者には幾重(いくえ)にも禁じておる。我主の叔父は、儂の掟を厳重に守っておるようだな。のう、兵庫」

「仰せのとおりにござりまする。五郎は、その名を知りませぬ。いや、もう全く、一文字も」

 答えながら、叔父は神妙に頷いた。態度に比べて口調は軽く、拍子抜けするほど朗らかだ。

「全く以て、それでよい。完膚(かんぷ)なきまでの忘却が、彼奴に対する最大の譴責(けんせき)である。儂は死ぬまで、この信条を曲げぬ。むろん、新介にも引き継がせる」

 叔父の声音とは正反対に、お屋形さまのお声は静かで深い。遠くを見つめる静謐(せいひつ)な眼差しには、言葉では語り尽くせぬほどの、並々ならぬ決意が感じられる。叔父は口調を改めた。

「忘れさせるおつもりで、お屋形さまが、家中の全ての記録より抹消された御仁にござる。あの頃にはまだ、生まれてさえおらなんだ者どもに、わざわざ教えてやるほど、地蔵は暇ではござらぬ」

 そういうわけか。名を知らされずにいた理由が、興明にも、ようやく腑に落ちた。

「のう、五郎よ。儂には、あの内乱の平定の後、領地の分配と同じくらい、精魂を傾けたものがある。それが何か、わかるか」

 ご下問は、あまりにも漠然としていて、全く見当がつかない。興明は再度、首を捻った。

「はは、我が家の系譜作りよ。我主も一度くらいは、目にした覚えがあろう」

「もしや、『大内多々良氏譜牒(ふちょう)』にございますか。保寿寺(ほうじゅじ)惟参周省(いさんしゅうしょう)さまに作成を命じられたという」

 それなら、まさに、叔父から与えられた系譜だ。何日も『譜牒』の写しと睨めっこで、連綿と続く大内家当主の名を、ずらりと暗記させられた。

「それよ。戦の後は、()すべき責務が山ほどあった。したが、あの系譜は別格だ。誠に、意味も意義もある作業であった。辻褄を合わせるために、わざわざ朝鮮まで遣いを送って、国史まで求めたぞ」

 お屋形さまは、一つ一つの過去を思い出そうとするかのように、どこか遠くへ目を向けられた。

 眉間に薄く皺が寄る。意味も意義もあったにしても、決して心の浮き立つ記憶ばかりではなかったようだ。お声にまで皺が寄った。

「儂がまだ、亀童丸と称しておった頃の話だがな、儂の父(大内教弘)は、室町どの(足利義政)の勘気(かんき)に触れて、何年もの間、家督を剥奪されておった。酷い話であろうが。儂もまた、公方さまより追討された覚えがある。興居島(ごごしま)の陣で亡うなった父の遺志を継いで、伊予の河野(こうの)に与したときにな」

「父上は、よう、ぼやいておったな。あれは、今から考えても、苦艱(くかん)の一言だったわいと」

 新介さまの入れた茶々に、お屋形さまは大いに唇を歪められた。お声に渋みが増した。

「儂の父も、儂もだが、家督を継ぐに当たっては、順風満帆とはいかなかった。まず、道頓(どうとん)伯父がおった。嘉吉(かきつ)の昔に父と家督を争うた道頓伯父は、破れて出家したものの、尾羽うち枯らしておったわけではない。それからも、家臣たちから「大殿」と呼ばれて、堂々と君臨した。父と儂にとって、道頓伯父は、いつ牙を剥くかわからぬ、息を潜めた狼そのものであった」

「実際、狼は牙を剥いたんだよな。大乱の頃には、家督は親父どのではなく、伯父御のほうへと移っておったからな」

 新介さまは忌々しげに、足打ち折敷(おしき)に目を落とされた。お屋形さまのお顔も曇った。

「左様。将軍家が叔父を当主に認められたのだ。父と儂の立場は、公方さまのせいで弱くなった。ゆえに、儂は西軍に寄騎(よりき)した。だが、尾張守のおかげで内乱には大きく勝利し、大乱の終結に及んでは、負けたとはいえ、守護職も安堵された。儂はようやく、他の親族に(ぬき)んでた。と同時に、更に抽んでる方法を、あれこれと考えた」

 どこを見つめておられるのか判断しがたい瞳が、一瞬、怪しく光った。

「儂は朝廷に働き掛けて、亡き父への贈従三位(ぞうじゅさんみ)を果たした。我が家の菩提寺たる氷上の寺を、勅願寺(ちょくがんじ)にも定めていただいた。自分で言うのも何だがな、贈従三位など、過去に例のない偉業だぞ。もちろん、武家としては、との但し書きはつくが。のう、兵庫。そうであろうが」

「まさしく、偉業としか申せませぬ」と、叔父は重々しく頷く。

「成し遂げることができた理由(わけ)は、お屋形さまが疑いなく、大内家の惣領にあられるからこそ。いや、逆もまた真なり――と申し上げたほうが、よろしゅうござるか」

「はは、兵庫はさすがに、儂がどう話を持っていきたいか、わかっておるな。左様。儂は、儂が惣領であると証明せんがために、あちこちへ働き掛けた。わかるか、五郎? 従三位も勅願寺も、(もと)(ただ)せば、結果ではない。手段だ。儂は、一つ一つの偉業を成し遂げることによって、周囲に儂を惣領と認めさせた。認めさせてしまえば、手段は自ずと結果に見えるようになる。系譜もまた、それに同じ」

 つまり、(くだん)の系譜は、単にお血筋を整理するために纏められたわけではない。惣領と認められたからこそ、輝かしく実った果実でもない。亡きお父上の贈従三位が、巡り巡って、お屋形さまのお立場を揺るぎない高みまで引き上げたように、ある目的のために生み出され、目的を果たした後は、逆に果実と見せて、お屋形さまを輝かすべき、重大な役割を担っていた。

()し方より行く末まで、この儂に至る累代、この儂の血を引く子らが、大内家唯一の嫡流である。それを(あか)すべく、儂は心血を注いだ。たとえ一時(いっとき)とはいえ、室町どのに家督を認めさせた、あの胸糞悪い伯父の奴めを、下卑た簒奪者として周知徹底させられるようにな。真に清々しい譜牒に仕立ててやったわい。伯父は、とっとと葬ってやった。武治など、最初からおらぬ」

 興明は呆気に取られた。

「あの……道頓さまは、文明四年(一四七二)に果てられたのでは?」

 お屋形さまのために、父が身命を()して交戦した敵将だ。自刃したとされる年の記憶に、一つも間違いはない。お屋形さまは黙ったまま、一度だけ左右に首を振られた。

「もっと生きておったわい。したが、譜牒は、大内家の公の記録である。儂は記録の中で、反乱の首謀者たる伯父を、潔く自刃させてやった。あとは、どこで何をしていようと、生ける屍と変わらぬ」

 驚倒(きょうとう)の事実だ。お屋形さまご自身が打ち明けてくださらねば、金輪際、信じなかったろう。

「では、その弾正少弼さまに至っては、お名前さえ、載せておられぬと」

「そうとも」と興明を睨まれる目に、暗い光が宿った。

「彼奴は嘗て、儂に次ぐ立場にあった。儂が幼かった頃は、大内勢の総大将として、合戦にも赴いた。一郡にも匹敵する広大な所領の知行を、あやつに任せた時期もある。それでも……いや、それゆえにこそ、儂に背いた彼奴の名が、儂の()えある系譜に残るは、どうにも勘弁ならなかった」

 栄えある系譜――そうだった。譜牒は、帝(御土御門天皇)の天覧にまで及んだ。

「儂がなぜ、あれを帝のお目に掛けようとしたか、わかるか? 単に栄誉を求めたわけではないぞ」

 渋いお声が(とい)を投げる。我ながら、すんなりと行きついた答に、興明は息を呑んだ。

 どれほどの嘘八百が記されていようと、帝の御目(おんめ)に触れた記録は、真実(まこと)と認められねばならない。逆にいえば、帝の御目に触れることによって、嘘は真実に転ずる。

