人を愛する者達 三
冬が来る度、思い出す。
その日、初雪を降らせる自分の元へ山に迷い込んだ一人の青年が声を掛けた。
「あの、もしかして君も迷子?」
どういう訳か自分の姿が見えているようだ。しかし、目の前の存在が妖だと分かってはいないらしい。一瞬戸惑う雪女だったが、すぐに平静を装う。
「私は違うよ。あんた、迷子なら山の入口まで送って行ってやるから早く帰りな。この山の呼び名を、知らない訳じゃないだろ?」
「妖山だったっけ?確かにただならぬ気配を感じるね。」
「分かってるんなら襲われる前に帰るよ。」
身一つで山に迷い込んだ身なりの良い青年は恐れるでもなく、寧ろこの状況を少し楽しんでいるかのようですらある。そんな青年を山の入口まで送り届けようと、雪女は歩き出す。
「それにしてもあんた、どうしてそんな身軽な格好でこの冬山に来ようと思ったんだい?」
呆れた様子の雪女に、青年は困ったように笑う。
「私には取り柄がなくてね。昔から何をやってもダメだった。今日も道場で剣術の稽古だったんだが、まあ不甲斐ない姿を晒したよ。それで道場の主である父上が、将来の後継ぎがそんなふうでは困ると月見山での修行をお言い付けなさった訳さ。」
「随分勝手な親なんだね。」と吐き捨てる雪女。
人間の考えは分からない。そんな親など自分だったら間違いなく捨ててやるのに、この青年は「そうかい?普通だよ。」と笑う。
そんな人間に、興味ははあるが余り好かない。少し苛立ちを見せながら、雪女は問う。
「あんたは自分の好きなことややりたいことはないのかい?」
青年は、腕を組み考える素振りを見せた。
「好きなこと…。そう言われてみれば、美しいものを見立てるのは好きだな。その人に合った服や小物なんかを、探してる時は楽しいと感じるよ。それがどうかしたか?」
「いや、それならその道に進めば良いじゃないかと思ってね。子の好きなことを無視して親が道を押し付けるなんて、どう見たって筋が通ってないだろ。子は親の道具じゃないんだから。」
まるで自分のことのように口を尖らせる雪女に、青年は思わず笑った。
「はは、ありがとう。君は優しいな。だけどそれは許されないことだよ。残念ながら。」
「勿体ないね。折角やりたいことがあるのに。」
「まあ、仕方ないさ。私は私の定められた道の中で自由に生きていくよ。」
穏やかだが諦観した口調で青年が口にする言葉に、雪女は反省した。この青年も色々と葛藤した上で、今の結論に辿り着いたのだろう。それを浅はかに覆して苦しめるような真似を自分はしようとしたのではないか、と。
「悪かったね、余計な口を出し…あっ!」
詫びようと口を開くと、雪女は山道の崖に足を取られそうになった。
「おっと!大丈夫かい?」
「あ、ああ。」
白い腕を掴み助ける青年の言葉に、何とか応える雪女。
「それより君、偉く体温が低いな。体調が悪いんじゃないのかい?」
一瞬、雪女は自分が妖だと悟られたのではないかと嫌な汗をかく。
「いや、気にしないでおくれ。これは元からさ。」
「…そうかい。」
必死に誤魔化す雪女を青年はこれ以上追及することはなく、二人は雪の山道を歩いた。
「着いたよ。ここからなら、帰れるだろ?」
「ああ、ありがとう。君に会えて良かった。」
青年は眩しい程の笑顔を見せ、手を差し出す。
やはり人間は分からない。これは一体何なのか。どんな気持ちを察すれば良いのか。そしてこの手に触れれば、今度こそ自分の正体が割れてしまうのではないか。
様々な思いに戸惑い躊躇う雪女の手を強引に取ると、二人は握手を交わした。
「また今度、お礼に来ても良いかい?」
「迷うからやめておきな。今度は送らないよ。」
何故か、内心高揚した。自らの手を取り、また会いたいと言ってくれるこの青年の心が嬉しかった。しかし、この者は人間だ。興味本位に山に立ち入らせるべきではない。
しかし冷静を装いそう忠告する雪女に構わず、青年は宣言する。
「春、この雪が溶けた頃にまたこの山の入口に来るよ。」
その言葉と共に一人では到底抱えきれないような不思議な気持ちを残して、青年は山を去って行った。
「どうした?何か嬉しいことでもあったか?」
