第二章 お屋形さまは何処
第二章 お屋形さまは何処
一
蒸し暑い夜が続いていた。入相の鐘に伴われて、ぽつりと夕刻に訪れた雨は、涼夜への望みを抱かせたまま、初夜の鐘を待たずに去った。
冴えなく消えた鐘の音の後には、石風呂を焚き上げたような、苛烈な湿り気だけが残っている。
風の通らない曹司に横たわりながら、陶興明は出梅を実感した。
寝苦しくても致し方ない。もう幾日かで暦は七月に変わる。況してや、この地は京の都。懐かしの山口に勝るとも劣らず、盆地の暑さは凄まじかった。
――ああ、褌一丁になりたい。曹司の中なら、俺が脱いだからって、狂喜する輩はおらんしな。
額に滲んだ汗を拭って、興明は躰の向きを変えた。
この延徳四年(一四九二)の浅い春に、興明は十六歳で元服した。半年を経た今は、大内勢の一員として、戦の陣にある。
――しかし、夜這いに来る連中に、妙な勘違いをされては堪らん。叔父上の言いつけもあるし。
「よいか、五郎。敵の六角氏が本拠の観音寺城を捨てたとはいえ、陣中にあれば、夜襲の危険もある。同じ相手を攻めた前公方さま(足利義尚)も、今と同じく、居城を捨てた敵方から、激しい夜討ちを懸けられた例があった。武士たる者は、いかなる火急の事態にも素早く具足を着けられるよう、準備万端、調えておかねばならん」
武将としての心構えを、毎日、叔父から叩き込まれている。興明は汗ばんだ夜着を脱ぎ捨てたい衝動を堪えて、はだけた胸元を掌で扇いだ。生温い微風に、青臭い湿り気が揺れた。
陣所とされた寺の外には、草ぼうぼうの荒れた空き地が、辺り一面に広がっている。都を焼け野原と化した大乱の爪痕は、今もなお洛中に生々しい。
この寺も、昔日の姿を取り戻すには、今暫くの時を要するだろう。板の間で寝返りを打つたびに、むんとした夏草の匂いが塔頭の中にまで押し寄せた。
富田に残してきた田圃や畑は、今頃どうなっているだろう。興明は遠い故郷に思いを馳せた。
興明には、地下人に任せていない、自ら耕す圃場がある。種を播くのも、刈り入れるのも、草を毟るのも興明だ。最近の気に入りは丹念に育てた清白で、なかなかの出来と自負していた。
大切に耕した清白の畑も、ここと同じく、草ぼうぼうの状態だろう。きっと、外に生えている雑草と似たり寄ったりの雑草が、似たり寄ったりの背丈まで、強かに生い茂っているに違いない。
このままでは、種を播いた作物が菜っ葉なのか、雑草なのか、育てた本人にさえ、わからなくなる。
他人の仕掛けた戦など、その辺りにほっぽり投げて、早く畑に手を入れたい。興明は慕わしい故郷の田畝を、何度も瞼に思い描いた。
父の死から、今年で、ちょうど十年を数える。同い年の亀童丸さまは、五郎に先駆けて加冠していた。大内義興を名乗る、この若君より、五郎は偏諱を賜った。
興明の諱は昨年の秋に、若君が選り抜いたものである。実直で頼もしい後見に徹する叔父の弘詮が、陶の菩提寺である龍文寺の上人に選ばせた幾つかの候補の中から、鶴の一声で決まった。
「あれの性分ならば、これ以外にあるまい」と、名付け親のほうが深く思い入れた諱であった。
元服により、責務の半分を果たしたと自負する叔父は、すぐさま初陣の手配に取り掛かった。
「ちょうど、公方さま(足利義材)が昨年より、六角征伐に乗り出しておられる」
遠征の陣には当初から、兄の三郎(陶武護)が赴いていた。陶勢を含む三千の軍勢を威風堂々と率いる若君――新介さまに従っての、意気揚々たる初陣だった。
「前将軍家も、不届きな大膳大夫(六角高頼)を討たんとされた。不幸にも鈎の陣で身罷られたが、今の公方さまがご遺志を継いでおられる。この戦で初陣を飾るがよかろう」
「ええっ、六角? 近江? 何でまた、そんな遠くに。兄者はともかく、俺は都へ参らんでもよい」
興明は言下に退けた。長男ならば、いざ知らず、部屋住みの次男坊が華やかに飾る必要はない。
「何を申す。公方さまに供奉すれば、初陣にも箔がつく。三郎だって、それが目的だったのだぞ。それに、この遠征は、五番立ての編成になるそうでな。お屋形さま(大内政弘)は、まだあと一万二千を投入されるおつもりよ。どうせ、そのうちお呼びが掛かる。なあに、儂も次男坊だ。遠慮をするな」
叔父は、あれこれと理由を探して、なかなか諦めてくれなかった。
何だかんだと逃げ回っているうちに、本当にお呼びが掛かった。お屋形さまからではない。
「我主がおらぬと、つまらん。早う参陣いたせ」とのご消息が、当の都から届けられた。
叔父の申しつけならば、逃げ果せてもみせよう。だが、新介さまのご沙汰とあっては、憚られる。こうして興明は、叔父が手配したとおりに、遥か公方さまのお膝元にまで引っ張り出されていた。
以来三ヶ月ばかり、興明は公方さまの六角討伐に、大内勢として供奉している。といっても、ただの一度たりとも、合戦は経験していない。大内勢は後詰めとして、洛中は法花堂に陣取っていた。
前線では、寝返ってきた六角方の宿将を討ち取る戦果も、あったにはあった。それは、興明が参陣するよりも数ヶ月も前の出来事で、後に敵の本隊は甲賀へ逃亡したという。
今となっては、六角氏と結んだ京極氏との小競り合いが、思い出した程度に起こるばかり。三井寺の本陣さえ、気の緩みは甚だしいとか。
後詰めの士気においては、改めて触れるまでもない。大内家の陣内では、武将よりも御伽衆や猿楽衆のほうが、お屋形さまの無聊をお慰めするべく、毎日の催しに奮闘していた。
そう。お屋形さまは常に無聊を託っておられた。
何しろ、戦に来たのに、戦のない日々が続いている。
「次は何を致そうか」が、口癖にもなる。
お知り合いを訪問されれば、少しはご気分も晴れるかもしれない。応仁の乱の際、長らく都に滞在し、ご正室まで娶られたお屋形さまには、公方さまや縁戚にある大名家、はたまた公家衆、その他諸々の顔見知りが、それこそ山のようにおられた。
とはいえ、お屋形さまには、気儘に出歩いてもいられない、特別な事情があった。なぜなら、お屋形さまのお身柄は、都にない、とされているからだ。
新介さまのご上洛は、「体調が優れぬゆえ」と、遠征を断られたお屋形さまの、名代としてである。山口で病臥しておられるはずのお屋形さまが、都であちこちに顔を出すわけにはいかない。
周防のお館では、保寿寺の以参和尚あたりが扮したお屋形さまが、てきぱき政務を執っている――振りをしている。影武者を仕立ててまで、秘密裏に上洛された目的は、誰にも知らされていない。
「用事が済めば、あとは新介に任せて、とっとと国許へ帰るわい」との、極秘のお心積もりであった。
ただ、そのご用事がいつ頃に片付くかは、お屋形さまご自身にも予想がつかないようだ。
「気長に構えるか」と、ご正室の今小路さまばかりか、鍾愛される姫君まで山口から伴われた。
陣中に置かれるには、さすがに憚られたのだろう。宿舎は別にしておられる。
それが、ますます無聊を煽ったのかもしれない。耐えられなくなったお屋形さまは、今小路さまを前面に立てて、とうとう南都まで物見遊山にお出掛けになった。
華麗に仕立てた警固の数は、攻め込むばかりの、およそ三千。女房衆も、やたら多い。着飾った女たちが笑いさざめく陣容に、いったい畿内まで何をしに来たのかと、誰もが首を傾げた。
ともかく興明は、公方さまによる大号令で遠征したとは思えない長閑で華やいだ陣中にあった。
「このところ毎日のように、猿楽が演じられておるな。四月みたいに、今小路さまのお供に駆り出されるよりは結構だが、俺たちには文字どおり、出る幕がない。昨日なんて、あの同朋の恩阿弥までもが、俺を無視して素通りしおった。いつもなら、顔を合わせるたびに、襁褓の内からお慕いしておりまする~、とか何とか、挨拶代わりに口説いてくるくせに。いや、男に口説かれたくもないが」
興明は今日の昼間、乳兄弟の新左衛門に向かって、手柄の一つも立てられない現状に不満を述べた。
「朔日の茶会に向けて、支度に余念がないのでござろう」と、新左衛門は同朋衆に同情を示した。
「それにしても、若は相変わらず、男にもてますな。その無駄に格好いい男っぷりでは、無理もござらぬが、毎晩、夜這いに来る男どもが引きも切らずとは、困ったもので。お躰に障りますぞ」
「やめんか、人聞きの悪い。それだと、俺が毎晩、皆を相手にしておるように聞こえる。誰とも共寝なんぞしておらんわい。だいたい、俺だって迷惑しておるのだ。まあ、あの連中も、戦がなくて、暇なんだろうがな」
「はいはい、躰に障るは、拙者のほうでござった。おかげで、追い払うのに忙しくて、おちおち寝てもおられませぬ。今だって、欠伸を噛み殺すに精一杯で。いや、これはいかん、耐えられん」
新左衛門は、ただでさえ細い目を糸のように狭めると、いかにも眠そうに大口を開けた。
「あふぅ。どうせお暇ならば、観世とか金春あたりの役者でも招いて、お好きな謡でも習うてみてはいかがで。討ち取った敵の数なら、今後も増えそうにござらぬが、これから覚える謡の数なら、鰻上りでござろう。他にも、歌や連歌、蹴鞠に包丁と、いろいろありますぞ」
「暇潰しに、習い事をせよと? 俺は戦に来たんだぞ。これ以上、楽しく過ごして、どうする」
「ならば、武芸を――と言いたいところでござるが、若は武芸全般、図抜けた腕前でござったな」
「いや、武芸ならば、更に精進せねばと考えておるが。侍の本分だからな」
「では、その向きで。よき師匠に巡り会えれば、昼といわず夜といわず、手取り足取り、懇ろな指南を仰げますぞ。たちまち血潮の滾る奥義に至り、至福のうちに秘技、あいや、秘戯、もとい、秘義を授かり、悦楽に浸りながら、千人斬りを達せられましょうな。あっという間に免許皆伝でござろう」
「何の武芸だよ。思わせ振りに、変な方向へ話を持っていくな」
まったく、どんな初陣だ。真面目に悩むのも馬鹿馬鹿しくなり、興明は口を噤んだ。
やはり、都になど、来るべきではなかった。上洛と聞いて、少しばかり、ときめいたとは認めるが、今は己の浅はかさまで、一緒に認めざるを得ない。
都が華やかと聞こえた時代は、大乱よりも昔。山口へ下向する公家の数を数えれば、どちらの街が栄えているか、考えるまでもない。
はるばる遠征してきたのに、ここでは輝かしい手柄など、期待するだけ空しい。宵闇の中で、青草の匂いに押し潰されそうになっていると、手塩に掛けた作物ばかりが、瞼の裏にちらついた。
「何のために、富田から百二十里の彼方にまで、はるばる出張ったんだろうな」
予想したとおり、隣からの返事はなかった。興明が寝起きする曹司で起居を共にする新左衛門は、護衛の役にありながら、とっくの昔に、傍らで高鼾を決め込んでいた。
二
――よく眠れるな。この、くっそ暑い中で。
興明はもう一度、寝返りを打とうとした。そのとき、微かに馬の嘶きが聞こえた。
枕を峙てると、確かに人の声がした。草摺の擦れる音は、杉戸の向こう、ほんの数間の先からか。
「起きろ、新左。また夜這いだ」
「のようでござるな」
熟睡していると見えた新左衛門は、小突かれるよりも遥かに早く、返事一つで飛び起きた。
「しかし、いつもとは様子が違う気がするな。馬で来たなら、話は別だが」
「そうかもしれませぬぞ。若が、あまりにつれないからと、馬に括りつけて、遠くへ勾引かしたうえで、日夜、弄ぼうとしておるのでは」
「嫌な話を作るなよ。それよりも、夜襲かもしれんぞ。後詰めといえども、俺たちは陣中にある」
「なるほど。本来の意味で、攻められておるので」
興明は新左衛門と同時に、枕元の刀を掴んで立ち上がった。じっとりとした夜気の向こうに、蹄の音を聞いた気がした。
耳を澄ませて、浅い呼吸を三つほど数えた。馬蹄が近づいてくる気配は、塵ほどもなかった。
「おかしいな。むしろ、遠退いて聞こえる。夜襲ではないようだが、こんな夜更けに、何だろう」
「若と間違えて、別の男を勾引かしたのではござらぬか」
「違うだろ。しかし、妙だな。見張りの話を聞いたほうがよいか」
といっても、不測の事態に陥った場合、見張りは真っ先に叔父の局に駆け込む。叔父が不在のときは、兄の下を目指す。興明のところには、まず、来ない。
「某が兵庫頭さま(陶弘詮)の局に一っ走りして、子細を伺うて参る。若は暫時、お待ちを」
新左衛門は袴も着けずに、曹司から出て行こうとした。そのとき、滑るように襖が開いた。
「五郎は、おるか! いや、関わりのない男どもまで、わんさか、おりそうな気がするが」
叔父の弘詮が、息急き切って飛び込んできた。興明は目を見張った。
この蒸風呂の中を、全力で駆けてきたのだろうか。額から首筋まで、暑苦しいほど汗が滲んでいる。
異常はそれだけではない。丸っこい面立ちと円満な気質のせいで、「地蔵の兵庫」と渾名される福々しい顔立ちから、今や完全に血の気が失われていた。
「おお、よかった。五郎は、おったか。はああ……」
叔父は膝に手を当てて前に屈むと、深く安堵の息を吐いた。慌てて身に着けたと思しき鎧直垂が、左の肩から、ずるっと滑った。
「何だよ、叔父上。まさか、叔父上まで、俺が勾引かされたと思うたのではあるまいな」
「何じゃと、我主が勾引かされる? 怪しからん、何の話じゃ」
「いや、何でもない。それよりも、叔父上こそ、何の話だ。こんな夜中に、俺がどこかへ行くと思うたのか。兄者ではあるまいに」
「おお、そうじゃ、その三郎じゃ! 我主がおったからというて、安堵しておる場合ではなかった」
ようやく思い出したとばかりに、叔父は頭を跳ね上げた。
「三郎が……三郎が、出奔しおった! 儂らに何も言わずに、出奔しおった!」
はあ? 兄者が、どうしたって? 口に出すさえ馬鹿馬鹿しく、興明は「ふん」と、鼻で笑った。
「また、何を言い出すかと思えば、叔父上」
「いや、真じゃ。馬を盗んで逃げたそうな。追わせておるが、どこへ向かうたか、皆目わからぬ」
叔父は眉を曇らせた。興明は内心、少し呆れた。やはり、叔父上は人が好すぎる。
恐らくは、兄とその側近たちに、まんまと一杯、食わされたのだ。退屈凌ぎのためならば、その程度の悪巫山戯くらい、平気でやってのける主と取巻き連中ではないか。
「兄者は陶の主だ。何の理由があって、そんな馬鹿な真似をする。きっと、向こうの局で寝ておるさ」
興明は、兄に宛がわれた南側の小部屋に向かって、つんと顎を突き出した。
口に出してはみたものの、最後の一点に関しては、実のところ、定かでなかった。
兄とて、暇を持て余している。もしかすると、兄はどこかから、このやり取りを窺いつつ、近侍たちと一緒に、ひいひい腹を抱えているのかもしれない。
興明は忍び足で小部屋へ向かうと、物音を立てずに襖を開けた。影も形もなかった。
ああ、そうだった。興明は肩を竦めて、振り返った。
出奔は間違いにしても、最近の兄は、ここにはいない。いるとすれば、庫裡だろう。
特に、このひと月は落ち着きがなく、たびたび僧坊を抜け出しては、隣に陣取る内藤の庫裡で寝泊まりする夜が増えていた。