 お屋形さまは、譜牒に仇の名が登載されるを、決して許されなかった。

「儂は徹底して、彼奴の存在を、抹殺してやった。もはや誰一人、彼奴を思い出さぬ。若い連中に至っては、我主のような勤勉な者さえ、彼奴の名を知らぬ。どうだ、もはや亡霊に等しかろう。はははは、目論んだとおりになった。憎き弾正少弼め。今頃は、どこで、どうしておるのだろうな。永久に、誰からも忘れ去られるとも知らずに」

 よく通る乾いた笑いは、二十年越しの痛哭(つうこく)に聞こえた。剥き出しの憎悪からは、紛れもなく、何倍もの哀切が滲み出ている。きっと、武治という人物を、心の底から信じた日々があられたのだ。

 弘矩の正体を知ったときの、深い痛みが蘇る。お屋形さまが痛ましくて、興明は目を伏せた。

「のう、五郎。儂は大護院に、武治の奴めと同じ(てつ)を踏ませたくないのだ。新介が大護院の名を系譜より弾き出すなど、断固あってはならぬ」

 胸に響く、悲しげなお声だった。興明は何とも答えられず、ただ謹んで拝聴した。

「儂の目から見たら、幸い大護院には、まだ――というのか、もう――というのか、家督を欲しがる気配はない。興隆寺の別当として、若いながらも、なかなか堂々と務めておる。肥後守らに(そそのか)されて、(よこしま)な願いさえ抱かなければ、大護院は新介のために、大内家の安泰と我らが治世の永続を、終生、祈ってくれるだろう」

 お屋形さまの望まれる未来。それは、いずれ新介さまが名君と称えられ、尊光さまが氷上の名僧と(うた)われる、兄弟の(いさか)いのない、静謐な世なのだろう。

 もしや、武治という人物は、お屋形さまにとって、異腹の兄君にあたるのだろうか。

 お屋形さまがお生まれになった頃、先代さまは二十七歳であられた。新介さまと同様に、庶兄がおられても、不思議はない。兄弟間の争いに敏感であられるは、当然かもしれない。

「大内家では代替わりのたびに、陰惨な家督争いが繰り広げられてきた。澄泉寺(ちょうせんじ)大内持世(もちよ))、国清寺(こくしょうじ)大内盛見(もりはる))、香積寺(こうしゃくじ)(大内義弘)のご先祖たち……皆が皆、兄弟で殺し合うた。儂は新介にも、大護院にも、そんな思いはさせたくない。それは大内家のためでもあり、()いては領国の安寧のためでもある。だからこそ、身を切る思いで、長男の大護院を出家させた」

 お屋形さまは、本当にどこかに刃を突き立てられたように、お顔を(しか)めて前に屈まれた。

「大内家の当主の座は、兄弟の何番目であろうと、亀童丸の幼名を持つ、正室腹の長子が継ぐ。この鉄則を万人に伝えるために、側室を母に持つ大護院には、早くに世を捨てさせる必要があった。のう、兵庫。儂は間違うておらぬはずだ。我主ならば、わかってくれるな?」

 悲しげなご下問に、叔父は「御意」と、頭を下げた。お屋形さまは再び、興明に目を向けられた。

「新介と同い年のそなたに、親の気持ちをわかれというても、まだ難しいやもしれぬ。だが、これは新介のためなのだ。そなたが忠誠を誓うた新介に、(つつが)なく大内家を継がせるためにも、儂は肥後守を餌にして、大護院を担がんとする不届き者を釣り上げたい。だから、肥後守の誅伐は諦めてくれ」

 お屋形さまに、ここまで慇懃に()われては、これ以上、ぐだぐだ零すわけにもいかない。

「畏まって候」と、興明は諦めて平伏した。お屋形さまは一拍置いて、静かに安堵の息を()かれた。

「やれ、引き下がってくれて、助かったわい。ついては、陶五郎よ。探索の役目は、そなたが担え」

 何と仰せだ。謀叛人を探索する大役を、こんな若輩者に? 興明は、がばっと身を起こした。

 上手くできるか、自信はない。しかし、己の手で、気が済むまで探れるならば、弘矩の朋輩ばかりか、更なる悪事や確たる証拠まで、いつかは白日の下に曝せるだろう。

 (ねんご)ろなご配慮に、ひたすら頭が下がった。

「至らぬ身ではございますが、お屋形さまのお役に立てるよう、微力を尽くしまする」

「うむ。この役目は、陶が務めるべきである。よく励み、三郎の汚名を返上せよ」

 下げた頭が、再び跳ね上がった。お屋形さまは今もなお、兄をお疑いか。お屋形さまは興明を宥めるように、両手を前に突き出された。


「いやいや、そうではない。三郎ではないと、昨夜も言うたであろう。若造には、できぬ。しかしな、一度は、内藤に抱き込まれたのだ。謀叛の一翼を担ったに等しい。我主が新たな当主として、陶の名誉を挽回せよ」

「ははっ…………え? ええっ? えええっ? 新たな、当主として?」

 ぽかんと、ひとりでに口が開いた。閉じようにも、なぜか、上手く動かない。お屋形さまは吹き出しながら()()ると、唇の端を引き上げられた。

「だから、陶の家督を継げと命じておるのだ。三郎の出奔は、昨夜の我主の働きに免じて許す」

 興明は慌てて隣に目を向けた。叔父は眉一つ動かさず、上機嫌に地蔵の笑みを湛えている。興明が訪れる前に、何を話していたかと思えば、よもや、兄の進退か。

「我主が不在を取り繕った件については、不問に処す。三郎は、天王寺であろうと、どこであろうと、好きな寺で出家させよ。裏切り者に取り込まれるような輩は、陶の(あるじ)に相応しゅうない。陶は我主が継げ。尾張守が周防守護代に任ぜられたは、我主ほどの年頃であったぞ。よいな、陶五郎」

「お聞き届けくださりまして、この兵庫頭、真に恐悦至極に存じまする」

 答に詰まった興明を後回しにして、叔父が会心の笑みを振り撒いた。

 話の進みが速すぎる。興明は「待ってくれ」と、小さく叔父の袖を引いた。

「でも、叔父上。兄者が帰ってきたら、どうするのだ。今日や明日ではないにしても、(おなご)のおらん場所にうんざりすれば、きっと、早々に戻ってくるぞ。そのときに、俺が家を継いでおったら……」

「関係あるか。我主はさっき、立派に覚悟を決めたじゃろうが。たった今、三郎が戻って来たとしても、もう遅いわい」

 もしや、叔父は最初から、そのつもりであったのか。降って湧いたともいえる幸運を前に、興明は頭から冷水を浴びた気がした。

「……そうはいうても、叔父上。俺は、兄者から家督を奪った、下卑(げび)簒奪者(さんだつしゃ)には、ならんのか」

 先刻のお屋形さまの言い回しをお借りして、興明は食い下がった。

 答える代わりに、叔父はしんみりと問い掛けた。

「お屋形さまは、大切なご長子を氷上の寺に入れられた。それは、何のためじゃ」

「それは……大内家のため、()いては、領国の安寧のため……」

「儂も、同じ決断をする。三郎を可愛く思わぬわけがない。したが、これは陶のためじゃ。儂は後見として判断した。自ら汚名を晴らしもせず、挨拶もなしに遁世(とんせい)する腰抜けを、陶は惣領に戴かぬ。我主が家督を継ぐは陶のためじゃ。それが、大内家のためにもなる。だから儂は三郎を寺に入れる」

 これ以上、返す言葉が見つからない。弱り果てて黙っていると、曇りのないお声が降ってきた。

「よく考えてみよ、五郎。陶の主は、謀叛人どもの探索を担うのだぞ。一度は肥後守の翼下(よくか)にあった三郎が、肥後守の周囲を嗅ぎ回れると思うか」

 有無を言わせぬ眼光が、鋭く興明を貫いた。

 興明が参上する前に、お屋形さまと叔父との間で、いったい何が話し合われたのか。知ったところで、たじろぐ猶予など、一刻も与えられてはいない。一人で兄を気遣う己が、本当の阿呆に見える。

