運命の出会い 四
「瞳が青いから、吾生って名前なの?」
愛嘉理は、純粋に吾生のことがもっと知りたいと思い訊ねた。今まで他人に関心を持たないように生きてきた愛嘉理にとって、それは新鮮な感覚だった。
彼は何故、こんな自分を助けてくれたのだろう?微笑んでくれるのだろう?真剣に向き合ってくれるのだろう?好きと言ってくれるのだろう?
尽きぬ疑問が、愛嘉理には何故か心地好かった。そんな愛嘉理の頭に、吾生は優しく手を置く。
「そうだよ、愛嘉理と同じ。」
吾生は愛嘉理の髪をくしゃっと撫でて、およそ神とは思えないような悪戯っぽい微笑みを見せた。
「できることは少ないって自分では言うけど、吾生は何でも分かっちゃうの?」
「人間よりはね。」
「じゃあ、何でも知ってる?」
年相応の子供らしく瞳を輝かせる愛嘉理に、吾生は困ったように頭を掻いた。
「うーん、それはちょっと自信ないなぁ。」
「神様なのに?」
突然現れた自称神の吾生に、愛嘉理は今度は先程とは違い無邪気に笑いながら訊ねる。
「神も色々なことを、一つずつ学んでいくんだよ。」
そう諭す吾生に、愛嘉理はワクワクと顔を輝かせた。
「じゃあ、私と一緒?」
「一緒。」
二人は笑い合った。穏やかで、幸せな一時。それは愛嘉理が今までに余り経験して来れなかった、貴重なものだった。吾生と過ごす時間は不思議だ、と愛嘉理は感じた。
今まで思ってもみなかったことや、知らなかった自分がどんどん出てくる。自分に素直でいられる。
それだけのことが、愛嘉理にとっては革命だった。
「…でもね、分かるからこそ苦しむこともあるよ。こんなことを言わなくても愛嘉理は分かってるってことも、僕には分かってるんだけどね。」
「…うん、確かにそうだね。」
暫くの間を挟んで放たれた吾生の静かな言葉に、愛嘉理は沈痛な面持ちで頷いた。
自らを嫌う理由が分かってもそれがどうしようもないことなら、知らない方が幸せなのかもしれない。そう苦しんできた愛嘉理には、それが吾生の言う苦しみのほんの一例だと知りながらも他人事として考えることはできなかった。
しかしそれでも抑えることのできない一つの思いが、愛嘉理を口を突いて出た。
「でも人の考えを知ることができたら、嫌われないようにする方法も分かるかもしれないよね。」
愛嘉理の人生を知れば、そう考えてしまうのも無理はないと分かる。しかし、それで良いはずがない。それは本人でさえ頭で分かっていながら、どうにもできないことなのだ。それが分かるからこそ、吾生は愛嘉理に神に相応しい意地悪な質問をした。
「でも、そうして得た居場所は本物と言えるかな…?」
「…そ、そんなのどうだって良いよ!偽物だって、立派な居場所だもん!」
愛嘉理は必死に訴えた。吾生の予想通りの反応だ。
「吾生は自分を否定するなって言うけど、皆に嫌われちゃう私はいちゃいけない気がする…。世界のどこにも、私がいて良い場所なんてない気がするんだ…。」
「愛嘉理…。」
吾生は悲しくなった。それはその気持ちを、よく理解できるからだ。
項垂れる愛嘉理の肩に、吾生は「うん、分かるよ…。」と手を置いた。しかし愛嘉理は、その手を乱暴に振り払う。
「嘘だ、神様に分かるはずない!私は人間だもん!神様には居場所がある!人の心だって分かるのに!」
吾生の言葉に嘘はなかったが、瞳に涙を溜めながら叫ぶ今の愛嘉理には届いていなかった。それは普段本当の思いを出さず言い返したりもしない愛嘉理の、生きたいという余りにも重い切実な訴えだった。
痛々しい表情の愛嘉理に、吾生は儚く微笑んだ。
「神だって、人間に忘れられて居場所を失ったら消えてしまうんだよ。」
居場所が確約された存在などない。吾生はそう伝えたつもりだった。
しかし愛嘉理は、つんとそっぽを向く。
「でもそれなら、少なくとも消えてない吾生には居場所があるってことでしょ。」
「僕は…。」
眼鏡の奥の瞳を擦る少女の発言に、神は言葉を詰まらせた。
その様子を見て、愛嘉理はようやく我に返った。後悔は既に相当なものとなっていた。
思ってもないことをたくさん言って、傷付けてしまったに違いない。やはり自分は誰かと関わる資格のない存在だ。
そう考えた愛嘉理が謝らなければと顔を上げると、吾生に先を越されてしまう。
「いや、今の僕もそう。本当は、もうここにいちゃいけない存在なんだ。」
「へ…?どういうこと…?」
目を真ん丸にする愛嘉理に、吾生はただ悲しげに微笑んだ。
「あの…。ごめんね、吾生。あんなこと、言うつもりじゃなかったのに…。」
心底申し訳なさそうな愛嘉理に、吾生は笑って首を横に振った。
