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第三章 謀叛人は誰そ

 第三章 謀叛人は()



 興明は方丈の別棟まで、力の限りに駆けた。すぐ後ろを新左衛門が追ってきた。

 辿り着いた別棟からは、今なお騒ぎが漏れ聞こえた。玄関では、まるで興明を歓迎するかの如くに、明々と篝火が焚かれている。興明は(かざ)してきた松明を篝火に放り投げた。

「松明はもう、要らんのでござるか」

「必要あるまい。あの用意周到なお屋形さまが、存分に熱意を注がれた計画だぞ。外がこれだけ明るいなら、中は間違いなく真っ昼間さ。またぞろ、どんな仕掛けがあるか。いや、見たくもないが」

 興明は刀の下緒を外すと、(たすき)に掛けて袖を留めた。

「襷掛けとは、お珍しい。久々に若の本気を見られるとは」

 同じく襷を掛ける新左衛門が、愉快そうに茶々を入れた。

「本気になって当然だ」と、興明は腹立たしく答えた。

「ひょっとしたら、熊とやり合うかもしれんのだぞ。しかも、真剣で」

 中では戦闘が繰り広げられている。それも、賊に対して趣の異なる、非常に奇妙な三つ巴の。

 斬り合うな、と叫んだところで、賊を斬りたい内藤勢には一言も通じまい。だとしたら、斬り掛かる者の前に立ちはだかり、躰を張って阻止しなくては。

「もしも、弥七に斬り掛かられたら――いや、弥七が対手(たいしゅ)とならんよう、本気で祈るしかないな」

 興明は弾んだ呼吸を調えながら、離れの入口に目を向けた。

 弥七の凄さは、よく知っている。当の弥七に(しご)かれて、剣を叩き込まれたからに他ならない。富田(とんだ)においては右に出る者がいない腕前でも、師匠と仰ぐ弥七からは、まだ数本しか奪えなかった。

 いざ、弥七に向かうとなれば、勝算は五分よりも低い。

「稽古用の木刀だって、打ち込まれたら傷だらけだぞ。それを、真剣で立ち合わねばならんとは」

 一分の隙でも命に関わる。興明は気を引き締め、目貫の具合を確かめた。新左衛門が首を捻る。

「それにしても、妙な話になってござるな。賊どもをいの一番に見つけた若が、賊どもを守らんがために、内藤の衆と闘う羽目になろうとは。さっきまで、若が率いておった連中でござるに」

「まったくだ。いったい、どこで狂ったんだろうな。いや、初めからといえば、初めからか」

 考えるほど阿呆らしいが、自らの尻拭いと諦めるしかない。興明こそ、お屋形さまの算段を狂わせた張本人だ。刀傷の一つや二つは覚悟せねばなるまい。

「幸丸を帰すんじゃなかったな」と、軽口で気を紛らわせた。

「こうなると知っておったら、まだ残しておいたのに。あいつの薬は、確かに効く」

「なあに、怪我の心配など、ご無用にござる。若の剣はこの上もなく、目の保養にござるゆえ。今からでも(うち)の連中を呼んできて、見せてやりとうござるな。見料(けんりょう)を取れば、大儲けでござろう」

 (あるじ)()(ごと)は、まるで無視して、新左衛門は目を輝かせる。

「知るか。そなたは俺の警固役だぞ。素振りだけでも、俺の身を案じたらどうだ」

「若に一太刀でも浴びせられる輩は、さまでおりませぬ。熊との相撲とて、果たして、あるかどうか。本当に、(うち)の連中にも見せてやりとうござる。いや、さすがに、それはまずいか。鼻血を噴き出す者が続出して、斬られてもおらんのに、その辺りが血の海になってしまう」

「わかった、わかった。お前も暑さで頭をやられたんだな」

 お調子者の護衛の態度は、いつもながらお気楽で、力みきった肩口をそれなりには割り(ほぐ)した。

「では、行くぞ! 無理をするなよ」

 興明は入口の板戸を弾いた。新左衛門が躍り込み、間髪を入れず、興明が続いた。

 飛び込んではみたものの、二間四方の片付いた土間は、期待したほど明るくなかった。灯りと呼べる代物は、ただの一つも置かれていない。

 上がり口から三間の向こうに、僅かに光の筋が見えた。(かまち)から漏れる光だろう。目立たないが、遣り戸がある。(まい)()()と目視できるまでに、呼吸五つを要した。

 打ち物のぶつかる甲高い物音が、不快に耳を(つんざ)く。獣のような咆哮(ほうこう)と凄まじい叫喚(きょうかん)が、絶え間なく交錯する。耳に届く全ての音が、舞良戸のあちら側を、向かうべき地獄だと明確に伝える。

 この先で、どんな斬り合いが行われているのか。我知らず、ごくりと喉が鳴った。

「目が慣れるまで、動くなよ。誰か隠れておるやもしれん」

 隣に並んだ新左衛門を、興明は小声で制した。と、舞良戸の側の暗がりで、微かに黒い影が動いた。

 血の臭い。人の気配。誰かが(うずくま)っている。

 興明は咄嗟に鯉口を切った。(つか)に手を掛けると同時に、向こうから押し殺した声が掛かった。

「もしや、陶の若さまでは? (それがし)でござる。幸丸で」

 真っ黒な塊は、むくりと膝立ちで躰を起こした。

「幸丸だと? 脅かすな。斬り掛かるところだったぞ」

 思わず、安堵の声が漏れた。躰の力が抜けると同時に、全身から冷や汗が噴き出した。

 周囲の闇に、次第に目が慣れてきた。視線を動かせば、思ったとおりだ。幸丸の傍らにもう一つ、小さな影が寄り添っている。興明は兄弟のほうへ足を進めて、すぐ近くから囁いた。

「お前たち、こんなところで何をしておる。ここは危ないぞ。どうして、内藤の陣へ戻らぬ」

「それが、その、一旦は戻ったんじゃけど、はあ、若さまの兄上さまが気懸かりで。あっちにおいでんのじゃったら、こっちにおいでると思うたけえ、様子を見に来ましたんじゃ。ほいたら……」

 声を詰まらせて、幸丸はへたり込んだ。目を泳がせるばかりで、上手く喋れない様子だ。興明は潜めた声で幸丸に迫った。

「おい、待て、幸丸。それで、うちの兄者は、ここに来ておるのか」

 馬泥棒などと、ふざけた与太に及んだ兄だ。刀も大して得意ではない。

 その兄が、このだだっ広い境内の中で、現時点では最も危険地帯といえる別棟において、追い詰められた賊を相手に刀を振り回していようとは。

「そうか、そうか。さすがは、陶の惣領だ。俺が考えておったよりも、遥かに勇猛だったのだな」

 興明は手放しで喜んだ。ところが、幸丸は、ぶるぶると首を横に振った。

「若さま、恐ろしいことが起こっちょる。とんでもなく恐ろしいことが……」

 興明を見上げる間抜け面は、痛々しく引き攣っていた。前髪立ての表情も明らかに強張(こわば)っている。二人とも、(なま)(ちろ)いを通り越して、蒼白に近い。

「わかっておる。だから、俺が来たのだ」

 興明は、腰が抜けたように()(つくば)う前髪立ての脇に、重々しく片膝を突いた。屈み込むと、泣き出しそうな視線とぶつかった。

「泣くなよ、小僧。俺が守ってやるから、安心いたせ。な?」

 落ち着かせようと、頭を撫でた。大きな瞳が、縋るように興明を見つめた。

「そなたは戦に向いておらぬな。一番槍を目指しておったし、なかなか腕も立つであろうに」

 なぜか、自然と笑みが(こぼ)れた。物騒な喧噪の真横にいながら、自分でも不思議だ。

 何が起きたか知らないが、怯える子供は労らなくては。興明は細い肩に腕を回した。と、華奢な躰は、ぐらりと傾き、興明の胸に横様に倒れ込んだ。

「おいおい、いったい、どうしたのだ。大した力も入れておらんのに」

 前髪立ては答えなかった。何か言おうとしているようだが、小刻みに戦慄(わなな)く唇からは、浅い吐息ばかりが漏れる。細い躰から、一向に止まらない震えが伝わってきた。

「随分と酷い怯えようだな。まあ、子供だから致し方ないか。よしよし、もう怖くないぞ」

 興明は努めて優しく抱き起した。幸丸が躙り寄って、縮こまった背中を擦った。

「可哀想に。夕刻に着いたばっかしじゃっちゅうに、だましに(いきなり)、こねえな騒ぎに巻き込まれて」

「何だって? 着いたばかりだと? 到着から一日も経っておらんのか」

 興明は慌てて口を挟んだ。幸丸は黙って頷いた。

「つまり、内藤では、新たに兵を動かしたのだな。ろくな戦も起きておらんのに」

 もっとも、頷ける話ではある。あまりに長い期間に亘って特定の誰かを拘束する戦では、その者たちの不満が高まる。大乱の折には入れ替えもあったとか。今回の戦でも同じように処するのだろう。

