丑三つ時のタクシー話
とある黒塗りの個人タクシーが、深夜の青梅街道を西から東へと走っていた。助手席側のフロントガラスからは「空車」の文字が赤く点灯している。
時間はすでに2時を過ぎ、電車は終電もなくなっている時間のため、意外と乗車客の確保は容易な時間帯でもある。
運転手は見た目でいえばそこそこ若い男であった。そんな彼が、歩道と車道の境目で手を挙げている女性を見つけた。
急いでハザードランプを点け、車両を左に寄せつつ停車。後部座席左側のドアを開けると、手を挙げていた女性が乗り込んでくる。
「お客様、どちらまで行かれますか」
運転手はいつも通りの接客をしつつ、今回の客である女性を見る。
長い黒髪、白いワンピース、手には淡いピンクの手提げバッグ。今の季節が夏ということを考えれば特におかしい格好ではない。
ただひとつ目立つところがあるとすれば、バックミラーからでも見てとれてしまう、その泣き腫らした目であろう。
「……ひとまず新宿方面へ、お願いします」
*
運転手は軽い話題でも、と思い話しかけようとしたが、どうにもそういう雰囲気ではない。こういった職種には話題選びもさることながら、空気を読むことも重要なスキルなのである。
そっとしておこうと判断した運転手ではあったが、相手はそうではなかったようだ。
「……運転手さん。死後の世界って、信じますか?」
話しかけられた当の本人がちらりとバックミラーを覗いてみれば、彼女は横窓の外を見つつ、どこか自嘲的な笑みを浮かべていた。
これが普通の一般人ならば、確実に引いて逃げ出すようなシチュエーションだ。しかし、見た目は若いながらも経験豊富な運転手は、これしきのことでは動じない。
「死後の世界ですか。ええ、信じてますよ」
「……じゃあ、人って、死んだら、どうなるんでしょうね」
話題がどんどんおかしな方向へ行っている気がするが、運転手は気にも止めず話を返す。
「そうですねえ。これは知り合いから聞いた話なんですが……」
そう前置きしてから彼は改めて語り出す。
「死後の世界では、肉体というものは存在していません。いわゆる魂だけ、の存在になるそうです。
それで、この魂っていうものがですね、こう、良くある想像だと青白い火の玉みたいなものを思い浮かべると思うんですが、柔らかいビー玉みたいなものでしてね。
どうやらこの魂というものは『器』が本質らしいんですよ」
「……うつわ?」
「ええ。先程はビー玉と言いましたが、それは見た目だけのようでして。また表現が変わってしまいますが、膨らむ前の水風船みたいな物でもあるようです。その中には魂の『核』があるとかなんとか。それで人や動物が成長していくと同時に核も膨らんでいくそうです」
「…………」
表情は暗いままだが、彼女は運転手の話の内容に思いの外興味を示しているようだ。
「それで『人が死んだらどうなるか』ですが、まあ私は死んだことはないわけですが、その知り合いから聞いた話では死んでからしばらくは浄化の順番待ちをするそうです」
「……浄化?」
「はい、魂の浄化です。育った魂の核を抜き取って、器を綺麗にして、また再利用するための浄化だそうですよ。
ああ、抜き取られた魂の核は、いわゆる『あの世』での色々な用途に使われているそうです。しかし、よくよく考えてみればあれですね。それが真実なら人間は『あの世』の家畜……魂牧場がこの世の本質、なーんて考えが浮かんでしまいますねえ」
運転手は話題の内容の割には軽い口調で話す。いや、むしろこういった話題であるからこそ、軽くしているのか。
「まあそんなわけでして、魂が浄化される時こそが、その人間の真の死だそうで。
そういえば浄化の順番待ちは、生前の行いによって放置される時間が変わるそうですよ。悪ければ悪かっただけ放置時間が長くなるそうです。悔い改めたりする時間のためだとか邪気を抜くためだとか色々理由はあるようですが。
確かに何もしない、できない時間が長ければ長いほど、退屈というものは苦痛に等しいものか、も……」
「……」
興に乗って話していた運転手だったが、ふと客の女性をバックミラー越しに見てみれば、きょとんという単語がしっくりくるような表情を浮かべていた。
「……あー、これは失礼しました。どうも蘊蓄を語るといけませんね。お客さんを蔑ろにしてしまうとは、本末転倒にも程がある」
「いえ、そういうわけでは……ただ、今までに聞いたことがないような説で、むしろとても興味を惹かれる話でした……」
どうやら引かれていた訳ではないらしい。せっかく軽くなり始めた車内の空気を壊さずにいられたことに安堵する運転手。
「…………そうか…………順番待ちか…………」
重い空気の原因であった彼女はといえば、何やら薄い笑顔のような、それでいて哀しさを纏ったような表情で軽く俯いている。
