98.何故此処に?
「飽きたなぁ」
真っ白な世界に頼りになるのは足元だけが緑の芝生である。平衡感覚だっておかしくなりそう。
「くっそう! こんなに歩かせるなんて!あの子ワニ覚えてなさいよ! って、あっ!」
時間の感覚もなく、正直そろそろ本格的に病みそうだなと思った時、焦げ茶色の物が前方に出現した。
いや、物というか。自然と気持ちが押さえきれず小走りになる。
──だって。
「何で?」
いきなり現れたそれは、見慣れた我が家だった。
「罠じゃないでしょうね?」
この弱肉強食の世界に飛ばされてから私の用心深さは以前に比べて格段に上がっている。
まず疑え。
そして自分の勘を信じろ。
毛を逆立てた猫のように集中するも、間違いないものまで見つけてしまった。
「…この欠けは」
まだ若かりし頃、お酒に飲まれて傘を振り回し親のお気に入りの洒落た表札に傷をつけたのだ。こっぴどく怒られたのを今でも忘れない。
三段しかない階段をはやる気持ちとは裏腹にゆっくりと上がり鍵がかかっているかもしれないと頭の隅で思いながら、鈍いブロンズ色の取手をひっぱれば、聞きなれた開閉音がしアッサリと開いた。
「なんか、自分の家なのに変」
玄関には親のサンダルやスニーカー、父の通勤靴が左に揃っているし、飾り棚には母の趣味のプリザーブドの花。いつもとかわりない。
「…ただいま」
戸惑いながらも靴を脱ぎ、風水だかなんだかしらないが親が買った黄色の玄関マットに足をのせ、リビングのドアノブを左手で掴み押す。
「全部、記憶のまま」
少しくたびれたクッションも綺麗に並んでいるようで飛び出ている雑誌、直そうと思ってそのままだった端のフックが一ヶ所外れた浮いたカーテン。
私の住み慣れた家なのに。
「此所は私の家だけど家じゃない」
「その通り」
思わず呟いた独り言に返す声。
家に入る前に腰から外し右手に握ったままの棒を声がした方向に向け構えた先には。
「久しぶりに会うヒトだけど変わらないなぁ」
開け放したリビングの横の畳の部屋に正座した若い男がいた。
「無知で無力な愚か者」
ほう。可愛い顔して吐くのは毒とは残念だわ。
「その無知で無力な愚か者の家を模したあなたはどちら様?」
「僕? あなたの呼び方で言うならば、子ワニもどきだよ」
「ふーん。お姉さん、歩き疲れているのよね。手短にこのふざけた状況を説明してくれないかしら?」
じゃないと子ワニの姿の時の背中のおうとつを足裏マッサージに使ってやる。
意外と踏み心地よさそうじゃないかしら。踏みつける様子を想像していた私に子ワニは爆弾発言をした。
「せっかちだね。だからヒトは嫌いなんだよね。焦っても無理だよ」
「えっ?」
何が無理なの?
私は、まだ何も尋ねていない。
それなのに私を見上げて笑顔で言い放った。
「芹沢ゆら、あなたは帰れないよ」
──なんでよ。
「だって、弱いもん」
「もう少し詳しく」
男の襟首を締め上げた。
「乱暴だなぁ。これだから無知なのは」
「言いなさいよ!」
意識しなくたって更に力が入る。苦しいと言うわりに表情は余裕だ。
「怒鳴らなくても聞こえるよ。だからさ、芹沢 夏海と芹沢 麻里をあなたは消せないでしょ?」
笑みを浮かべた男から出た台詞は、私を混乱させるのに充分だった。