 しかし、誰かが国許へ帰るとは、どの奉行からも聞いていない。帰る者がいないなら、入れ替えではなく、増員だ。それも、内藤に限っての。

「内藤は、我らが考えてきたよりも多くの兵を養う余裕があるようでござるな」

 新左衛門が耳元で囁く。周防守護代の息子として、少しだけ、長門守護代への対抗心を意識した。

「それで、幸丸。親父は今回、幾人を動員したのだ」

「ざっと、二十じゃったかな。一緒に来た連中じゃったら」

「えっ、二十? たったの二十? 手間暇掛けて、二十だけ? 何でまた」

 あまりの少なさに、思いきり肩の力が抜けた。あの親父は、いったい何を考えているのか。

 それも、目の前の兄弟のように、全く戦闘向きでない手合いまで補充している。前髪立てさえ紛れ込むような間の抜けた人選で、この先、何の役に立つ。

「わからんな。後で弥七兄者にでも訊いてみるか。事と次第によっては、(うち)も考えるべきやもしれんし。さて、それでは、用事を片付けに参るとしよう。そなたらは()く帰れ。ここにおると危ないぞ」

 興明は前髪立ての頭を撫でて、軽く腰を浮かせた。

「だめ! 絶対に行っちゃだめ!」

 細い腕が腰に回った。前髪立てが必死の形相で、ぎゅうとしがみついてくる。立ち上がろうとした躰はぐらりと平衡を失い、興明は慌てて床に手を突いた。

 床――と咄嗟に認めたものは、しかし、床よりも柔らかかった。

 (てのひら)に当たる感触は、湿っぽい布地と、ぐにゃりとした生温かさ。人の躰ではないか!

 興明は手を()けて、薄闇に目を凝らした。直垂姿の大柄な男が、ぐったりと仰向きに倒れていた。

 ――死んでおるのか!

 息を呑んで、半間も退(すさ)った。触れた部位の感触が、やたら手に生々しい。

「な……るほど。そなたが怯えておった原因は、これか」

 何か大きな物体が転がっていると、興明も認めてはいた。だが、全く気配のない存在として、気にも留めなかった。骸の真横に座していたとは、さすがに薄ら寒い。深く息を吐いて、呼吸を整える。

「確かに、よい気分はせぬな。この侍に襲われたのか。それで、そなたが手に掛けたか」

 興明は前髪立ての頭を撫でた。

 図体の大きな男だ。襲われて揉み合っているうちに、斬ってしまったのかもしれない。初めて人を殺めたならば、さぞかし衝撃も大きいだろう。まだ経験はないものの、それくらいの想像はつく。

 人を抱きしめるような眼差しだった。凛々しく見えても、情は細やかに違いない。

「致し方なかったのだ。何もやり返さずにおれば、そなたが殺される」

「それが、若さま、違うんじゃ。別に襲われたわけじゃねえ」

 項垂(うなだ)れたままの前髪立ての代わりに、幸丸が悄然(しょうぜん)と答えた。

「何だ、違うのか。ならば、そなたらの見知った者か。ふむ、近隣に住まう者や、近い血縁にある者であれば、突然の(なが)の別れは、身を切られるほどに悲しかろうな」

「いや、それも違いますわい」と、幸丸は同じ調子で応じた。

「近所に、こねえなお侍は、おらん。縁者でもねえし、顔だって、一度も見た覚えはねえ」

「おいおい、それでは本当に、ただの見知らぬ骸か。何があったか、皆目わからんぞ」

 興明は大いに呆れた。斬り合いをしていると承知のうえで、自ら赴いた場所であろうが。そこで死体に蹴躓(けつまず)いたからといって、これほど怯えて、どうする。それとも、予期せぬ事態にでも陥ったのか。

「もっとわかりやすく話せ。まず、この男は、そなたらの敵か。それとも味方か。どっちだ」

「はてさて、どっちのお人じゃろう」と、虚ろな視線が宙を泳いだ。

「誰にとっての敵じゃろうか。誰にとっての味方じゃろうか。某には、はあ、とんとわからん」

「何だ、そりゃ。まるで禅問答だ。しっかりいたせ、幸丸。大事なところで頼りにならん兄では、弟が憐れだぞ」

 口を突いた言葉に、興明は自分を重ねた。それは今日の我が身だと、苦い思いが胸を掠めた。

「むむっ、確かに、若さまの仰せのとおりじゃ。ええい、しっかりせい、幸丸よ」

 幸丸は己の頬を平手で叩いた。弟を労る瞳に、幾らかの生気が蘇った。幸丸は一息で言い切った。

「曹司の中に、黒っぽい覆面の連中がおった。敵か味方かちゅうんじゃったら、そやつらが敵じゃ」

 ならば、この男は大内勢か内藤勢かの、いずれかだ。興明は死体の袖印を探した。

「大内菱だ。可哀想に、賊に()られたのだな。やはり、無事では済まなかったか。数に勝っておるというても、そもそもの作戦が、作戦だからな」

 お屋形さまのお顔を思い浮かべて、興明は深く息を吐いた。

 死に物狂いで向かい来る敵を生かしたままで捕える策は、命じる者が期待するほど、容易に()せる(わざ)ではない。相手を殺してよい場合よりも、遥かに厳しい危険が伴う。

 この男も、賊への一太刀を加減している間に、致命の一撃を食らったのだろう。興明は目を瞑ると、静かに男の冥福を祈った。

「それが、若さま、違うんじゃ」

 興明が目を開けるのを待って、幸丸がまた、大きく首を横に振った。

「そのお侍を殺したは、顔を隠しちょった連中じゃねえ。某のよう知ったご仁じゃった」

「何だって? それは、つまり……内藤の輩が大内勢を殺したと申すか!」

 興明は声を荒らげた。剣幕に驚いたのか、小さな肩が、びくっと竦んだ。

「おっと、脅かしてすまん、すまん。そなたを怖がらせるつもりはなかった」

 もう一度、縮こまった肩に手を添えた。線の細い肩だ。まだ小刻みに震えている。

「落ち着けよ」と、掌に力を籠めた。

「ところで、幸丸。今の話は真か。真ならば、聞き捨てならん。もう少し詳しゅう聞かせよ」

 興明は身を乗り出して迫った。青褪(あおざ)めた顔が、声もなく頷いた。



 離れに駆けつけた幸丸と前髪立ては、恐る恐る舞良戸を一寸ほど開けた。見つからないよう中を覗けば、広間には既に何人もの甲冑武者が、血塗(ちまみ)れの姿で転がっていたという。

「覆面どもにやられたんじゃと、(それがし)は疑わんかった。これっぽちの人数で、お屋形さまのご本陣に忍び込んだんじゃ。弱いはずがねえ。けど、それにしちゃあ、何かが狂うちょる気がした。敵が強えばっかしじゃねえ。お味方が弱すぎる。いや、違う。お味方の戦い方がおかしかったんじゃ」

 幸丸は、なおも討ち合いを凝視した。

「侍たちの足並みは、世辞にも揃っちゃおらんかった。我ら内藤の足軽衆は、曲者を殺すと息巻いちょった。けど、大内家のお侍にゃあ、殺気は微塵も感じられん。絶えず誰かが斬りつけちょったけど、殺そうたあしよらんかった」

 そこまでは、興明の想像したとおりだ。大内勢はのらりくらりと、しかし、数を頼りに粘り強く、賊の体力を削ぎ落とさんと順調に交戦していた。

「切っ掛けは、うちの殿さまと若殿さまじゃった」

 ――なぜ、御辺(ごへん)らは本気を出さん! なぜ、お屋形さまを狙うた輩と、海月(くらげ)の如くに戦うか!

 ――さては、賊を逃がす魂胆だったな? 我らがここへ参らねば、左様にしておったであろう!

 ――そなたら、賊の朋輩か! 者ども、懸かれ! こやつらは獅子身中の虫ぞ!!

「左様にがなり立てて、お二人は大内家の侍衆に斬り掛かったんじゃ」

 思い出したくもなさそうに、幸丸は唇を震わせた。何と短絡な。興明は怒鳴りそうになった。

 今日の親父は、やっぱり変だ。興明さえ気づいたのに、大内勢の戦い方を目にしても、お屋形さまの意図を見抜けなかったとは。暑さでおかしくなった手合いは、兄だけではなかったのか。

「あっという間に大乱闘じゃった」と、幸丸は声を震わせた

「内藤の衆は、大内衆と覆面衆とに斬り掛かった。大内勢は、攻撃しよる内藤の衆には容赦せん。けど、覆面の攻撃には、身を入れて返さん。覆面衆は、大内勢にも内藤の衆にも、死に物狂いで刃向こうてきよる。なして、こねえになりよったかと、某は驚くばっかしじゃった」

「大内勢の旗色は相当に悪かったろうな。覆面衆と内藤勢は、相手が見知った顔でなければ、誰を斬っても構わんが、大内勢はそうもいかん。殺していいのか悪いのか、咄嗟に判断せねばならん。一瞬といえども、遅れを取る」

「若さまの仰せのとおりじゃ。大内家の衆は、もとの数こそ多かったけど、ばっさばっさと倒されていきよった。一番に非道かったのは、このご仁じゃ」

 幸丸は、傍らに転がる死体に合掌した。

「一度は、誰かに斬られて倒れた。けど、あっちの舞良戸まで転がって、逃げようとしよった。もしかしたら、初めから逃げるつもりで、大して斬られてもおらんそに、倒れたのかもしれん。ほいで、まんまと廊下に出よった。某は、ようやったと安堵しちょった。けど……」