翌日いつものように出会って早々、烏天狗は鋭くそう訊ねた。
「何でだい?」
「顔にそう書いてあるぞ。」
「なっ…!」
平静を装う雪女に、烏天狗は愉快そうに笑う。
「これだけの付き合いだ。話してくれても良いのではないか?」
「仕方ない、特別だよ。」
ふんと鼻を鳴らすと、雪女は昨日あったできごとを嬉々として語った。
「ほう、それは興味深い話だな。それでお主にしては珍しく、春を待っているという訳か。」
話を聞き終わると相変わらず愉快そうに、しかし目の前の相手の喜びが幾らか写ったかのように烏天狗はそう言った。
「待っては…。」
「いないのか?」
意地を張る自分の顔をじっと見つめる烏の面に、雪女は「…いや、そうだね。あんたの言う通りだ。」と素直になる。
「良いではないか。この山にさえ立ち入らなければ、入口で会う分にはそんなに危険はないだろう。狗神様もおられるしな。」
しかし雪女は少し不安げな表情を見せる。
「そう思うかい?狗神様はお許しになるかね?」
「お主が相手に危害を加える気がないことを、狗神様は既に分かっておられるはずだ。それならば、少しは多めに見てくれると思いたいな。」
烏天狗は雪女の背中を押すように力強くそう言った後、打って変わって緊張感の漂う真剣な声で「ただ…。」と続ける。
「注意しなければならないのは、お主の正体が割れぬよう用心することと…。」
「…?」
雪女はごくりと唾を飲み込む。
「深入りし過ぎて後で辛い目に合わないようにすること。それだけはくれぐれも気を付けなければな。人と妖は別の世界に生きる者同士。共にいられる時間も長くはないことを覚悟しなくてはならないだろう。」
その通りだ。しかし、今の雪女はその言葉を軽んじていたかもしれない。
「そんなこと、あんたに言われなくても分かってるよ!」といつものように強い口調で訴えると、ふんと腕を組み顔を背けた。
「それなら、良いのだが…。」
不安そうな烏天狗の声が、雪に吸い込まれて消えていく。
桜が蕾を付け春が来ると、雪女は毎日山の入口へ通うようになった。来るなと言ったのだし、来るかどうかは分からない。しかし、待ちたかった。こうして心を弾ませている時間が、その時の雪女には何より大切だった。
雪女が山の入口に通い始めて一月経った頃、蒲公英の綿毛が舞い踊る中を青年は現れた。
「やあ、待っててくれたんだね。約束通り、お礼に来たよ。」
「ふん、来るなと言ったのにのこのこと。」
「まあ、そう言わないでくれよ。ほらこれ、君に似合うと思わないか?」
相変わらず素直でない雪女に青年は困ったように頭を掻くと、懐から小さな包みを取り出し掌で広げて見せた。
「何だい、これ?」と不思議な表情を見せる雪女に、青年は優しく笑う。「少しの間、後ろを向いてくれないか。」と言って雪女に後ろを向かせると、団子状に結ってある髪の根元に丁寧に差した。
「これは、こうして髪に飾る物さ。簪と言うんだ。」
「簪…。良いのかい?こんな高価そうな物を貰っちまって。」
「君の為に見立てたんだ。是非君に貰って欲しい。」
申し訳なさそうな雪女に、青年はあの日見せたような眩しい笑みを見せそう言った。
「あ、ありがとうよ。」と顔を赤らめる雪女に、「どう致しまして。」と青年も応える。
それから二人は山の入口で毎日会うようになった。春の終わりに新緑、夏には河辺を舞う蛍、秋は山を色付ける紅葉を眺め、二人はその幸せな時間の中で自然と心を通わせていった。そして冬がやって来る。
烏天狗はそんな二人の様子をいつも話に聞きながら、この幸せな時間が少しでも長く続けば良いと心から願っていた。しかし、運命は残酷だった。
その日、大粒の雪が舞う中を青年は傘も差さずに歩いてやって来た。
「どうしたんだい?びしょびしょじゃないか。風邪を引いちまうよ。」
「ああ。どうしても言わなければならないことがあって、急いで来たんだ。」
青年は本当に急いでいる様子で、口早に話す。
「何だい、言わなきゃならないことって?」
「ここへ通っているのが父上に知られてしまった。村の人達は私が悪い妖に取り憑かれているのではと心配しているようなんだ。」
「そりゃあ、そうなってもおかしくはないね。」