きっと、今宵もそうなのだろう。何しろ、内藤の大将は、陶にとっての大恩人だ。幼かった己の代わりに、父の仇を討ち果たした人物として、兄は内藤弘矩に心酔していた。
内藤の側でも、兄の宵々の訪いを厭うている気色はない。それどころか、常に大歓迎の雰囲気だ。
弘矩の嫡男である弥七(内藤弘和)に至っては、
「三郎の奴めは、毎晩のように、俺に夜這いを仕掛けてくるぞ。今宵あたり、我主もどうだ」
などと、艶っぽい戯言を仕掛けては、その道が好みではない興明を、げんなりさせた。
もちろん、叔父は苦言を呈した。惣領が夜中に彷徨いていては、地下の者に示しがつかない。さりながら、弘矩のほうで兄を庇って、一向に取り合わなかった。
「よいではないか、兵庫頭。黙っておれば、わかりはせぬ。我主とて、若い頃は、やんちゃの一つもしたろうが。それに、この戦が終わった暁には、三郎は我が婿ぞ。もはや一族も同然よ」
およそ陣中には似合わぬ破顔を以て、弘矩はその都度、あっさりと叔父を追い返した。
「物見の者が申すには」
叔父はまだ、ぜいぜいと息を弾ませながら、今し方、受けた報告を興明に語った。
「三郎は何度も後ろを振り返りながら、転げるように厩に駆け込んだそうじゃ。厩番が駆け寄ったところ、乱暴に振り切って、馬を一頭、奪って逃げた。それがまた、三郎の馬ではなかった」
「ふん、兄者は浮気者だな。俺よりも遥かにいい馬に乗っておるくせに、余所の馬にまで手を出すとは。今の馬だって、乗り熟しておるとは言いがたいのに、欲張りだぞ」
「さてな。それにしても、よほど慌てておったのか、それとも、どの馬でもよかったのか。何しろ、今にも泣き叫びそうな、真っ青な顔色をしておったと、突き飛ばされた厩番が申しておった」
「そこまで聞いても、俺には信じられんな。だったら、何があったのだ」
興明は、ますます首を捻った。
守護大名として別格の大内家を除けば、陶家は周防で一番の身代を誇る。兄は、その陶の主たる地位にある。どうして、全てを捨てるものか。出奔など、何もかも捨て去ると同義であるのに。
背負った荷が重すぎるなどと、悩んでいるようには見えなかった。むしろ、最近では心配性の叔父を遠ざけて、気の合う侍臣たちに囲まれながら、気儘に日々を送っていた。
「放恣に過ぎる」と、叔父は小言を並べたものの、そこまで怠けていたわけでもない。此度の六角征伐とて、たとえ箔付けが目的にせよ、己の意思で臨んでいる。
父や叔父ほど働き者とはいえないにしても、当主としての面目は、曲がりなりにも施していた。
「どこからどう突いても、ただの悪巫山戯だ。番兵や厩番を疑うわけではないが、兄者は俺と三つ四つしか年齢が違わぬ。他人の馬を失敬してまで出奔したくなる理由が、どこにある。いつもと同じで、叔父上を担ぎたいだけさ。それなら、大いにあり得るだろう?」
興明は努めて軽口を叩いたものの、叔父は口を結んだままだった。温容な面差しに、苦渋の色が滲んでいる。親代わりにそんな表情をされては、さすがに居たたまれない。
「叔父上、今から内藤の陣に参ろう。なあに、兄者はきっと、そこにおる。いつもと同じさ」
曹司へ戻り、手早く鎧直垂に袖を通すと、興明は叔父を促して、内藤の庫裡へ足を向けた。新左衛門もあたふたと袴を穿きながら、興明の後に従った。
三
さほど壮麗な堂宇は見当たらないものの、広い法花堂の境内地には、幾つもの塔頭が点在する。お屋形さま父子が寝泊まりされる方丈と、陶の僧坊とを繋ぐ形で、内藤の庫裡は置かれていた。
主立った建物は全て渡廊で結ばれている。要所に置かれた松明が足下を照らすため、夜でも行き来はしやすい。興明は蒸して纏わりつく熱気の中を、叔父と並んで足早に突き進んだ。
渡廊の近くでは足軽たちが野営していた。寝苦しそうな息遣いが、そこら中から聞こえてくる。明け方には涼気も期待できようが、夜明けの空に顔を出すはずの細い月は、まだ欠片も見えなかった。
――中夜の鐘は聞いたよな。夜中の勤行は終わっておる。すると、子の刻から丑の刻くらいか。
興明は頭の中で現在の時刻を計った。
「毎晩、暑くて寝不足だ。この暑さで、兄者は頭をやられたのかな」
「そうであってくれればよいが。肥後守(内藤弘矩)が甘やかすから、三郎が付け上がるんじゃ」
叔父はやるせなさそうに、掠れた声で呟いた。
「我主の言うように、これが本当に悪戯としたら、儂はどうやって三郎を叱ってやろう。いや、やはり、儂の責任かのう。うちにも息子はおるというに、厳しい男親に徹しきれなかったようじゃ。兄者の大事な遺児と思うて、我儘放題に育ててしもうたか」
「はあ? 何で、そうなるんだよ。叔父上のせいであるものか」
項垂れた叔父の繰り言を、興明は言下に蹴り飛ばした。
その理屈で挑まれると、兄と同じく、興明までもが、真っ当に育たなかったと聞こえる。
「兄者と一緒にしないでくれ」と、喉元に出掛かった。実のところ興明も、兄に不満を抱いていた。
跪くのが少し遅かったという理由で、頭を踏みつけられた百姓がいる。話し声が甲高いというだけで、横っ面を張られた婢女もいた。
威張り散らすばかりの兄を、近侍は誰も諫めない。母の前では取り繕うから、ますます諫言しにくくなる。最近では、すぐ下の弟である興明さえ、手がつけられなくなっていた。
「叔父上。兄者を見つけたら、俺にも言いたいことがあるのだ。うん、今宵こそ、必ず言うてやろう」
後の言葉は呑み込んで、興明は力強く宣言した。新左衛門が即座に応じた。
「えええ? よもや、三郎さまに告白を? 若のお好みではないと思うてござったが」
「お前も、何で、そうなるんだよ。俺に男の好みがあるか」
興明は背後に回って、新左衛門の尻を蹴った。
やり取りを黙って眺めていた叔父は、後を告げなかった胸の内を察してくれたようだ。
「どちらも伝わるとよいな」と、穏やかな返事をくれた。
「だから、何で、そうなるんだよ。片方でよいのだ、片方で。もう片方は、違うって」
「それにしても、あれほど癇の強かった我主のほうが、今では、よほど辛抱強い。三郎は、よく吠える子犬が、図体ばかり、そのまま大きゅう育ってしもうたような……」
突然、向かう闇を切り裂いて、野太い叫び声が聞こえた。興明は面食らって、びくっと肩を怒らせた。足を止めた直後に、幾つもの細く鋭い音が散った。
「斬り合いか? 夜襲か、どこだ。まさか、兄者みたいに頭をやられた連中が、馬鹿騒ぎを押っ始めたのではあるまいな」
前後左右を確かめつつ、興明は鯉口を切った。内藤の庫裡まで、あと十間ほどの所だった。
「さてな。跳ねっ返りどもには特に、暑さで茹っておってもらいたいが。我主ら、動くなよ」
「喧嘩は喧嘩でも、痴話喧嘩ならば興が湧くに。拙者、争い事は苦手でござるが、致し方なし」
叔父と新左衛門も同様に鯉口を切った。三人で耳を欹てる。背筋を嫌な汗が伝った。
敵と思しき怪しい影が向かってくる気配は全くなかった。当面、襲撃の危険はなさそうだ。
「誰かある! 物見はおらぬか!」
叔父は強張った声で見張りを呼んだ。遠くで「これに!」と、声が答えた。
「今の悲鳴は何じゃ! 何があった。早う知らせに参れ」
「叔父上、お屋形さまの陣だ。向こうの渡廊が暗い。松明が消されておる」
物見が駆けつけるよりも早く、興明は低く告げた。
「いったい何があったのだ。いつもは、ここより明るいのに」
指差す先には、お屋形さまのおられる方丈の屋根が、ぼうっと浮かんでいるはずだった。照らす明かりのない闇に、伽藍の輪郭は深々と沈んでいる。
――お屋形さまは、ご無事だろうか。それに、新介さまは。
興明の胸に、言いようのない不安が広がった。
四
慌ただしい物音に気づいて興明は振り返った。走り寄る足軽が一人、松明の火に照らし出された。
「お屋形さまのご本陣に、何者かが侵入した模様!」
「何だって? ああ、新介さまが大変だ。畜生、すぐに参らねば」
口走るや、興明は床を蹴った。やはり、案じたとおりだ。常灯とする灯火が、一つ残らず消されているなど、尋常な事態であるものか。まず、見張りは全て倒されたと見るべきだ。
「待て、五郎! 一人で行く奴があるか! 敵が何人おるか、わからんのだぞ」
「誰が一人で行くか! 内藤の連中を叩き起こしてやる。ちょうど目の前におる」
振り返りもしなかった。興明は叫びながら内藤の庫裡に突進すると、杉戸に、どかっと、渾身の跳び蹴りを食らわせた。
「起きよ、内藤の衆! お屋形さまが一大事だ! それ、起きんか!」
大音声で呼ばわりながら、杉戸を猛然と蹴り飛ばした。直ちに新左衛門も従った。
「夜襲じゃあ!」と、飛び起きる物音が、各部屋の内側から次々に湧き起こった。
「叔父上も、突っ立っておらんで、うちの連中を集めてくれ! 早く!」
興明は振り返って怒鳴りつけた。乱暴な手際に、暫し唖然と立ち尽くしていた叔父は、俄かに我に返るや、周囲の足軽を呼び寄せた。既に何人かの物見たちが、叔父の下へ集結していた。
「そちは陶の陣へ走れ。皆を起こして、従えて参れ。そちは杉へ知らせよ。残りは五郎に倣え」
的確な指示に従って、二人の足軽が向こうの闇に消えた。別の三人は、庫裡の反対側へ向かった。あちこちで荒々しく杉戸が打ち鳴らされる。興明はその隙に、内藤の面々を捜した。
「内藤の親父、起きてくれよ! 弥七兄者、どこにおるのだ! 俺だ、五郎だ!」
絶叫に応えて、二間ほど向こうの杉戸が、がらっと勢いよく開いた。鞘ごと刀を抱えた弥七が豪快に大口を開けながら、のっそりと姿を現した。
「どうした、五郎。こんな遅くに訪ねてくるとは、我主にしては珍しいな。いかに荒くれどもをときめかせる蘭陵王でも、毎晩、寝込みを襲われては、逃げ出したくもなるか。はは、まあ、入れや」
誰が蘭陵王だ。睨みつければ、面白がって、ますます笑顔に磨きが掛かる。父親譲りの柔和な笑みは、非常の事態にそぐわない。
「兄者こそ、熊に似ておるからって、のんびり寝ておる場合ではないぞ。お屋形さまが……」
「何の騒ぎだ、五郎。もう、子の刻を過ぎておるぞ。夜遊びも大概にいたせ。兵庫に苦労を掛けるな」
弥七に続いて父親の弘矩が、両目を瞬かせながら顔を出した。弥七と違って笑顔はない。真夜中の訪問を、さすがに喜んではいなかった。
「まさか我主、お館の藤棚の如くに、寺を打ち壊すつもりか。寺の修理費は藤棚よりも高くつくぞ」
「違う、違う。お屋形さまが襲われておるのだ。内藤の衆を率いて、今すぐ、俺と一緒に来てくれ」
弘矩は「えっ」と目を剥いて、弥七と顔を見合わせた。興明は二人の合間をするりと縫うや、庫裡の中に向かって叫んだ。
「兄者ーっ! おるんだろう? 起きてくれよ、陶三郎! お屋形さまが大変だ!」
三つ数えても、何の返事も聞こえなかった。興明は頭に来て、部屋の中へ踏み込んだ。
隣室から物音が聞こえた。戸を開けると、弥七の弟たちが慌ただしく、袴を穿いている最中だった。
その中に一つだけ、陶で見知った顔があった。兄の乳兄弟の梶原四郎丸だ。四郎丸は今にも頽れそうな情けない面持ちで、神妙に畏まっていた。
四郎丸は、いつでも兄と行動を共にして兄の護衛を務めている。常に側近くに控える四郎丸がいるのであれば、兄もやはり、ここにいる。
興明は安堵するとともに、無性に腹が立ってきた。何が馬盗人だ。叔父上を謀りおって。
「兄者! こんなときに陶の惣領が駆けつけなくて、どうする! 次男坊の俺が行って、主の兄者が何もせなんだら、ちっとも格好がつかんだろうが!」
またもや、答える声はなかった。いったい、どこで寝入っているのか。
「よもや、その辺りの見目好き小姓にでも、夜這いを仕掛けておられるのでは」
新左衛門が小声で告げた。
「先日、四郎丸どのが吹聴してござった。三郎さまと、よろしき仲になれたと。念者に浮気されたのであれば、あの無法者が、あのように消沈しておっても、無理はござらぬ」
「また、それかよ。あれは一時の気の迷いだろ。兄者は根っからの女好きだ。男に浮気はせぬ」
呆れながら応じつつも、四郎丸の落胆ぶりには、頷ける節もあった。
「ええい、痴話喧嘩でもしておれ。兄者を待ってはおられぬ。四郎丸よ、俺は先に参るゆえ、兄者に早う支度させよ」
四郎丸の返事を待たずに、興明は濡れ縁に駆け戻った。既に十人ほどの足軽たちが、刀や槍を手にしつつ、出撃の命を待っていた。
「ええ男じゃねえか。あねえな色男の侍が、殿さまの許におったたあ」
「着ちょる物がええぞ。何番目かの若君じゃろ。熊には見えねえけえ、弥七さまたあ母御が違うな」
一番遠くにいる足軽二人の、賑やかな軽口が耳に入った。内藤の子息に勘違いされるとは、むしろ都合がよい。興明は刀を抜き払うと、頭上に高々と掲げた。
「皆の衆よ! これより、お屋形さまをお助けに参る。一番槍を望むなら、得物を取って俺に続け。ぐずぐずするな。すぐにも陶が追いつくぞ」
まっしぐらに駆け出すと、続々と足音が追ってきた。戦働きなど一つも望めそうにない陣中で、千載一遇の手柄を期待しているに違いない。後ろを確かめて興明はふと、先頭の一人に目を留めた。
集団の一番手を、細身の足軽が駆けている。足取りが軽やかで、まるで機嫌のよい小鹿だ。顔立ちは整っているが、身の丈は、かなり小柄だろう。
――小さいと思うたら、何と、前髪立てではないか! いったい幾つだ。
再度、振り向いて目を凝らしても、やはり子供にしか見えない。二十歳を過ぎても元服できない、特殊な事情の大人もいるが、その類ではなさそうだ。興明は目を剥いた。
元服もまだの小僧が、どうして戦の陣にいるのか。
領地をいきなり奇襲されての、守りの形勢ならばともかく、ここは領国から遠く離れた、勝ち戦の長閑な後詰めだ。前髪立てまで駆り出す理由は、どこにも見当たらない。
あの細っこい躰つきで、どこまで、まともに戦えるのか。いや、そもそも、参陣すべき理由があるなら、どれほど幼い齢であっても、初冠は済ませるだろう。成人してから来い、と言いたい。
余所の家の事情とはいえ、全く釈然としない。興明は三度、後ろを振り返った。
子鹿は凛々しく眉を吊り上げて、真剣そのものだ。年齢は誰より若いはずなのに、面構えは悪くない。隣に並んだ髭面と、互いに肘を突き合わせて、堂々と先陣を競っていた。
周囲の荒くれ者たちも、小僧なんぞに負けてたまるかと、余計に気合いが入るようだ。子鹿の後ろに従う足音は、次第にどやどやと膨れていった。
「これ、五郎! 我主が指揮を執るでない! 儂が大将だぞ!」
後ろから弘矩の大声が聞こえた。全く以て、そのとおりだ。後で叔父上から謝ってもらわんと。
頭では理解したものの、今は一刻を争う。興明は脇目も振らずに、お屋形さまを目指して駆けた。
五
暗い渡廊の向こう側で、打ち物が鳴っている。渡廊から方丈へ至る板戸は開いていた。怒号に混じって、時折、ふっと、掠れた悲鳴が聞こえた。
この暗さで、よくも周りが見えるものだ。まさか、忍だろうか。興明は西の入口で振り返った。