「よかったな、五郎。余が背負う家よりは、ちいとばかり、ちびっこくて。ま、一緒に精進しようや」

 太平楽なお口振りで、少しだけ肩が軽くなった。この鷹揚な、生まれながらの殿さまを、我が腕で(しっか)と支え、盛り立てて差し上げたい。興明は丹田に力を籠めた。

「畏まってござる。若輩といえども、この陶五郎、陶家の新しき惣領として、お屋形さまと新介さまに更なる忠勤を励むべく、相務めまする」

「よくぞ申した。さすがは、尾張守の子よ」

 感慨深げな賞嘆に、ぐっと胸が詰まった。いつか、得たいと願った言葉だ。しかも、お屋形さまから頂戴するとは。亡き父が聞いたら、どれほど喜ぶだろう。

「尾張守は、実によい子を残してくれた。大いに期待しておるぞ、陶五郎」

 目頭が熱くなる。御礼(おんれい)を、と慌てたものの、何の言葉も出てこない。舞い上がってしまったか。

 代わりに、柔らかな笑顔が目に浮かんだ。家督を継げば、今すぐにでも迎えられる。天女の恩恵に、興明は心からの拝謝を捧げた。



 弘矩の報告に同席を命じられた叔父を残し、興明は下がるよう命じられた。()けつ(まろ)びつ、足は地に着かなかった。朗々とした笑い声が、柱にぶつけた頭に響く。叔父は頭を抱えた。

「これ、慌てるでない。今からお屋形さまに笑われて、何とする。我主(わぬし)、しゃんとせい、しゃんと」

「よいよい、兵庫。そろそろ風呂が焚き上がった頃合だ。よく汗を流せよ、五郎」

 何と小突き回されようと、気になるものか。これでもう、待たせなくて済む。娘はまた目を白黒させて、全身で喜んでくれるだろう。

 即刻、曹司へ駆け戻って、あの蕩けそうな笑顔に会いたい。会えば、当主の重圧だって、綺麗さっぱり、どこかへ吹き飛ぶ。興明は上の空で退出の挨拶を述べた。

 襖を閉めると同時に、「若」と、緊迫した呼び声が飛んだ。振り返れば、興明の部屋で待っているはずの新左衛門が、目を血走らせて控えていた。

「どうした、新左。そんなに、おっかない顔をして。おい、凄い話があるんだぞ。何と、俺が……」

「こっちには、もっと凄い話がござる! 娘御が……娘御が、連れ去られてござる!」

 一瞬、理解に苦しんだ。俺は、あの娘を迎えるんだぞ。なのに、あの娘が、どうしたって?

「熊が来て、いやがる娘御を担ぎ上げて……」

「……熊? 熊って、まさか、弥七か? 弥七が来て……おい! どうしたって?」

 頭が回転し始めた。つまり、興明が留守の間に弥七が現れて、あの娘を連れ去ったのか。

「あの野郎、よくも! まだ、夜が明けたばかりだぞ!」

 叫ぶと同時に床を蹴った。もはや、自室に用はない。内藤の陣を目指す。

 ひた走る背後で、新左衛門が大声を上げる。

「若が出ていかれてから、すぐでござった! いやがる娘御を、肩に引っ担いで!」

 様子が、ありありと目に浮かんだ。嫌だと泣き叫ぶ娘を、弥七はのっそりと担ぎ上げて、悠然と立ち去ったに違いない。幸丸があたふたと、縋るように追い掛ける。

「申し訳ござらぬ! 拙者には、打つ手がなく」

 悲痛な謝罪を背中で聞いた。興明は憤りつつも、理解していた。

 娘も幸丸も、もともとは内藤の麾下(きか)にある。内藤の若殿たる弥七が、管轄下の足軽や猿楽衆を連れ戻したとて、糾弾される謂れはない。むしろ、非は興明にある。弘矩の狼藉を責めて、堂々と連れ出しはしたものの、同意を得ていたわけではない。内藤から見れば、目の前で攫われたに等しい。

 弥七を阻んで、娘の奪還を計ろうとすれば、陶は内藤に対して、なおも無法を重ねてしまう。(わきま)えていたからこそ、新左衛門は歯噛みしながら、弥七を見送った。

「承知しておる! 責めはせぬ!」

 だからといって、あの娘を、弥七のいいようにされて堪るか!

 娘は、誰の想い者でもないにせよ、弥七が手も出さずに見守ってきた、掌中の珠かもしれない。

 興明の出現で、急に我がものとしたくなったとしても、何の不思議がある。仮に立場が逆だったなら、興明とて、同じ決意に至ったろう。考えただけで、総毛立つ。新左衛門が必死の声で訴えた。

「五郎の戻りは待てぬ、早く行かねば間に合わぬと、笑いながら、勾引(かどわ)かしてござった!」

 早く行かねば、間に合わぬ? はて、あの娘を、どうするつもりだ。

 答を導く(いとま)もなく、興明は内藤の庫裡へ到着した。

 近くの木陰に、煮炊きをする幾人かの雑兵らしき姿が見えた。興明は渡廊から大声で呼ばわった。

「教えてくれ! そなたら、幸丸を見ておらぬか。それと、いも……いや、弟の、前髪立てもだ!」

 木陰から三人の足軽が姿を現した。三人は三人とも、同じように首を傾げた。

 無理もない。幸丸たちは昨夕、陣に到着したばかりだ。二十名もの新参者は、夕餉が済むなり一所(ひとところ)に集められて、早々に臥した。昨日の今日で、存在を覚えている者がいるとは、全く期待できない。

 しかも、幸丸は陶の陣で朝を迎えた。記憶に残るには、最も条件が悪い。古参の誰に尋ねたところで、返事は同じだろう。

 もはや、弥七から堂々と奪うしかないか。禁じ手かもしれないが。

 昨夜、弥七が顔を出した杉戸を、興明は再び、どかっと蹴った。恨み辛みを山ほど籠めた。

「弥七兄者、俺だ! 陶五郎だ、話がある!」

 部屋の中に、娘も一緒にいるのだろうか。まさか、無体を強いてはおるまいな。興明は我知らず、拳をきつく固めていた。

「あのう、若殿じゃったら、お出掛けでござる」

 先ほどの足軽たちが、恐る恐るの(てい)で興明を見上げていた。

 出掛けただと? あの娘を担いだまま? まさか、どこかへ隠すつもりではあるまいな。

「どこへ向かったか、知っておるか。急ぎの用があるのだが」

「堺へ行くちゅう話じゃったかな。のう、あの連中が、左様に言うちょったじゃろ」

 一人の足軽が、別の足軽に顔を向けた。

「ああ、あの、弥七さまが、ぞろぞろ従えておいでじゃった連中か。確かに、堺ちゅうたわい」

堺下(くんだ)りまで行きよるにせても、今日は、やけにお供が多かったな。いつもの倍はおったじゃろ」

「いや、半分以上は、お供じゃねえんじゃと。お供の顔ぶれは、いつもと同じじゃった」

「じゃったら、あいつらは何者じゃ。総勢二十もおるに、突然、現れて、また消えよって」

 総勢二十? 突然、現れて、また消えて?

