第二章 第二話
登校することもできない雪奈は暇を持て余していた。
テレビを見る以外、ほかにすることがない。だがテレビがあるのはついさっき出て来た研究室だけだ。
この施設には雪奈のために作られた道場もあるが今はなぜか足が進まない。雪奈は途方に暮れて十字路の真ん中で立ち尽くした。そんな雪奈に後ろから声がかかったのは少ししてからのことだ。
「お前、他にすることとかないのかよ」
振り返ると拓が呆れた顔で雪奈を見ていた。
「関係ない」
「関係ないっておまえ、そんなところは変わってないんだな」
そんなところはとは何だ。
「二日や三日で変われるわけがない」
「ほんとにそうか?」
「何が言いたい?」
少しだけ笑顔の拓に向ける雪奈の視線は鋭い。
「いや、何でも」
「なら研究に戻ったらどうだ。崎にまた言われるぞ」
「ああ。そうすっかな」
そういう割には立ち止まったまま動こうとしない拓。ならばと雪奈が歩き出す。
今、雪奈はどうにも一人でいたい気分だった。
「おい、待て」
無言のまま振り返る雪奈の表情はとてもじゃないが穏やかとは言えない。怒っているようにも悲しんでいるようにも見える。ただ喜びの表情には見えず、不快なのが感じられる。雪奈自身もなぜここまで不快なのかはわかっていないようだ。
振り返った雪奈に拓はスクールバックを投げた。昨日まで雪奈が使っていたもので間違いはない。
「お前みたいなやつに勉強を教える暇があるなんて学校もたいがい暇な奴の集まりなんだな」
「……」
スクールバックを手にした雪奈はただそれを見つめた。
「今のお前に因数分解なんて必要ねえよ」
拓はカバンの中を見たようだ。
カバンを渡した拓は研究室へと帰っていく。その様子にさらに不快を募らせながらもふと気になって数学のノートを開いた。
ノートの中は赤のボールペンで細かく添削されていた。正解の部分には丸が間違っているところにはチェックとその理由が書かれていた。
「けど、先のことは知らねぇからやりたきゃ勝手にやっとけ。まぁ暇な時には見てやるよ」
「……」
「だからちゃんとやっとけよ? どうせ暇だろ?」
振り返ることなく告げた拓はそのまま研究室へと帰っていった。
言葉にできない感情に苛まれている雪奈はノートのページをめくっていく。白紙の1ページ手前。昨日のやりかけの問題に視線が止まった。椿子に指摘された間違いで消した微かな跡が残っていた。
「はぁ……不快だ」
表情が多少柔らかくなった雪奈は確かな足取りで廊下を進んでいく。何かが吹っ切れた様子だ。
もう二度と会うこともない人と過ごしたもう二度と帰らない時間。だが、それが全く持って無意味で無利益だとは思えなかった。
たかが二日三日でも手に入れたものは確かにあって、今確かにそれに動かされたから。
「……」
誰の声も響かない廊下で雪奈は確かに声を聴いた気がした。
* 1 *
午後十時半。暇をつぶせた雪奈の顔色に不快感は残っていない。
「よし、それじゃあ今回の作戦を説明する。まずは、これを見てくれ」
崎は手元に持っているタブレットを操作し、無数にあるモニターの全てに画像を写した。
「これはナノキューブ本社の写真と地図と設計図だ。見てわかるようにかなり広い」
崎が写した写真はナノキューブの敷地内全てが写っている。長い柵で囲まれた敷地内は正確な数字にはできないが恐らくドーム換算で10個は入るだろう。
柵の内側は地上数階にも及ぶ建物が立ち並んでいて、それらは車道や歩道で繋がれている。他にも、信号機に噴水などがあり、もはや小さな町となんら変わりない。
「雪奈なら今晩で全部を調べられるかもしれないが今回の調査で調べるのは一箇所。ここに向かってもらう」
崎がまた、片手間にタッチパネルを操作すると全てのスクリーンが一つの建物をあらゆる角度で映し出した。
敷地内のど真ん中に立つ、他の建物とは桁違いの大きさと高さを誇る建物。それが今回の目的らしい。
「雪奈のターゲットが入って行ったのもこの建物だ。この建物だけ地図も設計図もないが運次第で会えるだろう」
「遭遇したら戦闘していいのか?」
「ああ。当然だ。じゃないといくらお前でも生きて帰れないだろう。それと、一応言っておくが常に気を張っておけ。奴が先にお前を見つけたならお前の命は既にないからな」