「新左、火の支度は調うたか。この灯りが頼みの綱だからな」
「取って参った。者ども、前へ。若のお側へ寄るがよい。目の保養にもなるぞ」
松明を掲げた足軽たちが、新左衛門に急かされて進み出た。揺らぐ炎に照らされて、邸内が黒々とした口を開けた。興明は松明の火に浮かび上がった猛禽のような顔という顔を、ぐるりと見回した。
「ざっと二十名か。勇ましそうで何よりだが、この頭数では、この場に残せる余裕はないな」
「左様でござる。しかも、建物の四方は蔀戸ばかりで」
蔀戸か。敵が逃げようと画策すれば、どの方向からでも、難なく外に出られる。賊の逃亡を阻止するためには、いずれ駆けつける陶の足軽を当てにするしかない。
興明は直ちに考えを纏めると、後方にいる叔父に向かって大声を張り上げた。
「叔父上! 俺は内藤の衆と一緒に、中へ入る。叔父上はここに残って、周りを取り囲んでくれ」
「承知! 逃げる輩は儂に任せよ。できるだけ外へ出すよう、上手く仕向けろ」
叔父は即座に大声で応じた。別行動に移る甥を思いやる胸の内が、八の字を描く眉に滲んでいた。
故郷の富田の近隣では、興明の腕っ節の強さは、特に群を抜いていた。同年輩の相手であれば、相撲で負けた例はない。弓でも槍でも褒め称されて、剣の腕も図抜けていた。
年長の兄でさえ、ここ二年か三年ほどは、木刀を手にした興明から、ただの一本も奪えなかった。
しかし、実戦となれば、話は別だ。華々しく飾るはずだった初陣からして、こうして後詰めに徹している。山口へ帰るまでに、一度くらいは合戦を経験するのだろうか。
誰も口には出さないものの、「武将としては半人前」が、興明に対する一致した見解だろう。叔父が、いかに興明の身を案じているか、興明にも痛いほど感じられた。
さりながら、今はお屋形さまと新介さまのお命が、嘗てない危機に曝されている。そんな事態に、陶弘護の血を引く息子が、おめおめと引き下がるわけにいくものか。
惣領たる兄に至っては、間に合うかさえ定かでない。興明は自らを鼓舞すべく、声を振り絞った。
「皆の衆よ! 夜襲で心すべきは同士討ちだ。ゆえに、合い言葉を決めておく。『寺』と『鐘』だ。向かう相手が敵か味方か、わからなければ、『寺』と問い、『鐘』と答えよ。では、いざ参る!」
興明は松明持ちを伴って、堂の内へと飛び込んだ。すぐ後ろに弘矩と弥七が続いた。
「何とまあ、符丁まで勝手に決められてしもうたわい。一人残らず、儂の兵だと申すに」
「したが、父者よ。こうなったからには、我らも覚悟を決めねばなるまいな」
「ううむ、致し方あるまい。大人しゅう、五郎めに従いて行くしかないわい」
背後から、ぼそぼそと、二人の掛け合いが聞こえた。
呆れるほど、覇気も闘志も感じられない。まったく、何たる体たらくだ。父が死んで以来、内藤といえば、家臣団随一の勢力のはず。
その家の主と嫡男が、半人前の若造に「従いて行く」だと? 堪りかねて、興明は怒鳴りつけた。
「親父も兄者も、寝惚けた与太を言わんでくれ! 誰が大将か、これでは本当にわからんぞ」
「そう怒るなよ。それだけ我主を当てにしておるのだ。なあ、大将」
弥七から、またまた気の抜けた返事があった。
入口から広縁を突っ切って、一同は最初の部屋に突入した。二間四方の小振りな曹司だ。松明を照らすと、部屋の隅に、倒れた灯明台が浮かび上がった。
「この曹司は、確か、申次が使うておったな。はて、おかしいぞ。誰もおらんのか」
枕が三つ、人が眠っていたように置いてあった。隅々まで照らしてみたものの、人間は一人もいない。斬り合いがあったとも見えなかった。
次の間に続く襖が開いていた。暗がりの向こうを見ると、その先の襖も開け放されていた。
いずれの部屋でも灯火は消えている。その先の襖までは、松明の灯りも届かない。三つ先の部屋へ続く襖は、開いているのか、わからないまま、闇の中に埋もれていた。
きっと、同じように開いている。己の逃げ道を、曲者が手間を掛けて塞ぐものか。確信しつつ、興明は次の間へと踏み込んだ。
「ここと隣には、直参の侍衆が配置されておったよな。その辺りに誰か、転がっておるか」
興明は松明を翳した。新左衛門が首を捻った。
「人間らしき姿は、どこにも見つけられませぬな。神隠しにでも遭うたようで」
この部屋でも、枕が幾つか散乱していた。ひっくり返った杯と、酒の入った徳利もあった。
身を横たえていたと思しき位置の床に、手を広げて触れてみた。まだ微かに温かい。汗塗れであったのか、湿り気まで残っていた。
「間違いない。つい先刻まで、ここで皆、寝ておったのだ。そうだよな、親父」
興明は横を向いて、弘矩に同意を求めた。弘矩は一言も答えなかった。いや、胸の内では、何かを訴えていたかもしれない。これまで一度も見た覚えのない強張った顔が、興明の傍らにあった。
弘矩は眉間に跡がつきそうなくらい、きつく眉根を寄せていた。薄い唇は真一文字に引き結ばれて、いつもの柔らかな微笑みは、跡形もなく消えている。興明は目を見張った。
「どうしたんだよ、親父。さっきから黙りこくって。そんなに魂消ておるのか」
返事は、すぐには貰えなかった。浅い呼吸を五つほど数えて、弘矩がようやく応じた。
「誰もおらん……だと? そんな、馬鹿な……取次役は……侍衆は、どうした」
微かに震えた、怯えを含んだ声だった。弘矩に寄り添う弥七の声も、「あり得んだろう」と、同じように嗄れている。興明は肩を竦めた。
日頃から「熊」と渾名される弥七は、まず、体格が熊に似て、いつも、どっしりと構えている。十歳ほど年長のせいか、興明の目には、常に頼り甲斐のある男として映っていた。
のんびりとした言葉つきも、堂々として、悪くない。血の繋がった兄に対して、少なからぬ反発を抱いていた興明にとって、武将として目指す手本があるとすれば、この内藤の嫡男だった。
それが、今夜はどうしてか、かなり調子が外れている。
「しっかりしてくれ、親父に兄者。ここに突っ立って、おかしい、おかしいと言い合うておっても、いっかな埒が明かん。とにかく、先へ進もう」
興明は駆け出した。どこの部屋でも、様子はきっと最初と同じだ。そう判断して、足を速めた。
「次は、小姓たちの控えの間だったよな。こうなったら、連中もきっと、おらんだろう」
確かめながら踏み込んでも、やはり、誰もいなかった。後に続く足音が、心なしか弱々しい。
「なぜだ、どこへ消えたのだ。この場に一人もおらんなど、断じて、あってはならぬ」
弘矩と弥七は念仏でも唱えるように、ぶつぶつと口を動かした。
「後ろで、ごちゃごちゃ言わんでくれ。どこかで戦うておるに決まっておる」
諭すように告げてみたものの、二人には、まるで聞こえていなかった。
六
興明の一行は、二つ目の小姓の間を小走りで抜けた。そのとき再び、彼方の声を聞いた。
罵声とも窺える、幾人かの喚き声だ。急がねば、と足を速めた。
もう一度、怒号が聞こえた。はて、今の方向は――? 頭の中で閃光が爆ぜた。
「待て! 一同、止まれ! こっちではない。これ以上は、無駄足だ」
興明は先頭で踏鞴を踏んだ。刹那、何かが後ろから、どすっと左肩にぶつかった。蹌踉めいた塊が、「おわあ」と、前に飛び出した。間抜けな声を上げながら、弥七が板の間につんのめった。
次の瞬間、また何かの塊が、思いきり右肩に打ち当たった。
「あいたーっ! いたたたた。ええい、この間抜けが。我主、突然、止まるでない。腰を打ったわい」
憐れっぽい呻き声が、すぐ側の足元から聞こえた。痛そうに腰を押さえながら、弘矩が仰向けに転がっていた。興明は信じられない思いで、二人に代わる代わる目を向けた。
熊のような体格でいて、弥七の動きは俊敏だった。
愛馬に跨がり、華麗に山野を駆け巡る姿は、見る者の目を惹きつけずにはおかない。緩慢ともいえる日頃の所作は、味方をも欺くためと、まことしやかに囁かれていた。
それほど身の熟しの軽い弥七が、情けない声を上げて、頭から床にめり込むとは。
五十歳を目前に控えた弘矩とて、武術では、まだまだ弥七に負けていない。二人とも、余計な雑念で、頭が一杯だったに違いない。
「しっかりしてくれよ、親父に兄者。いきなり止まったからって、あの程度の速さだぞ。こんなに無様にすっ転ぶなんて、この中で親父と兄者だけだ」
後続の足軽たちを顧みれば、すぐさま、態とらしく目を逸らして、苦笑いを堪えている。興明と目が合った子鹿のような前髪立ては、遠慮もなく歯を見せて、「格好悪~い」と唇を動かした。
「親父、気をつけろよ、危ないぞ。俺が欲しいのは賊の首だ。親父の首など、要らん」
興明は右腕を軽く振った。揺れる手元に、弘矩が不思議そうに目をやった。
「おわっ、危ないわい! そんなものを突きつけて、我主、儂をどうする気だ」
尻餅を搗いたまま、弘矩は思いきり興明の右手を弾いた。目の前にぶら下がる白刃に、今、ようやく気がついた顔だ。初めから抜いていたのに、いったい、どれだけ「心ここに有らず」なのか。
「いい加減、寝惚けておらんで、早く目を覚ましてくれよ。親父が一番、惚けておるぞ」
興明は苛つきながら、弘矩に左手を差し伸べた。
「我主が急に立ち止まるからだ。ええい、早う、ご寝所へ参らねば」
「いや、ご寝所ではない!」
興明は凛と制すると、物音が聞こえたほうへ、勿体をつけて躰を向けた。更に、態とらしく左の人差し指を唇に立てて、声を囁きに変えた。
「ご寝所ではない。別の場所だ。ほら、左から聞こえるだろう。お屋形さまのご寝所は、東の端から一つ手前。新介さまが御座すは、その右にある、枯山水の庭に面した局だ。騒ぎがあの辺りだとしたら、あの悲鳴も、斬り合う音も、右から聞こえてくるはずだ。だが、俺には左から聞こえる」
「なるほど。確かに、左様にござるな。某にも、左のほうから聞こえてござる」
目を剥くばかりで、何も答えない弘矩の代わりに、新左衛門が頷いた。
「この邸内で襲われるとしたら、お屋形さまか、新介さましかおられぬ。ならば、火元はお二人のご寝所に違いないと、俺は頭から決めつけておった。とんだ見当違いだ。煙は、まるで別の場所から立っておる。迂闊だった。親父、早く参ろう。兄者もだ」
興明は顎を刳った。弘矩は差し伸べられた手を掴まずに、ゆらりと立ち上がった。弥七も素早く身を起こした。二人とも、少しも無駄のない身の熟しだった。
「ふん。我主のおかげで、目が覚めたわい。詳しゅう述べてもろうて、礼を言わねばなるまいな」
弘矩は息を殺して耳を欹てると、隣の弥七に目配せを送った。弥七も無言で頷いた。なぜか、目だけが爛々(らんらん)と、松明の火に光って見えた。
「今後は二手に分かれねばならん。既に斬り合いが起きておるなら、新たな策に出るべきだ」
弘矩が新しい戦略を打ち出した。もはや、声に震えはない。
「挟み撃ちだな? それは良い。俺も親父の策に乗ろう」
興明は身を乗り出した。目指す場所にもよりけりだが、二十人もいれば、余裕はある。
富田では、幼い頃から、戦の真似事で遊んでいた。実戦の経験はないものの、戦術に差はあるまい。つまりは、囲い込んで、一網打尽だ。
「いいや、そうではない」と、弘矩は左右にゆっくり首を振った。
「ここからは、右と左に分かれる。儂はご寝所のほうからも、物音を聞いたでな」
「何だって? そんなはずがあるか。よく聞いてくれ。ほら、今だって……」
耳を澄ませば、物音は確かに左から聞こえる。右など、静まり返っている。敵は確かに左にいるのに、なぜ、誰もいないはずの右にまで、貴重な戦力を投じなくてはならない。
「右からも聞こえたぞ」と、弘矩が口を開いた。
「今のは左からであったがな、さっきの物音は、間違いなく右からだった」
「それにな、五郎。ご寝所の様子を確かめる必要もあるぞ。ご無事かどうかも含めてな」
弥七も同じ意見だった。ぽかんと口を開いた興明に向かって、弥七は片手を耳に宛がった。
「ああ、ほら。今の音も、ご寝所のほうからだ。よく聴いてみろよ」
興明は弥七に倣って、注意深く聞き耳を立てた。右からは、何も聞こえてこない。
「おっと、まただぞ。今のは、ちゃんと聞こえたよな? さっきのよりも、はっきりしておったでな」
いいや、何も聞こえない。まさか、自分だけ、聞き漏らしたのか。興明は更に耳を欹てた。
「五郎よ。我主はこのまま、ご寝所へ向かえ」
「ええっ? ご寝所? 俺が? どうしてだよ! あっちには誰もいないって!」
意味するところが全くわからず、興明は首を跳ね上げた。弘矩は構わず続けた。
「新介さまのお部屋も、確認を怠るなよ。兵を半分、貸してやる。儂らは、あっちの始末をつける」
弘矩は、くいっと顎を突き出して、己が進む左を示した。
「待ってくれ。俺は納得がいかん。物音は左からしか聞こえなかった。だいたい、ご寝所、ご寝所と言い張るなら、親父と兄者が向かえばよいではないか。俺は左へ行って、お屋形さまを探す」
「それは、いかん! 断じて、ならぬ! いいから、儂の言うことを聞け。ここでは儂が大将だ」
弘矩は覆い被さるように、がばっと身を乗り出した。
「この先を、一度も戦場を踏んでおらぬ我主に、どうして任せられる。だいたい、儂の兵だろうが」
そこを突かれては、一言も返せない。指揮権は、あるべきところへ返った。
「よし。では、そこから、そこの柱まで。そなたらは、儂と一緒に参れ。残りは、陶五郎に従え」
弘矩は興明に十人の足軽を宛がった。不承不承ではあるものの、ご寝所へ向かうしかない。
「ならば、ありがたく借りるとしよう。内藤の衆よ、我に続け!」
踵を返して駆け出すと、どやどやと足音が追ってきた。背後で威勢のいい咆哮が上がった。
「皆の衆よ、賊を斬れ! 斬って、斬って、斬りまくれ! 一人残らず、叩き斬るのだ!」
「斬った者には、望むがままの褒美を取らすぞ! 一夜にして有徳人だ!」
弘矩と弥七が競うように叫んでいる。先刻までとは打って変わった、実に勇ましい雄叫びだ。
七
ご寝所へと向かいながらも、興明は頻りに首を捻った。
進むべき方向からは、誰かの悲鳴も、打ち物が鳴る音も、何一つ聞こえてこない。あのとき弥七には、いったい何が聞こえたのか。
弥七は自信たっぷりに物音を指摘した。聞き逃してしまったかと、興明は己の力不足を恥じた。
「なあ、新左。お前には何か聞こえたか。情けないことに、俺には全く聞こえなかったのだが」
「実は、某にも全く。弥七さまが聞いた物音とは、はてさて、何だったのでござろう」
新左衛門も首を傾げた。ならば、弥七のほうが、空耳だったのかもしれない。その証拠に、賊など一人も手向かってこない。
そもそも、誰にも会わずに来たところからして、全く腑に落ちない。
刀を振り回していなくてもいい。生きていても、いなくても、どちらであろうと構わない。敵であれ、味方であれ、一人でも床に転がっていたのであれば、まだ説得力もあった。
「結局、誰もおらんぞ。争った形跡もない。血の臭いさえ漂うておらぬ」