「待て、それは真か! その二十名は本当に堺へ向かったのか!」

 興明は猛烈な剣幕で(まく)し立てた。

「へえ、足軽どもの一人が、左様に言うてござった」

「昨日、到着したばっかしちゅう話じゃったけえ、連中も忙しいことじゃわい」

「何しろ、船がどうこうちゅう話で、延々と走らされるちゅうてたし」

 船……? 船と申したか。しまった、やられた! 興明は思いきり舌打ちした。

 弘矩は別動隊を総勢、どこかへ移すつもりだ。それも、ご丁寧に、船にまで乗せて。何と手早く、事態に即応してくれる。

 興明とて、生き証人たちの存在を忘れていたわけではない。

「抜かりないな」と、褒めていただきはしたものの、あの娘と幸丸では、まだ不足だ。二人は目撃者ではあったが、殺戮の当事者ではなかった。

 ならば、過分なお褒めに与ったとおり、抜かりなく支度してみせよう。今は内藤を泳がせても、お屋形さまが望まれたときには、弘矩に従った十名に証言させられるよう、遺漏(いろう)なく差配しておく。

 幸運の後ろめたさを払拭すべく、お屋形さまが期待された状況を、事実に変えてみせたかった。

 だが、別動隊がそっくり消えたとあっては、証言どころではない。離れでの顛末を知る者は、ただの一人もいなくなった。そこへ持ってきて、あの娘までも奪われるとは、何と抜かったか。

「畜生、熊の野郎! これでも食らえ!」

 弥七に見立てて、興明は杉戸に渾身の蹴りを食らわせた。建具は凄まじい音を立てて、曹司の内へ倒れ込んだ。ぐわんと、まるで地の底から嘲るように、室内に轟音が渦巻いた。

 せめて、娘だけでも残してはおるまいか。気に入りならば、手放さない可能性もあるはずだ。

 甘い期待だと、己にまで腹が立つものの、愚かな望みを捨てきれない。興明は、縛り上げられた娘の姿を求めて、薄暗い室内へ踏み込んだ。

 誰もいない。書き物をしていたのか、文机(ふづくえ)が出してある。床の上には、文机から落ちたらしき、上質の白い紙が散乱していた。

 くしゃっと丸められた塊は、紙の裏まで利用した後の下書きか、さもなくば、書き損じだろう。興明は腰を屈めて、足元に転がる小さな塊を拾い上げた。

「これは連歌の句の習作。そっちは何だ。ふん、国許(くにもと)の年貢の勘定か」

 取り留めもない書き置きばかりだ。見方によっては怪しめようが、特別、策謀に結びつくとは思えない。無造作に打ち捨ててあるのだから、見られて困る内容であるものか。

「おや?」と、新左衛門が横から覗き込んだ。

「これは、得地の紙にござるか。若が富田(とんだ)より持参された」

「俺が兄者に渡したやつだ。昨日は、こんなに散らかっていなかった気がするな」

 つまり、兄は昨夜も、この部屋にあった。娘も先刻、連れ込まれたのだろうか。

「畜生、熊の野郎め。ろくな死に方はせんぞ」

 有りっ丈の呪いを込めて、興明は書き損じの塊を、ぐしゃぐしゃと踏み潰した。

 重く、鐘の音が聞こえた。晨朝(じんじょう)の鐘か。気づいた途端、我に返った。

 娘がここにいないなら、ぐずぐずしている余裕はない。今は、時との闘いだ。新左衛門が耳にした「間に合わぬ」の意味するところは、出航の刻限だろう。荒れ狂うのは、これまでだ。

「堺と申したな。新左、行くぞ!」

 数々の失態を覆すべく、興明は陶の陣へ取って返した。



 娘は必ず奪い返す。無法破りは覚悟のうえだ。誓いを新たに、風を切る。途中で、内藤の庫裡へ戻ろうとする弘矩に、ばったりと出会(でくわ)した。

 父の仇と判明した今、どんな面持ちで相対(あいたい)すればよいのだろう。弘矩は、「おわっ、五郎か!」と、華やいだ声を上げた。

「聞いたぞ、我主(わぬし)! 三郎が天王寺へ入って、我主が陶を引き継ぐそうだな」

 猩々(しょうじょう)の(おもて)を思わせる笑みが、皺一つない顔いっぱいに広がっていた。

 六歳の昔から慣れ親しんだ笑いだ。ああ、こういう表情(かお)をすればよいのか。今は腹立たしさを覚える笑みに、興明は静かに見入った。

 この顔に、どれだけ丸め込まれてきたのだろう。弘矩に向けるべき至誠など、もはや砂粒ほども残ってはいない。だが、この男の裏を掻くには、これからも笑い返していかねばならぬ。

 興明は、爽やかに――と(いそし)しんだ笑顔を、引き攣った頬に貼った。

「あれ、親父か。随分と早かったんだな。ご報告は終わったのか」

「いや、それがな、上賀茂のご実家に顔を見せに行っておられる今小路さまから、急ぎのお使いが来たそうでな。何のご用件かはわからんが、お屋形さまと新介さまは方丈へ戻られた。儂の話など、挨拶だけで切り上げだわい。ま、我主が叩き起こしてくれたおかげで、無事にお褒めには与ったがな」

 弘矩も、興明に倣ったように、やたら爽やかに歯を見せる。

「それにしても、我主、青天の霹靂(へきれき)だな。いや、悪い意味ではないぞ。ただ、今日からいきなり、陶の主とはな。そうなると、我主が内藤の婿となるか。ほほう、それはそれで、楽しみだわい」

 何という盲点か! 気づかされて、興明は、口から心ノ臓が飛び出しそうになった。

 確かに、弘矩が指摘するとおりだ。陶と内藤との間では、紛れもなく婚約が取り交わされている。

 一旦、婚約が成立すれば、それは、家と家との約束に他ならない。婚姻が整わないうちに、男が討死にでもすれば、次代の(あるじ)が当事者となり、先代の許嫁であった女を迎える。

 兄が出奔したからといって、陶と内藤の縁談は、ひとりでに立ち消えにはならない。幸丸の言うところの「姫さま」は、幸丸が思い違いをしたとおりに、興明の許嫁へと立場を変えた。

 娘と言い交した興明に、「姫さま」への関心など、もはや爪の先ほどもない。だが、当主となった(つい)でに、世間に広く認められた許嫁を得た事実は、歴然としていた。

「では、またな、我が婿どのよ。山口へ帰ったら、祝言だな」

 弘矩は柔らかな笑みを貼りつけたまま、素早く(きびす)を返した。興明は呆然と見送った。

 立ち尽くす興明の耳に、己を呼ぶ声が聞こえた。興明の部屋の杉戸から躰半分だけを乗り出して、叔父が大きく手招きしていた。興明は我に返るや、叔父の許へ駆け込んだ。

「どうした、五郎。曹司におらんから、今度こそ、我主まで消えたかと思うたわい」

 急ぎの用でもできたのか、口調が厳しい。娘を捜しに行っていたとは、さすがに言いにくい。

「いや~、いい風呂だったゆえ、つい長湯しておった」

「そうしたら、若に惚れた(おのこ)どもが、わんさか入って参りまして。逃げ回っておった次第でござる」

 新左衛門の加勢を得て、興明は態とらしく、はぐらかした。

「わかった、わかった。二人とも、早う戻って、出掛ける支度をせい。これより、新介さまのお供をいたす。陰陽師の勘解由小路(かでのこうじ)在重(あきしげ))どのに占うてもろうた今小路さまが、今から下鴨(しもがも)の社へ詣でるよう、勧められたそうじゃ。それで新介さまが、陶も供をいたせと、お声を掛けてくださってな。まあ、これも謂わば、陣触れじゃ。総勢、甲冑を身に着けて、堂々と行進いたせとの仰せだからな」

 下鴨なんぞへ、物見遊山に出掛けておる場合か。興明は叔父の用件を遮った。

「それどころではないぞ、叔父上、大変だ。たった今、肥後守の親父と話したんだが、あいつは俺を婿にする気満々だ。内藤が罰せられておったら、縁談も遠慮なく潰せたが、まだ話は生きておる」

「おお! そうであったな。いやはや、それを忘れておった。早急に、潰す手立てを考えねば」

 叔父は丸い目を更に見開いて、肩を怒らせた。興明は遥か堺のほうへと目を向けた。

 迎えるべき娘は他にいる。必ず奪い返してみせる。内藤との縁組みなんぞ、糞食らえだ。

「叔父上。新介さまのお供は、勘弁してくれ。俺は今から堺へ向かう」

「何を申すか、堺だと? 何のために。よい温泉でも見つかったのか」

 素っ惚けた(かえ)(ごと)には、苛立ちが滲んでいた。突然の陣触れのせいで、叔父も気が急いている。

「弥七が昨夜の足軽どもを従えて、堺へ向かっておるのだ。きっと、船で逃がすつもりだ。海に出られたら、手の施しようがない。その前に、一人でも取り戻す。今からなら、まだ間に合う」