「気にしてないよ。」
「でも…。」
俯く愛嘉理に、吾生は頬をポリポリと掻いた。
「僕こそごめんね、愛嘉理に意地悪しちゃった…。」
「え、そうなの?」
「うん、少しね…。」
その事実を今知って驚く愛嘉理に、吾生は罰が悪そうに頷いた。
「そっか、じゃあお互い様だね。」
「うん。」
二人は笑った。
「そうだ、愛嘉理。」
吾生は真っ直ぐに愛嘉理の瞳を見据えると、明るい声で呼び掛けた。
「何度でも言うけど、僕は愛嘉理のこと好きだからね。」
「え?えっと…。」
深海の瞳は、真剣そのものだ。
何回同じことを言われてもその度に動揺を隠せない愛嘉理に、吾生は少年のように人懐こく八重歯を見せた。
「さっきの話の続き。分かったからこそ、感じる喜びもあるでしょ?」
すっかり時間を忘れていたが、気付けばもう逢魔が刻だ。夜は霊や妖の活動も活発になる。これだけの霊力を持つ人間の愛嘉理は、ただでさえ力に飢えた存在に狙われやすい。これ以降の時間帯は特に危険だ。
更に、吾生には墓の前で言い争う大人達の光景が見えていた。愛嘉理を見て見ぬふりをしていた親戚の大人達は、今度は愛嘉理がいつまで経っても帰って来ない責任を押し付け合っている。そういう意味でも名残惜しさに負けずもう愛嘉理を帰すべきだ、と吾生は思った。
「…愛嘉理、そろそろ帰らなきゃ…。」
その言葉に耳を塞ぐように、愛嘉理は俯いた。
西日が映し出した影は一つ。愛嘉理はそれを見て、吾生と自分が違う存在だということを再認識する。
「…また、逢えるかな…?」
ずっと感情を抑え込んで生きてきた愛嘉理にとって、こんなに泣いたり笑ったり目まぐるしかったのは今日が初めてだった。吾生の前でなら、愛嘉理は自然体でいられる。その事実が新鮮で、何故かとても大切なことのように感じられた。
別れを惜しむように不安げに訊ねる愛嘉理に、吾生は力強く頷いた。
「愛嘉理が望めば、きっと。だから望む限り、思い続けてね。」
「…?」
「今日の僕達がこうして出逢ったように、未来の僕達を繋ぐのも思いな気がするってだけだよ。」
意味を理解しかねている様子の愛嘉理に、吾生はそう微笑んだ。
たとえどんなに望んだとしても、村から出られない吾生がこの村に住んでいない愛嘉理に会いに行くことはできない。仮にそうでなくとも、吾生から愛嘉理を探すことはしない。神と人間は違う。本来なら、こうして言葉を交わすことなどないはずだ。ならば自然界の秩序であるその境界を、神である吾生が越えることなど考えられない。今日別れれば、次に二人が会える保証などどこにもなかった。
しかし今日吾生は愛嘉理の思いに惹かれ、気付けばあの場で彼女を見つめていた。その吾生を愛嘉理は無我夢中で追い掛け、二人は出会った。ならば愛嘉理が強く望み続ければ、その思いが再び二人を繋ぐような気が吾生にはした。それが愛嘉理と出会い溢れる喜びと自然界の秩序の狭間で揺れ動く吾生の、精一杯の言葉だった。
「…そっか、じゃあそうする。」
吾生の真っ直ぐな瞳に、涙ぐみながら誓う愛嘉理。幼い瞳は寂しさに揺れながらも、力に満ちている。
吾生は大きく頷き、愛嘉理の小さな手を取った。
「愛嘉理。」
手を包む慣れない感覚から来る照れを隠すように、吾生の呼び掛けに愛嘉理は「ん?」と小さく応えた。
「愛嘉理は愛嘉理だよ。」
「…?」
「僕達が友達になれたのは、愛嘉理が愛嘉理だからなんだよ。」
吾生は、愛嘉理の両手を握る力を強めた。
「そ、そうなの?」
「そうだよ。」
しっかりと繋がれた両手から必死に目を逸らしながら恥ずかしそうに顔を赤らめる愛嘉理に、吾生は真剣に頷いた。
いずれ、理解できる日がくれば良い。吾生はそう思った。
「愛嘉理、忘れないでね。僕達は離れても、友達だよ。」
友達という言葉に一瞬反応したものの、こんな時どういう返答をしたら良いのか愛嘉理には分からない。その表情はそんな心をよく反映した、極めて複雑なものになっていた。強いて言うなら驚きと戸惑い、そこに喜びと畏れを足した感じだ。
「友達…。」
「そうだよ、友達。」
「…うん。」
肯定する吾生の優しい微笑みに、愛嘉理は友達という言葉を噛み締めた。
「じゃあ、この道を真っ直ぐ行くと良いよ。またね、愛嘉理。」
「うん。またね、吾生!」
身体一杯に大きく手を振る愛嘉理の瞳を見た時、その思いは誰かが抑えられるようなものではないと吾生は改めて悟った。運命という人間の言葉を借りるなら、愛嘉理は多分それ以上の運命を切り開く力を持っている。ならば今はまだ、しかしいつかきっと再び出逢う時が来る。君が生きることを諦めなければ、君が思うことをやめなければ、と。