「本当に、ないない尽くしでござるな。狐にでも化かされた気分でござる」
「でもな、誰かが寝ていたことだけは、確かなんだよな。ここでもそうだし、ほら、そっちでも」
隣の曹司に歩みを進めて、興明は足元に目を向けた。この曹司でも、枕が幾つも転がっていた。興明は枕の一つ一つを指し示した。
「お前、枕の位置を見て、何か思わんか。今まで通ってきた曹司も含めて」
「はて、そういえば、真ん中に道ができておるような」
新左衛門も気がついた。
皆が好き勝手な場所に寝転がっていたように見えて、実は一つだけ法則があった。中央の通路だけは、きっちり確保されていた。
徳利や杯、手拭いや文具類など、床に散らばっていた類もある。それでも、足場には何一つ、邪魔になる道具は落ちていない。
「そうだ。だから、今も俺たちは何かを踏みつける心配もせず、平然と足を踏み出せる」
これは単なる偶然だろうか。まるで、曲者のために場所を空け、道を作り、「御出でませ」と、不気味に誘っているような――。
「はは、まさかな。そんなわけがあるか。俺の思い過ごしだ」
頭に浮かんだ考えを、興明は即座に笑って追い払った。
「お屋形さまから仕掛けられたわけがない。襲撃されると知っておられたなら、陶にも内藤にも、とっくに伝令が走ったはずだ」
「左様でござる。事前に知らされておったならば、兵庫頭さまは迎撃の手筈を万全に調えておられたでござろう。若だって、今、率いているはずの足軽は、陶の手駒であったはず」
確かに、新左衛門の言うとおりだ。興明は頭を振って、可能性を打ち消した。もやもやと考えているうちに、ご寝所の前に到着した。
この部屋の襖だけは、ぴっちりと閉まっていた。興明は息を殺して、襖絵の飛龍と睨み合った。襖の向こうに潜む気配に、じっと耳を欹てた。
何も物音が聞こえなくても、賊が待ち伏せている危険はある。襖を開けるや、味方の死体の山が、興明に向かって崩れてくるかもしれない。油断は禁物だ。
「お屋形さま、陶五郎でござる。夜分に失礼仕る。ご無事であらせまするか」
興明は平静を心懸けて、丁寧にお呼びした。ご返答は何もなかった。
これまでの経緯に照らせば、むざむざと敵の手に掛かったとは考えられない。無事にお逃げあそばしたご様子だ。まずは、よしとしよう。安堵の息を吐いた瞬間、弘矩の顔が頭に浮かんだ。
やはり、無駄骨を折らされた。はっきりした途端に、無性に腹が立ってきた。襖絵の飛龍までもが、言われるがまま、ここまで差し向けられた己の青臭さを、うすら笑っている気がする。
「こん畜生! 何の音を聞いたって? ふざけるなよ、この野郎!」
興明は大層な墨絵の龍を向こう側へ蹴り飛ばした。襖は、どうっ、と唸りをつけて、静かなご寝所へ倒れ込んだ。地に這う飛龍を足蹴にして、興明は遠慮もなく室内に踏み込んだ。
「貸せ」と、足軽から松明を奪い、自ら暗がりに翳す。明々と炎に照らし出されたものは、値の張りそうな調度類ばかりだ。興明は、ありったけの力で床板を踏み鳴らした。
「あの糞親父め! どこを見たって、敵など一人もおらぬぞ!」
交戦の末に蹲った怪我人もいない。足音を察知して逃げ出したわけでもないだろう。襖の地響きが収まってみれば、三間四方のご寝所に夜の静寂が訪れた。
「静かなものでござるな。弥七さまには、いったい何が聞こえたのでござろう」
「まったくだ。勝手な出鱈目を言いやがって。戻ったら取っ捕まえて、耳の穴を掻っ穿ってやる」
だが、その前に、新介さまのご無事を確かめなくては。興明は隣に回り込んで、曹司の様子を確認した。しんとして、お屋形さまのご寝所と変わりない。
「余計な手間を掛けさせられて、正真正銘の無駄足でございましたな」
残念そうな溜息で、ますます頭から湯気が立つ。しかし、怒ってばかりもいられない。ここでなくても、どこかで斬り合いは起きていた。
詰まるところ、弘矩たちが向かった場所だ。忌々しいが、今からでも合力しなくてはなるまい。
「覚えておれ。この騒ぎが収まったら必ずや、向こう臑に自慢の蹴りを食らわせてやる」
拳を握りつつ、振り返った。目の端に引っ掛かった物体が、あまりにも不自然だった。近づいて、よくよく見れば、寝具の畳に脱ぎ散らかされた何枚もの小袖だ。
「ええっ、嘘だろう? この糞暑い晩に、お屋形さまは小袖なんぞを被って休んでおられたのか」
興明は手前の一枚を手に取って、まじまじと眺めた。走り寄った新左衛門が、散らばった小袖を掻き集める。顔を見合わせて、二人で同じ笑いを浮かべた。
「さすがはお屋形さま。有徳人でござるなあ。全部が全部、値打ちものの絹でござる」
「しかも、全部が全部、袷だぞ。季節を、まるで無視しておる」
肌理の細かな、肌に吸いつく最高級の絹地。裏地には、これまた上等の、みっしりとした薄地が、惜し気もなく用いられている。いずれも、衣替えの直前まで、お屋形さまが着ておられたものだ。
「厚手の上等な生地だな。いったい何匁あるんだ。冬なら羨ましいかもな」
「腕に、ずしっと訴えますなあ。表地だけでも、軽く二貫を越えるでござろう」
「ほほお、二貫か。総裏となると何匁かな。うわ、考えただけで、どっと汗が噴き出してきたぞ」
「こんなものを被って寝ておられたのであれば、もはや苦行どころではござらぬ。地獄では」
「まったくだ。裏の和尚は何の地獄と申したか。そう、八熱地獄とやらだ」
地獄には、そういう灼熱の形相があると、富田を出立する頃、裏の海印寺の和尚が説法していた。
「――お屋形さまは、知っておられたのだな」
興明は手にした小袖に目を凝らした。
この散らばった衣類がなかったら、興明には、お二人が無事に脱出されたところまでしか想像できなかったろう。山と積まれた冬物衣料があればこそ、お屋形さまの邪気と稚気とが酌み取れた。
つまり、小袖は嫌味ったらしい小道具だ。賊どもを愚弄し、鼻で笑うための。
「小姓たちには、ちと気の毒でござったな。せっかく、きちんと仕舞った小袖を、再び取り出す作業に追われて。さぞや汗みずくだったでござろう」
「ああ。さすがは毎日、暇を持て余しておられるだけある。凄まじい念の入れようだ」
曲者たちも気づいたろう。短気な者なら、憤ったかもしれない。ここまで難なく辿り着いて、こんなに人を食った形で、計画の露見を告げられたのだから。
興明は辿った道を振り返った。招かれざる客をご寝所まで誘った通路が、闇の中に延びていた。
「若には、もう、お屋形さまの筋書きが読めてござるか」
一番、値の張りそうな小袖に遠慮なく腕を通しながら、新左衛門が問うてきた。
「だいたいはな」と、興明は頷いた。
「まず、侍衆や小姓たちだが、持ち場で寝た振りをしておった。もちろん、枕の位置をきちんと決めてな。お屋形さまのご命令どおり、息を潜めて、あるいは空々しく高鼾を掻きながら、賊が登場するときを、手薬煉を引いて待っておった」
暗がりの中に、賊を待ち伏せる幾人もの影が、うっすらと見えた気がした。
「そうとも知らず、曲者たちは侵入した。これはもう、誘き出されたに等しい。奴らは大勢の空寝の中を、各部屋の灯明を消しながら進んだ」
そう。遠慮もなく、安心しきって。奴らには何の気懸かりもなかった。
戦いの形跡が一つもなかった事実は、侍衆らが賊どもの行軍に対して何も対処せず、黙って、やり過ごした経過を意味している。曲者たちもまた、皆が眠りこけている状態を当然と受け止めた。
「奴らは恐らく、夕餉や寝酒に眠り薬を一服盛った。不寝番を作らぬために」
「眠り薬でござるか。はて、なぜ、毒ではなかったのでござろう。そもそも、お屋形さまに毒を飼うほうが、曲者に襲わせるよりも、遥かに安易に思えてござるが」
「お毒見役がわんさかおるから、それほど平易ではないと思うぞ。警固の侍衆や小姓どもまで狙うにしても、効き目がばらばらでは意味がない。誰か一人が死んだ時点で、警備は厳重になるからな」
「なるほど。むしろ眠り薬でなければ、都合が悪いのでござるな」
新左衛門が小さく唸った。
「むろん、薬を口に含んだ者は、ただの一人もおらん。だが、賊から見れば、侍衆も小姓たちも、正体もなく寝入っておる。薬の効き目に、少しは油断したかもしれんな。そうやって、奴らは、すんなりと、お屋形さまのお部屋に忍び込んだ」
お屋形さまを弑し奉るために。
興明は褥に向き直ると、腰を落として松明を翳した。枕から一尺ほど下がった辺りに、刃の幅の傷があった。刀を突き立て、抜き取った跡が、掌で弄った畳表から、ざらりと伝わった。
「小袖の嫌みに気がつかず、これ幸いと刺したのでござろうか」
「さてな。鼻先で笑われたことに気分を害したからかもしれんぞ」
どちらにしても、連中は、ここに至って気づかされた。蛻の殻が意味する事態に。
直前まで上手く運んでいた分、驚愕も凄まじかったろう。どんな顔付きで互いを見やったのか。
「その直後に、賊の背後で、襖が音を立てて閉まった。暇を持て余すお屋形さまなら、きっと、そうなさる。だから、この部屋の襖だけが閉まっておったのだ」
興明は、もう一度、後ろを振り返った。
役者は隣室の小姓たちか。賊を誘い入れてから音もなく忍び寄り、敵が開けた襖を閉めた。
閉める折りは、両側から示し合わせて、びしゃっ、と縁を打ち鳴らす。大きい音であるほどよい。意表を突くほど、曲者どもは肝を潰す。
何といっても、ここは一番の盛り上がりを見せる場面だ。お屋形さまのお人柄と、暇すぎる毎日を考えれば、事前に百回も特訓させたに違いなかった。
「小姓どもも気の毒にな。お目に留まる機会も多いが、ご機嫌も損ねやすい。宮仕えの辛いところだ」
「それにしても、お屋形さまは狂言回しとして、名人の域に達してござる」
「ああ。手玉に取られた曲者こそ、いい面の皮だったろうよ」
しかも、安全においては折り紙付きの退路までもが、一瞬にして背後で断たれた。
「さて、その続きは、どうなったかな。奴らはどこへ向かわされた」
興明は畳の向こうに広がる更なる暗がりを見つめた。東の広縁に繋がる襖が、興明を誘うように、間口いっぱいに開いていた。
八
西への退路は塞がれた。襖の向こうには間違いなく、抜刀した小姓たちが控えている。
「来た道を戻れないなら、南は、どうだ。新介さまの曹司は南向きだ。何枚か半蔀があったろう」
「暫時お待ちを。賊どもが利用したか、確かめて参る」
寸刻の後、予想したとおりの報告が返ってきた。
「さすがは、お屋形さま。どの蔀も、容易には開けられぬよう、がっちがちに固定されてござった。太い紐で五箇所ずつ、更にきつく縛められてござる。あれでは南へ逃げられませぬ」
ならば、北はどうだろう。興明は、西の外れで転がっていた侍たちを思い浮かべた。
「北は、侍衆が通せん坊をしたな。寝た振りをしておった侍衆だ。賊が通り過ぎた後、北の局か広縁を通れば、ご寝所の北側へ回り込める」
だとすると、やはり東に違いない。九分九厘、賊の正面たる東側が開いていた。誰も立ち塞がっていなかった。東へ向かえと言わんばかりに。
罠であるとは、曲者とて、重々承知していただろう。けれど、他に選択の余地はない。奴らは東へ向かって飛び出した。北から回った侍が、賊を東へ追い立てた。
「いやはや、さすがは、お屋形さまだ。曲者を筋書きどおりに動かされた」
呟きながら、興明は広縁へ足を踏み出した。
前面を照らして面食らった。太い縄で編まれた目の粗い網に、つい目が釘づけになる。渡廊の左右に建つ柱という柱の間に、人差し指ほどの荒縄が何十本も、整った格子状に渡されていた。
「幅も長さも、きっちり五寸間隔の編み目になってござる。踝から天井にかけて、これほどの網に囲まれては、叩き切る気も失せますな」
「ああ。しかも、途中途中の結び目ごとに、絶妙の緩みを持たせておる。この緩さでは、一刀両断とはいかん。叩き切ろうとしておる間に、己が叩き斬られるぞ」
興明は縄を掴んだ。ここまで細かく指示されたお屋形さまに、かなり病的な執念を感じた。
「若、あれは? お館さまは、また何をお考えになられて、あのようなものを」
新左衛門が狼狽えた声で、南へ向かう広縁を指差した。
目を向けた先では、やたら大きな行李やら長持やらが、広縁の幅いっぱいに積み上げられている。桐箱や葛籠も混じった道具類の山々は、優に人の背丈を超えた。
興明は近寄りながら、天辺を見上げた。
「この山は、言うてみれば関所だな。賊が南へ逸れないようにするための」
「ははあ、なるほど。それにしても、もう少し、積みようも、あったでござろうに。あの長櫃など、袷の小袖が入っておったのでは? 小姓たちの鬱積が積もり積もっておりますぞ」
新左衛門が揶揄するとおり、山の上から長櫃が、ずいと斜めに飛び出していた。
「確かにあれは、積み上げたというより、放り投げた感じだな。頭に来た小姓たちが八つ当たりしたんだろう。あんな冬物、本筋には関係ないからな。お屋形さまも、笑うて許されたのではないか」
二人で山を指差して、遠慮なく腹を抱えた。
「あいや、陶の若殿よ。うちの大将の許には、いつ駆けつけるのでござるか」
足軽の一人が、待ちくたびれた体で尋ねてきた。ここでは手柄の立てようがないと、向こうへ合流したいのだろう。興明は勿体振って腕を組んだ。
「さて、どうするかな。駆けつけてもよいが、今となっては、その意味があるかどうか」
忍び込んだ賊を、お屋形さまは東へ導こうとされた。曲者退治に向かうなら、進むべきは東だろう。東といえば、この方丈の裏側に、ごく短い渡廊で結ばれた大きな別棟がある。
「舞台はあの、でかい離れか。ふん、さぞや明るく照らされておるのだろうな」
「ようわかったな。それはもう、方丈と同じくらい念入りに支度をしたぞ」
お屋形さまを真似たつもりなのだろう。新左衛門が偉そうな口振りで胸を張った。
夜襲は、暗夜に奇襲してこそ。それを迎え撃つのであれば、煌々とした光が決め手となる。
あの離れならば、天井も高い。火を支度するに具合がよい。もちろん、刀を振るうにも。
「部屋の数は少なくとも、どれも大部屋でござる。何かと誂えやすいかと」
「はは。曲者どもは、お屋形さまのお誘いに、まんまと乗せられたわけだ。離れでは、お屋形さまご自慢の精鋭たちが、ずらりと待ち構えておったのだからな」
遠くで賑やかに打ち物が鳴っている。計画は順調に運んでいるのだろう。昼間のように明々と照らされた離れは、程なく賊の墓場となるに違いない。
「お屋形さまが支度しておられたなら、俺たちが親父の一行を案ずる必要はないよな」
「むしろ、屋内に十人も増えては、邪魔になりますぞ。肥後守さまはお味方から、かえって邪険に扱われておるやもしれませぬ」
「ははっ、そりゃあいい! 様あ見やがれだ。糞親父め、小物を相手に、せいぜい働け」
それよりも、優先すべきは、お屋形さまの警固だ。お屋形さまは今、どこにおられるのか。
離れにはおられまい。賊が間違いなく刀を振り翳して来る場所に、わざわざ顔を出す義理はない。興明は意気込んで声を張り上げた。