 お屋形さまとの語らいは、半時ほどの間だった。弥七は騎馬であろうが、足軽たちは徒歩(かち)だ。走る速さは、馬のおよそ半分。今から駿馬を飛ばして追えば、半時余りで追いつくはず。

 五里ほど走れば、捕えられる。きっちりと勘定して、興明は心持ち落ち着いた。

「ふむ、堺から船に乗せるか。相変わらず、やってくれる」

 叔父は頭痛でも堪えるように、額に手を当てて考え込んだ。間に合うだろうとわかっていても、返事を待つ僅かの間が惜しい。興明は(きびす)を返した。

「では、叔父上、行って参る。手勢を五十ほど貸してくれ。新左、出掛ける支度をいたせ」

「いや、いかん。今は堺へ行っておる場合ではない。五郎よ、ここは諦めよ」

 丸い躰が大慌てで脇を追い抜き、興明の前に立ちはだかった。

「何でだよ!」

 飛び出した大声に、自分でも驚いた。叔父ならば、気持ちよく送り出してくれると思っていた。

「なぜだ、叔父上! 今から馬を飛ばせば、絶対に追いつける! 必ず何人かは連れて戻る!」

「ならん! 我主は今日より、陶の(あるじ)となった。今日のお声掛かりを、主としての初陣と心得よ」

 叔父は頑として譲らなかった。興明を諭す声に、並々ならぬ厳しさがある。

「昨日までの我主であれば、儂や三郎に後を任せて、どこへなりとも行けたじゃろう。まさに、今の弥七のようにな。したが、今日よりは、それは叶わぬ。分けても、今日ばかりは、新介さまのお側に()さねばならぬ。お屋形さまと新介さまの(めい)を奉る陶の新しき主として、我主が兵を率いるのじゃ」

 叔父の言い分は、もっともだ。理に(かな)い過ぎて、ぐうの音も出ない。それでも、興明は負けじと食い下がった。間に合わなければ、娘はどうなる!

「昨日の証人が、一人もいなくなるんだぞ!」

「それくらい、儂にだって、わかるわい。したが、もともとが内藤の兵じゃ。奪うより他に、返せと言える道理もない。無理に奪おうとすれば、内藤を疑うておると、わざわざ知らせてやるも同じ。八方塞がりじゃ。せっかく上手く連れ出せた二人を取り上げられたは、痛かったな」

「ならば、あの二人は……」

「諦めるより他にない」

 そんな馬鹿な! まだ、名前だって知らないのに。興明は何も言い返せないまま、叔父を睨んだ。

「五郎よ、我主の口惜しさは、わかる。したが、我主はもはや、若君ではない。この陶の殿さまじゃ。我主は、昨日までの我主よりも、格段に重き荷を背負うたのじゃ。お屋形さまと新介さまへの供奉(ぐぶ)を、何よりも優先せねば。足軽どもの件は忘れて、とにかく出立の支度をせい」

 唖然として、興明は叔父を見つめた。反駁(はんばく)が続かない状況を、不本意ながらも承諾したと、叔父は都合よく受け止めたようだ。大きな(てのひら)が、ぽん、ぽんと、慰撫するように頭を撫でた。

「そら、殿さま。気を取り直して、出陣じゃ。おっと、儂も悠長にはしておられん。また後でな」

 首肯したか、全く覚えていない。大きな手が、もう一度、興明の脳天をぐしゃっと掴んだ。

「我主は陶の誇りじゃ。陶の命運は、我主の肩に懸かっておるぞ」

 鼓吹(こすい)して、叔父は小走りに曹司を後にした。すぐに見えなくなった叔父の背中を、興明は瞬きも忘れて、なおも追った。

「……馬鹿な。俺が……行けないなんて……」

 出航までに追いつかなければ、娘はどこかへ連れ去られてしまう。遠ざかる娘の影が、叔父の向こうに(かそけ)く見えた気がした。



 総身の力が抜けた。興明は、がくりと床に膝を突いた。娘と抱き合っていた一角だ。ほんの半時ほど前まで、ここで二人の行く末を誓っていた。興明は床板を何度も強かに殴りつけた。

「畜生! 何でだよ……何でだよ!」

 なぜ、堺へと向かえない。どうして、伺候せねばならぬ。わかっているつもりでも、気持ちは理屈に追いつかない。握った拳に血が滲んだ。

 陶の(あるじ)になったおかげで、娘を迎えに行けないなら、惣領の座など、何が、ありがたいものか。

 まだ、名前だって訊いていない。一座の名も、住まう場所も、何一つ定かでない。離れ離れにさせられたら、どこを、どう探せばよいのか。

 ――兄者が出奔さえしなかったら、こんな結末には至らなかったのに。

 興明は恨めしく床の上を睨めつけた。少し先の床に、白い何かの塊が落ちていた。得地紙の束だ。

「……うん? まさか、兄者か」

 興明は駆け寄って、紙の束を拾い上げた。胸元を確かめたが、落としてはいない。やはり、兄に差し入れたものだ。つまり、兄は戻っている。瞬間、「しめた!」と閃いた。

「兄者は、どこだ。戻っておるのだろう? ふん縛ってでも、お屋形さまの許へ連れて行くぞ」

 直ちにお屋形さまに陳謝させて、兄が陶の惣領であると、改めて認めていただこう。家督さえ兄に返せば、すぐにでも堺へ向かえる。

「どこだ、兄者」と、興明は隣室の襖を開けた。新左衛門が怪訝そうに首を捻った。

「若と来たら、何を不可解な寝言を。三郎さまでしたら、戻られておらぬ」

「そんなはずはない。お前だって、これに見覚えがあるだろう。この紙は、俺が兄者に渡したものだ。兄者以外に誰が落とす」

「それは、そうでござろうが、お戻りでないものは、お戻りでない、としか」

 納得できぬと言いたげに、新左衛門は傾げた頭をぽりぽりと掻いた。

「ものだけを見れば、三郎さまが落とされたように見えまする。しかし、場所から考えれば、熊が落としたものにござろう。娘御に蹴っ飛ばされた折りにでも、懐から抜け落ちたか」

 蹴っ……飛ばされた? 誰が? 誰に? 興明は目を(しばたた)かせながら、浮かんだとおりに訊いた。

「弥七どのが、あの娘御に。あの娘御の脚力は、なかなか大したものでござるな。あの、でかい熊の奴めを、あっさりと一撃で仰臥させてござった」

 理解の度合いを超えていた。興明は頷く代わりに、「脚力?」と訊き返した。

「左様、脚力。娘御の上に屈み込んだ熊の向こうっ(つら)に、『やだーっ』と、鮮やかに大蹴りを食らわせてござった。いやはや、あの蹴りは、若の跳び蹴りの向こうを張れますぞ」

 子鹿に後ろ足で蹴り上げられて、ぶっ倒れていく巨大な熊が、鮮やかに脳裏に浮かんだ。興明は、まじまじと乳兄弟の顔を見つめた。

 新左衛門は根っから調子のよい、無類の(おど)け者だ。意味ありげな含み笑いで、斜に構える態度も多い。戯言(ざれごと)など茶飯事(さはんじ)だった。娘を諦めざるを得ない興明を、こうして慰めようとしているのだろう。

「お前な、何も、そこまで戯けてくれなくても、いいんだぞ。確かに、小気味よい話だが」

「いやいや、嘘ではござらぬ。脚力どころか、腕力だって、なかなかで。あの娘御は、蹴り倒した熊に(またが)って、何発か、びんたを往復させてござった。もっとも、『やだ、死んじゃったの? うそ、起きて』とか何とか、狼狽(うろた)えながらでは、ござったが」

