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序章 大内館の惨劇

全部で80万字、400字詰め原稿用紙にして2,000枚を超える長編です。

ぼちぼち修正しながら載せていきますので、全27章をお楽しみいただければ幸いです。

 序章 大内館の惨劇



 どこの龍神の祟りかと周防(すおう)のあちこちで囁かれた長雨が、十日ぶりに止んだ。久々の出番に舞い上がった太陽は、(ぬる)い陽炎まで伴っている。

 梅雨晴れの、文明十四年五月二十七日(一四八二年六月二十二日)、真新しい(こん)()きの直垂に身を包んだ陶弘護(すえひろもり)は、意気揚々と大内館の大門を(くぐ)った。逞しい体躯には、眩しいほどの自信が漲っていた。

 この日の大内館では、守護大名たる大内(おおうち)政弘(まさひろ)によって、盛大な宴が催されようとしていた。誰もが心から待ち望んだ、めでたき太平に寄せての宴である。

 応仁の乱が終結し、大乱に呼応した周防の内乱が幕を閉じた。九州で続いた数多(あまた)の戦も、ようやく終わりを告げた。山口の街には、(こぞ)って祝うに相応(ふさわ)しい、久方ぶりの安寧が訪れていた。

 招かれた客人は、当初から政弘に従った武将ばかりではない。一度は政弘に背きながらも、最後には恭順を示した国衆(くにしゅう)もまた、「平らかになった世を寿(ことほ)ぐべし」と、饗応に(あずか)る次第となった。

 宴の目的は、詰まるところ、祝賀ではない。真の目的は、一同を集めての、強大な力の誇示にある。平らかな世への寿ぎは、二度と叛乱を起こさせぬための、豪奢な威嚇でもあった。

「いつもどおり、遠侍(とおさぶらい)で待っておれ。そなたらにも、憎らしい顔触れを見せてやりたいが、さすがに会所まで同行させるわけにはいかんからな」

 弘護は機嫌よく供の者たちに申しつけた。

「憎らしい顔触れたあ、津和野の田舎侍でござるな?」

 と、すぐさま高らかな返事があった。

「なあに、連中の面体(めんてい)なんぞ、見よったところで、殿のご威光に霞むに決まっちょる」

「左様、左様。あねえな輩は、まともに見よったら、目が腐るばっかしじゃ」

 ともに戦場(いくさば)を踏んだ従者たちとは、阿吽(あうん)の呼吸で会話が成り立つ。(あるじ)を鼓舞する晴れ晴れとした笑顔に見送られて、弘護は主殿の前より会所の(きざはし)を上った。

 (ひのき)の匂いが清々しい。広々とした会所は、新しく建てられたばかりである。会場となる広間には、懐かしさを誘う格調高い香りが、重く濃密に()()められていた。

 長い廊下には、(つや)やかな柾目(まさめ)の六尺柱が一間(いっけん)ごとに立ち並ぶ。弘護は、(くゆ)る香りに()せ返りつつ、胸を張って突き進んだ。

 八間、九間、七間と続く広間は、襖が全て取り払われて、磨き抜かれた板の間には、真新しい円座が整然と並んでいる。三十を超える円座は、詰め掛けた客人により、既に大半が埋まっていた。

「さても見事な御殿よ。(しつら)えも申し分ない。さて、今日という日に選ばれた禅語は、何であろうか」

 三幅(さんぷく)の掛け軸を読もうとして、何かが目の端をひらひらと掠めた。視線を移すと、内藤(ないとう)弘矩(ひろのり)人懐(ひとなつ)こい笑みを浮かべて、頻りに弘護を手招いていた。

「どこを探しておるのだ、尾張守。よもや、(おの)が席次を忘れたわけではあるまいな。これほど覚えやすいものを」

弾正忠(だんじょうのじょう)め。なかなか気の利いた台詞で迎えてくれおる」

 弘護は小さく吹き出すと、さも呆れた笑顔で応じた。

 弘護の席次は最上位を占める。十六歳で周防守護代に任じられて以来、弘護は常に家臣団の頂にあった。

 領国に守護代が何名いようと、序列は昔から変わらない。大内家の本拠が周防にある限り、周防守護代が筆頭格である。

 同じように、奉行人が何名いようと、弘護は最高位を極めた。弘護の意思は日々の(まつりごと)を大きく左右し、弘護が関わるべき案件は、弘護が奉書(ほうしょ)の左端に連署するまで、全く仕事にならなかった。