「俺たちは南へ行く! 賊は肥後守の親父に任せて、お屋形さまをお捜しするぞ!」
口にするだけの自信はあった。
がっちりと紐で結わえられ、開けられないように固められた、南向きの半蔀。
山と積み上げられた物入れが行く手を塞ぐ、南へ続く広縁。
決して南へ向かわせないよう、執拗なまでに仕向けられた数々の措置は、だからこそ、お屋形さまがそちらにおられると示す、紛う方なき証左だ。
ならば、南を捜す。どこにおられるのか、まだ見当はつかないが、とにかく、ご無事を確認する。いずれ駆けつける陶の軍勢を率いて、この手で新介さまをお守りする。
「今更、賊など退治に行っても、ろくに残っておらん。それよりも、お屋形さまをお守りするほうが、何層倍も価値がある。褒美とて、これでもかといただけるぞ。何しろ、お屋形さまは周防一の有徳人だからな。直にお声を掛けていただき、手ずからご褒美をいただいて、子々孫々に至るまで、我が家の宝といたすがよい」
高らかに名誉と褒美を宣言すると、足軽たちの間にざわめきが広がった。
「陶の若殿よ。賊を退治せんでも、お屋形さまを見つけりゃあ、ご褒美をいただけるんか」
「弥七さまは、褒美が欲しけりゃ賊を斬れちゅうて、叫っちょったけど」
「危ない橋を渡らんでもええんじゃったら、そりゃあ、ありがてえ。けど、話が美味すぎねえか」
足軽たちは口々に訊き返してくる。目の輝きが違っていた。
「賊を退治するよりも、お屋形さまを見つけるほうが、今は遥かに重要なのだ! よし、陶からも褒美を出そう。お屋形さまを見つけた者には、弥七が用意する褒美と同じ、いや、倍価のものを、俺が用意してやる。どうだ、文句があるか」
足軽たちに不満があろうはずがない。
「貧乏籤を引いたかと思うたけど、こっちで、えかったわい」などと、興明を称える者まで現れた。
「どこから南へ出られるんじゃ」「退け、退けぇ! 儂が先に参るぞ」
足軽たちは口々に叫びながら、我先に駆け出した。
九
南を探せと命じられた足軽たちは、南の半蔀へ群がった。
「ええい、こいつは忌々しい。こねえにきつく結ぶたあ、何者の仕業じゃ」
「誰か早う切ってくれ。儂の得物は槍なんじゃ。刀は塒に置いてきよった」
苛ついた人集りが口々に訴える。
「お前たちは何を聞いておった。だから、どの蔀も、がっちがちに固定されておるわい」
興明は呆れながら上の蔀の縄を切った。一つ切るたびに、足軽たちの意気が上がった。
「これで全部か。では、開けるとしよう。上の蔀は外から持ち上げて、蔀吊で固定するんだよな」
「左様で。しかし、皆が曹司の中におっては、内側から押して支える他に開ける方法はござらぬ」
「いちいち、掛けたり外したり、面倒なものだな。では、先に出た者に吊らせよう。皆、よう聞け。初めに外へ出た者は、この部位を吊り金具に引っ掛けよ」
興明は蔀の枠に手を掛けつつ、足軽たちに命じた。
「下の蔀は、填め込みのようで。上と蝶番で繋がっておって、一緒に折り上げる造りもござるが、こちらの蔀は外せませぬ。乗り越えさせるしかござらぬ」
「三尺程度の腰高なら、どうという苦労もあるまい。新左、そっちの端を持て。足軽たちを先に出す」
二人で躰の重みを預けた。上の蔀を「えいや」と押して、足軽たちに出るよう促す。
「儂らのために、若さまが押さえちょってくださるんで?」
「早く行きたいと、顔に書いてあるからな。褒美が待っておる。きりきり働けよ」
興明は意気込んで、足軽たちの背中を押した。
お屋形さまのご在所に、心当たりなど一つもない。堂宇を虱潰しに見て回る以外に、探索の方法があるだろうか。一刻も早く人手を送り込むためなら、蔀を支えてやるくらい、何の問題がある。
「やれ、忝や、ありがたや」「こっちの若殿に従うて、えかったあ」「儂、ご褒美は若君がええ」
好き放題、叫びながら、足軽たちは次々に蔀を乗り越えていった。
「おい、待て。誰か一人、そっちから吊れ。いつまで俺に支えさせる」
足軽たちは明らかに聞こえない振りをした。興明を無視して、先を争う者ばかりだ。
「ええい、豪華な褒美も善し悪しだな。最後まで俺に支えさせおって。ならば、そなたに命じる」
興明は最後に残った一人の襟首を、はっしと捕まえた。後ろを鷲掴みされた足軽が、恨めしそうに振り向いた。年の頃は二十歳を少し超えたくらいか。男のくせに、妙に生っ白い肌だ。
「某に何か御用じゃろか。はあ、最後じゃけえ、早う行きたいんじゃけど」
「そう恨めしげに見るな。この程度の差で見つかるようなお屋形さまではないぞ。蔀が上がらぬと、松明も持ち出せぬ。そなたも火が欲しくないか。言うとおりにすれば、後で一本やるぞ」
「ほいじゃったら、ありがたい。外に出た後で、これを引っ掛けりゃええんじゃな」
生っ白い若衆は、へらっと嬉しげに笑った。少しばかり間が抜けた面相で、人は好さそうだ。世辞にも強くはあるまいが、そもそも敵は作らないだろう。
若衆は下の蔀に手を掛けて、上半身を乗り出した。そのとき、「あれ?」と、外から鈴を鳴らすような声が掛かった。
「どうしたの、何か面倒でも? いつまで待っても来ないから、心配しちゃった」
足軽集団の先頭を子鹿のように駆けていた前髪立てが、向こうから、ひょっこりと顔を覗かせた。
どうやら、若衆と一緒に行動していたようだ。前髪立てのほうが先に蔀を乗り越えたものの、連れの遅れを訝しんで、舞い戻ってきたと見える。前髪立ては蔀を挟んで、若衆の顔を覗き込んだ。
「何でもありゃあせん。それよりも、前から言うちょるじゃろ。その声で喋っちゃ、いけんちゃ」
若衆は人差し指を唇の前に立てて、穏やかに諭した。変声期の喉を気遣っている口振りだ。前髪立ては若衆を上目に見て、「あは」と、両手で口元を覆った。
「何だ、そなたの弟か? それにしては、大して似ておらんようだが」
興明は何気なく若衆に訊いた。若衆はやけに嬉しそうに、へらへらと目を細めた。
「えへっ、兄者と似ていないって。でも、亡くなった母上は、二人とも色が白いって笑ったよね」
前髪立ては若衆を見上げて、悪戯っぽく呼び掛けた。
「お袋さまか、懐かしいのう」と、若衆は弟に満面の笑みを返した。
こういう、慈しみに満ちたやり取りが成り立つ兄弟もあるのか。興明は、和やかだったとは空言でも言いがたい兄への思いを振り返った。
前髪立ては興明にも笑顔を向けて、ぺこりと頭を下げた。子鹿のような体格のせいか、まだ、あどけなく見えるものの、きりりと整った清しい顔立ちだ。
澄んだ瞳に、凛とした雰囲気が漂っている。眼差しの奥の温もりに、とろりと融かされる気がした。
――これは、好い侍になる。
目が合った瞬間、興明は直感した。余所の家に属するとはいえ、軽輩の身分が惜しまれる。
「残念だな。そなたが内藤の家中でなければ、今すぐ、俺の小姓に欲しいところだ。そのうち、弥七にでも仕えるのか? まあ、俺の知る中では、弥七は誰より頼りになる。安心してよいぞ」
興明は前髪立ての頭を撫でた。前髪立ては困ったような面持ちで、僅かに頬を赤らめた。
どんな表情を見せても、目鼻立ちに典雅な華がある。へらへらした間抜け面の兄とは、似ても似つかない。初々しい笑顔に一瞬、お屋形さまを忘れた。
「見目も好い。あと何年かしたら、嫁に来たがる女に囲まれて、大変だろう。まあ、俺みたいに、どういうわけか男に言い寄られるより、よっぽど増しだ」
太鼓判を押してやると、前髪立ては気恥ずかしそうに俯いた。
「そんなことない」との呟きが、いかにも子供らしい。
――俺は、こういう、優しく声を掛けてやりたくなるような可愛げのある弟では、なかったな。
冷え切った関係のせいで、様々な面で兄を止められなかったかもしれない。自戒すれば、胸の中が少し、ほろ苦かった。
「さて、二人なら、ちょうどよい。左右一本ずつ、吊り金具に吊れ」
興明は兄弟に命じた。二人の力で、蔀は無事に持ち上がった。大の男が、身を屈めて乗り越えていた狭苦しい空間が、広々とした間口を開けた。
「ほいじゃ、お先に。お屋形さまを見つけますけえ、ご褒美をよろしゅう頼みますわい」
朗らかに挨拶して、足軽の兄弟は駆け出した。
「やっとだな。これでよい。さあ、俺たちも宝探しと参ろうか」
興明は半蔀に片脚を掛けた。ところが、去っていったはずの若衆と前髪立てが、また蔀を乗り越えて、転がり込んできた。
「ひゃああ、中に入れてくだされ! なして、我らが狙われるんじゃ!」
「助けて、助けて、殺される! こっちのほうが、曲者退治よりも、よっぽど危ないよ」
なぜ、戻ってくる。殺されるとは、何があった。向こうに賊がおるわけでもあるまいに。
興明は外に目を向けるや、言葉を失った。邸内にいたためか、今まで少しも気づかなかった。
いつの間にか、方丈の南庭では、幾つもの篝火が生き物のように蠢いていた。甲冑姿は、ざっと十を数えるほどか。しかし、着々と増えている。
「こやつじゃ、中から出てきおった! 怪しい奴め、そこへ直れ」
怒鳴る声が篝火の側から上がった。大声に応じて、右からも左からも、わらわらと兵が集まる。目に入る具足の数は、瞬く間に二十を超えた。
ぎりぎりと弓を引き絞る音があちこちから聞こえてくる。前を見れば、この一つだけ開いた蔀に狙いを絞って、弓衆が矢を番えているではないか!
興明は大慌てで蹲ると、近くの柱の陰に転がり込んだ。蔀の上で悪目立ちして、那須与一の扇よろしく、恰好の的にされて堪るか。
蹲み込んだ興明の上に、何かが、どさどさと降ってきた。若衆と前髪立てが興明を押さえつけて、ぎゅうと伸し掛かっていた。
「無礼者、俺を下敷きにするな! 隠れるなら、別の場所を選べ。他にも、そこらにあるだろうが」
「けど、若さまが一番危ねえ格好じゃ。鎧直垂しか着ちょらんじゃろ」
「そうだよ。足軽だって、腹巻くらいは身に着けているもの」
若衆は、有無を言わせず前髪立てを間に挟んで、興明に覆い被さった。まだ年若い前髪立ても、守ってあげると言わんばかりに、真剣な眼差しで興明にしがみついている。
当の護衛役は、と見れば、降ってきた若衆に蹴り飛ばされたようだ。新左衛門は興明から一間ほど先の板敷で、ごろんと仰向けに伸びていた。
「二人とも、退け。やはり、様子を確かめぬわけにはいかぬ。それに、元服もまだの子供に守られるなど、武士の恥だ。俺が武将として半人前なら、そなたは四分一だからな」
興明は生っ白い兄を振り払い、小柄な弟を引っ剥がすと、蔀の上から目だけを出した。
先に出ていった足軽たちは、状況の変化に尻込みして、一歩、また一歩と後退っている。目の前で矢を番えられ、数多の槍先まで向けられては、言葉が出なくても無理はない。
「陶の兵ではないのか。叔父上が率いておると期待しておるのだが、叔父上の姿が見えぬ」
興明は旗指物を探した。
「帰属がわかりそうなものは、一切、見えませぬな。あちらの雑兵どもも、夜中に叩き起こされたのであれば、支度が調うておらんでも無理はござらぬ。我らとて、何一つ持っておりませぬからな」
頭を摩りながら復活した新左衛門の声色からは、焦りが色濃く読み取れた。
篝火を灯しているからには、賊の一味ではない。むしろ、賊と見做されているのは、興明たち一同だ。向こうが陶の一団でなければ、賊に囲まれるよりも首が危ない。
見知った顔を探して、興明は目を動かした。赤々と炎が目につくばかりで、誰の判別もつかない。
「怪しい者じゃねえ。儂らは内藤じゃ」
外にいる足軽の一人が、ようやく重い口を開いた。
「黙れ、曲者! どこに肥後守さまがおられるか」
もっとも至極。興明は頭を抱えた。
「なあ、新左。ここで俺が名乗り出たら、解決すると思うか」
「うちの連中でなければ、更に、ややこしくなるのでは。夜中に内藤の手勢を引き連れた陶五郎が、すっからかんになったお屋形さまの方丈を、お屋形さまを探して、彷徨いておったのでござる」
誰を前にしても、一言では説明しにくい。興明は名乗りを先に延ばして、様子を見守った。
「曲者め。怪しゅうないと申す輩が、一番怪しいのじゃ。どう怪しゅうないのか、それ、言わんか」
相手方の槍衆が、これでもかと挑発する。槍衆は内藤勢に向かって、じりじりと歩を進めた。
「畜生め、やるしかねえ」「儂の腕を見せちゃるわい」
内藤の足軽たちも、思い出したように、それぞれの得物を握った。もともと、手柄を目当てに駆けつけた者たちだ。黙って震えたままではいない。
殺気を覗かせた敵を前に、相手側も陣形を見直したようだ。内藤の一人に対して複数で懸かると決めたか、幾つかの集団に分かれて、全員が武器を構え直した。
「まずいな、一触即発だ。俺も見つかっておる。中にまで斬り込んでくるだろうな」
興明も鯉口を切った。
味方と戦いたくはないものの、問答無用で攻め込まれたら、黙って斬られる謂れはない。だが、一人でも応じたら、総力戦に雪崩込む。この人数差で乱闘に持ち込まれたら、待つ結末は全滅だろう。
「かといって、逃げるわけにもいきませぬな」
「ああ。逃げたら、それこそ賊と見做される。訊く耳を持つ輩はおらんのか」
全身が粟立った。そのとき、向こうの一団から、「寺!」と、鋭く声が上がった。
「寺……? おっ、合い言葉か! 俺が決めたやつだよな」
興明は一呼吸を置いて思い出した。実は、もはや使う機会はあるまいと、弘矩への加勢を放棄した時点で、頭から消し去っていた。まさか、役に立つときが来ようとは。
符丁を知っているならば、外の集団は陶勢だ。合言葉を聞いていた叔父が、伝えてくれたに違いない。興明は半蔀から思いきり身を乗り出した。
「鐘だ、鐘! 寺といえば、鐘だ! 陶の者ども、よく見ろ、俺だ! 主に矢を向けるなよ!」
「その声は五郎じゃな? おお、無事でよかったわい」
懐かしい丸っこい姿が、右向こうから全速力で駆けて来た。
十
叔父が弓衆の構えを解かせる様を見届けて、興明は半蔀を乗り越え、濡れ縁から飛び降りた。
「怪我をしておらぬか? 神仏に感謝せねば。我主に何かあったら、儂は義姉上に顔向けできん」
走り寄った興明に、叔父は泣きそうな笑顔を見せた。
刀を携えているとはいえ、一度も実戦の経験がない甥っ子が、具足の一領もなく、自家の手勢も従えないまま、真っ暗な敵地へ乗り込んでいった。待つ身としては、生きた心地がしなかったろう。
無事を喜んでくれる表情を見て、興明もつい、弱音を吐きそうになった。気がつけば、帷子がびっしょりと背中に貼りついていた。
「叔父上には気を揉ませて悪かった。危ない真似はしておらん。身の危険を感じたのは、今だけだ」
戯言めかして謝ると、叔父は、ようやく、ほっこりと息を吐いた。
「儂も外を回ってみたが、我主はいったい、どこにおるのか。それがわからんままでは、手の打ちようがなくてな。それで、中の様子は、どうじゃ。お屋形さまは、ご無事か。賊はどうなった」
「それなんだけどな、叔父上。どうも、いろいろと可怪しいのだ」
興明は内部の子細を語った。加えて、それを基に頭を捻り、判断に至った事柄も。