 幸丸は口籠もった。先刻の恐怖を思い出したようだ。唇を噛んで、思いきり眉根を寄せた。

「このお侍は、外へ出る戸口を探しちょったみたえじゃ。こっちに向かうて、よろよろと近寄って来よった。さすがに、顔を合わせるわけにはいかん。ほいで、二人でその辺に隠れた。ほいたら、いきなり、弥七さまが飛び出して来よった」

 幸丸は言い淀んで話を止めた。腕の中の小さな躰が、更に怯えて縮こまった。救いがないほど暗い憂いが二人の顔を覆っていた。

「あの穏やかな弥七さまが、鬼みたえな顔をしちょった。ほいで、だだっと走ってきよって、このお侍をぐっさり刺した。背中からじゃ」

「ええっ?」と、興明は仰け反った。この侍を殺した輩が、弥七だと? 幸丸は大きく頷いた。

「弥七さまが中に戻るまで、声を殺すだけで精一杯じゃった。悲鳴を上げよったら、某だって、殺されちょったかもしれん。とにかく、生きた心地がせんかった。そいから、暫く隠れちょった。その間に気がついた。もしかして、手当てしよったら、このお侍は助かるかもしれん。ほいで、慌てて二人で這い出して来たんじゃ。けど、間に合わんかった」

 幸丸は改めて、がっくりと肩を落とした。抱いていた細い肩が、大きく波を打った。

「血を止めようと、二人で頑張ったんじゃ。けど、お侍は、こねえにするばっかしで」

 幸丸は前髪立ての両手を取って、ぎゅうと握りしめた。弱々しく俯いた躰から、「ふええ」と、か細い啜り泣きが聞こえた。

「この男は死ぬ間際に、感謝の意を示しかったのだろう。そなたらの思いはきちんと伝わったはずだ」

「いや、それもあったかもしれんけど」と、幸丸は別の理由を臭わせた。

「何か、どねえしても伝えたい事柄があったみたえじゃ。お屋形さまに伝えてくれ。お侍は、何度もそねえに()いながら、血を吐いて死んでいきよった。伝えてくれちゅうてもなあ」

 幸丸は前髪立ての手を放して、静かに話を終えた。興明は何も言えなかった。

 前髪立ては泣き声を噛み殺して、両手で顔を覆っている。無念の思いを汲み取って、さぞかし胸を痛めているに違いない。

 もっと早くに来てやれば、酷な思いはさせなかった。興明は腕を回して、細い躰を丸ごと包んだ。

 小さな手がおずおずと背中に回った。きゅ、と直垂が引き攣れた。

 頼られれば悪い気はしない。力のある者が弱きを助くは、当然の(ことわり)だ。

 何が何でも守ってやる! 強く願った、そのときだった。

 ――来る?

「逃げろ、幸丸! こいつを連れて!」

 抱いた躰を、興明は幸丸の腕に投げ込んだ。



 床板を蹴り、ざっと後ろに飛び退(すさ)った。轟音と共に舞良戸が躍った。広間から光明が(ほとばし)る。突然、差した眩しさに、思わず顔を(しか)めた。

 黒い影が舞った。物思う間もなく刀を抜く。覆面か。殺すな、と己に念じた。

 右に蹴って賊の刀の死角に入った。脚を狙って、片手で薙ぐ。肉を(えぐ)る確かな手応え。覆面は一言も漏らさず、どっと暗がりに転がり込んだ。興明は透かさず後を追った。

 廊下を四間も伝っていくと、辺りは、すっかり暗くなった。舞良戸の入口から漏れる灯りも、この辺りまでは届かない。興明は暗い廊下を壁を伝って突き進んだ。

 間違いなく脚を斬った。賊は、一度は床に倒れた。今はもう、這ってしか動けまい。

 しかし、さすがは、太々(ふてぶて)しい。動かない片脚を庇いながら、どこかへ上手く隠れている。血の跡があれば追えるだろうが、この暗さでは、よく見えない。微かな不安が胸を(よぎ)った。

 幸丸は無事に逃れたろうか。気の優しい前髪立てが、怖いと泣いておらねばよいが。

 向こうで引き攣った悲鳴が上がった。外へ逃げなかったのか! 興明は壁に手を当てながら、闇に沈みそうな廊下を懸命に駆けた。

 突き当たりは左右に分かれた。右へ目を凝らせば、五間ほど先の壁際で、賊が半身を起こして、刀を高く構えている。そこから一間も離れていない床に、幸丸が前髪立てを抱えて座り込んでいた。

 幸丸は刀を抜かなかった。小さな躰を抱えたまま、潔く賊に背を向けた。身を盾とするつもりか。

 賊は片膝立ちのまま、一気に刃を振り下ろした。興明は息を止めて飛び掛かった。

 ただ、一閃。狙った部位を外すものか。鈍い衝撃が腕に響く。賊は「ぐおっ」と呻いて(うずくま)ると、即座に右の肘を押さえた。

 押さえたところで、肘より先の腕はない。断たれた肉から、黒い飛沫が飛び散っている。くぐもった呻きが闇に滲んだ。

「怪我はないか、二人とも!」

 興明は幸丸に駆け寄ると、ひょろひょろの肩を大きく揺すった。幸丸は微動だにせず、床に縮こまっている。もしや、間に合わなかったか。

 そのとき、きつく巻きついた腕を掻き分けて、小さな顔が上を覗いた。もう、涙の跡はない。前髪立ては嬉しそうに、そろそろと手を差し出した。

「間に合うたか、小僧! 幸丸も無事だな?」

 ()()ったりの一言に尽きる。興明は、震えながら伸ばされた腕を、ぐいと掴んで引き上げた。細い躰は弾みをつけて、すとんと胸に飛び込んだ。

「守ってやると言うたからな。だが、これほど焦った(ためし)はない。生まれて初めてやもしれん」

 抱き留めて一息を()けば、応えるように、きゅっ、と背中に手が回る。それで、幸丸は?

 幸丸は、かちんこちんに固まっていた。屈んで顔を覗き込めば、今もなお、尻に根っ子が生えた風情で、床にへたり込んでいる。興明は襟首を掴んで、「立て」と命じた。

「ええい、そなたも早う立て。断っておくが、どこも斬られておらんからな。間一髪ではあったが」

 幸丸は我に返って、「あわわ」と、その場に転がった。立ち上がろうとするものの、どうにも腰が決まらない。興明は腕を掴んで引っ張り上げた。

「腰を抜かしておる場合か。彼奴(あやつ)の他にも、逃げてくる賊がおるやもしれんのだぞ。さあ、立て。戦わんでもよいから、立て。立ち上がって、こいつと一緒に、早う逃げろ」

 興明は前髪立てを押しつけて、幸丸の背中を押した。いつまでも、二人にばかり関わってはいられない。今この状況で()すべきは、賊の捕縛だ。

 覆面は左右に揺れながら、力なく立ち上がった。傷ついた脚を引き摺って、逃げ道を探している。

「逃がすか、曲者!」

 駆け出そうとした瞬間、一陣の風が吹き抜けた。暗がりの中で淡く、銀の光芒を見た気がした。

 立ち止まった覆面の躰が、影絵のように傾いでいく。

「もう片方の脚を斬ったよ」と、鈴の音が鳴った。大した小僧だ。興明は素早く曲者に躍り懸かった。

 伏臥させて馬乗りになり、片手で後ろ首を掴む。右に向かせて押さえ込むや、仕上げに、どすっと刃を床に突き立てた。賊の首筋に白刃が添う。

「おのれ、話が違うぞ」と、いきなり覆面が口火を切った。

「ここまで来て、裏切りおって」

 裏切りおって? 興明は耳を疑った。この賊は、興明を身近な誰かと間違えている。

「おい、誰について申しておる! お前は、誰に頼まれた! さあ、申せ!」

 興明は覆面の首を捻じ上げた。目元が僅かに苦しげに歪んだ。

「ぐっ……これは、したり。罵る相手を間違うたか。ふん、恨み言を申すべきは、御辺(ごへん)にあらず」

「間違うただと? ますます聞き捨てならん。さあ、申せ! 正直に申せば、命までは奪わぬ!」

 賊は横目で興明を睨んだ。視線が熱く重なった。

「嘘は言わぬ。お屋形さまのお望みだ。俺が命乞いをしてやる。死にとうなくば、首魁(しゅかい)の名を申せ」

 ひと呼吸あって、すぐに賊は口を開いた。

「よかろう。死ぬ覚悟はいたしておるが、裏切られての犬死には本望にあらず。そやつの名は――」

 続きは全く聞こえなかった。きっちりと頭巾に(くる)まれた頭は、いきなり真っ黒に霧散した。

 何かが激しく壁を叩く。目の前が黒い霧に閉ざされる。いったい何が起きた。

 丸い頭巾が転がってきた。見覚えのある瞳が、横目で興明を睨んでいる。興明は声にならない悲鳴を上げて、首のない躰を()()けた。

 闇に飛び交う暗い飛沫(しぶき)が、(しずく)となって壁から(したた)る。(くび)から(ほとばし)る血は群がり、床に地獄の入口を見せる。禍々しさに瞬きも忘れた。

 刹那、興明は目の前に立つ何者かの気配に総毛立った。凄まじい殺気。何と油断したか。

 振り仰げば、弥七が悪鬼のような形相で、興明の前に立ちはだかっていた。



 考えろ。もう一度、よーく考えろ。誰が怪しかったのか、前に戻って考えてみろ。

 己に向かって熟慮を命じ、興明は意識の深みで反芻(はんすう)した。

 ――おのれ、話が違うぞ。

 あの第一声の持つ意味は、重い。賊は己の味方の姿を、(しか)と、この場に認めていた。だからこそ、あと一歩だったのにと、寝返りを糾弾した。

 いや、本当に、それだけか。味方が全滅しそうなときに、誰が失敗を惜しんでいられる。

 ――ここまで来て、裏切りおって。

 咄嗟に咎めた、あの言葉にこそ、真実が隠されている気がする。聞き覚えのある声が、不気味に頭の芯を揺らした。御辺(ごへん)は、我らを裏切るために、わざわざ、ここまで来たのだな――と。