 内乱の平定によって、主家の嫡流を脅かす庶流は、もはや一人も存在しない。政弘に次ぐ一門がさっぱりと一掃された今、当主が座す上段に最も近い上座が、家臣団の若き筆頭に与えられていた。

 弘護はまっすぐ弘矩のほうへ向かうと、正面の円座に腰を下ろした。

「庭へ寄り道しておった。これが欲しゅうなって。というても、すぐに食えるわけではないが」

 弘護は(いま)(がた)、通りすがりに()いできた梅の実を、「ほれ」と弘矩に披露した。青梅は爽やかに(かぐわ)しく、早く(かじ)れといわんばかりに、ふっくらと熟れていた。

「ほほお、梅の実か。これはまた、思い出すのう。今年は一つでよいのか? うん?」

 弘矩は(おなご)のように口元を隠して、茶目っ気たっぷりの視線を向けた。(にわか)に弘護の眉が曇った。

「去年のあれは忘れてくれ。思い出すと、また白髪が増える。(それがし)はまだ二十八の(よわい)と申すに」

「何を言う。あの小童(こわっぱ)は、父親を凌ぐ大物になるだろうて。今年は何を仕出かすか、実に楽しみだ」

「ええっ、今年は何を仕出かすか? いやいや、勘弁してくれ、あれ以上の騒ぎは」

 弘護は大袈裟に肩を落とした。弘矩は同輩を慰めるべく、また柔らかく微笑んだ。

 話題を変えようと、弘護は辺りを見回した。細かな透かし彫りの欄間(らんま)が、特に弘護の目を奪った。

「それにしても立派な広間よ。どこを見ても、目の保養になる」

「なかなかであろう? 室町(むろまち)殿(どの)を手本としたのよ。ただし、ずっと昔のな」

 得意満面に、弘矩が主君の口振りを真似た。政弘はそんな諧謔(かいぎゃく)(ろう)して、この会所の出来栄えを誰彼となく聞かせていた。そのたびに、弘護の胸も晴れがましさに躍った。

 この御殿には、弘護の領地である得地(とくじ)杣木(そまぎ)が大量に使われている。それこそ、屋根の上から床下に至るまでと言っても、決して過言ではない。

 豊かな杣木を育む広大な得地の地は、吉見との所領争いに勝った(たまもの)に他ならなかった。

 弘護は、本所(ほんじょ)である東大寺から何と文句をつけられようとも、杣人(そまびと)を叱咤して、最高の檜材を大内館へ提供した。床も柱も天井も、この建物を形作る何もかもが、弘護と領民の血肉に等しかった。

 西国一の大大名が、慎みも忘れて吹聴する自慢話は、そのまま弘護に対する褒め言葉であった。

「のう、尾張よ。おおかた梅でも(むし)りながら、会所の仕上がりも(おの)が手柄と、悦に入っておったのであろう。屋根の檜皮(ひわだ)から障子の(こうぞ)(がみ)に至るまで、お屋形さまは全てを我主(わぬし)の領地から買い上げられたと聞くぞ。功労者への(ねぎら)いであろうが、さぞかし懐も潤うたであろうて。羨ましい限りだ」

「いや、しかし、さすがに格天井(ごうてんじょう)の板絵までは用意できなんだ」

「阿呆か。そんなものは、雪舟和尚にでも任せておけ。恵まれ過ぎると恨みを買うぞ」

 弘矩は屈託のない笑顔を弘護へ向けた。

 守護代としては次席であっても、愛想の()さにかけて、弘矩の右に出る者はいない。先の内乱で己の兄を討った弘護を前にしても、弘矩の口元から笑みが消えた(ためし)は、ただの一度もなかった。