理想投射はどんな理想も現実に投射できる。例えば、対象の相手を無傷で殺すことも。故に気が付いたら死んでいたと言うよりは気がつくこともなく死んでいたなんてことも十分にあり得るのだ。
「崎、それは言う相手を間違ってないか?」
「過信は愚か者のすることだ。特に今回の場合は一つのミスで死にかねない。それだけは肝に銘じておけ」
崎に言葉を返したのは拓だ。しかし、崎は拓ではなく雪奈に言っているようだ。
「もとからそのつもりだ」
「お前らしくて結構だ。じゃあ、そろそろ準備と行くか」
崎はポケットから片耳だけのイヤホンを取り出し雪奈に投げた。
それをキャッチする雪奈。
「それを耳に付けておけ。こちらでお前の動きをモニターしているし何かあれば連絡もする」
「わかった」
「よし。最後に確認だ。今回の目的はナノキューブ本社の調査並びに、奴らの研究に害があると判断した場合それの阻止だ。質問は?」
「……」
無言で首を横に振る雪奈。
崎は腕時計に視線を落とし時刻を確認する。
「ちょうどいい時間だ。午後10時59分。配置に付け」
崎の言葉が部屋中に伝わると、そこにはもう雪奈の姿はない。
「作戦開始だ」
部屋にはニヤリと笑った崎の声だけが静かに響いた。
* 2 *
イヤホンから崎の声を聞いた雪奈が立っているのはナノキューブ本社を囲っている柵の前だ。
作戦開始のコールとともに再び姿を消した。
次に雪奈が立っていたのは先ほど崎がスクリーンに写していた建物の前だ。
あたりを見渡す雪奈。
写真でも見たが、見わたせば見渡すほど町となんら変わらない。歩道の脇に植えられている木々や街頭に電柱。電気のついた民家が数軒。
ギスペックもある程度大きい会社だがナノキューブと比べるともはや小さな会社に過ぎない。どんなに対抗心を燃やそうと相手はライバルとすら思わないだろう。
「滑稽だな」
それでも立ち向かう崎達に向けて呟いた雪奈だが、なぜか妙なやる気に駆られていた。
ゆっくりと建物に向かっていく雪奈。
無用心にも建物に鍵はかけられておらず簡単に中へと入って行けた。
広い室内にはまだ誰かしら残っているのだろう。ありとあらゆるところから人の気配がする。潜入者というよりはただ訪ねて来た人のような感じがする。
少し歩いているとT時の右角から足跡が聞こえてくる。一瞬も鳴りやむことない足音は数人で近づいてくるの示している。
無力化するよりは隠れてやり過ごすほうが無難と取った雪奈は無駄に高い廊下の天井に飛んだ。
数秒後、白衣を着た四人が曲がり角から出て来た。
「いやー。今日も疲れましたね」
一人だけ見るからに若い男の研究者が言った。
「そうね。でも、もう少しで完成するわ」
「ああ。今からあと二十七時間というところか」
どうやら研究の話の様だ。だが雪奈にはそんなことはどうでもいい。そもそもその研究が崎の気にしていた研究なのかは知らないが研究をしない研究所などない。
どうせ今回も崎の勝手な妄想だろう。それより問題は少年の方だ。
雪奈は適当に彼らの様子を見続けた。
「すごくないですか? これが完成したら歴史が変わりますよ」
「ぼ、僕たちはも、もう、一度世界を変えている」
「そうね。けれど今回は桁違いよ」
「ああ。5年前、彼女が来てから我々の研究は大いに進んだ」
「あー。あの人ですよね? 実験室の監視をしてる。えっと、名前なんでしたっけ?」
「ここに知ってる人はいないわ。彼女、そういう人だから」
「ま、まぁ、なんにしても、ぼ、僕たちの仕事はもう終わりだね」
「終わったら打ち上げ行きまいしょ? ぱぁーっと」
各々が賛同の声をあげながら別の道を曲がって行った。
「はぁ……」
雪奈は四人の足音が聞こえなくなったのを確認すると地面に降りた。
「世界が変わる研究か。崎が止めたいのはそんなことだろう」
興味なさげに吐き捨てると四人が来た曲がり角を曲がる。
すると正面から走ってくる人影が見えた。幸い近くに身を隠せる柱があったのでそこに隠れる。
人通りが多いな。
そんなことを思う雪奈の真横を走り去ったのは女性だ。足もかなり速い。雪奈と並ぶくらいには早いだろう。
そんな彼女が雪奈の視界に入った時間はコンマ一秒すらない。だが、雪奈の目は確実にとらえていた。彼女が背中にさしていた長さ1メートルを優に超える太刀は、脳裏に焼き付いて消えない咲夜が持っていたそれと全く同じだったことを。