しばらくの間、車内には再び静寂が訪れる。
それは運転手と女性、二人が口を開いていないという意味ではなく。
車の揺れも無く。
エンジン音もせず。
片方はそれに気付かず、また片方はそんなことを考える必要もなく。
タクシーは夜を駆け、そして。
「お客さん、着きましたよ」
静寂を破ったのは運転手の一声。
「…………?」
客であった女性はしばらく俯いていた顔を上げつつ思考する。
着いた? どこに? 方向は指示したけど、行き先は告げていなかったはず――
そんな彼女の疑問は一瞬で掻き消えた。なぜならば、そんなことなど考えられなくなったから。
顔を上げた先には、闇が。
今まで座っていた後部座席は、コンクリートに。
窓を締め切ってエアコンの涼しい空気を感じていたはずなのに、生の強風が頬を、身体全体を撫ぜる。
思わず足元を見てみれば 、自分の履いているピンクのミュールと、遥か下方にある夜景。
ここは、どこかの、ビルの、屋上、としか、思えない、場所で。
「……きっ、きゃああああああああああああああ!!」
現状を辛うじて認識し悲鳴を上げて後ずさってみれば、カシャンという音と共に金網に阻まれてしまう。
それは中にいる者にとっては落下防止のためのものだが、現在外側にいる彼女にとっては絶望の檻だ。
それでも落ちまいと、金網にすがり付き両手の指をこれでもかと絡める。相変わらずビル特有の強風が吹き付けてくるが、ひとまず最低限の安全は確保できたと思いたい。
ほんの、ほんの少しだけ出来た心の余裕。それにより今考えるべき疑問が彼女の頭をよぎる。
「どうしてこんなことになったのか、ですよね。お聞きしたいのは」
その疑問は自分の口からでなく、他人の口から発せられた。
「この度は666タクシーをご利用頂きまして、誠にありがとうございます。
ああ、わかっております。まずは説明からさせて頂きますので、罵倒やら、命乞いやらは置いておいて、パニックにならず、ひとまず私の説明を、最初から『最期』までお聞きくださいね」
真っ正面に、あの運転手がいた。
ビル屋上の縁に座っている状態の彼女の真っ正面、つまり空中である。そこににこにこと笑顔を浮かべた運転手が、宙に浮かんでいた。
「ああ、これは夢ね。きっとさっきのタクシーでいつの間にか寝てしまったんだわ。はやく、はやく起きないと……」
信じられない光景ばかりが次々と目の前に現れるのだ。これは夢だという判断になるのも致し方ないことだろう。
「あ、はい、夢だと判断してもいいですから話だけ聞いてくださいね。貴女みたいな人はいくらでもいましたから、もう慣れっこなんです」
錯乱間近の女性を見ても、特に態度も表情も変えることなく話を進める運転手。
「まず、こんなところに連れてきたのは私です。もちろん理由はありますよ?
まず根本的なところからなんですが、貴女が乗った――」
そう話しつつ右手を横に振ると、空中にタクシーが現れた。
「――このタクシーなんですけどね、これ、『死にたがってる人にしか見えないんですよ』」
そう言われた瞬間、女性は心の内を見透かされたような感覚に陥った。
死にたがってる――それは、事実だったからだ。
「それでですね、車内で話した世間話、あったじゃないですか。あれって一応本当の話なんですよ?
知り合いっていうのはあの世の住人で、私は人間が言うところの水先案内人、みたいなものでして。まあ部署が違うので直接行ったことはないので又聞きではあるんですけれども。いやー、説明が大分省けるのでありがたい話題でした」
陽気に話す運転手だが、女性の方はといえば顔が真っ青である。
「わ、わた、しを、ころ、殺す、の?」
文字通り必死に声を出すが、震えてしまう。
「いえいえ、私は殺しません。絶対に直接の手出しは致しません。致しませんとも。
そんなことが出来てしまったら、今の常世からあっという間に人間が消されてしまいますよ。
ちなみに私がやっているのは間接的な間引き――自殺幇助、というやつでしてね。
いやー、この日本という国はいいですね。自殺大国と言われるだけあって仕事が捗ります。死にたがっている人ばかりですからねえ。
まああれです。死にたがりの自殺を手伝ってあげて、さっさと魂を回収するというのが私の副業みたいなものでして」
運転手は、彼女のことなどお構いなしに話を続ける。
「私は貴女をここに連れてきただけ。
貴女がここから飛び降りて自殺するのは貴女の自由です。
貴女の意思で決めるのです。
なんなら飛び降りた瞬間に、恐怖心を抱かないように気絶させるくらいはサービスしますよ。自殺をしてくれるなら、ある程度の融通は利かせます、利かせますとも」
無言の彼女を差し置いて、話は続く。
「ほら、自殺って色々準備が必要だったり、踏ん切りがつかなかったりするでしょう?
