鬼の目にも涙 五
「ん…。」
「あ、起きた?大丈夫?身体は痛くない?」
目を覚ますと、大きな赤い瞳が涙を心配そうに覗き込んだ。
「…ああ、大丈夫だ。」
涙が身体を起こしながらそう答えると、愛嘉理は「そっか、良かった。」と大袈裟に安堵した。
そんな愛嘉理に思わず口元を緩めると、涙は「礼を言う、ありがとう。」と二人にそれぞれ頭を下げた。
愛嘉理は自分への礼に首を横に振ると、「私からも。ありがとう、吾生」と涙と共に礼を述べた。
吾生はそんな二人にやはり申し訳なさを僅かに滲ませながら、「うん。」と微笑み頷いた。
「君達にはだいぶ迷惑を掛けたな、済まない。」
涙は二人の世話になったことを本当に申し訳なく思っているのか、それでもまだ足りないと再び詫びる。
「ううん、気にしないで。」
「そうだよ。それよりもう日も落ちてるから、二人共気を付けて帰るんだよ。」
そんな涙に愛嘉理は笑い、吾生は二人を案じ帰りを促す。
「うん、じゃあまたね。」
愛嘉理が頷いて立ち上がると、涙も後を追い一礼して去って行く。そんな二人を、吾生は真剣な眼差しで見送った。
「ここで大丈夫だ。…こんな場所までわざわざ付いて来なくても良かったのに。」
「そういう訳には行かないよ。傷はまだ治ってないんだから。」
「自業自得だろ?」
「それでもだよ。心配だから、家まで送らせて?」
お互いの頑固さのぶつかり合いに今回は愛嘉理が勝利する形で涙が折れた。
「…相変わらずのお人好しだな。」
涙のその言葉に少し意地悪な笑みを浮かべながら「鬼目くんこそ、相変わらず素直じゃないね。」と返せる程には、今の愛嘉理には心に余裕があった。
吾生の言葉がいつも自分の背を押してくれる。愛嘉理は三日月の形をしたお守りを握り締めた。
一方で、涙のことは心配で仕方ない。
痛みは癒えても傷はなくなっていないのだし、そもそも目を離せばまた無茶をしかねない。
「もうあんな無茶しちゃダメだよ。」
愛嘉理は涙に念を押したが、涙は黙り込むばかりでうんともすんとも言わなかった。涙は昨日までと同じく何か考え込むような複雑な表情で今は愛嘉理が眼中にないようで、愛嘉理は気付かれない程度の小さな溜息を吐いた。
「家に着いたよ。」
「あ、ああ。ありがとう。」
自分の家を通り過ぎようとする涙に愛嘉理が声を掛けると、涙は驚いた様子で立ち止まった。
これだけ傷付いてさぞ疲れたろう。訊きたいことはあるが、それはまた今度にしよう。
愛嘉理は心配そうに涙を暫く見つめていたが、そう思って「…じゃあ、また明日ね。」とその場を立ち去ろうとした。
すると、「あ、待ってくれ。」と涙が腕を掴む。
「ん?」
「あ、いや、やっぱり…。」
愛嘉理が振り返ると涙は歯切れ悪くそう言い、思わず掴んでしまった腕を離した。
「ふふ、昨日もあったよね。こんなやり取り。」
「え?ああ、そう言えばそうだな…。」
愛嘉理が思わず笑うと、涙も思い出したのか罰の悪そうな表情をより色濃くした。
「良かったら話してよ、私聞くから。」
「でも…。」
「言いたいから、引き止めたんじゃないの?」
「…。」
愛嘉理の言葉に尚も歯切れの悪い返答をする涙。
「ね?」と愛嘉理が退かない様子を見せると、堪忍したように涙は語り始めた。
「…俺はずっと、死にたかったんだ。だから、妖を襲ってた。人間の力じゃ殺せない俺を、殺してくれる存在を探してたんだ。」
「…そっか。」
何故そんなに悲しいことを思うのかその理由は分からないが、その苦しみだけは愛嘉理にも分かる。愛嘉理は暗闇に覆われた涙の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「今年の春頃に、村の外から狗神に匹敵する霊力を持つ存在がやって来たと妖達が恐れてるのを見てな。その時、そいつなら俺を殺してくれると思った。」
「狗神?それって、吾生のことかな…?」
「吾生…。彼が狗神だったのか。」
「多分…。」