 別棟に駆けつけたのは、誰だった? 興明を遠ざけたのは、誰だった? 内藤弘矩を疑えば、どこから、どう()()いても、ぴたりと全ての辻褄が合う。

 方丈の入口からして、やる気の見えない弘矩と弥七だった。二人の掛け合いが蘇った。

 ――こうなったからには、我らも覚悟を決めねばなるまいな。

 ――ううむ、致し方あるまい。大人しゅう、五郎めに()いて行くしかないわい。

 あの場で決めた覚悟とは、何に対してだったのか。更にもう一つ、思い当たる節はあった。

 方丈の各部屋に、奉行衆や小姓どもが一人もいないと目にしたときの、あの奇妙なまでの慌てぶり。賊に気脈を通じていたなら、理由は容易に説明がつく。

 あのとき興明は、ご寝所とは全く関係のない、別の場所での戦闘に気がついた。弘矩も事態の急転を認めて、遂に観念したのだろう。だから、二手に分かれる決意をした。目的は、恐らく二つ。

 一つには、もはや障害にしかならない賊を切り捨てる――文字どおり、斬って捨てるために。

 もう一つには、これから行う戦闘の、否、殺戮の真実を、誰にも悟らせないために。大内衆を消す思惑(おもわく)は、興明をご寝所へと追い払った時点で、既に弘矩の腹にあったろう。

 弘矩は何が何でも、曲者たちを討ち果たさなくてはならなかった。一網打尽にしなければ、陰謀に携わった全ての朋輩の名が割れる。もちろん、己の名も含めて。

 ゆえに弘矩は、妨げとなる大内衆をも一人残らず、抹殺すると決めた。

 一人残らず――?

 気づいて、興明は総毛立った。俺は、ここへ来るべきではなかった。金輪際(こんりんざい)、来てはいけなかった。

 真相を知った者を、弘矩と弥七は断じて生かしておくまい。お屋形さまに知らせようと脱出を試みた大内衆が、弥七に追われて葬られたように。

 ごくりと喉が鳴った。興明は恐る恐る、上目遣いに弥七を窺った。

 血塗(ちまみ)れの刀を握った右腕が、ゆっくりと上がっていく。間に合わぬ、と目を閉じた。



「いやぁぁぁっ! 弥七さまったら、酷い! 酷い! 酷い!」

 途轍もなく黄色い悲鳴が傍らから上がった。いったい、何が起きたのか。興明は目を開いた。

「幾ら何でも、弥七さまってば、酷すぎますぞ! んもう、どうしてくださるのか!」

 背後にいたはずの新左衛門が、弥七をきんきん罵りながら、弥七の胸に掴み懸かっていた。

 弥七の殺気は、非礼も含めて、新左衛門に向かっている。いつ殺されても、おかしくない。だが、突拍子もない雄叫びのせいか、鬼も逃げ出すかと見えた表情(かお)は、拍子抜けしたように一転していた。

「弥七さま! この賊は、うちの若さまの大手柄となるはずでございました!」

 新左衛門は更に恨みがましく突っ掛かった。

「もう少しで、あと少しで、ずばっと首を掻っ斬れたのでござるぞ! それを、横から、しゃしゃり出てきて、何て真似を! ああ、もう、ほんとに酷いったらありゃしない。ああっ? もっ、もしかして、弥七さまは卑怯にも、うちの若さまのお手柄を、横取りする気でござったな? 内藤の嫡男のくせに、何て情けないお方だ! 姑息(こそく)! 陰険! 恥知らず!」

「なっ……? 何を申すか、野上新左衛門! 黙って聞いておれば、無礼にも程があるぞ!」

 弥七は目を吊り上げて(いき)り立った。新左衛門の襟首を掴んだ手が、ぶるぶると震えている。瞬間、興明は閃いた。

 いつも冷静な弥七が、新左衛門の気勢に呑まれた。ならば、助かる道はある。

「無礼は、そちらでござろうが!」と、新左衛門は更に(まく)し立てた。

「うちの若さまは、(もぬけ)の殻のご寝所へと向かわされたせいで、派手に活躍できなかったのでござるぞ! それは、肥後守さまと弥七さまが、そうせいと言い出されたからでござろうが! 今宵の一件を最初に見つけたは、うちの若さまでござったのに! それを、まったくの日陰に追いやられたは、内藤の皆さまが、お手柄を独り占めしたかったからでござろう!」

「馬鹿を申すな! そんなわけが、あるか!」

「いーえっ! そうに決まっておりまする! だから、うちの若さまは、せめて一人でも賊を退治して、(おの)が手柄とするために、こちらへ参ったのでござる。なのに、なのに、それなのに、弥七さまに邪魔をされて、この(ざま)だ! きーっ! この賊を仕留めたは、若さまのお手柄でござる! それを、横取りしようなど、たとえ無礼討ちにされようとも、この新左衛門が許しませぬ!」

 喉元を絞め上げられて、苦しげに喘ぎながらも、新左衛門は(ごう)(ひる)まず勇敢に立ち向かった。

「新左衛門の申すとおりだ!」

 興明も立ち上がるや、負けじと弥七に食って懸かった。

 斬り合いは、何としてでも避けねばならぬ。弥七に勝てるかさえ定かでないのに、壁一枚を隔てた向こうには、弘矩まで控えている。興明のほうが遥かに分が悪い。

 こうなったら、あらゆる方向から(なじ)って、詰って、信じさせるより他にない。上手い具合に、弥七は戸惑った表情を見せ始めている。新左衛門の狙いは何とか功を奏したようだ。

 ()くなる上はと、興明も弁舌を(ふる)った。

「俺はな、兄者。もう、帰って寝よと(ねぎら)ってくださった新介さまを、無礼にも振り切って来たんだぞ。賊を総勢、叩き斬って、陶の手柄を立ててみせると、大勢の前で大言壮語(たいげんそうご)してな。なぜ、そんな大層な真似までしたか、わかるか? うちの兄者が内藤の陣へ行ったきり、帰って来なかったからだ! 親父と兄者のせいだぞ! 寄って(たか)って甘やかして、うちの兄者を駄目にしやがって!」

 興明は声の限りに(わめ)き散らした。

 嘘と疑われないほどの、憤怒の表情を作れているだろうか。組み立てた理屈は、きちんと筋が通っているだろうか。不安を隠して怒鳴り続ける。

「こんな不測の事態なのに、待てど暮らせど、陶の(あるじ)は現れぬ! 内藤の陣におったのに! 惣領がおらんのなら、お屋形さまの手前、弟の俺が手柄を立てるしかなかろうが! ええい、どうして、兄者をここまで、しょっ()いてきてくれなかったんだよ! ずっと一緒におったくせに!」

 兄への不満を申し立てていくうちに、先刻までとは違う重みが、躰の内に()し掛かった。

 兄は足繁く内藤の庫裡へ出入りしていた。今夜だって、内藤にいた。この裏切者の内藤の陣に。

 謀叛には、どう関与していたのか。威勢よく捲し立てながらも、不穏な思いに囚われる。

「俺は手柄を立てねばならんのだ! そしたら、土間に入った途端に、賊が飛び出してきた。これは天佑(てんゆう)と、大喜びで応戦した。なのに、途中で兄者が現れて、断りもなく、ざっくりだ! やっと、やっと、俺の手柄になるはずだったのに! また、内藤ばっかりが、いい格好をしやがって! こん畜生! 陶を(ないがし)ろにするつもりか? これから縁戚になるってのに、ひっでえな、この、熊野郎!」

 どすっ、と壁を蹴った。向こう意気の強い、利かん気な小僧のように。

 乱暴に振舞いながらも、いよいよ気が重くなった。そうだった。放っておけば、そのうち、弥七の妹とやらが、嫁御寮として乗り込んでくる!