だから、煩わしい部分は私どもが手伝います。
貴女は嫌な思いをできるだけせずに死ねる。
私は魂を回収できる。お互いに利のある話でしょう?」
彼女を説得するように、はたまた洗脳を施すかのように話は続いた。
「さあ、私からの説明はこれくらいでいいでしょう。どうぞ遠慮無く、飛び降りちゃって下さい。見られているのが嫌だというならしばし席を外しますし、お応えできるご要望ならなんでも――」
「……い、いや」
「――はい?」
意を決して、彼女は叫んだ。
「わ、私は、こんなところで死にたくない!!」
拒否の意思を、叫んだ。
「確かに、死にたか、ったけど、あんたなんかに、決められたくない!!」
「…………」
彼女の叫びはまだ収まらない。
「帰して! 私が『いき』たかった場所に、帰してよ!!!」
はあ、はあ、と荒い息づかいが闇夜の中に木霊する。
必死に、彼女にとってありったけの勇気を振り絞っての叫びだった。これが夢でも現実でも、ここで飛び降りてしまったら、死んでしまったら、絶対に自分の望みは叶わない。叶えられなくなる。それだけは譲れなかった。
そんな彼女に対して、運転手の方はといえば。
「そうですか、すみません。どうやら私の方が少々間違っていたようで。申し訳ありません」
飄々としたものだった。
「いやー、貴女のようなタイプは初めてだったものでして。いつもの人間相手のような対応をしてしまいました。重ねて謝罪を。
お詫びといってはなんですが、色々と便宜は図らせて頂きますので、何卒ご容赦の程を――」
そう言葉を残すと、傍らに浮かんでいたタクシーと共に闇に溶けるように消えてしまった。
いや、消える前にこの状況をなんとかしていけと言いたい彼女であったが、気付けばそこはビルの屋上などではなく。
「こ、こは…………あ、彼の…………」
どこにでもあるような二階建てのアパート。いつの間にやらそのアパートの階段に彼女は座っていた。彼女にとっては見慣れたアパートであった。
やはり先程のあれは夢だったのか。
いや、夢だったとしても、構わない。自分がやりたかったことを決心できたのだ。その切っ掛けを与えてくれた。その事実があれば今の彼女にとっては十分だったのだ。
*
階段から立ち上がり、カンカンカンと音を立てつつ上がっていく。
201号室。見慣れたプレート。鞄の中から鍵を取り出し、そのまま開錠する。
玄関からすぐ流し台があるタイプの部屋でそこには電気が点いていないが、その奥の部屋からはテレビの音と明かりが漏れている。
ここは、この女性の彼氏……いや、正確には元彼氏が住んでいる部屋である。地元での高校からの付き合いで、十数年の仲であった。
しかし、今朝がた電話で別れを切り出された。それだけのことで、とは言うなかれ。彼女にとっては自殺願望が芽生える程の出来事であったのだ。
別れの理由はわかっている。その理由も、きっと彼が今いるであろう部屋にある。
自然に、当たり前のように、特に力むこともなくその部屋のドアを開けた。
そこには、愛しい彼と――見知らぬ女。
「おまっ……! 何しに来た! もう顔見せんなっつったよなぁ!」
「え? ああ、例の元カノ? やぁだ何これ、もしかして修羅場ってやつ? あははっ」
怒鳴る彼に、嘲け笑う女。しかし彼女はとくに怯むこともなく話しかける。
「別に怒りに来た訳じゃないの。修羅場にするつもりもないし。ただ、最期に私の気持ちを納得させたくて、話しに来ただけ」
「てめーの気持ちなんか知らねーよ! もうやることなすことうぜぇんだよ! こんなんだから別れたってことに気付けねーのかてめーはよ!」
淡々と話す彼女に、怒鳴る彼氏。なんとも対照的な二人である。
「まず、これ……ここの合鍵を返しておくわ」
先程この部屋に入るために使った鍵を、彼の前に差し出す。彼女にはもう必要がないものだ。
「……お、おう」
その行動に、多少拍子抜けしてしまった彼は、まだイライラは治まらずとも怒鳴り声はなくなった。
「私と付き合ってたときに二股をかけてたとしても、私が代用品だったとしても、別に怒ったりしてるわけじゃないの。今日だって何かしらの言い合いをしに来た訳じゃないってことだけ、まず理解してもらえるかな」
あくまでも冷静に、淡々に。ベクトルは違えども、自分のペースを崩さないその姿勢は、あの運転手と似通っていた。
「……ちっ。わぁったよ。聞くだけ聞いてやる」
「うん。単刀直入に言うね。私はまだ貴方が好き。でも彼女としては居られない、のはわかってる。だから、都合のいい女として、貴方の側にいさせてほしいの」