「そのまま、殺してくれればよかったのにな」と、興明は半ば本気の戯言(ざれごと)で返した。

 弥七を蹴ったうえに張り倒したなど、毛ほども信じられるか。そんな狼藉を働いて、弥七を怒らせでもしたら、(おなご)の操どころか、命だって危ない。

「拙者も、熊が起きたら何をされるかと、はらはらしてござった。何しろ、頼みの綱の幸丸たるや、倒れた熊の下敷きになって、目を回してござったし。熊の供をしてきた足軽めも、無様に、おろおろするばかりで。しかし、若。目を覚ました熊は、娘御をどうしたと思われる」

 急に不安が押し寄せた。新左衛門の話が真実(まこと)なら、娘が拳で殴られても、理不尽とはいえない。

「いや、左様な心配はござらぬ。熊は、覗き込んでいる娘御に、ずいと顔を近づけて、『こらっ』と苦々しく一言。あとは、娘御の(でこ)を指先で、ぴんと一回、弾いただけで」

 いきなり、信じる気分になった。興明も昔、同じようにされた覚えがある。

 弥七を揶揄(からか)おうと、五郎はしょっちゅう、他愛もない悪戯を仕掛けた。

「こらっ」と、笑いながら叱られた後は、必ず額を中指で、ぴんと軽く弾かれたものだ。

 ごつい指先に小突かれても、大して痛みは覚えなかった。柳を揺らす風ほどにも、力は籠もっていなかったろう。そういえば、常の弥七は、弱い者に優しかった。

「女子供や目下の者にも懇篤(こんとく)に」とは、幼少の頃より、弥七に叩き込まれた教えだ。

 叔父にも仕込まれたが、年若い弥七のほうが、口うるさいほど熱心だった。だからこそ、弥七を、目指す手本とした。

「三郎の奴めは、十年が経っても、いっかな身につかんなあ。血を分けた弟たちも、今一つ、もの足りぬ。まあ、持って生まれた性分もあろうが、やはり我主が、俺の一番弟子だ。心懸けが違うわい」

 都に来る前に、面と向かって褒められた。

「いやあ、そんな、まだまださ」と謙遜しながらも、誇らしくて、密かに浮かれた。

 欺瞞(ぎまん)に満ちた交わりでも、薫陶(くんとう)の中味だけは真っ当だった。もう、師はおらぬと、興明は左右に(かぶり)を振る。額に呼び覚まされた微かな痛みは、ぴん、と弾けて、(はかな)く消えた。

「……そうか。弥七は、殴らなかったか」

「殴るどころか、褒めてござった。ごめんなさいと、わんわん泣き出した娘御の頭を、首が()げるかと見えるくらい、こう、ぐるぐると」

「いや、それは、褒めたわけではない。あんなでも、可愛がっておるというか、何というか……」

 荒っぽい撫で回しは、弥七の素朴な愛情表現だ。興明にも馴染みが深い。

「むしろ、殴ったのは娘御のほうで。『たんこぶ、痛い』と、熊の団子っ鼻に強打を決めてござった」

「殴られて、鼻血だらだらでも、瘤はよく冷やせとか、弥七は言うたんだろうな」

「よくぞ、おわかりで」

 ふん。興明だって、きっと、そう言った。

 やはり、あの娘は、弥七の掌中の珠だ。弥七は間違いなく、娘を愛しく思っている。だから娘も、伸び伸びと振る舞えるくらい、弥七に心を許しているのか。

「実は拙者も、その頃には気を抜いてござった。熊は娘御に危害を加えぬと。しかし、若……」

 新左衛門は深刻そうに眉根を寄せた。

「そこから、熊は豹変したのでござる。若と言い交わしたことを、娘御が告げたところから。まず、娘御は、昨夜の件で訊きたいことがあると、尋ねてござった。熊は、もちろん、突っ撥ねて」

 ――それよりも、とにかく、俺の部屋へ来い。五郎に連れて行かれたゆえ、案じておったのだ。

 ――やだ、行かない。まだ、待ってるの。名前だって言ってないのに。

 弥七は苛立たしく娘の腕を引いた。娘は藻掻(もが)いて、抵抗を試みた。

 ――これ、駄々を()ねるでない。我主(わぬし)は俺に会いとうて、はるばる都へ来たのだろうが。

 ――来た理由はそうだけど……でも、今は違うの。

 ――この浮気者め。つい先達(せんだっ)てまで、俺の嫁になると泣いておったに。さては昨夜、何かあったな?

 ――それは、その、あの……若君が、私を迎えたい、って言ってくれたから……

 娘は頬を染めて告げた。見る間に、弥七の顔色が変わった。

 弥七は、従えてきた足軽に「縄!」と命じるや、必死に足掻(あが)く娘を後ろ手に縛り上げた。娘の蹴りは全て(かわ)して、最前までとは別人だった。弥七は娘を床に転がすと、手拭いで猿轡まで噛ませた。

 ――弥七さま、何をなされる! その娘御は……

 ――ふん、この娘御が、どうかしたか。陶に何の関わりがある。言うてみよ、新左衛門。

 新左衛門は返答に窮した。弥七は冷たく口の端を引き上げると、怯えて涙を浮かべた娘を、ぐいと床板に押しつけた。

 ――手を焼かせるな。いいか、よく聞け。陶の当主の三郎が、天王寺へ出奔した。この先、三郎がどうなるか、今は皆目、見当がつかぬ。五郎が陶を継ぐかどうかも、お屋形さまの判断次第。しかし、どう転ぼうと、内藤と陶の縁談は、変わらぬ。三郎が許されなければ、三郎の許嫁はそのまま、五郎の許嫁となる。ここまでは、わかるな?

 娘は何度も頷いた。弥七の顔から笑いが消えた。

 ――よし、ここからが肝心だ。陶五郎の許嫁は、何があろうと、我主ではない。俺や親父の無事を祈りながら、国許で(しと)やかに待っておる、俺の可愛い妹だ。我主は、五郎には断固やらぬ。下手に逃げようとでもしてみよ、幸丸を人買いに売り飛ばすからな。以上、肝に銘じておけ。

 娘は絶望に目を見張った。反対に、弥七の口元には柔和な笑みが戻った。

 がっくりと項垂れた娘は、猿轡の奥で(しゃく)り上げた。弥七は、ぼろぼろと涙を零す娘を愛おしそうに抱き起こすと、新左衛門の目も(はばか)らず、胸に抱いて髪を撫でた。

 ――機嫌を直せ。五郎さえ忘れれば、今までどおりだろうが。俺は我主が可愛い。大人しゅうしておれば、練絹(ねりぎぬ)の小袖でも、唐織(からおり)の打掛でも、何でも欲しいものを買うてや、るぞ。だが、言うとおりにできぬとあらば……わかるな? 少しは仕置きもせねばならん。さて、戻るとするか。