「ううむ、そうか……言われてみれば、そうかもな。確かに、三郎もおらんし」

 弥七の顔から悪鬼が抜けた。片手を丸い顎に添えて、いかにも真剣に思案している。

「ふむう、困ったな」と、弥七は頻りに(おとがい)を撫でた。

「そんなふうに、ぎゃんぎゃん責められてもな。賊を生き返らせて討たせてやるわけにもいかんし」

「だったら、兄者、こうしてくれよ」

 ここぞとばかりに、興明は口調を変えた。まだ幼かった昔、弥七に甘えていた頃のように。

「この賊でなくても構わんから、誰か一人だけ、俺の手柄にさせてくれよ。一人くらい譲ってくれたって、全っ然、構わんだろ? なあ、考えてくれよ。俺が今夜の騒ぎを発見したのに、曲者退治の手柄を一つも立てておらんのだ。格好がつかんと思わんか? 俺は、ものすごーく悲しいわ」

 今度は飽くまで手柄の分捕りに固執した。武士の道に(もと)るが、他に都合のよい理屈は浮かばない。

「ふむ、わかった、認めよう。我主の言い分も、もっともだ。ここで断っては酷だろうからな」

 弥七は、ぬぼーと笑い出した。陽だまりのように穏やかな、いつもの見慣れた笑いだった。

 今となっては、この表情(かお)も、作り笑いと疑わざるを得ない。とはいえ、先刻の、鬼さながらの素顔に比べれば、殺気がないだけ幾分か増しか。

「それにしても、我主は今宵、一人でよう頑張ったな。あの、ちびっこかった小僧が、よくもまあ、ここまで成長したものだ」

 ごつい(てのひら)が興明の頭頂を掴んで、ぐるぐると力強く回した。興明は突然、大声で泣きたくなった。

 俺は、この男が好きだった! この男の父親も、大好きだった! それが、突如として今晩、二人とも敵に回るとは!

 陶が偉大な惣領たる父、弘護を失って以来、遺児たちの後見は、叔父の弘詮が引き受けた。しかし、内藤弘矩もまた、陶の子供たちに細かく心を砕いてきたと、興明自身が知っている。

 誰から見ても、弘矩は、他家の子息の養育に真心を尽くしていた。興明とて、弘矩の誠意を疑った(ためし)は、ただの一度もない。

 当時は男児のいなかった叔父に、「四書五経は早めにな」などと気を配り、兄と山口を訪れるたびに、「遊びに来い」と招いてくれた。

 手ずから刀の構えを教え、弓矢のいろはを傍らで(ひもと)き、たまに遠乗りに連れ出す際にも、()きは三郎、(かえ)りは五郎と、必ず抱いて馬に乗せた。

 父を思い出して項垂れた五郎に、

「我主が父の如き武将になれ。我主ならば、きっとなれる」

 と、一刻余りも肩を抱いて、じんと来るお墨付きをくれたのも、弘矩だった。

 何といっても、幼かった三郎と五郎に代わって、父の仇を斬った人物である。仇討ちを果たしてくれた弘矩に対して、幼い兄弟が無条件に好意と憧れを抱いた流れは、当然といえば、当然だった。

 刀の素振りを身につけてからは、弥七が剣を指南した。弥七は度々、陶の出屋敷を訪れて、対手(たいしゅ)と呼ぶにはあまりに若い、未熟で(つたな)い兄弟を相手に、笑って稽古に付き合ってくれた。

 へとへとになるまで打ち合った後は、風呂場で一緒に汗を流し、夕餉の後は、「泊まっていけ」と、毎回、毎回、引き留めた。褥に倒れ込むように、ぐったり雑魚寝(ざこね)した夜もあれば、人の寝静まった深更(しんこう)まで、弥七の語る四方山(よもやま)話に、腹を抱えて聞き入った夜もある。

 兄が元服した日の夜分、子供扱いされて対抗心を剥き出しにした五郎に、「貴重品だから、一口だけだぞ」と、秘蔵の酒を飲ませては、背伸びさせてくれたのも弥七だった。

 その日から、興明は、約束を果たせなかった父の代わりに、元服したら、弥七と朝まで酒を酌み交わしたいと、照れ臭くも願ってきた。

 兄が内藤の娘を嫁に望んだ顛末は、同盟の思惑に(かか)わらず、兄の当然の願いだったろう。

 興明たち兄弟にとって、弘矩と弥七は紛れもなく、もう一人の父、もう一人の兄だった。婚姻によって血を越えた父と息子、兄と弟の関係になれるのであれば、興明だって、そう遠からぬ将来、兄と同じ望みを抱いたかもしれない。

 不満があるとすれば、ただ一点だけ。あまり兄を甘やかすな、といった辺りか。それとても、早く大人になりたいと願い続けた、この十年を思い起こせば、苦い笑いで済ませられたはずの話だ。

 いったい何が狂って、こんな事態になったのか。弘矩と弥七を慕い続けた年月の、どこから、どこまでを信じたらよいのか。興明には、もはや見当さえつかない。

「どうした、五郎。あれだけ猛り狂ったら、さすがの我主でも草臥(くたび)れたか」

 弥七が再び笑顔を向けた。泣きたい気持ちは治まらなくても、笑い返すより他にない。

「……気が抜けた。手柄をくれると言うてもらえたからかな。ああ、頼んでみて、よかった!」

 興明はとにかく大袈裟に、「手柄、手柄」と強調した。生かして捕えたかった素振りさえ見せなければ、もう大丈夫、切り抜けられる。

「さすがは、弥七さま! お強いうえに、お優しい。この新左衛門、御身に憧れまする!」

 弥七の足を舐める勢いで、新左衛門はへこへこと頭を下げる。護衛の役目を立派に果たした乳兄弟に、興明は「よくやった」と、静かに目配せを送った。

 そのとき、「弥七よ」と、(しわが)れた声が掛かった。

「何をしておる。こっちは、あらかた片付いたぞ。そっちのほうは、もうよいのか。こうも大勢と渡り合うと、さすがに儂も、へたばるわい」

 血に濡れた刀を引き摺るように、暗がりの中から、うっそりと内藤弘矩が現れた。



 弘矩は興明に気がつくと、ぎょっとしたように目を剥いた。

「おわっ、五郎か? どうしたのだ。我主(わぬし)、いつから、ここにおった」

 まんまと興明を追い払ったと、安心しきっていたのだろう。別棟が片付く前に戻ってくるとは考えもしなかったのか。

 それでも、一瞬の後には破顔一笑(はがんいっしょう)と来た。興明は気持ちが萎えて、笑い返す気にもなれない。

「何だ、機嫌が悪そうだな。ご寝所はどうだった。お屋形さまと新介さまは、ご無事であられたか」

「避難しておられた」と、興明は、弘矩も確信していたであろう事実だけを述べた。そのまま黙り込んだ興明に代わって、弥七が長閑(のどか)に続けた。

「手柄を立てに来たそうだ。まあ、一人分は五郎にやろう。ほれ、我主(わぬし)、しゃんとせい」

 背中をはっしと叩かれて、興明は何歩か蹌踉(よろ)めいた。本当に気が抜けたのかもしれない。

 弥七は興明に構わず弘矩に近づくと、耳元で何かを囁いた。弘矩は眉根を寄せた。

 細波の如くに寄った皺が、次第に深さを増していく。視線が一度だけ興明を捉えた。三回ほど頷いた頃には、眉間の皺は谷となって、自慢の笑顔は欠片も残さず、どこかへ吹き飛ばされていた。

 もしや、弥七を騙しきれなかったのだろうか。興明の狂言に欺かれた振りをしていたなら、弥七のほうが役者は上だ。その弥七が、弘矩に何かを吹き込んでいるとしたら――

 話が終わらないうちに、ここから飛び出さなくては危ない。興明は素早く新左衛門に目配せを送ると、二人で同時に逃走の体勢を取った。

「ああ、これ、五郎よ。三郎の件だがな、もう少し詳しゅう様子を教えてくれ」

 駆け出そうとした途端、弘矩に呼び止められた。

 思ってもみない(とい)に興明は首を傾げ、弘矩に向き直った。

「様子を詳しくと言われてもな。俺はかれこれ三日も四日も、兄者と口を利いておらん。だいたい、兄者は暇さえあれば、内藤の陣に入り浸っておった。俺よりも親父や弥七兄者のほうが、兄者の行状には詳しいだろう。今夜だって、叔父上や俺の知らぬ間に、陶の陣から消えておったからな」

 襖を開けて確かめたとき、興明には、ぴんと来た。これは、かなり前に抜け出したな、と。

「どうせ、今宵も弥七兄者に、夜這いを仕掛けたんだろう。兄者の素行については、そっちが責任を持ってくれよな。俺は男に関心はない」

 そこまで口にして、興明は思い出した。なぜ、今宵の騒動に巻き込まれたかといえば、不品行な兄を捜すために、内藤の庫裡へ赴いたからだった。

「そうだ。兄者の振舞いといえばだな、今夜、妙な話があった」

 興明は、叔父が物見から告げられた内容を、聞いたまま弘矩に語った。

 黙って耳を傾けていた弘矩と弥七は、興明が話し終えると、無言で顔を見合わせた。

「ふうむ、夜中に馬泥棒か。それで、五郎よ。三郎は、どこに出奔しおったのだ」

 弘矩が落ち着かない素振りで尋ねてきた。

「何で本気にするんだよ!」と、興明は噛みついた。

「陶の惣領だぞ? 嘘に決まっておる。だいたい、内藤の陣におったろうが。そりゃあ、兄者の行状は、最近では目を覆いたくなるくらい酷かったさ。だから、馬泥棒だって、(あなが)ちには否定せぬ。しかし、たとえ本当に盗んだにせよ、所詮はただの戯事(ざれごと)だ。出奔したなど、笑止千万(しょうしせんばん)