「ああ? 何言ってんだてめー?」
「身体は求めない。ないとは思うけど、貴方から求めてくれるならいくらでも応えるわ。家事だってこなすし、お金だって都合してあげる。ただ、ただ側にいるだけでいいの」
「…………」
「勿論おかしなこと言ってるのは自分でも理解してるつもり。金の切れ目が縁の切れ目でもいい、貴方の要求に答えられなくなったら捨ててくれてもいい」
…………
……………………
彼氏の目は、正に変人を見ているような目をしていた。当たり前だ。しかしそんな目で見られることを彼女はちゃんと理解できていた。自覚できていた。静かに歪んでいた。
そんな中言葉を発したのは、彼の横にいた女だった。
「いいんじゃない? 私は別にいーよー」
「ばっ……お前も何言って……!」
驚く彼の耳元で女は囁く。
「……だぁってさぁ、わざわざ自分からATMになるって言ってくれてるんだよ? こんな金ヅル手放すの勿体無いじゃん」
「……あー、なるほどなぁ」
「……都合のいい女、その言葉通り、都合良く使わせてもらおうよ……」
二人の顔を見るに、どうやら話は付いたようだ。ニタリと嫌らしい笑みが浮かんでいる。
「わかったよ。こいつも良いって言ってることだし、側にいさせてやるよ。ただし、さっきお前が言った条件、忘れんじゃねーぞ」
その言葉を聞いたとき、今まで冷静だった彼女は、本当に幸福そうな笑顔を浮かべた。
「ありがとう……」
「ケッ。そんじゃまずは金だ。今いくら持ってんだよ」
ここまであからさまな態度を取られても彼女は笑顔を崩さない。むしろ求められた嬉しさが勝っていた。
「うん、じゃあこれ。はい」
彼女が鞄から取り出したのはかなりの厚さがある封筒。受け取った彼氏が中を見てみれば、数えずとも百枚程は万札が詰まっているだろうことは、頭の弱い彼でもわかることだった。
「まじかよ……」
「わー! 本当にありがたくもらっちゃうよー?」
「ええ、もちろん。そのために卸してきたんだもの。一応まだあるけど……今日渡すのはひとまずそこまでね」
彼女の鞄の中には、その封筒の中身を上回る現金があった。
「んだよ。前からこーゆー風にしてりゃあ、もーちったぁ優しくしてやったのによー」
「うっわー、現金にもほどがあるー」
「おめーには言われたくねーよ」
目の前にいる女性はそっちのけで盛り上がる二人。それでも彼女の笑顔は変わらない。
いや、むしろ期待に満ち溢れたような、更なる幸福が待っているかのような、子供のような純粋な笑顔だった。
「……じゃあ早速で悪いけど、ちょっとだけ彼のこと、借りるね?」
「ちょっとだけだよー? 私の男は高いんだから」
「あんましベタベタすんじゃねーぞ。鬱陶しいことしたら引き剥がすかんな」
「うん、大丈夫」
彼女は再度鞄の中に手を伸ばし。
「すぐ終わるから」
右手に持った包丁を、音も無く彼氏の首めがけて。
「……は?」
横に、薙いだ。
「え?」
彼の隣にいた女はすでに血塗れで。
「わ、凄い。業物の包丁ってこんなに切れ味いいんだ」
その原因の彼女は壊れていて。
「……が、ぎ……がびゃ……」
仰向けに倒れた彼の首からは、まだまだ鮮血が溢れ出ていて。
「では貴女がいつか死ぬまでのちょっとの間、彼のこと借りますね。それじゃあ、また」
側にいてもいい。その了承だけが彼の口から欲しかった。それさえあれば、もうこの世に未練などありはしない。
彼女は自分の首の左右になんの戸惑いもなく包丁を差し込み、部屋の中をさらなる朱に染め上げて、満面の笑みを浮かべながら彼の身体に重なるように倒れ込んだ。
地獄の沙汰も金次第。鞄に残った自分の全財産が、多少は死後に役立てばいいなと想いつつ、彼と彼女はほぼ同時に事切れた。
残った女が一体何が起こったのかを理解するのと、アパートに悲鳴が響き渡るのも同時だった。
「いやー、先程はどうも。いえいえ、こちらこそ。まさかお連れと一緒に来てくれるつもりだったとは気付きませんで。危うく勿体無いことをするところでした。
ええ、勿論この後のことはお任せください。水先案内人として、お得意様には最大の便宜を。
ひとまずはあれですかね、浄化の順番待ちは御一緒にということで。ちゃんと向こうの担当者には言い聞かせます。
はい、真の死が二人を分かつまで……解っておりますとも」
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割烹に誰得なのかよくわからない作品解説載せてます。