「ふうむ。賊を別棟で迎え撃つよう、手配しておられたか。お屋形さまは襲撃をご存じだったのだな」
叔父は難しげな顔付きで、興明の考えに同意した。
「ああ。でも、家臣団に知らせる暇は、なかったんだろうな。お屋形さまと新介さまは今、少ない手勢を引き連れただけで、どこかへ避難しておられる。俺たちは、隠れておられるお二人をお迎えに行って、お守りせねばならん。叔父上、賊は内藤の親父に任せて、お屋形さまを捜そう」
興明は勢い込んで叔父の袖を引いた。
「まあ、待て待て。お屋形さまがご存じであられたなら、早まってはいかん。さて、どうするか」
叔父は頤を摩りながら、深く考え込んだ。暫くして上げた顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。ほぼ同じ背丈に並んだ興明の頭を、叔父は子供をあやすように、ぽん、ぽんと撫でた。
「無事に戻ってきたうえに、よくぞ、一人でそこまで考えたものよ。我主は儂の誇りじゃ」
「何だよ、叔父上、餓鬼扱いしやがって。俺は元服したんだぞ。子供扱いはやめてくれ」
「左様に剥れた顔をするな。褒めておるのじゃ。しかしな、我主の考えには一つだけ、間違いがあると儂は思うぞ」
じっと興明を見つめる瞳に、暗い影が差した。興明は落ち着いて尋ねた。
「そうか、やっぱりな。どの辺りが間違うておる。もしや、お屋形さまが俺たちに邀撃を命じられなかった、その理由か」
実は興明も、叔父に経緯を伝えつつ、何か妙だと考えていた。
あれだけ手の込んだ幾つもの仕掛けを、嫌がらせにしかならない類まで含めて、念入りにご用意なさったお屋形さまだ。家臣たちに知らせる暇は、十二分にあったろう。
「まさか、遣わした伝令が、途中で悉く斬られたとか」
叔父は重々しく首を左右に振った。
「違う。陶も疑われておるのじゃ。他家の連中と同じように」
「何だって? まさか! 俺たちが何を疑われるのだ。こんなに忠義に励んでおるのに」
興明は大声で目を剥いた。叔父は曖昧に笑って、眉を曇らせた。
「五郎よ。我主、襲撃の首魁は誰か、考えてみたか」
そういえば、賊の始末とお屋形さまのご無事しか、念頭になかった。興明は首を捻った。
「どんな計画であれ、策を練った者はおる。我主の畑と同じじゃ。種も蒔かず水もやらずに、ある日突然、豊かに実る作物など、どこにもない。育てるに難しい苗であれば、その道の腕利きが、土から丹念に耕す。此度の謀はそれに等しい。稀に見る大悪事ゆえ、さぞや入念に培ったじゃろう」
「とすると、首魁はそれなりの大物だろうな。敵対しておる六角とか、朋輩の京極あたりか」
「六角ならば、将軍家を狙おうが。近江と山城を間違えるほど、剽げた賊はおるまいて」
「ならば、お屋形さまと貿易について争うておった、不倶戴天の細川は?」
「件の右京大夫(細川勝元)は、もうおらぬ。息子のほう(細川政元)とは、少し前まで、縁組の話があった。あの一件は立ち消えになったが、九分九厘、やるまいよ」
「ううむ。ならば、俺にはもう、皆目わからん。誰だ、叔父上、教えてくれ」
興明は鼻息も荒く答を求めた。叔父はまた曖昧に笑った。
「誰かまでは、儂にもわからん。ただ、お屋形さまに時が足りなかったわけではない。儂らに遣わした伝令が、敵に斬り殺されたわけでもない。命じたくても、そうはできぬ、とんでもない理由があったのじゃ。杉も内藤も、多々良の一門である儂ら陶さえも当てにできずに、心を許した直臣のみで、賊を迎え撃たねばならなかった事情がな」
突然、頭から冷水を浴びた気がした。恐ろしい考えに突き動かされて、興明は叔父に迫った。
「叔父上。まさか、お屋形さまのお命を狙う奴が、家臣団の中におる――と」
「そうじゃ。しかし、首謀者は結局、尻尾を掴ませなかったのじゃろう。お屋形さまは襲撃の子細までは知り得たが、密謀の柱にまでは辿り着けなかった」
だからこそ、お屋形さまは家臣の誰に対しても、陰謀の存在を伝えなかったのだ。抱いていた疑問に、今度こそ得心が行った。
十一
頷くと同時に、興明は大いに慌てた。
「まずいぞ、叔父上。だったら、なおさら、陶が真っ先にお屋形さまを見つけなくては」
いや、陶がお屋形さまをお守りすると、何が何でも示さなくては。
興明は刀を振り上げると、先頭を切って方丈に突っ込んでいった。お屋形さまが家臣団の総員に疑惑の眼差しを向ける中、今宵の行動は著しく他人の目を惹くものだった。
穿った目で眺めれば、最初に異変に気づいた、賞賛に値する大手柄も、何やら怪しげな気色を帯びてくる。今回も先頭を切って嫌疑を晴らさなくては、謀叛人の筆頭に名を挙げられる。
「我ながら、情けない。生前の父上は、周防もお屋形さまも、先頭に立って守り抜かれたのに」
蚊の羽撃きよりも掠れた声で、興明はがっくりと肩を落とした。
嘗て都で応仁の乱が勃発した際、西軍として参戦したお屋形さまに対抗して、東軍方の右京大夫らが裏から領国を突っ突いた。出家して道頓と名乗っていた、お屋形さまの伯父上さま(大内教幸)は、家督を餌に唆されて、とうとう兵を挙げた。
それに呼応して、石見の大豪族である吉見信頼や長門守護代の内藤武盛、筑前守護代の仁保盛安など、錚々(そうそう)たる国衆らが続々と決起した。大内家に倣うように、親族入り乱れて、どろどろの戦いを繰り広げた家中もある。防長の国衆の心に長く暗い影を落とした、非常に後味の悪い戦となった。
この内乱の平定に最も尽力した人物こそ、興明の父、陶弘護である。
ちょうど今の興明と同じ年齢で数多の国衆の挙兵に見舞われた父は、周防どころか安芸、石見、長門、豊前と目紛るしく転戦し、涙ぐましい奮闘の末に、遂に道頓さまを打ち破った。
以来、若くして留守居役としての面目を保った父に対して、お屋形さまの覚えは格別となった。
「父上の名に、俺が泥を塗るわけにはいかん。もはや、足軽どもに任せてはおけぬ。俺が必ずお屋形さまを見つける。必ず」
悲壮な覚悟で興明は奮い立った。
興明の目指すは、父の名に恥じない、気骨ある武将になることだ。万が一にも謀叛人の嫌疑を受けては、この先、父に顔向けができない。
徳高く高潔で、お屋形さまには信義を尽くし、下々には慈悲を忘れぬ、礼を知った豪勇の武士。
「さすがは、尾張守の子よ」
挙って褒め称される興明の勇姿は、「周防に並び立つ者なし」と、惜しまれながら逝った父への、何よりの餞となるだろう。
――父上。今宵は全く以て、面目ござらぬ。
心で深く詫びながら、興明は松明を握り直した。叔父は腕を組んで首を捻った。
「しかし、捜すと言うてもな。お屋形さまの隠れ家に当てはあるのか」
「ああ。たった今、叔父上が答を言うてくれた。お屋形さまは、俺たちの誰にも今夜の襲撃を告げられなかった。ならば、きっと、誰もおらぬはずの堂宇におられる」
お屋形さまが誰かに匿われている可能性は、今や一つもなくなった。家臣の陣取る建造物は、全て捜索の対象から外される。
「なるほどな。塔頭の敷地から外へ脱出された見込みも低いか」
「ああ。一歩でも外に出れば、誰がおるか、わからぬ。他家の物見とて、うようよ徘徊しておるし」
自慢にもならない逸話が、将軍家や他の大名たちに漏れ聞こえる事態を、お屋形さまは断じて許されまい。何より、お忍びで上洛されたお屋形さまは、何があろうと、都に存在してはならない。
「それに、万が一にも、賊に居所を知られた場合、改めて襲撃される恐れもある。寺の敷地の中におれば、形振り構わず家臣の陣に逃げ込むこともできようが、門の外では万事休すだ」
「ふむ、なるほど。それで、お屋形さまはこの寺の内で、誰の陣所にもなっておらぬ堂宇に隠れておられると思うのじゃな」
「その条件に当て嵌まる建物は、仏殿か納屋だけだ。俺は、納屋のほうにおられると思う」
大した根拠はないものの、妙な自信は、あった。きっと、方丈で体験した数々が脳裏を掠めたからだ。納屋のほうが仏殿よりも、遥かに、きな臭い。
「ほう、納屋を優先するのか。それはまた、いかなる理由で」
「叔父上だって、あの小袖と縄と行李の山を見たら、きっと納屋を選びたい気分になるさ」
興明は方丈で目にした異様な光景を、改めて叔父に訴えた。
「よほど暇を持て余しておられたようじゃな。まあ、仏殿には夜中でも僧侶が勤行に訪れる。坊主に化けた刺客が紛れる懸念を、お屋形さまが見落とされるはずもない。ならば、急ぎ納屋へ向かうとするか。どれ、お迎えの前に少しばかり、兵の見てくれを整えよう。それとも、我主、先に行くか」
呼吸三つほど迷った末に、興明は強がりを捨てた。今宵初めて、心身ともに疲れを感じた。
「……いや、待つ。叔父上と一緒に参る。そうさせてくれ」
謀叛人――ただ一言が重かった。己を意気地なしと認めても、これより先は、叔父に頼りたい。
「なあ、叔父上。お屋形さまは、いかほど俺を疑われるかな」
ぽつりと零すと、叔父は不思議そうに興明を見つめた。丸顔に福々しい笑みが浮かんで、大きな手が、ぽん、ぽんと、再び頭を撫でた。
「案ずるな。今宵の我らの行動が些か訝しがられたとしても、我主が真っ先に疑われる恐れは、金輪際ない。請け合うてもよいぞ」
「なぜだ、叔父上。俺は十分、怪しまれる振舞いをした」
叔父は更なる笑みを湛えて、静かに頭を左右に振った。
「我主は優れた資質に恵まれた。身内の贔屓目を差し引いても、それは間違いない。したが、幾ら優れておるというても、元服したての青二才に、できる勝負だと思うか。お屋形さまを討つのだぞ」
なるほど。言われてみれば、それもそうだ。認めると、肩の辺りが一気に軽くなった。
「齢を重ねればよいわけでもない。だが、齢を経ぬと上手くできぬ事柄もある。溌剌と見える若木よりも、年輪を刻んだ老木のほうが、根っ子も枝葉も張っていよう。この陶で、陰謀を企てたと疑われる者がおるとしたら、それは我主ではなく、儂のほうじゃ。内藤ならば、肥後守。杉ならば……うはあ、誰じゃ。あそこは八本杉とか言われるだけに、年寄りが多いな」
叔父は杉の面々を思い出そうとするかのように、暫し口を噤んだ。
「大勢おって、いちいち名を挙げられん。まあ、とにかく若者は案ずるな。疑われるとて、せいぜい使い走りをさせられた程度よ。それならば、二十歳にもなっておらん我主や三郎にもできるでな」
ざわ、と胸が波立った。何か今、とんでもなく意味の深い話を耳にした気がする。聞き流してはいけない気がして、興明は叔父の話を心に留めた。
十二
陶の兵が戦闘態勢を解いたことにより、内藤の足軽たちは我勝ちに逃げ出していた。
「南へ向かった者は、やはり一人もおらぬようで」と、新左衛門が首を竦めた。
「方丈の南に我が陶勢が集結し、行く手を阻む結果になったからでござろうが……」
「いや。一番の理由は、俺が褒美の約束を反故にすると踏んだからだろうな。陶の兵が助けに来たから、内藤は要らぬと。まあ、事情が変わったから、よしとしよう。連中が居所を突き止めたところで、恐らく、全くお困りではないお屋形さまに、ご褒美を強請るわけにはいかんからな」
興明は件の兄弟の顔を思い浮かべた。
褒美を諦めて、弘矩の下へ向かったか。あるいは、すっかり興醒めして、塒へ舞い戻ったか。
「庇ってくれたんだよな。あいつらも怖かったはずなのに。一言くらい、労うてやればよかった」
己の余裕のなさを振り返って、つい独り言ちた。
さて、これから新たな手勢を従えて、次の行動に移らなくてはならない。興明は新左衛門に用事を言いつけると、一人で足軽たちの群れに分け入った。兵の慰労も、上に立つ者の務めだ。
「夜中に叩き起こされて、災難だったな。よう駆けつけてくれた。これが済んだら、ゆっくり休めよ。そなたらのように、いつも威勢のよい男どもが眠そうにしておると、俺も胸が痛む」
「何と、お優しい。某、若君のお顔を拝見したら、脈が速うなり申した。もそっと看病願いたい」
「俺が離れれば、脈も元に戻るさ。特殊な看病なら、この寺の坊さんのほうが得意だぞ」
「手前は若殿のお側でないと、ゆっくり休めませぬようで」
「奇遇だな。俺も新左衛門が隣で見張っておらんと、ゆっくり休めんのだ」
気さくに声を掛けて回っていると、気になっていた、生っ白い顔が目に入った。まだ、ここにおったのか。蔀を上げさせた若衆が、のんびりと地面に腰を下ろして、別の足軽に向き合っていた。
よくよく見れば、やはり地べたに座り込んだ陶の雑兵の臑や膝に、何かをべたべたと塗っている。
「お大事にのう」「忝や」と、和気靄々(あいあい)の掛け合いが聞こえてきた。
「そなた、帰って休まんでもよいのか。何をしておる。他の内藤の者たちは皆、ばらばらに散ったぞ」
「あれま、若さま、お久しぶりで。お互い、無事でえかったのう」
若衆は興明に気づくと、白い歯を見せて立ち上がった。
見れば見るほど色白で、持ち味は軟弱そのものだ。へらへら笑うと、更に軟弱さが強調される。戦の陣に、これほど似合わない男もおるまい。
だが、見慣れると、嫌みのない笑顔が妙に心地好い。つい、興明も釣られて、へらへらと返した。
「内藤の連中は、大将からして、よく笑うな。そなたの笑いも、なかなかだ。それは何だ。薬か」
興明は若衆が手にした器を指差した。
「へえ、そのとおりで。戻ろうとしたんじゃけど、痛そうに膝小僧を抱えちょる人がおったけえ」
「それで、放っておけなくて、薬を塗ってやっておったのか。重宝されて、戻れなくなるぞ」
気は優しいのだろうが、要領の悪い男だ。真っ先に駆け出したとしても、褒美には遠かったろう。
しかし、怪我人の脇を素通りするよりも、顔に似つかわしい行動ではある。釣られて笑い返したくなる笑顔も、相手の気持ちを和ませる薬として、けっこう役に立つのかもしれない。
「そなたがおるならば、弟も一緒であろう。薬師の真似事も悪くはないが、今宵は早う戻って休ませよ。叩き起こした俺が言うのも何だが、子供に夜更かしは辛かろう」
「ほいじゃ、あっちの手当てが終わったら、帰りますわい。まだ手放してもらえんみたえじゃけど」
若衆は弟の居場所を指差した。前髪立ては六間ほど向こうで、五人の足軽に囲まれていた。
見てくれが好いだけに、引く手数多のようだ。優しげな手付きは、見ているだけでも癒される。
「あれま、大変じゃ。若さまもお怪我をしちょる。そこも、あれ、そっちも」
傍らから若衆が覗き込んだ。
指差すところに目をやれば、剥き出しの両足のそこかしこに、小さな傷ができている。何箇所かは少し派手に擦ったのか、薄く血が滲んでいた。一旦、傷を意識すると、確かに痛みも感じる。
そういえば、杉戸に何度も派手な跳び蹴りを食らわせた。暗い中を、松明の灯りだけを頼りに、あちこち走り回りもした。知らないうちに怪我をしていても、何ら不思議はない。
「本当だ。掠り傷一つ負わなかったと思うておったが、迂闊だったな」
「こりゃあ、痛そうじゃ。ほいじゃったら、若さまには特別なお薬を差し上げねえと」