 娘は不自由な捕縛の身でありながら、なおも泣いて抗った。弥七は娘を軽々と担ぎ上げた。

 ――そもそも、五郎の戻りは待てぬ。早く行かねば、間に合わぬからな。

 退出の際、弥七は新左衛門に一瞥(いちべつ)もくれず、笑いながら去っていった。

「娘御は、担がれてからも懸命に、熊を蹴ってござった」

「あの野郎! 何が、女子供にも優しく――だ。俺がいない間に、あの娘を……! ふざけやがって、畜生めが! 今度、会ったら、叩き斬ってくれる!」

 興明は拳を床に打ちつけた。全身から(みなぎ)る怒りを、欠片(かけら)も残さず拳に籠めた。

 痛みなど、一片(ひとひら)も感じない。娘はもっと酷い目に遭っている。今もなお、がっちりと縛られたまま、弥七に抱えられて、泣いているかもしれない。

「守ってやると誓ったのに、俺は何もしてやれぬ」

 こうして嘆いている間にも、娘は弥七に担がれて、手の届かぬ遠くへ行ってしまう。

「若。お叱りを覚悟のうえで、堺に向かいまするか? この新左、もちろん、お供いたしますぞ」

 そうだ、今なら、まだ間に合う。一瞬、興明の心は揺れた。

 だが、堺に向かえば、家督相続ののっけから、叔父を失望させるだろう。兄に続いて出奔するかと、お屋形さまにも顔向けできぬ。娘を望めば望むほど、心は千々に思い乱れた。

「……父上」

 思わず、口の端から漏れた。

 父上なら、どう行動するだろう。思い悩めるとき、常に心で縋ったものは、若き父の勇姿だった。

 ――さすがは、尾張守の子よ。

 朗々としたお声が蘇り、耳の中に木霊(こだま)する。

 そうだ、父上。己が父の名を辱めるわけにはいかぬ。兄が陶の名に泥を塗った今、更に父を(おとし)める振舞いには、断じて及べぬ。

「駄目だ……俺は、行ってはならぬ」

 興明は己に命じた。口に出した途端に、脳天から爪先まで、びりっと鋭い激痛が走る。自ら下した判断に、躰は真っ二つに引き裂かれた。

「しかし、本当に、よろしいのでござるか」

「よいも悪いも、俺は行けぬ。陶の(あるじ)が、お屋形さまのお召しを突っ撥ねて、(おなご)一人を奪いに行くなど、父上が聞いたら、どれほど嘆くだろう。俺はやっぱり、堺に行ってはならぬのだ」

 語尾は掠れて、自分の耳にも届かなかった。興明は懐から細い麻紐を取り出した。

 娘と交わした約束の品だ。額突(ぬかづ)く代わりに額に擦りつけ、「すまぬ」と、幾度も娘に詫びる。瞼に浮かぶ泣き顔は、どれほど許しを乞うたところで、再び微笑んではくれなかった。

 これが、当主の覚悟なのか。亡き尾張守の跡取りとして、然るべき道を選んだ代償なのか。

 惣領ならば、思うがままに断を下せる。陶のための決断に、迷いはないと信じていた。

 なのに、懊悩(おうのう)の果てに下した結果が、これほどにも苦いとは。指に絡めた麻紐は、娘の艶やかな黒髪を偲ばせて、断じた決意とは裏腹に、いつまでも思い切りはつかなかった。

「待ってるね」

 鈴を鳴らす声が、甘く耳朶(じだ)を掠めた。そうだ、娘は待っている。諦めて堪るか。

 ――ああ、何年と掛かろうと、絶対に探し出す。だから、俺を待っていてくれ。

 麻紐に唇を押し当てて、柔らかな微笑みに追い縋る。許してくれと、数え切れないほど、胸の内で声を()らす。溢れそうになる涙を、興明は唇を噛んで、懸命に堪えた。

 遣り場を奪われた恋情は、いとも容易く、憎悪へと姿を変えた。不当に欺かれてきた宿怨(しゅくえん)が、憤怒と化して、怨嗟(えんさ)の炎に注がれる。偽りの慈しみに包まれた年月など、認めるさえも疎ましい。安らかで平穏な日々など、初めから、ありもしなかったのだ。

 懐かしい記憶から追い払ってしまえば、もはや弘矩も弥七も、年来の宿痾(しゅくあ)に過ぎなかった。

「俺から父上ばかりか、嫁までも奪いやがって。あいつらだけは、何があったって許すものか」

 釣り上げた連中ごと、お屋形さまに突き出してやる程度では収まらない。一生涯を懸けようとも、必ず血祭りに上げて、地獄へ叩き落としてくれる。

 興明は思いきり振り被ると、弥七の落としていった得地紙を、ありったけの力で床に叩きつけた。

 ばらばらと、白い紙片が足元に散らばった。つい先刻に踏み込んだ弥七の曹司が蘇る。

「ああ、そうか」と、興明は独り言ちた。やはり、弥七が落としたものだ。兄の所持する紙であっても、弥七以外に、あり得ない。

 弥七の曹司で広げ見た書き損じの得地紙。今、打ちつけた紙の束と、寸分たりとも違わない。

 連歌の習いも年貢の累算も、筆跡は、ただ一つ。兄の手跡と同じくらい、幼い頃から見慣れていた。

 小周防(こずおう)の他に熊毛(くまげ)の諸村、玖珂(くが)与田保(よだのほ)。記憶に残る徴税地の名は、一箇所残らず、周防における内藤の所領だ。豊西(とよにし)川棚(かわたな)美祢(みね)綾木(あやぎ)。馴染みの薄い土地の名は、恐らく守護代として勢力を伸ばした長門で新たに得た知行地だろう。

 新左衛門が指摘したとおり、この紙を落とした輩は、弥七と考えて間違いない。あの部屋には、兄の手による書き物など、一つも存在しなかった。

「ますます気に食わん。得地紙といえば、お屋形さまが公家への進物(しんもつ)として選んでくださるほどの、極上の特産だぞ。せっかく差し入れてやったのに、兄者はあの紙をそっくり弥七にくれてやったのか。まあ、兄者に渡したのは、俺のと同じ傷物だったけどな。しかし、それだって、献上するには憚られる程度の、割かし、まともなほうだぞ」

「熊の頼みとあらば、三郎さまは喜んで差し出されたでござろうな」

 まったくだ。兄の思考を辿ってみれば、弥七に譲った経緯など、いとも容易に推察できる。

「使わんのなら、少しくれ」と差し出された手の腹に、どさっと、まるごと載せたのだろう。

 だが、何か一つ、腑に落ちない。合点のいかない暗い陰りが、すっと胸を掠める。

 兄が持っていたはずの得地紙。明け方に届いた一枚の走り書き。一瞬の瞬きを数文字が(よぎ)った。

 ――天王寺に於いて、出家致したく候。

 意識の突端を目映い閃光が走る。興明は目を剥いた。

「なぜだ! なぜ弥七が、天王寺の件を知っておった?」

 別棟で内藤の父子(おやこ)に問われた際、興明は、「兄者が他人の馬を盗んで逃げた」と、叔父に告げられた事実しか語らなかった。あのときは、興明とて、兄が目指す行き先など知らなかった。

 弘矩は先刻、ご挨拶だけであったにせよ、お屋形さまへのお目通りが叶った。だから、兄の出家と興明の家督相続を、お屋形さまから聞いていた。しかし、弥七は?

「弥七は、お屋形さまにお会いしておらぬ。親父とは別行動で、あの娘を奪いに来た。なのに、兄者が天王寺へ出奔したと、はっきりと娘に言い放った。あり得んだろう。弥七はいつ、どこで、兄者が天王寺へ向かったと知った」

 内藤から逃げたのに、兄の動きが筒抜けとは。騙されている部分が、まだ、あるのだろうか。

 怪しいといえば、あの一筆とて、恐ろしく怪しい。得地紙が弥七の愛用とわかった以上、兄が(したた)めた書き置きは、不気味以外の何ものでもない。

「あれは、どういう行き掛かりで書かれたものだ。四郎丸さえ見捨てて逃げた兄者の文が、なぜ、あんなにも早く、陶の陣に届いた」

「あっ……ああっ! 拙者としたことが、何と間抜けな! 書置き! そうだ、それでござる!」

 耳を(つんざ)叫喚(きょうかん)が一連の思考を遮った。日向(ひなた)寝惚(ねぼ)ける猫の如くに細い目が、今や目玉を取り落とさんばかりに、瞼の限界まで見開かれていた。