 貼りついた笑顔、との陰口も聞かれるが、概ね敵は少ない。弘護よりも九つの年長であるものの、朗らかな微笑に、華やいだ紅紫(こうし)の直垂がよく似合った。

「のう、尾張守よ。改まって申すのも何だが、今日は、記念すべき一日となろう」

 弘矩はゆったりと身を乗り出すと、声を落として囁いた。

「この先の一年の、いや、そのまた先の一年のためにも、今日は、またとない一日となる。儂は心の底から嬉しゅうてならん」

 目を細める弘矩に、弘護も深く頷いた。

 弘護は、眼前に居並ぶ武将たちが、まるで平蜘蛛(ひらぐも)のように政弘の前に平伏(ひれふ)す様を思い描いた。

 都にあった政弘に代わって、内乱の平定に最も力を尽くした武将は、他ならぬ弘護である。指摘されるまでもなく、周防のために、政弘のために戦った十数年を思うと、胸に込み上げるものがあった。

 弘矩もまた、弘護とともに戦場を駆け回った武士(もののふ)である。一族が一致団結した陶とは異なり、内藤は真っ二つに分かれたため、弘護に寄騎(よりき)した弘矩は、長門守護代の兄を敵に回した。

「今日は、記念すべき一日となる……か。いや、まったくだな。某も弾正忠どのと同じ思いだ」

 弘護は万感を込めた笑みを返した。

「ほう、左様か、それはよい。ところで、筑前守護代の席がないようだが」

 弘矩は怪訝そうに辺りを見回した。

「席次を見ても、常とは違うな。もしや、中務(なかつかさ)少輔(しょうゆう)どの((すえ)弘詮(ひろあき))は来られぬのか」

「残念ながら、この宴には。弟は今、任地を離れるわけにいかぬゆえ」

「そうか、それは痛恨であったな。せっかくの、兄の晴れ舞台であったのに」

「晴れ舞台? 某の?」

 弘護が聞き返したところで、豊前守護代が到着した。暑がりで名を馳せるだけに、今日は殊更(ことさら)逆上(のぼ)せた面持ちに見える。

「山口は暑いのう。こねえに蒸すたあ、はあ(もう)死にそうじゃ。そのうち、ここでも(ひと)()にが出るぞ」

 汗を拭き拭きの(たわ)けた挨拶に、弘護も軽く歯を見せた。

 そのまま(とこ)へ目を流すと、手前の軸には流麗な手蹟による『諸悪(しょあく)莫作(まくさ)』の文字が躍っていた。

 対になる禅語は『衆善(しゅぜん)奉行(ぶぎょう)』。期待を裏切らず、向こうの軸にある。

「言うは易く、行うは難しい」

 感慨深く眺める視線の先を、弘矩の目が追った。弘矩は軸を一瞥して、不機嫌そうに鼻を鳴らした。



「ところで尾張守よ、内々に話がある。そっちへ参ってもよいか」

 また悪戯っぽく笑いながら、弘矩は弘護の脇を指差した。

 客人たちの間はゆったりと離れている。弘護が頷きもしないうちに、弘矩は弘護の躰に触れるほど側近くまで(にじ)り寄ると、掛軸に向けて顎を(しゃく)った。

「ふん。同朋(どうぼう)どもは、何とも当たり障りのない()を選んだものよ。儂は七仏通誡(しちぶつつうかい)は好まぬ。『衆善奉行』も『自浄(じじょう)其意(ごい)』も、所詮は仏の綺麗ごとよ。その程度の心懸けで、この国が治まるものか」