若衆は、いそいそと懐に手を入れた。冗談ではない、と興明は後退った。
特別な薬とは、いったいどんな代物だ。へらへら笑っていられると、それはそれで、かなり恐い。
「いや、なに、掠り傷だ。舐めておけば治る。はは、気にするな」
「足は舐められんじゃろう。そねえに遠慮しなさらんでも、ささ、お手当てを、お手当てを」
若衆は暢気そうに笑いながら、一歩ずつ誘ってくる。興明も笑いながら、一歩ずつ後退った。
「わかった、わかった! ならば、正直に言おう。俺は、得体の知れない男に、薬かどうかもわからぬものを、大事な足に塗られとうない」
「なんの、若さま。そねえに怪しい薬じゃねえて」
若衆は笑顔を引っ込めた。真顔で、じーっと興明を見つめて、一歩も引き下がる気配はない。
「某のこたあ、得体が知れんと思われても致し方ねえ。けど、この薬は特別じゃ。何せ、某の大事な大事な姫さまが、某の無事を祈って持たせてくださったものじゃけえ」
何だって? 姫さまだと? 興明は思わず耳を欹てた。
別に、女だからと、浮ついた気持ちで関心を持ったわけではない。美醜も、この際、どうだっていい。ただ、内藤には一人だけ、陶が気に懸けるべき女がいた。
「若さまも、某にとっちゃあ、特別じゃ。じゃけえ、塗って進ぜましょ。ささ、どうぞ、どうぞ」
気前よく袖を引かれて、興明はとうとう近くの庭石に座らされた。若衆は地面に片膝を突いて腰を下ろすと、もう片方の膝の上に、「うんしょ」と興明の足を載せた。
「ささ、御覧じろ。これが、特別なお薬でござる」
若衆は懐から五寸ほどの小袋を取り出した。身分に全く相応しくない、艶やかな絹の袋物だ。小袋には丁寧に折り畳まれた薄紙が、十数枚も入っていた。
四寸四方ほどの真っ白な紙は、皺一つなく半分に畳まれている。若衆が一包みを開くと、中には黒々と練られた物体が、既にべったりと塗られていた。
気を抜けない戦場で、時を移さず使えるようにとの、細やかな配慮だろう。だが、そもそも本当に薬だろうかと、この期に及んでも薄気味悪い。むしろ、毒と脅されたほうが、抵抗なく信じられる。
「今は暑い時分じゃけえ、火桶も炭も要らん。人肌で温めりゃあ、よう緩む」
若衆は拝むように薄紙を掌で挟むと、愛おしそうに頭を下げた。
興明は勝手に小袋を手に取って、中から一枚を取り出した。広げて眺めると、更に怪しさは増した。
透けるような上質の紙と、何かはわからないが、値の張りそうな膏薬。この男の、足軽相応の身形から考えれば、どこから見ても不釣り合いだ。
「若さまは、某がこれを盗んだと思うておいでじゃろ。それか、どっかで拾うたかと」
へらっと目を細めた間抜け面から、興明の心を見透かしたような、清々しい問いが向けられた。
「いや、別に、そこまでは……ただ、かなり不気味な色だから、本当に薬かと……」
「そねえにお疑いにならんでも、大丈夫じゃ。姫さまが某のために求めてくれよった、ごっぽう値の張るお品じゃけえ。はあ、某の姫さまは、お綺麗なうえに、お優しい。この世に降りた天女さまじゃ」
若衆は両手で膏薬紙を挟んだまま、うっとりと語り始めた。興明の手当ても忘れた風情で、「姫さま」の人となりを崇め奉っている。
身分の低い男は、それなりに若く美しい女主人の人柄に対して、過度の期待と憧憬を抱くものだろうか。女がそんなに甘い顔をするわけはないのに。
興明の最も身近に存在する、それなりに若く美しい娘の面差しが一瞬、鋭く頭を過った。
「夢をぶち壊すようで悪いけどな、俺を度々、恐怖に陥れてきた妹も、巷の評判では、何とかの菩薩さまだ。俺には仁王さまにしか見えんのだがな」
話しているうちに、思い出しても幸せな気分にはなれない記憶が、どっと押し寄せてきた。
十三
いつ頃の出来事だろう。まだ前髪があった頃、としか定かでないが、幼かった弟の手を引いて、屋敷の裏の海印寺へと逃げ込んだ覚えがある。
「また拳で、ぶん殴られた。女だから、やり返さぬが、あのおっかない性格で、何が菩薩だ。あんな凶暴な菩薩がおるなら、極楽も大した所ではないな」
五郎は大いに憤りつつ、和尚に零した。
「はは、いやいや。菩薩はな、人の世にこそ御座すのじゃ。我らを仏の教えに導くために」
和尚は五郎のたんこぶを冷やしながら、諭すように仏法を説いた。
だから、この世に救いはないのか。和尚の教えは、五郎を大いに震撼させた。
母だって、四人の子供を女手一つで厳しく育ててきただけに、えらく鼻っ柱が強い。
「あの妹が菩薩なら、大抵の女は天女だぞ。そなたの姫さまは本物か」
興明は露骨に疑いの眼差しを向けた。若衆は興明の口出しに構わず、「姫さま」を褒め続けた。
「おお、うちの姫さまは真に天女さまじゃ。明るうて元気がようて、床の上をごろごろと転げ回っちゃ、楽しそうにお笑いになる」
床の上をごろごろと? 興明は耳を疑った。親切に耳を傾けてやれば、件の娘ではないのか。
「おい、待て。その姫さまとやらは、幾つになる。まさか、五歳児ではあるまいな」
「まさか、まさか。花も恥じらうお年頃じゃ。けど、毎日、生傷が絶えんのが、文字どおり玉に瑕で」
毎日、生傷が何だと? 天女はどこへ行った、天女は。もはや、聞いてやるのも馬鹿らしい。興明は乱暴に踵を動かして、若衆の膝を揺さぶった。
「ええい、わかったから、早ういたせ。そなたに掛かったら、うちの妹も天女さまだろうよ」
若衆は心地好い夢から覚めたように、へらっと照れた笑いを見せた。
熱弁を振るう間に、膏薬はほどよく緩んだとみえる。若衆は薄紙をぺたぺたと傷に貼ると、上から軽く押さえつけて、手際よく塗り込んでいった。
何度見ても恐ろしい色に思えるが、身構えたほどには染みない。痛みは少しずつ遠退いていった。
薬を支度した手の温かさが、ふと傷口に感じられた。興明は少々、変わっていると思われる娘に、胸の内で感謝の手を合わせた。
若衆は手当てを終えると、興明の足を丁寧に地面に降ろし、少し下がって恭しく平伏した。
「怖れながら、某、若君に申し上げたき儀がござる」と、口振りまで改めた。
「某は、姫さまが某の身を案じて、このお薬をくださったんじゃと、そう思うちょりました。けど、今宵、若さまにお目に掛かって、それだけではなかったと思い至ってござる。姫さまは、口には出さんかったけど、若さまが怪我をしなさったとき、某が若さまを手当てできるよう、このお薬をくだされたんじゃ。某、伏してお願いいたす。若さま。どうか、どうか、姫さまを大切にしてくだされ」
「待て、それは違う」と、興明は勢いよく立ち上がった。
「いや、やはり、そういう次第であったか。あのな、そなたは思い違いをしておる。そなたの申す姫さまとは、俺の兄者が迎える娘御だろう。俺は、弟だ」
誤解を解くべく宣言すると、若衆は首を擡げて、ぱちくりと目を見開いた。
興明の兄の三郎武護は、内藤弘矩の娘の一人と婚約していた。山口に戻り次第、祝言を執り行う段取りとなっている。武家の間でよく行われる、同盟のための縁組である。
といっても、弘矩の血を引いていれば、どの娘でもよかったわけではない。兄は、特に気に入った相手を、名指しで花嫁に望んだ。
なるほど。同じ戦場へ赴く従者に高価な薬を持たせるくらい、娘も兄を慕っているのか。さきほどの薬も、恋しい兄の顔を思い浮かべながら、娘が調えたものなのだろう。
だからこそ、あの兄も、叔父の反対を押し切ってまで、結ばれたいと願ったわけだ。兄がその娘に執心した事情が、興明にも少しは呑み込めた。
「兄者がその娘御を望んだとき、肥後守の親父は即座に快く承諾した。だが、俺たちの後見の叔父上は、初めから猛反対した。親父の娘を娶ったら、能登守(吉見信頼)の弟の三河守(吉見頼興)めが相婿になるのでな。しかし、兄者は、欲しい、欲しいと大騒ぎして、遂に周りを説き伏せた。そなたの姫さまが嫁ぐ相手は、間違いなく俺の兄だ。俺ではない」
「あれま! 何ちゅう勘違いじゃ。本当に、若さまじゃねえんで?」
若衆は愕然とした面持ちで上体を起こした。じっと見上げる眼差しに、深い落胆の色が滲んだ。
「姫さまが嫁に行かれるは、ごっぽう寂しい。けど、若さまじゃったらお似合いと思うたのに」
「そうか。それで、俺を特別と申したのだな。蔀の裏で俺を守ろうとしたのも、そのためか」
若衆は寂しそうな笑顔を見せて、ぽりぽりと頭を掻いた。
「ううむ、左様か。そういう話ならば、捨て置けぬ。待っておれ。その辺りに兄者がおるやもしれん」
興明は方丈を振り返った。この男に、大切な「姫さま」が嫁ぐ相手を、ちらとでも見せてやりたい。兄の機嫌が悪くなければ、花嫁を心から慕う従者に、一声くらいは掛けるだろう。
あちこちに目を向けると、叔父の姿が目に入った。兄も近くにいるはずだ。興明は目を凝らした。
「……おかしいな。あれから、かなり経っておる。おらぬわけはないのだが」
興明はほうぼうに目を走らせた。兄の姿は遂に、どこにも見つけられなかった。
内藤の庫裡で、興明は「急げ」と、兄を呼ばわった。あれから半刻は経っている。支度に少々、手間取ったとしても、とっくの昔に到着していなくてはなるまい。
何をぐずぐずしているのか。すぐにでも、お屋形さまのご座所へ向かわなくてはならないのに。
陶の嫡男だろうが。父上の名を辱めてくれるな。最後には、祈りたい気持ちになった。
興明にしてみれば、腰が重い兄に対して、至れり尽くせりのお膳立てをしてやったようなものだ。あまりにも、だらしがないと、またぞろ怒りが込み上げてくる。
「すまぬ。兄者はまだ、こっちに来ておらんようだ」
静かに向き直ると、若衆はいかにも残念そうに俯いた。釣られそうになる笑いはなかった。
こんな非常時に現れない婿どのに、この男も、さぞや不安を抱いているだろう。興明は、最も近い身内として、我がことのように恥を覚えた。
「そなたは内藤へ戻るがよい。あとは陶が引き受ける。実はもう、宝探しの結末は見えておる。一緒におっても、お屋形さまからご褒美はいただけぬ。代わりに、これを持って帰れ。大切な姫さまの薬を馳走になった礼だ。受け取れ」
興明は懐から懐剣を取り出した。黒塗の鞘には金蒔絵で細やかに秋草文様を施して、合口の拵には品の良い風格が漂っている。刀の銘を見る者があれば、更に目を見張るだろう。
先刻の膏薬ではないが、この足軽が所持するなら、盗んだと思われても致し方ないほどの名品だ。若衆は大きく目を見開いた。
「なして某に、こねえに見事なお品を? 本当に、ええんで?」
「さあ、なぜだろうな。そなたになら、くれてやっても惜しいとは思わん。さっき、庇ってくれたしな。これから、長い付き合いになるやもしれんし。そうだ、そなた、名は何と申す」
「某は、小周防にて……いや、長い名乗りは苦手じゃ。どうか、ゆき丸とお呼びくだされ」
若衆は胸を張ると、やけに嬉しそうに名乗りを上げた。
歴とした名はあるようだが、今の口振りから察するに、名乗りたくないのだろうか。幼名のような名にしては、妙に誇らしげだ。
「ゆき丸か。そう名乗りたければ、それでもよいが。それで、ゆきの文字は、どう書く」
生っ白いから「雪」だろうな。返事を訊く前に、頭の中に文字が躍った。幸丸は満面の笑みを湛えて、ゆっくり首を横に振った。
「空から降る雪と思うたでござろ。違いますわい。幸せ、という文字で」
「幸せと書いて、幸丸か。ほう、よい名だな。しかし、それは幼名であろう。俺よりも年長のそなたが、そのような名を今でも用いておるとは、何やら腑に落ちん」
「仰せのとおり、ちゃんとした名もありますわい。けど、この名乗りが、某の一番の誇りにござる。まだこまい(ちいさい)時分の姫さまが、某に名をくださった。う~んと、幸せになれますように、ちゅうて。姫さまは今でも某を幸丸と呼ばれる。姫さまが、そねえに呼んでくださる限り、某は幸丸でござる」
幸丸は更に堂々と胸を反らした。
「何やら、胸の温まる話だな。久しぶりに、じんと来たぞ。いや、よい間柄だ」
興明は娘の人柄に引き寄せられた。と同時に、同じだけ身を案じた。
婢女の横っ面を張るような兄と、本当に上手くやっていけるのだろうか。従者の多幸を祈るばかりか、薬まで支度する心根の優しい娘を、粗暴な兄が張り倒さないかと、心の底から心配になる。
だが、想い合って結ばれる結末となった珍しい事例でもある。二人きりでいるときなら、あの兄も存外、興明の知らない情味を示すのかもしれない。
「いや、この際、その娘御の爪の垢でも煎じて、少しは目下の者たちにも情けを懸けるようになってくれればよいのだが……」
「へ? そねえに荒っぽい兄上さまで?」
「いや、何でもない。それより、そなたの大切な姫さまは、俺が嫁に欲しかったな」
興明は世辞ではなく、本心から伝えた。
「まったくで」と、幸丸も残念そうに頷いた。
「まあ、それでも、縁があってよかった。俺も義弟として、その姫さまを大事にするさ。案ずるな」
約束すると、幸丸は目を輝かせて、頭を下げた。
「ほいじゃ、気も済んだことじゃけえ、帰りますわい。どれ、弟は、どこにおるかいの」
幸丸は思い切ったように立ち上がると、辺りを見回した。前髪立ては皆の手当てを終えたのか、何人かの足軽に囲まれて、楽しそうに語らっていた。
「そっちは終わったかいの。ほいじゃ、陣へ戻ろうか。ええお話を若さまから伺うたわい」
兄の呼び掛けに応えて、向こうから前髪立てが駆けてきた。何度見ても小鹿のようだ。幸丸と弟は興明に頭を下げると、にこやかに手を取り合って、内藤の庫裡が待つ暗がりへ消えていった。
「ええい。それで、兄者は本当におらんのか」
興明は独り言ちつつ、方丈を振り返った。まだ、一縷の望みを捨てられない。
――せっかく惚れた娘を貰っても、これではいつか、愛想を尽かされるぞ。
興明は暗い気持ちを抱えたまま、兄がいるはずの闇に目を向けた。
十四
方丈の南庭に集結した陶の一隊は、急拵えとはいえ、総勢五十名を越えていた。当然の運びながら、陶の営みに深く携わる奉行人たちの、錚々(そうそう)たる顔触れが揃っている。
野上や山崎、江良に伊香賀。もしも、これらの武将たちから、この兵数を以て攻められていたとしたら、興明の従えた一行は一溜まりもなかったろう。見極めると、背筋に再び冷たいものを感じた。
歴戦のお屋形さまとて、物々しく駆けつければ、きっと、同じように危ぶまれる。一行は努めて粛々(しゅくしゅく)と、目指す納屋へ歩みを進めた。
最後の角を曲がったところで、興明は息を呑んだ。足を止めて、隣を歩む叔父に目を向ければ、叔父も前を見据えたまま、瞬きを忘れて佇んでいる。
視線の先に一本の松明が見えた。揺れる灯火の先では、武者が床几に腰掛けている。美々しい鎧に身を包んだお屋形さまが、まるで迎えを待っていたかのように、ゆったりと軍配を振っておられた。
「者ども、止まれ! いや、止まれ!」
叔父は慌ただしく振り返って、大声を張り上げた。敵襲など見込んでもいなかった一隊は、ばらばらと不揃いに立ち止まった。同時に、お屋形さまの後ろ側が、ぱ、ぱ、ぱ――と突然、明るくなった。