「拙者、何という不覚! どこかで見た顔と思うたが……若よ。先刻、熊の供をして訪れた足軽。奴は、あの顔は……昨夜、三郎さまの書き置きを持って参った奴でござった!」

「何だって? それは、どういう意味だ。つまり、内藤の足軽が、兄者の書き置きを届けに来たのか」

 興明は新左衛門と互いに顔を見合わせた。暫く言葉は続かなかった。

 走り書きの手跡は、紛れもなく兄のものだった。内藤から逃れたはずの兄の書き置きを、なぜ、内藤の足軽が、陶まで届けたのか。

 厩番の話では、陶三郎は従者も従えずに、単身で遁走した。供の一人も持たぬ身で、使者を送れるわけがない。ならば、誰が、兄の使いに立ったのか。

「わけがわからんな。いや、よく考えてみれば、もう一点、わからん部分がある」

 興明は腕を組んで振り返った。

「走り書きを届けた者は、使者としては二人目だ。叔父上の許には、あの書き置きよりも先に、別の使いが訪れておる。兄者の行方を告げたは、そいつが最初だ」

 ――それが、ようわからん使いが来てな。三郎め、どこかの寺に入って、出家したいと言い出した。

「俺もお前も、叔父上さえも、兄者を身のほど知らずと笑うばかりで、使者など気にも留めなんだ」

「言われてみれば、仰せのとおりで。最初の使者は何者でござろう。そやつも、内藤では」

「とすると、兄者はその時点で内藤に捕らわれて、向こうの手に落ちておったのか」

 思えば、見苦しい走り書きだった。たった一行だけなのに、乱れたり、掠れたりと、至って(せわ)しなかった。だが、脅されて書かされたとすれば、すとんと納得がいく。

 内藤の何者かに恫喝(どうかつ)されたなら、走り書きは兄から直接、内藤の足軽に渡ったはずだ。

「ならば、いつの時点で、追っ手を差し向けたのでござろう。三郎さまが逃げた事実を内藤が知った頃合は、どんなに早くても、大内勢を討ち果たした後。それも、若から聞き出してからにござる」

「それもそうだな。それに、離れを片付けてから追ったなら、兄者は逃げきっておったろうし」

 兄の出奔は中夜(ちゅうや)の鐘の頃だった。興明の帰陣は後夜(ごや)の鐘とほぼ同時。興明が去った直後に追っ手を差し向けたとしても、兄の逃亡から優に二時は経っている。弥七とて追いつけまい。

「三郎さまが猟師か何者かに頼んだ使いを、内藤の者が奪ったとか?」

「考えられるな。ただし、昼間ならば。あれは深夜だった。使者に立てられるような者を、行き当たりばったりで見つけられるとは思えぬ」

「ならば、ずっと以前に書かれたものでござろうか」

(おなご)を三人も囲っておっても、許嫁の親兄弟からちやほやされる、前途洋々の陶の主だぞ。そなたが兄者なら、坊主になりたいか」

 二人で、いくら膝を突き合わせて語り合っても、使者の謎は解けなかった。

 いつの間にか、外が騒がしい。聞こえてくるざわめきが、謎解きの邪魔をする。

 馬の(いなな)きが幾つも聞こえた。打ち物を持ち出す乾いた響きは、昨夜の騒擾(そうじょう)を彷彿とさせた。

「……俺たちも、そろそろ支度をせねばな」

 今からでも馬を飛ばせば、まだ間に合う。興明は、振り向いては手繰り寄せたくなる迷いを、きつく目を瞑って振り払った。噛み締めた唇から、また血の臭いが立ち上る。

「うん? あれは、早馬か?」

 間違いない。駆けていく軽快な馬蹄の音。耳孔の奥で、何かが警告を告げる。杉戸を開け放つと、濛々(もうもう)と立つ土煙の中に、遠ざかる騎馬武者の背が見えた。

「砂埃の方向から見て、内藤の陣からでござるな。何の早打ちでござろう」

「俺の家督相続を知らせるためだ。あれは、弥七へ宛てた知らせだ」

 興明は土煙を目で追いながら、迷いなく答えた。

 陶家の当主交代は、極秘でも何でもない。弥七が堺より戻ってから告げても、問題はないだろう。

 しかし、弘矩は、わざわざ急使を立てた。まさに今、弥七に知らせる必要があるからだ。

「俺の去就が関係しておるとすれば、兄者の扱いしかないな」

 だとしたら、兄は今、その実、どこにいる? 天王寺は本当に兄の意志だろうか。

 また囚われたのかもしれない。いや、たとえ今は無事でも、一時後には、どう転ぶか。状況は少しの予断も許さない。

「誰かある! 火急の用だ!」興明は大声で呼ばわった。

 渡廊の下に控えていた足軽が、「ははっ」と、(うやうや)しく駆け寄った。

「早馬を出す。馬廻りの武者を()く呼んで参れ」

 足軽は「承知」と答えるや、瞬く間に走り去った。足軽の後ろ姿を、興明は妬ましく見据えた。

「俺が行ければいいのにな。当主なんて、不便なものだ」

「若の早馬は、天王寺へでござるか」

「ああ。弥七には接触できぬ。叔父上が言うたとおり、疑うておると知らせるも同じだ。寺を(あらた)めさせるしかない。兄者が何事もなく寺におってくれたら、此度(こたび)はそれだけで、よしとしよう」

「では、もしも三郎さまが、天王寺におられなければ?」

「戦も辞さぬ」

 父と嫁を奪われ、兄にまで手を出されて、それでも黙っていてやるほど、お人好しではない。

 陶を舐めるな。内藤に、目にものを見せてくれる。

「それでは、支度をして、参りまするか。今日が初陣とは、兵庫頭さまも、よう言われたもので」

 新左衛門が鎧櫃(よろいびつ)を運んできた。興明は粛々と具足を身に着ける。いつか、本当の初陣を飾るなら、斬り込みたい相手は、六角よりも内藤だ。

「真の戦でないとは、実に残念だな。今日は、いつになく、大暴れしたい気分だ」

「そのうち、機会もござろうて。その意気で、周防に陶五郎ありと、内外に知らせてやるのでござる」

 武勇はいつか、娘の耳にも入るだろうか。ならば、誘いに乗るとするか。功を立て、戦など、さっさと終わらせて、富田(とんだ)へ帰ってやる。

 平和な周防に戻ったら、陣触れなどに煩わされず、思う存分、娘の探索に乗り出そう。手塩に掛けた田圃(たんぼ)も畑も、興明の帰還を待っている。

 いつか必ず、あの娘に、己の育てた清白(すずしろ)を食わせてやろう。きっと、子供みたいに口一杯に頬張って、「おいひいね」と、満面の笑みを返してくれるだろう。

「その頃には、若はまさしく、あの娘御の尻に敷かれてござろうな。蹴っ飛ばされても、やり返せぬとあらば、覚悟を決める以外に道はござらぬ」

 新左衛門の言うとおりだ。軍配は、既に娘に上がっている。

「よい。叔父上の話では、父上だって、母上に頭が上がらなかったそうだぞ」

 かなりの駻馬(かんば)かもしれないが、あの笑顔を取り戻せるなら、終生、尻に敷かれてもいい。

 不意に、周防をよい国にしたいと、興明は強く願った。娘のためにも、富田を豊かにしたい。

 いつか、娘を迎えたとき、胸を張って見せてやりたい。ここが、そなたが俺と共に生きる地だ、と。

 いずれ娘が産むはずの子が、誇らしく受け継げる国にしてみせる。定めし、若き日の父も、同じ気概であったろう。

「俺は、あの娘を諦めぬ。何があろうと妻に迎える。内藤などに負けて堪るか」

 決意も新たに、興明は甲冑を身に纏った。

 鮮やかな萌黄の毛引威(けびきおどし)が、若葉の如く、夏の日差しに眩しく輝く。愛馬に(またが)れば、当主としての初陣を前に、士気は(いや)が上にも高揚する。

 僧坊の前庭には見渡す限り、取り取りの武具に身を包んだ武将たちが、所狭しと(くつわ)を並べる。足軽たちは、なお(ひし)めいて、陶の(あるじ)が率いるべき堂々たる軍勢だ。

 いずれは、守護代の任が下るだろう。必ずや、父の名に恥じぬ武将となって、周防一国を、誰もが羨む豊かな国にしてみせる。

「いざ、出陣!」

 (とき)の声で応じる猛者たちの遥か向こうには、懐かしい周防の蒼海と沃野が果てしなく開けている。

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