「綺麗ごとか。しかし、それゆえにこそ、大事なのではあるまいか」

 弘護は素直な思いを口に出した。

「弾正忠どのとは、禅語の好みがあわぬようだな。残念だ」

「まあ、儂のところはお念仏だからな。曹洞に帰依しておる我主とは違うさ」

「なるほど。それで、何の用向きか。このような席で、他人(ひと)に聞かれるのが憚られる話とは」

「いや、なに、他愛もない狂言さ。ある男から泣きつかれてな。式三献が始まってからでは、お屋形さまに対して申し訳が立たぬそうな。それで、先に片付けたいと」

 弘矩は遠慮もなく弘護の耳元へ口を近づけた。

「……儂は我主を恨んでおらぬ。儂は兄の死によって、長門守護代の地位を手に入れたでな」

「弾正忠? いったい何の話だ」

 弘護は穴を穿(うが)つほど弘矩を見つめた。五寸と離れていない男の顔には、路傍の地蔵を思わせる笑みが、相も変わらず浮かんでいる。弘矩は柔和に続けた。

「我主は、留守居役として当然の戦をした。まだ若いのに、立派な武者振りであった。したが、陶は強大になりすぎた。儂にも少々、目障りだ。だから、奴の望みを叶えてやろうと思うてな」

「待たれよ。何の話をしておる」

「我主も、儂を恨むなよ。こんな日にまで中務を留守にさせたは、我主の落ち度だぞ」

 弘矩は不意に立ち上がった。弘矩の躰の陰から、ぬっと現れた男がいた。

 話に気を取られて、弘護は気配に気づかなかった。誰だと考える前に、男は刀を抜いていた。

「思い知れ、陶弘護!」

 (いみな)を叫ぶ凄まじい殺気が、白刃とともに叩きつけられた。弘護も瞬時に抜刀した。

 弘護の刀が深々と、男の右脇腹に食い込む。男が握った刀も同時に、弘護の左胸を刺し貫いた。双方の躰からゆっくりと、毒々しい鮮血が溢れ出した。

「うわあっ! 何をしておる、能登守どの! 気でも触れたか!」

 大音声(だいおんじょう)が轟いた。声の(ぬし)である弘矩に、大広間に座す一同の注目が集まった。

 相手の顔を間近に見ながら、弘護もまた、胸の内で驚きの声を上げた。

 ――何と、こやつが能登守か!

 目の前にいる刺客こそ、弘護が家督を継いで以来、常に天敵であり続けた男――吉見(よしみ)信頼(のぶより)であった。

富田(とんだ)の恥知らずよ、顔を合わせるは、初めてだな。戦場(いくさば)では幾たびも、弓矢を交えてきたものだが」

 ぎらぎらと光る眼が弘護を()めつけた。

 獲物を狙う獣の目つきだ。両目の周囲を真っ黒な(くま)が縁取っている。病者(びょうしゃ)の如き陰鬱な縁取りは、幾晩もの眠れぬ夜を過ごした信頼の深い苦悩を、鮮やかに物語っていた。