妖山付近を頻繁にうろうろしていれば、そんな噂が立つのは仕方ないことだろう。青年も頷いた。
「ああ。…そしてそれを踏まえて私をこの山へ行かせない為だろうが、父上は私の縁談を進めると言い出した。多分、私は近々結婚することになると思う。」
雪女はショックを隠せなかった。望まない結婚でも、おめでとうと言うべきなのだろう。しかしその言葉が出てこない。
「…そうかい。じゃあ、今日があんたに会える最後の日なんだね。」と掠れた声で絞り出すのが精一杯だった。
「済まない。でももし君がそれでも共に在りたいと言ってくれるなら、私にはその覚悟がある。」
「それはどういう…?」
少しの期待。何か現状を変えられる術があるのかと、雪女は一歩前に詰め寄った。
「逃げるんだ、一緒に。誰にも干渉されない、二人だけの世界へ。」
この言葉に乗ったら、逃げている間は良い。しかし、青年の父親が追っ手を差し向けて来るかもしれない。その時この青年には勝ち目がなく、雪女が手出しをすることも自然界の掟により許されない。悲しい未来しか見えなかった。
「あんた、それは本気かい?前に言ったじゃないか、定められた道の中で自由に生きていくって。それを駆け落ちなんて、行く宛もない私達じゃすぐに捕まる。その後苦しむことになるのはあんたなんだよ!」
「そう…だよな。私としたことが、どうかしていた…。済まない。今の話は忘れてくれ。」
青年は覚悟を否定され、意気消沈した様子でその場に座り込んだ。雪女はその隣に座ると、思いの丈を静かに語る。
「あんたとの時間、本当に楽しかった。いや、幸せだったよ。きっと忘れることなどないのだろうね。ありがとうよ。」
言い終えるかどうかのその時、腕をぐいっと引っ張られ雪女の唇は青年に奪われる。
「…!」
振り解こうにも力が入らず敵わない。青年が優しく唇を離すと、雪女は「あんた一体何を…!」と狼狽を隠せない様子で戸惑いの目を向けた。
「私は君を愛していた。あの日からずっと。たとえ互いの時間の流れが違っても、私達なら乗り越えられると思ってしまう程に。」
この瞬間に、雪女は自分の正体が妖だと見抜かれていることを悟った。しかしできるなら最後まで妖ではない存在として接したいと、雪女はそう思った。
「今までありがとう。これでお別れだな。」
「ああ、お別れだ。元気にするんだよ。」
二人は共に立ち上がりながら、別れの挨拶を述べる。
「君もな。」とあの時のように眩しい笑顔で差し出される手を、「余計なお世話だよ。」と笑いながら今度は躊躇なく握る。
「では、さらばだ。」
「ああ、もう会うこともないだろうね。」
その背を見送りながら雪女は溢れる涙を抑えることができず、その場に座り込んだ。
それから何十年もしたある夏の暑い日、村で一つの道場の主が亡くなったと風の噂に聞いた。喪主は後継ぎの倅が務め、耳の遠くなった妻も出席するそうだ。
学問にも武芸にも秀でず美しい服や小物が好きな風変わりな道場主は、しかし村で仲が良く理想だと評判の夫婦であり家族であった。そんな道場主の葬儀にはたくさんの村人が駆け付け、皆で故人を悼んだという。
あの日青年と別れてからは簪を片時も離さず身に付けていたが、雪女の瞳に蘇るのは幻ばかりだ。しかしそうして悲嘆に暮れる雪女に烏天狗は言った。
「お主には私の起こす風が丁度良いようだな。ならば私のこの団扇で、お主の悲しみを吹き飛ばしてやろう。」
その言葉の通り、烏天狗はそれから一層山に風を吹かせるようになった。
今日も夏の風が吹く。烏天狗は仕事を全うしているようだ。思わず微笑んだその瞬間、雪女の全身を激しい悪寒が駆け抜けた。
「簪が、ない…?」
辺りを探せど探せど出てこない。がっくりとその場に膝をつく雪女。
それから数日、数ヶ月と絶望に満ちた生気のない雪女の様子から、烏天狗は事の顛末を察する。しかし大切なものを奪ってしまったことへの謝罪など簡単にできるはずもなく、烏天狗は吾生に協力して貰おうと提案するがそれを雪女に拒否され途方に暮れるばかりだった。それからというもの、二人の間には気まずい空気が流れるようになる。そして、烏天狗の果てしない苦しみが始まった。