お屋形さまを中心にして、十幾つもの篝籠が左右に等しく広がっている。滑るように炎が灯るや、陶勢に向けて数十の矢が番えられた。興明は総毛立った。
背後にいる兵たちも、反応は同じだろう。浮き足立つ気配がびりびりと伝わる。
挑発に乗せられてはいけない。興明は咄嗟の判断を叫んだ。
「静まれ、動くな! あの矢は、ここまで届かぬ! 軽はずみに応じるな!」
相手はお屋形さまだ。間違っても、弓など構えてはならない。それに、殺気ならば、先刻のほうが何倍も凄まじかった。
「ならぬ、お屋形さまだ! そなたらは跪け!」
倣えとばかりに、興明は真っ先に片膝を突いた。武将たちは無論、叔父までもが慌てて従い、少し遅れて足軽たちが続いた。興明は最後列まで見届けると、隣に膝を突いた叔父を仰いだ。
「すまぬ、叔父上、調子に乗った。謝る。大将たる叔父上を差し置いて、余計な差し出口を叩いた」
「いや、よい度胸じゃ」と、叔父は満足そうに目を細めた。
「あのざわめきが、五つも数えぬうちに収まるとは。まるで潮が引くようじゃった。判断も指示も、迅速にして的確。皆が我主の命に服するを見るは、儂も実に気分がよい。我主は陶の誇りじゃ」
窘められるかと思えば、叔父は手放しで褒めてくれた。一度は消沈した興明を、この機会に奮い立たせようとしているのだろう。
「儂の誇り」から「陶の誇り」へと、歯の浮くような弁舌を振るってくれる。
先刻の己は、そんなに痛々しかったか。気を引き締めねばと、興明はお屋形さまに目を戻した。
弓衆は相変わらず、皆が矢を番えていた。しかし、その後は誰一人として微動だにしなかった。
何かがおかしい。よくよく見れば、ただの一人も、耳朶の後ろまで弦を引き絞っていない。
「これを、的外れと申そうか。いや、ちいとばかり違うかな」
叔父は戯言に興じた。弓矢を交える見込みなど微塵もないと窺える、緩みきった調子だった。
「さすがというか、やっぱりというか。叔父上、これも真冬の小袖の延長だ。俺たちは、狂言回しのお屋形さまに、どこまで踊らされるのかな」
「さてな、いろいろとお見通しなのじゃろうよ。気が張るわい」
叔父は無表情に肩を竦めた。興明は上目遣いに大内家の武装集団を眺めた。
「人数は四十くらいか。騎馬武者も、思ったより多いな。新左はどう思う」
「全軍がきっちりと甲冑に身を固めてござる。そればかりか、弓も槍も新しいかと」
後ろから新左衛門が指摘するとおりだ。お屋形さまの陣中には、数多の武具が所狭しと配されて、篝火に曇りなく照り輝いていた。
「何と。お屋形さまは手勢の打ち物に至るまで、万全の手筈を調えておられたか」
興明は感嘆のあまり、肺腑の奥から唸りそうになった。比べれば、起き抜けに集められた俄拵えの陶勢など、決起するのか、しないのか、決断できずに二の足を踏む百姓の一揆に見える。
方丈に寝そべっていた侍衆も、直垂の下に腹巻の一つでも身に着けていただろう。鎧直垂のみの我が姿など、居心地が悪すぎる。
「軽々しくて、恥じ入るばかりだ」と、興明は叔父の背中に身を隠した。
「お屋形さま、遅うなって申し訳ござらぬ。兵庫頭がお迎えに上がり申した。そちらに参ってもよろしゅうござるか」
膝を突いたまま、叔父は慇懃に声を上げた。
「苦しゅうない。兵庫は近う。五郎も参れ。まだ本物の戦を知らんくせに、これだけの弓衆を前に、ようも咄嗟に兵を捌いた」
お屋形さまは軍配を握ったまま、ゆったりと手招きされた。一同に向けられたお声は、闇夜を照らす満月のように、朗々と晴れていた。
十五
興明は叔父の後に続いて、ゆっくりと進み出た。お屋形さまの前に伺候し、もう一度さっと跪くと、親しみのあるお声が降ってきた。
「よう、五郎。我主が真っ先に駆けつけてくれて、余は嬉しいぞ。やっぱり、我主は頼りになるな」
興明は安堵のあまり、ぱっと顔を上げた。お屋形さまの後ろでご嫡男の新介さまが、さも偉そうに腕を組みながら、意味ありげに微笑んでおられた。
「新介さま! ああ、よかった。よくぞ、ご無事で」
「これ、五郎。面を上げよと、お許しもいただかぬうちから」
横から小声で窘められて、興明は慌てて口を覆った。
「申し訳ありませぬ。つい、安堵してしまい……」
「そういうところは、まだまだじゃ」
叔父は唇をへの字に曲げて、厳しい一瞥をくれた。
「待て、兵庫頭、五郎を叱るな。今の振舞いは余のせいだ。親父どのとて、五郎を咎めぬ」
慌てた素振りで、新介さまが取り成してくださった。
堂々とした体躯に恵まれながらも、新介さまには、どこか無邪気な幼さが残っている。利発そうなお顔立ちには品のよさが漂って、威張りも飾りもなさらないお言葉は、耳にするたびに心地好い。
公家と武家から、好ましいところばかりを譲り受けたような、この同い年の名付け親に、興明は心からの親しみを抱いていた。
「はは、よいよい、一番乗りの褒美じゃ。誰が儂らを迎えに来るか、皆で賭けをしておったでな」
お屋形さまは大いに相好を崩された。新介さまも身を乗り出し、目を輝かせておられる。
「余は、初めから、陶に賭けたぞ。というても、根拠なんぞ、一つもなかったけどな。ただ、五郎が必ず来てくれると、端から信じておった」
「過分なお言葉、誠に執着に存じまする」
興明は恭しく頭を下げた。己に向けられた曇りのないご信頼に、かっと胸が熱くなった。
「儂からも褒めて取らすぞ、陶五郎。ようも、ここまで辿り着いた。何でも、儂を助けに参ると叫んで、屋敷へ飛び込んだそうだな。儂もじっくりと、間近で見てみたかったぞ」
叔父を差し置いて、ゆったりと軍配が向けられた。興明は「儂も?」と、小声で訝りつつ、綻んだお顔を見上げた。つまり、興明たちの様子をじっくりと、間近で見ていた者がいたわけだ。
考えてみれば、何の不思議もない。あれほど支度に余念のなかったお屋形さまだ。当然、大勢の物見を現場に配しておられたろう。ようやく思い至った興明に、お褒めの言葉は更に続いた。
「それを聞いた新介の喜びようは、それはもう、凄まじかったぞ。我主にも見せてやりたかったわい。これは、いずれ陶が来る。儂とても、そう認めた。それにしても、えらい早うに見つけたな。離れが片付く前から儂を捜そうとは、その若さで、よう判断したものよ。天晴れとしか言えぬ」
大勢の面前で、これほど称えてくださるとは。怪しまれずに済んだだけでも、幸運だったといえるのに。感極まって、謙遜の言葉も忘れた。
兄も、一緒に来さえすれば、こうしてお褒めに与れたろうに。些か癪に障りはするが、惣領が賞辞をいただくほうが、一門としては喜ばしい。興明は兄の失態を覆すべく、難しい話を切り出した。
「お屋形さまのご不審は、我が家が真っ先に晴らしとうござりますれば」
「……何と申した」
陽気に笑っておられたお声が、ぴたりと冷たく止んだ。両目に宿った妖しい光に、興明は鋭く射竦められた。賭けをしていたと空恍けて笑っておられた同じ人物には、見えなかった。
「そこまで読んだか、陶五郎。儂が、我主ら皆を疑うておる、と。ならば、我主に一つ、問わねばならんな。何ゆえに今宵の襲撃を知った」
「それは、まったくの巡り合せでございました。我が兄が……」
話し始めた途端に、興明は口籠もった。悪戯で馬を盗んだなどと、考えもなしに、そのまま答えて、惣領の醜態を曝すわけにはいかない。
悪さを仕出かすにしても、なぜ、今日という日を選んでくれたか。いい加減、兄を呪いたくなる。興明は喉まで出掛かった悪態を呑み込んで、取り繕う言葉を探した。
「明日は早朝から、兄と槍の稽古をする約束でございました。けれど、兄はどこかへ出掛けたまま、戻って参りませんでした。いずれ兄は、内藤の娘御を娶りまする。ならば、内藤の陣におるのでは。そう考えて、迎えに参ろうといたしましたところ、打ち物の鳴る音を聞きつけた次第にございます」
陶を守るためとはいえ、槍など滅多に握らなくなった兄に、随分と立派な理由を考えてやったものだ。口裏を合わせるよう、見つけ次第、伝えなくては。
お屋形さまは疑われる素振りもなく、穏やかに頷かれた。
「左様か。なるほど、言われてみれば三郎がおらんな。それで、三郎は見つかったのか」
「それは……」と、興明は再び口籠もった。
声を掛けてはみたものの、遂に参じなかった、などとは、口が裂けても明かせるものか。見つからなかったとしておくほうが、陶の名誉を穢さずに済む。
「申し訳ありませぬ。それが、まだ生憎と。こんな大事なときに、どこにおりますやら」
頭を上げていられず、興明は平伏した。お二人を重ねて欺く事態に、ずんと鳩尾が重くなった。
「そうか、三郎は内藤の陣におらなんだか。五郎よ、真に嘘偽りはないな?」
お言葉には明らかに棘があった。興明は息を止めた。お屋形さまは、まさか、兄をお疑いか。
「お屋形さま! 我が陶は、いかなるときも、お屋形さまと新介さまに誠の忠義を捧げ奉る所存にございます。陶に不忠者はおりませぬ。どうか、我らが陣にお越しくださいませ。我らは命に替えましても、必ずお守りいたしまする」
興明は身を乗り出して捲し立てた。瞬きもなさらない表情からは、何の思いも読み取れなかった。
「甥の申すとおりでござる」と、叔父が続いた。
「不肖の惣領には、後で厳しく仕置きいたしまする。それゆえ、今宵は、どうか、我らが陣所へ」
「いや、これは悪かった。なるほど、先ほどの言いようでは、儂が三郎を疑うておると聞こえるな」
お屋形さまは軍配を頤に当てて、視線を足元に泳がせられた。口元には、貼りついたような薄い笑みが浮かんでいる。
「ふふん、確かに、三郎ではなかろうよ」と、せせら笑うかの独り言が聞こえた。
興明は、安堵とは違う、奇妙なざわめきを覚えた。拳を握ったまま、じっとお言葉に聞き入った。
「まあ、よい。じきに離れも片が付く。誰が仕組んだか、すぐにわかるだろうて。ところで、五郎。もう一つ、我主に問おう。儂は誰に賭けたと思うか」
お屋形さまは再び低く問うてこられた。ご下問の示す意味が、ちくりと胸に突き刺さった。
陶が来ると、お屋形さまは少しも考えてはくださらなかったのか。それでは、見縊られたに等しい。
「申し訳ございませぬ。某には、とんと思いつきませぬ。どうぞ、お教えくださいませ」
興明は唇を噛んだ。いったい、どこの家中が、お屋形さまから最も期待されたのか。お返事を待つ僅かの間にも、気分は酷く、ささくれ立った。
「わからぬか。誰も参らぬ、だ。当然であろう」
「は? 誰も――ですか? 誰も……あっ!」
ご心情に思い至って、興明は頭にがつんと、石でもぶつけられた気がした。
新介さまは、何の根拠もなかったにも拘わらず、陶に賭けてくださった。それは、ただ、興明に来てほしかったからに他ならない。
「誰も参らぬ」も、根は同じ。お屋形さまは、実のところ、誰にも来てほしくなかった。謀叛の存在など、誰にも知られたくないに決まっている。
「申し訳ありませぬ。出過ぎた真似をいたしました。参らぬほうがよろしゅうございました」
興明はしんみりと頭を下げた。
「馬鹿な。何を申す。戦場ならば、感状ものの手柄だぞ。いや、そう聞こえたなら、許せ。のう」
お屋形さまは慌てた口振りで、機嫌を取るように謝罪された。
「ただな、儂が知っておると気取られぬよう、対処には、かなり苦労したのだ。その気働きが、我主の分だけは無駄になった。絶妙の巡り合わせであったとはいえ、それが、ちと口惜しゅうてな」
――違う。興明は瞬時に察した。
いいや、そうではない。間違ったのは、興明だ。
お屋形さまは、家中の誰にも、何もお伝えにならなかった。それは、首謀者がわからなかったからばかりではない。反撃し、頭目を炙り出すためでもあろう。
だからこそ、誰も来ないよう願われた。誰にも邪魔をさせないために。
興明は胸騒ぎを覚えた。まずい始末になったかもしれない。
「お屋形さま。あちらの別棟には、いかほど人を配されたのでございますか」
「ああ、離れにおる人数か? そうさな、もともとの待ち伏せが十名。それに、方丈から十五名が追って加わる。まあ、二十五もおれば、間に合うだろう。賊は、せいぜい五人か六人と聞いたでな」
やっぱりだ。興明は小さく舌を打った。
お屋形さまは、賊に首謀者を吐かせるおつもりだ。殺すだけなら、五倍もの人手は割かない。できる限り生かしたまま捕えるために、それだけの人数を投じられたのだろう。
「お屋形さま、新介さま、ご無礼仕る! 某は、これより離れに向かいまする」
興明は勢いよく立ち上がった。叔父が目を剥いて興明の袖を引いた。
「これ、五郎、どうしたのじゃ。また、礼儀も弁えず。座れ、とにかく座れ」
興明は素早く首を横に振った。
「座ってなどおられぬ。内藤は十人もおるのだ。このままでは、肥後守の親父が……」
「待てよ、五郎、物好きだな。まさか、余よりも肥後守の側がよいのか」
朗らかなお声が飛んだ。新介さまは興明を引き留めようと、わざわざ傍らまで駆け寄ってこられた。
「手練れの我主が向かわずとも、追っつけ、あっちは片付くぞ。それよりも、少しは話し相手になれ。我主と語ると、何やら気が晴れるのだ」
「けれど、新介さま。もはや、肥後守の親父に任せてはおけませぬ。一刻も早う、止めなくては。今から行けば、まだ間に合うかと」
興明は切羽詰まった眼差しを方丈に向けた。
「止めるとは、どういう意味だ。肥後守も弥七も、我主に輪を掛けた使い手だろう。我が家の手勢が二十五。それに、内藤勢が十。五人や六人の賊を捕えるには、十分過ぎる数であろうが」
「いいえ。それは、捕らえる側の総員に、その心積もりがあればの話。内藤の親父には、賊を生かして捕らえるつもりなど、毛頭ございませぬ。方丈で二手に分かれたとき、あの親父は、一人残らず叩き斬るよう、手勢に命じておりました。足軽どもは褒美欲しさに、全力で斬り掛かりましょう」
あの時の雄叫びを、興明は塵ほども気に懸けなかった。いや、むしろ、当然と受け止めた。
あの猛った様子では、弘矩と弥七の念頭に賊を生け捕る計画など、露些かも浮かぶまい。殺気の漲る内藤勢は必ずや、捕り物の邪魔になる。
「一刻も早う、お屋形さまのお志を告げに参りませぬと。さもなくば、賊は皆殺しにされまする」
「皆殺し? いや、それは、まずい。それだけは避けねばならん。誰が企んだのか、一切、辿れなくなる。それでは、何のために親父どのが、人知れず都にまで出張ったのか」
新介さまは渋々(しぶしぶ)の体で引き下がられた。興明はお屋形さまに向き直って、力強く重ねた。
「このままでは、全てのお取組みが水の泡になりまする。一人でも多くを救わねば、御心に適いませぬ。某が関わったからには、某が参りまする。賊を助けに戻るとは、些か奇妙でありまするが」
「わかった。ならば、五郎よ、とくと励め」
朗々としたお声が背中を押した。興明は松明を手にすると、辿った道に踵を返した。