()(もの)め。これで吉見は終わりだ。得地も津和野も、俺がそっくり頂戴してやる」

「ふざけるな、この野郎!」

 信頼は眉を吊り上げ、握った刀に力を籠めた。弘護はなおも、せせら笑ってやろうとした。

 口の端から漏れた嘲弄(ちょうろう)は、しかし、笑いとはいえなかった。得体の知れない不快な吐き気が、喉の奥からごぼごぼと、噴泉のように湧き上がってくる。

 たまらずに吐き出すと、生温(なまぬる)く濁った血反吐(ちへど)が、藍の直垂をぼたぼたと染めた。

「乱心したか、能登守! やめよ、やめんか!」

 弘矩の(わめ)き散らす声が、広間の端まで響き渡った。どうしてか、弘護の耳には信頼の呻きのほうが、遥かにはっきりと聞こえた。

「吉見のために、(うぬ)は死なねばならぬ。地獄へは、儂が供をしてやろう。家督は弟に譲ってきたでな」

 信頼の刃は弘護の胸に、更に深く埋め込まれた。弘護の刀もまた、信頼の臓物を叩き斬っている。

 互いの躰に白刃を突き立てながら、二人は火花を散らして睨み合った。心の底から相手を憎む顔が、双方の眼前にあった。

 信頼は震えながらも、陶然(とうぜん)と笑っていた。(なじ)ろうにも、弘護はひと言も発せなかった。

 憤懣(ふんまん)疼痛(とうつう)とともに、どこかへ次第に遠退(とおの)いていく。刃は胸骨の合間を縫い、背筋を貫いていた。

「この刀は、『鵜噬(うくい)』と申してな……」

 信頼は思い切り刀を引き抜くや、切先を弘護の首に突き立てた。

 咄嗟に開いた弘護の口から、声にならない叫びが()ぜた。血飛沫(ちしぶき)は幾枚もの格天井に飛び散って、粗野な真紅の墨絵を描いた。

「吉見に伝わる名刀だ! (はなむけ)に受け取れ!」

 弘護の耳に届いた声は、押し寄せる闇の中へ消えていった。

 握った左手から、ぽとりと梅の実が零れ落ちた。青梅は(くれない)に染まらず、瑞々しいままであった。



 狼藉者の周囲には、いつしか人垣ができていた。

 弘護に(とど)めの一撃を加えた信頼は、苦しげに肩を波打たせつつ、無言で刃を引き抜いた。

 恍惚とした笑みを浮かべる殺人者を前に、腕自慢の武将たちは一人も声を発しない。目の前で起きた大惨事に、ただ驚愕するばかりである。

 信頼はよろよろと立ち上がると、人垣に向かって凄まじい殺気を(ほとばし)らせた。

 客人たちは息を呑んで、弾けるように後ろへ退(すさ)った。間違っても起きるはずがない大内館での刃傷沙汰に、いまだに悪夢の気分が覚めやらない。

「能登守! 貴様は何という狼藉を。ええい、許さぬぞ。尾張守の仇!」

 弘矩は刀を構え、一歩、前へ踏み込んだ。それが合図であるかのように、人々の口から浅く、短く息が弾けた。鯉口(こいぐち)を切る音が次々と続いた。

 今になって、己が武人であると思い出した相客(あいきゃく)たちは、(つか)に手を掛け、ぐるりと信頼を取り囲む。円陣の中央で、信頼は血に濡れた刃をゆっくり振り上げると、正面から弘矩に向き合った。

 乱れた直垂の右半身が(くれない)に染まっている。ざっくりと開いた脇腹から、ちぎれた(はらわた)が覗いた。

 溢れ出る血潮は袴を伝い、足下に真っ赤な池を成していく。それでも、信頼は全身で笑っていた。

「……はは……ははは、殺してやったぞ! とうとう、殺してやったぞ!」

 誇らかな宣言が轟くや、弘矩は斬り掛かった。

 横薙ぎに襲う刃を、信頼は避けようともしない。振りかぶったところで、力尽きたかに見える。

 白刃が煌めくや、創痍(そうい)(むしば)まれた躰はぐらりと傾き、死者の作った血溜まりに倒れ込んだ。弘矩は片膝を突いて、浅く波打つ胸に止めを刺した。

()きなされ」

 その声が如来の説法にでも聞こえたのか、信頼は満足げに頷いた。穏やかに閉じられた瞼が、ぴくりとも動かなくなった。安息に満ちた死に顔は、魂が法悦(ほうえつ)のうちに世を去ったと証していた。

 弘矩は次に弘護へ駆け寄ると、血の海に沈んだ躰を抱き起こした。

「尾張守! しっかりいたせ、尾張守! 我主は死んではならぬ! ええい、死んではならぬ!」

 弘護は既に事切れていた。弘矩はなおも狂ったように叫び続け、()えた躰を懸命に揺すった。

「この若造めが、儂よりも先に逝く気か? 返事をせい、尾張! 尾張! ああ……!」

 絶叫に続く沈黙の中で、取り囲む武将たちから、深い溜息が次々と零れた。誰の顔にも嘆きの色が滲む。堪えきれずに、(むせ)び泣く者も現れた。

 弘矩は肩を落とすと、つい先ほどの語らいと同じように、弘護の耳元へ口を持っていった。

「言うたであろう。今日は、記念すべき一日になると。我主が死んでくれて、儂は嬉しゅうてならん」

 囁いた口元には、柔らかな笑みが戻っていた。

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