 弘矩と弥七は、またもや顔を見合わせた。今度は何を考えているかと心の内で(いぶか)ったとき、盛大な呻きが辺りを震わせた。

「ぐうっ、何としたことか! 三郎が……三郎めが……!」

 弘矩は片方の手で額を押さえて、もう片方で拳を握った。

 興明には、弘矩の言葉が示す正確な意意味合いはわからない。ただ、あれほど結びつきの強かった内藤父子(おやこ)と兄との間に、何か盛大な齟齬(そご)が生じたとは、一瞬で理解できた。

 齟齬の理由は、今宵の襲撃に大いに関係があるだろう。兄はどんなふうに関わっていたのか。

 内藤の女婿(じょせい)として、下にも置かぬ扱いを受けていた。考えは自ずと、よくない方向へ転がり始める。

「だから、兄者は出奔などしておらん。ずっと内藤におったろうが。俺は梶原四郎丸に会うたぞ。いつも兄者と一緒におる四郎丸にな。兄者も無論、おったろうが」

「確かに、おった。おったけどな」

 肯定しながらも、弥七は首を横に振った。

「どうも、語弊(ごへい)があるようだな。我主が、『兄者は内藤におった』と言うから、さっきも否定はしなかった。だが、ずっと、おかしい、おかしいと、首を捻っておった。あのな、確かに三郎は、内藤(うち)の陣におった。したが、我主が来たときには、既におらなんだ」

「えっ? どういう意味だ。兄者は先に出て行ったのか」

 興明は弘矩と弥七を交互に見回した。弥七はへの字に唇を歪めた。

「それが、わからんのだ。何しろ、三郎が出て行ったところを、誰も見ておらん。しかし、まあ、出て行ったと考えるより他にないだろう。我主が来たとき、既にいなかったのだからな」

「四郎丸がおったのに? 四郎丸は兄者の従者だ。いつも兄者に従うておるぞ」

「いや、違う。四郎丸はずっと、あそこにおったわけではない。我主が来る直前にやって来たのだ。むしろ、戻って来たと言うべきだろう」

 弥七は再び、静かに首を振った。

「確かに奴は、初めは三郎と一緒におった。逆に言えば、次に四郎丸が現れたときに、俺たちは初めて気がついたのだ。いつの間にか、二人がいなくなっておったと。四郎丸は一人で現れた。奴は泡を食っておった。『三郎さまが行ってしまわれた』と、頻りに繰り返すばかりでな。それだけでは皆目わからぬ。詳しい話を聞こうとしたとき、外で騒ぎが始まった。それが、我主だった」

 兄と二人でいたはずの四郎丸が、一人で内藤へ戻って来た? 三郎さまが行ってしまわれた?

「俺には全く事情(わけ)がわからぬ。ならば、兄者はどこへ消えた」

「だから、俺たちだって、それが知りたいのだ」

 兄の身に、いったい何が起きたのか。心当たりは一つもない。興明は途方に暮れた。



「致し方ないのう」と、弘矩が事態の収束を告げた。

「陶にも三郎の居場所がわからんとあっては、連れ戻そうにも、()(すべ)がない。考えるのは明日にして、まずは足軽どもに後片付けでもさせるとするか」

 広間に引き返す弘矩の背中が、心なしか悄気(しょげ)て見える。興明は後を追って横に並んだ。

「なあ、親父。親父はどうして、そんなに兄者を気に懸けてくれるんだ」

 もちろん、嫌味を含めて訊いた。兄の行方はともかくとして、どう関わってきたかが問題だ。

 一拍数えて、弘矩は興明を流し見た。

「……当然だ。大事な娘を嫁に出すのだ。婿が消えては、困る」

 弘矩は表向きの理由を述べた。短すぎて、陰謀の手掛かりになる言葉など、一つも見つからない。

「そりゃそうか」と、興明は引き下がった。

「消えて困るのは(うち)も同じだ。お屋形さまにどう申し上げよう。叔父上だって、今の話を聞いたら、頭の血の管が切れるやもしれん」

 困惑は、嘘ではない。兄は、まさか本当に、馬を盗んで、どこかへ逃げたのだろうか。

 ――出奔。

 いやいや、どうして、笑ってしまう。何をどう考えても、陶の惣領が選ぶ道ではない。

 これ以上、一人であれこれ悩んでも、きっと混乱するばかりだろう。

「あとは叔父上に任せよう」と、興明は開き直って頭を上げた。

 足を踏み入れた広間には、血の臭いが濃密に立ち込めていた。内藤の足軽たちが二人一組になって、遺体を丁寧に並べている。

 まず、覆面衆が一箇所に集められた。その脇に、大内衆と思しき侍たちの屍が並ぶ。

 立ち働く者たちの数を数えれば、内藤で死んだ者はいない。どこかを斬られて怪我をしていても、皆が己の足で歩ける。

「そなたらは、かなり使えるな。これだけ凄まじい斬り合いをしても、一人も欠けておらぬとは」

 興明は本気で感心して、近くの足軽二人に声を掛けた。男たちは照れた笑いを見せた。

「そりゃあ、無理もないでござろ。もともとが、腕自慢の者ばっかしじゃけえ」

「儂みたえな雇われ者もおるしな。内緒じゃけど、目一杯、弾んでもらいましたわい」

 二人の口元に、ちらと卑しげな影が差した。なるほど、金で雇われたか。

「それにしても、いきなりの夜討ちで驚いたであろうな。夕刻に着いたばかりと聞いたぞ」

「おお、そりゃあ、はあ、驚いたの何のって。堺に三日ほど留め置かれた後、ようやく、参れとお使いが来よって、やっと着いたと思うたら、着いた早々に夜討ちたあ。ほんに気が抜けん戦場じゃ」

 答えた足軽は大仰に首を縦に振った。

「けど、そねえに大変なとこに来たたあ、昨日は思わんかったわい。殿さまは、草臥(くたび)れたじゃろう、今宵は特別じゃと、歓迎の夕餉まで支度してくださったけえ」

「その前に、さっぱりと行水もさせてもろうたしな。寝るとこだって、今までおった足軽どもとは別の場所を頂戴して、すぐに寝かせてもらえた。ええとこに来たと、実は、思うちょった」

 足軽二人は顔を見合わせて笑い合った。

「そなたらだけ随分と扱いがよいのだな。やはり、腕が立つからか。いや、陶にも欲しいぞ」

 興明は必要以上に二人を煽て上げた。足軽たちは満更でもなさそうに目を細めた。

「おかげで、若殿が大声で呼ばわったとき、さっくりと起きられましたわい」

「儂もじゃ。おや、よう見りゃあ、今宵、戦った者どもは、一緒に着いた朋輩どもばっかしじゃな」

 なるほど、そういうわけか。興明は大いに合点がいった。

 弘矩は、今夜の襲撃を実行に移すために、実働部隊の賊とは分けて、腕の立つ別動隊を用意した。

 別働隊の到着を待って、襲撃の日を設定したのかもしれない。細かな日時を調整するために、堺で待機させたのだろう。

 事情を知らない新参たちは、不測の事態があった場合、弘矩の手足となって働く筋立てだった。

 実際、弘矩の目算どおりになった。興明が部隊の一部を指揮しようとは、当初の目論見にはなかったにせよ、足軽たちは(ごう)も疑いを抱くことなく、大内勢を斬って、斬って、斬りまくった。

 内容はともかくとして、深謀遠慮(しんぼうえんりょ)は、さすが、弘矩だ。歪めた唇から、我知らずの笑いが漏れる。胸の奥に開いた真っ暗な穴を、冷たい風が吹き抜けていった。

 興明は大内勢の周囲をそれとなく歩いて、何人かの骸を検分した。いずれの躰も、どこかに(とど)めを刺されていた。明らかに抹殺の意図が伺える。

「南無……」と、念仏を唱える途中で、吐きそうになった。この無残な亡骸の中に、自分も入っていたかもしれない。

 杉戸を蹴って回ったとき、「内藤ならば助けてくれる」と、無条件で頼みとした。手放しで、そう信じられるほど、欲しいと願ったときには必ず、温かい手が差し伸べられた。

 この十年間、それほど信頼していた弘矩と弥七が、こともなげに興明の敵に回った。寂寞として、やりきれない。裏切られたと憤るよりも、置いて行かれた己を憐れみたい気分だ。

 もしも、兄がお屋形さまに背いて、本当に内藤に追従していたとしたら、それは、内藤の父子に捨てられたくないと願う、強い執着ゆえかもしれない。

 納得するわけにはいかないものの、気持ちに理解は示せる気がした。

 ふと、興明は壁に目を留めた。見覚えのある筆跡が、やたら大きく主張している。どこから調達させたのか、畳よりも巨大な紙に、豪快に一文字ずつ、「大」「歓」「迎」の文字が躍っていた。

