第二章 第五話
時が遡るは椿子が部屋に戻った、テロの翌朝。
「泣いちゃだめだよ……泣きたいのは雪奈の方なんだから」
自分に言い聞かせながら涙を拭う椿子。しかし、募った感情のやり場を知らず、ただ涙に変えることしかできない。
どのくらいそうしていただろう。長かったのか、短かったのかはわからない。だが、愛香が様子を見に来るくらいだ。短くはなかっただろう。
「椿子。大丈夫?」
ドア越しに聞こえる姉の声はとても優しくて幾分かは心が休まった気がした。
黙って涙を流していただけなのだが、愛香にはわかっていたようだ。
「だ、大丈夫って何が? 私は元気だよ」
けれど椿子は涙を拭いきり、精一杯明るく振る舞って返した。
「ならー良かった。それじゃあ、学校行ってくるね」
「うん。気を付けてね」
愛香の足音が遠くなっていく。
正直、今は一人で居たくない。けれど友達と、というより姉以外と居ても不快になるだけだ。全員心から雪奈を悪人だと思っているのだから。
だが、姉を止めることもできない。
「はぁ……どうしよう」
深くため息をついた。
枕元にある携帯が鳴ったのはちょうどそんな時。
当然、出たいとは思えなくてしばらくは最近のお気に入りの着信音に耳を傾けていた。
「雪奈の連絡先聞いておけばよかった」
そもそも携帯なんて言う現代文明を知っているのか事態定かではないがふとそんなことを思い後悔する椿子。
携帯は一層静けさを際立たせるように余韻の一つも残さず黙り込んだ。
それがさらに悲しい思いにさせる。こんな思いになるくらいだったらさっきの電話は出るべきだったかな。
またも後悔する椿子。だが、そのすぐ後、再度携帯が鳴ったにもかかわらず、すぐに手が伸びない。
少しした後、この後また静かになると考えるといやいやにでも携帯に手が伸びた。
携帯の画面に映っていたのは知らない番号。
どうせいたずら電話の類だろう。でも、出ないよりはましだ。
携帯の画面をタップし耳にあてる。
「もしもし」
「お、やっと出たか」
聞き覚えのある声だ。どうやらいたずらではなかったようだ。
「あのー。どちら様でしょうか?」
「俺だよ、俺」
「いや、誰だよ」
俺、という一人称だけで自分と分かってもらえる間柄の人間なのか。だが、椿子にはそんな男友達など心当たりがない。まして、椿子には俺でだませる息子などいるはずもない。
「そのツッコミ本気でわかってないんだな。上田だ。お前の担任だ。突然電話して済まない」
「え? 本当ですか?」
信じられないのも無理はない。なぜなら椿子は携帯の電話番号を教えた記憶などないのだから。
「嘘ついてどうすんだよ」
「そうですよね。すいませんでした」
「いや、別にいい。で、早速要件なんだが——」
「——雪奈の手掛かりがつかめたんですか!?」
「違う。落ち着け。いいか、桜坂。もう、雪奈を探そうとするな」
「な、なぜですか」
受話器から聞こえる椿子の声は震えている。動揺している様子が上田の目に浮かぶ。
「言わなくても大体わかるだろ? そういうことだ」
「そ、そういうことって何ですか? これで、こんな結末で終わりにできるわけないじゃないですか」
「大丈夫だ。そんなつもりはない。後は俺一人でやるから」
またそれですか。またそう言われないといけないんですか。弱いからって! 何もできないからって! おかしくないですか? 何もできない人は何もしちゃいけないんですか? ねえ、誰か、答えてください。なんで……
「なんでですか……」
「なんでって、だからそれは——」
「——わかってます! 私が! 弱い私が悪いんです……」
「……お前が落ち込むことじゃない……お前は悪くなんかないよ」
「なら、誰が悪いんですか? この状況を仕組んだ誰かですか? それとも雪奈本人ですか?」
「雪奈はお前を助けてくれたんだ。その質問に正解があるとすれば間違いなく前者だろうな」
「私はそうは思えません。雪奈が最初に異能を使ったのは私のせいなんですから」
椿子の家が燃えたあの日。椿子が自分で姉を助けていれば少なくとも雪奈が犯罪者にはならなかったのではないか。そう思ってしまう椿子だが、そこで助けた雪奈が悪いとはならないようだ。
「桜坂。それは結果論に過ぎない。それに、今の世界は生きてるだけで善人だ。無理して悪人になる必要はない」
「何もせず雪奈を見捨てるくらいなら悪人の方がよっぽどましです。もし私が雪奈の代わりになれるならなおさら」
「馬鹿なことを言うな。それこそ雪奈は望んでないだろ」
「そう、ですよね……」
そういう椿子はわからない。雪奈が何を望んでいるのか。そもそも雪奈が助けを求めているのかどうかさえ。
「まぁ、そんなに思いつめるな。あとは俺が何とかするから」
「はい」
覇気がない声音で返した椿子は善人でいることを決めたようだ。
「それじゃあな」
「はい」
電話を切った椿子は本当に雪奈をあきらめきれたわけではないだろう。ただ、自分には何もできない。それだけはいやでも理解せざる負えない。
「これで、いいんだよね? 私には何もできることはないんだから」
これでいいわけない。そんな思いを消し去るために自分に嘘をついた。
「はぁ……不快だ」
思わず自分で口にした。
「ってこれ雪奈のうつっちゃってるし……」
ほろ苦い顔を浮かべる椿子はまた、静まりかえった部屋に一人だ。
「椿子。おいでー」
ドアの外から愛香の声がした。先ほど大学へと向かったはずなのに。
「お姉ちゃん? どうしたの?」
忘れ物か何かだろうか。とりあえず部屋を出る椿子。
「えへへ。帰ってきちゃった」
「な、なんで?」
嬉しそうににやける愛香に心臓がぎゅっと捕まえたような感覚を覚えた椿子。
嫌な予感がする。
「椿子とお買い物したかったからー。じゃ、だめ?」
「駄目でしょ!? 講義は? まさか、もう終わったってことはないんでしょ?」
「うん。そうだけどーどうせ単位は取れるからいいかなーって」
「はぁー。そこまでして何を買いたいっていうのさ」
「それはー椿子の元気」
嫌な予感は的中した。
おっとりとした口調だが常に相手の核心を突いてくる愛香。椿子にはそれが嬉しかったり悲しかったりしている。
「はぁー。なんでわかるの?」
「お姉ちゃんだもん」
「ふっ。それもそっか」
全く合理的でも、論理的でもないがなぜかこれ以上の説明はいらない気がしている愛香。椿子も納得しているのだから問題はないだろうが。
「よーし。それじゃあ、行こうー」
どこか緩さが抜けない愛香はゆるーく拳を天に掲げた。
「うん」
ほんと、こういうところは絶対に勝てないな。
こんなゆったりとしていても、いつもしっかりと姉なことを実感しつつ、椿子は愛香と家を出た。