 そればかりではない。

「おいでませ」と記された軸が十本以上も表装されて、四方の壁にぶら下がっている。

 あっという間に力が抜けた。弘矩も、この有様を見て、お屋形さまは見抜いておられたと、確信を深めたに違いない。

 弘矩はお屋形さまに、どう申し開きをするだろう。

「生け捕りなど、とても、とても。我らが別棟に駆けつけたときには、既に大内家の侍のほとんどが、賊に斬り捨てられてございました。我が足軽どもは大内勢よりも数が少ない。滅法強い曲者どもに殺されぬよう、必死に渡り合ってござる。手加減など、爪の先ほどもできませなんだ。平にお許しを」

 穏やかな口調で無念そうに低頭する様子が、ありありと目に浮かんだ。

 やはり、何があろうと、許すわけにはいかない。辛くも難を逃れたが、目の前の骸は、興明が辿ったかもしれない運命だ。

 もはや、二度と悩むまい。決して、過ぎし日を振り返るまい。

「御辺らを、断じて犬死にさせぬ」

 冷たい床に横たわる大内勢の骸に向かって、興明は静かに合掌した。



 ゆらゆらと照らす灯りに、亡骸が赤く浮かび上がる。 三十もの死体が転がった異様な空間に突っ立っていると、ろくでもない思いに囚われるばかりの気がした。

「ここにおっても、俺にできることは何一つない。ひとまず陶に帰る」

 興明は弘矩と弥七に背を向けた。途端に、尋ねる声が追ってきた。

「待て、五郎。お屋形さまは見つかったのか。どこにおられる。儂らもご報告に参らねばならん」

 何が、「ご報告に参らねば」だ。殊勝な振りをしやがって。今に見ておれ。

「そろそろ、陶の陣に入られた頃だろう。叔父上がお連れしたはずだ」

 興明は御座(おざ)なりに答えて、また背を向けた。気持ちは既に、この場にない。戸口に続く舞良戸の陰に、広間を覗く幸丸と前髪立ての姿を見つけた。

 二人とも眉根を寄せて、興明の身をかなり気遣っていた様子だ。目が合うと同時に瞳を輝かせた。案じてくれたと思えば、晴れやかな笑いが込み上げる。

「何だ、そなたら。あんなに恐ろしい目に遭うたのに、まだ逃げていなかったのか。懲りぬな」

 などと、少し恰好をつけた。

「あっ、待て! 待たんか、こら!」

 二人に声を掛けた直後に、興明は弘矩に呼び止められた。背後から荒っぽい足音が追ってくる。まさか、怪しまれたのだろうか。

「何だよ、親父。まだ何か用があるのか。俺は、とっとと戻りたいんだが」

 興明は平静を装って振り返った。しかし、呼び止めたはずの弘矩は、興明に全く目をくれない。

「待て、待て、待てい!」と、がなり立てて、野分のように、すぐ脇をすっ飛ばして行く。

 噛みつくような大声だ。幸丸が戸口の陰から飛び出して、そそくさと平伏(ひれふ)した。前髪立ては全身が硬直したかのように、棒立ちのままでいる。

「なぜだ! なぜ、お前たちが、ここにおる! 何を考えておるか!」

 弘矩は大仰な身振り手振りで幸丸を(ののし)った。(あるじ)がこうも怒り狂えば、家来はひたすら身を低くして嵐が過ぎ去るを待つしかない。更に()(つくば)った幸丸を、弘矩は、どすっと容赦なく蹴り飛ばす。

「待て、親父! 何をする、やめろ!」

 興明の制止など、まるっきり聞いていない。弘矩は間髪を入れず、拳を振り上げる。振り下ろすと見えたとき、前髪立てが身を(ひるがえ)した。

 ごっ、と鈍い音が鳴った。小さな躰は拳を受けて、一間ほども弾き飛ばされた。

「ひゃああ!」と、幸丸の甲高い悲鳴が響く。弘矩の背中が少しばかり、怯んだかに見えた。

「親父の馬鹿野郎! そいつに何をする。ええい、小僧、大事ないか」

 前髪立ては転がった床の上で、ぴくりとも動かない。興明は全力で駆け寄ると、無慈悲に折られた小枝のような躰を素早く抱き起こした。

 線の細い華奢な作りだ。あんなに派手に弾かれて、どこか折れていやしまいか。

 弘矩は少し遅れて、おずおずと前髪立てに手を伸ばした。己の所業が信じられぬとでも言いたげな面持ちで、「大丈夫か」と、気遣う声にも動揺が滲んでいる。まったく、何たる暴挙に及ぶか。

「親父の阿呆! こんな、ちびっこい小僧に、何て無体をしやがる。声変わりもまだなんだぞ。だいたい、こいつらが親父に何をした。半日前に着いたばかりだろうが」

 興明は、ずいと背中を弘矩に回して、露骨に邪魔をしてやった。

「こら、五郎、そこを退け。その者を渡すのだ。その者はな……」

「知っておる。俺はこいつら兄弟と一緒に、お屋形さまのご寝所まで行った。さっきは助けてやったから、俺を案じて待っておったのだろう。内藤の足軽といえども、親父にぶん殴られる(いわ)れはない。陶へ連れ帰って、あっちで手当てしてやる。今宵は借り受けて行くからな」

「何を申す! それはならん。断じて、ならん。おい、こら、五郎。聞いておるのか」

 誰が聞くか。興明は細い腕を掴むと、頭越しに肩に回した。ぎゃんぎゃん噛みつく怒鳴り声には、一切、知らん顔を決めた。

 前髪立ては俯いていた。脇腹に手を添えて立ち上がらせると、ぼんやりとしてはいるものの、足取りは、さほど危なっかしくもない。打ち所の心配はないと、興明は胸を撫で下ろした。

「幸丸、そなたも一緒に参れ。蹴られておったし、弟が心配だろう」

 幸丸は平伏(ひれふ)しながらも、青褪めた顔を上げた。気忙(きぜわ)しく目を動かして、興明と弘矩を代わる代わる見比べる。意を決したように、「お許しを」と弘矩に(ぬか)づくと、立ち上がって興明の傍らに寄った。

 弘矩は助けを求めるように、弥七を振り返った。苦そうな笑顔がのっそりと立ちはだかった。

「いやはや、五郎よ。内藤(うち)の連中を気に懸けてくれるとは、礼を言わねばなるまいな。しかしなあ、連れて行かれては困るのだ。こいつは俺の気に入りでな、久しぶりに語りたい」

 弥七は(おど)けた仕草で細っこい腕に手を伸ばした。前髪立ては、「やだ」と、泣きそうな悲鳴を上げて、興明の背後に逃げ込んだ。

 怯えの混じった眼差しが、射るように弥七を()めつける。大内衆を殺めた一件が、まだ尾を引いているのかもしれない。避けられた手が一瞬だけ、虚しく(くう)を掴んだ。

「これ、逃げるでない。我主は俺の曹司へ参れ。そもそも、どうして到着するなり俺を訪ねなかった。まったく、幸丸も幸丸だ。いや、夕刻に気づかなかった俺も、どうかしておるが。ほれ、行くぞ」

 前髪立ては唇を噛んで、弥七の言いつけに抗った。それどころか、ひらりと身軽に飛び退いて、もっと後ろへ下がろうとする。弥七は眉を吊り上げた。

「まさか、我主、五郎に()いていくなどと言うまいな。この男誑(たら)しに」

 おっ……? 男誑し? 言うに事欠いて、何たる侮辱を。こんなに身持ちが堅いのに。

「貴様、変な言い掛かりをつけるな! こいつが本気にするだろうが! ええい、頭に来たぞ」

 興明は弥七に怒鳴り返すと、口調を変えて、前髪立ての目の高さで諭した。

「あのな、俺は子供にも、(おのこ)にも、そういう興味は一切ない。心配せんでいいからな」

 答える代わりに、前髪立ては吹き出しそうに目を細めた。興明はつい、頭を撫でた。

「そいつに触るな! いかん、いかん! それ以上、睦まじくするでない!」

 弥七の蟀谷(こめかみ)に青筋が浮かぶ。これほどまで、弥七が執着を示すとは。

「ええ~っと、もしかして、兄者はこいつの念者(ねんじゃ)なのか?」

「馬鹿野郎! そんなわけが、あるか! どこをどう突っ突けば、そういう話になる」

「だよなーっ! 弥七兄者は、俺の兄者の念者だものな。あっはっは」

 軽く流しはしたものの、直後から降り注いだ罵詈雑言(ばりぞうごん)は、凄まじかった。

 弥七は言葉を尽くして興明を罵り、本気で二人を取り戻そうとしている。今や怒りは、生一本(きいっぽん)だ。この剣幕を頭から無視して、本当に連れ出してよいものか。

 しかし、前髪立てのほうは、断じて戻りたがっていない。幸丸の身の安全を考えても、せめて一晩は弘矩から引き離すべきだろう。興明は前髪立てをぶら下げたまま、出口へと駆け出した。

「それ、我らも」と、後ろに新左衛門と幸丸の足音が続く。

「五郎! そいつに手を出したら、ぶっ殺すからな! いいか、絶対に手を出すなよ!」

「何を気色の悪い! だから、俺は子供にも、(おのこ)にも、そういう興味は一切ないって!」

 ますます頭は混乱する。一刻も早く、この別棟を離れねば。



 入った戸口から一歩出たところで、しがみついていた前髪立てが、ぱっと腕を離した。

「えへ、たんこぶ」と、両手で頭を押さえている。心配して覗き込むと、くしゃくしゃの泣き笑いが返ってきた。

「大丈夫か。あの猛烈な勢いの拳を、まともに頭に食らったからな」

「走ったら、頭に響いちゃった」

「それはいかんな。どれ、血は出ておらぬか。ううむ、暗くて、よう見えん。この辺りか?」

 興明は小さな頭を掴むと、高く結い上げられた髪の中を(いじ)くった。

「いったーっ!」と、三間も逃げられた。

 なるほど、痛いわけだ。触れただけでも指先に伝わる、特大の瘤がある。

 前髪立ては逃げた足で幸丸の前に躍り出た。兄のほうが青褪(あおざ)めて、今にも死にそうに見える。

「大丈夫だよ」と、前髪立ては幸丸にじゃれついた。

「殴られたときは星が飛んだけど、もう、へっちゃら。こんなの、ぜ~んぜん痛くない」

 痛くないわけがない。それでも、前髪立ては兄を気遣い、「えへっ」と、無邪気に歯を見せる。

 幸丸は今にも泣き叫びそうな顔付きで謝ると、最後にようやく、引き攣った笑みを返した。

「それにしても、あの親父め。到着したばかりの其方(そなた)らに、何の落ち度があるか」

 考えるほど腹が立つ。つまらない理由で地下人(じげにん)に当たり散らすなど、父と慕っていた弘矩が、兄と同じに見えてくる。

 兄に対しては、一度、きっぱりと臨みたかった。今宵、兄を見つけたら、伝えていたはずだった。

 結局、いまだに見つからない。それどころか、どこかへ逃げた与太話までが真実味を帯びてきた。

 こんな顛末になるくらいなら、もっと早くに伝えておくべきだった。そうすれば、事態はどこかで違っていたかもしれない。

 淀んだ澱が気持ちの底へ沈んでいく。同じ後悔を二度とするものか。興明は拳を握った。

「明日、そなたらが内藤へ戻れば、親父は、また同じ挙措(きょそ)に及ぶやもしれぬ。特に幸丸、そなたの身が案じられる。そなたを殴り損ねた親父は、明日にでも再び、そなたに怒りをぶつけるやもしれん。ここで暫し待っておれ。戻っても殴らぬよう、親父に一言だけ告げてくる」

 幸丸は目を見開いて、(おのの)きを(あらわ)にした。

「いや、若さま。そねえなこたあ、ええんじゃ。今のまんまで満足じゃけえ。はあ、恐れ多い」

「気にするな。力を持つ者が、弱きを守るためにそれを使うは、当然だ」

 興明は新左衛門を従えて、再び別棟へ引き返した。

 土間から上がると、ぼそぼそとした話し声が聞こえてきた。さっきの廊下の暗がりからだ。広間の足軽たちから離れて、弘矩と弥七が他人目(ひとめ)を憚るように話し込んでいた。

 時折、憤然とした罵声が上がる。拾える語句から察するに、興明を罵っているとみえる。

 長い間、父とも兄とも慕ってきた二人だった。()(ざま)(けな)されれば、袂を分かつと決めていても、ちくんと胸に痛みが走る。

 こういう運命(さだめ)だったのだろう。興明は腹を括って、二人の話を盗み聞いた。

「五郎の奴め。儂の言いつけも聞かずに()(さら)って行くとは、全く以て、許しがたい。のこのこ都にまで出向いて来おった、あの頓痴気(とんちき)にも呆れるが。ええい、本当に、何たる失態だ」

「したが、父者(ててじゃ)よ。俺たちの知る五郎ならば、彼奴(あやつ)らを手酷く扱う真似は、一切すまい。あれだけうるさく怒鳴っておいたし、案ずる必要はあるまい。それよりも三郎だ。奴のほうが今は大問題だ」

「ううむ、そうだな。いなくなったとは気づかなかったが、まさか、逃げ出しておったとは」

「失敗したな。何があったか察しはつくが、外に出られぬよう、見張りを置いておくべきだった」

 見張り? 見張りだと? 弥七は確かに見張りと口にしたか。

「まったくだ。三郎の性格(たち)なら、ああなるとも予測できた。抜かったわ。見張ってさえおれば……」

「それにしても、どこへ雲隠れしおったのか。あの頓珍漢(とんちんかん)め。見つけたら、ただではおかん」

 そのとき、広間のほうから声が掛かった。

「殿さま、若殿さま、終わりましたわい」と、足軽が大声で呼ばわっている。二人は話を切り上げると、隠れていた興明に気づかないまま、足早に立ち去った。

 興明は胸の震えが止まらなかった。呼吸が浅い。沸き上がる歓喜に、大声で叫びたい。

 ――俺の兄者は裏切者ではなかった! 陶の惣領は、断じて謀叛人などではなかった!

 内藤父子(おやこ)に懐いていたとはいえ、今宵は囚われていたも同然だった。見張りが必要だったなら、間違いなかろうが。

 同意を求めて振り返れば、新左衛門も口元を緩ませて、頻りに頷いている。

「新左もそう思うなら、間違いないな。兄者は恐らく、内藤に脅されておったのだろう。だから、隙を見て逃げ出した」

「なぜ、一目散に、こちらへ戻られなかったのか。そこが少々、気懸りなところでござるが」

「何か、戻れぬ事情でもあったのだろう。例えば、そっちには見張りがおると考えたとか……」

「あるいは、(おなご)の許へ走ったとか? 今頃は、そちらで囚われておるやもしれませんぞ」

「うへえ、そいつは困ったな。そっちは、自分から逃げてくれそうにないものな」

 くだらない戯言(ざれごと)に、二人して吹き出した。

 陶からは謀叛人を出さずに済んだ。そんな当たり前の顛末が、これほどにも心を浮き立たせてくれようとは。苦々しく思う場面も多い兄ではあったが、今はただ、逃避行の無事を祈りたい。

 さて、大言を吐いて安堵させた幸丸には気が咎めたものの、打擲(ちょうちゃく)どころの騒ぎではなくなった。まずは大急ぎで兄を保護しなくては。興明は表へ引き返すと、兄弟を陶の陣まで急き立てた。

 宿所とした僧坊の外では、盛大に灯した篝火の下で、叔父が地蔵の笑みを湛えて待っていた。いつ戻るかわからない甥を気長に思いやり、わざわざ表で出迎えてくれる温かさが、叔父の持ち味だ。

「ずっと、待ってくれておったのか、叔父上」

 興明は小走りで駆け寄った。弘矩と弥七を一遍に失った今夜は、人の優しさが殊更に身に染みる。

「よう戻った。お屋形さまも新介さまも、先ほど、お休み遊ばされた。ご報告は明日にせい。おや、我主、嬉しそうじゃな。首尾は上々じゃったか」

「だめだ、叔父上。賊は一人も残せなかった。けどな――」

 続きを内藤の足軽たちに聞かせるわけにはいかない。興明は叔父の耳元に口を寄せた。

「賊の朋輩は突き止めた。肥後守の親父と弥七が、間違いなく関わっておる。三郎兄者は関係ない。囚われておったようだが、上手い具合に逃れてくれた。あいつらに見つかる前に、保護してくれ」

「おお、そうか。それで三郎は、馬を盗んで逃げたのか」

 呟く声が震えていた。兄の無事と去就を知って、ようやく安堵したのだろう。ぽん、ぽんと頭を撫でる手が、「よくぞ、()てのけた」と告げていた。

 重く後夜の鐘が鳴った。振り仰げば、東の空に、眉のような逆さ三日月が顔を出している。山々の稜線が、うっすらと白んでいた。

「いつの間にか、寅の刻か。短夜(みじかよ)の季節なのに、本当に長い夜だったな」

 興明は深く息を()いて、やれやれと振り返った。

 夏の夜は駆け足で明ける。あと四半刻もすれば、天地は明々とした清浄の光に冴え渡るだろう。眩しい輝きが白々と、胸の奥底まで照らし出してくれる気がする。

 耳を澄ませば、荘厳な音色は細く長く尾を引いて、黎明(れいめい)の空に、じんわりと滲んでいく。薄い朝靄(あさもや)に消え残る茫洋(ぼうよう)とした鐘の音に、興明はしみじみと耳を傾けた。

「鐘は三井寺と申すようでござるが、三井寺でなくても、今朝方の音色は殊の外、寺院(じーん)と来ますなあ」

「こねえなときに、よう浮かぶもんじゃ」「誰が上手いことを言えと」

 新左衛門の軽口に、皆で腹を抱えた。

 笑うといっそう胸が弾む。あとはお屋形さまにご報告して、事後処理をお任せすればよい。

 内藤は罰せられて、兄は無事に帰ってくる。賊の救援には間に合わなかったものの、陶は誰よりもお屋形さまに尽くしたとして、格別のお褒めに(あずか)れるだろう。

 長い時を掛けて、丹念に煮詰められた血生臭い計画であっても、今に至っては解決を待つばかり。

「五郎よ。我主の父の仇が、今宵、もう一人、判明したぞ。その裏にある目論見もな」

 何だって? こんな気持ちのよい朝に、叔父はまた何を訴える。どんよりした声まで絞り出して。

 振り返って、憂いに満ち満ちた表情を確かめるまで、興明はこの上なく清々しい気分に浸っていた。

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