吾生が“狗神”という呼び名を持っていることは知らないが、神と自称しそれに相応しい力を持つ吾生なら、そう呼ばれてもおかしくはないと愛嘉理は思った。
「話には聞いてたけど、姿を見たのは二人と会ったあの時が初めてだ。俺は数々の無礼を働いてしまったな。」
「吾生はそんなこと気にしないよ。それより、今まで吾生に会ったことがなかったんだ?」
申し訳なさそうな涙に首を横に振ると、愛嘉理は素朴な疑問を口にした。この村の中で吾生を探し続けていたのなら会えないはずはないような気もする、と。
その問いに涙は頷くと、会いたがった理由を話した。
「ああ、何度も会おうとはしたんだ。神と呼ばれる程の存在なら、俺を殺すことなど造作もないだろうと。それで彼は月見山に棲んでると妖達に聞いて何度も行ってみたが、結局会うことはできなかった。」
それを聞いて、愛嘉理は吾生がわざと会わなかったのだと察した。
「会えたとしても、吾生はその願いを叶えてはくれなかったと思うよ。」と愛嘉理が正直に言うと、涙も「だろうな。」と笑った。
「でも、何でそれで学校に来なくなったの?」
「最初は学校からその霊気を感じてたから、そこに住み着いてる妖なのかと思ってたんだ。しかし別の霊気を感じてたのもあって、学校ではその出所を特定できなかった。それで一ヶ月くらいずっと学校中を探してたんだけど、一向にその妖は見付からなくて…。だから他の妖を襲ってればそのうち向こうから来てくれるんじゃないかと思って、そうするようになったんだ。」
「そっか。」
涙は説明を終えると、罰の悪そうな表情になった。
「…初めて人見に会った時は学校で感じてた強大な霊気を纏ってたから、まさかその正体が人間だと思ってなくて妖と勘違いしてしまってな。ずっと訳を話さなければと思ってたんだ。本当にあの時は悪かった。」
涙は深く頭を下げた。
その様子に、愛嘉理は涙がここ暫く考え込んでいた理由を察した。
詫びなければ気が済まない。しかし、切り出し方が分からない。とことん似ている。
愛嘉理は思わず笑った。
「もう良いよ。前にも言ったけど、全然気にしてないし。」
「…ありがとう。」
涙はそれでも少し気が済まない様子を滲ませて、無理矢理笑った。
そんな涙に愛嘉理は一つ、質問をぶつける決意をした。
「…ところで、一つ訊きたいんだけど…。」
「何だ?」
「いつから死にたいって思ってたの?」
今までの愛嘉理からは決して出ない言葉だ。他人と関わることを避け、傷付けることを恐れていた愛嘉理からは。しかし、訊かなければならないと思った。そうしなければ涙はこれからも苦しみ続け同じことを繰り返すのでは、と。
しかし愛嘉理のそんな複雑な感情を他所に、涙は意外とあっけらかんとしていた。
「…そうだな。それは俺が自分という存在を自覚した頃からかもしれない。そうだとすれば、もう十年も前からということになるな。」
「そんなに…。」
そんなことをいともあっさりと言ってのける涙が、愛嘉理は悲しかった。強がっているうちに本当に痛みに慣れてしまったように、愛嘉理には感じられた。
「見ての通り、俺は純粋な妖じゃない。半妖の子孫なんだ。先祖が鬼との間に子を授かって、その影響で時々俺みたいな先祖返りが生まれる。味覚がないのも、その影響の一部らしい。」
「そうなんだ…。」
涙は笑って言うが、自分なら耐えられただろうか。愛嘉理は気付かれないように拳を握った。
涙にはそれが見えていたが、見ないふりをした。何故か今は饒舌に、すべてを曝け出してしまいたい気持ちで一杯だった。
「もしかしたら聞いたことがあるかもしれないが、金物と下着で有名な鬼目屋を知ってるか?」
「名前くらいは…。」
「俺は、その鬼目の分家の生まれだったんだ。」
「へぇ、すごいんだね。」
鬼目と言えば、高級金物と下着で天下を取る一大企業だ。ありふれた苗字ではないが、繋がりがあるとは思っていなかった愛嘉理は素直に驚いた。
「歴史と由緒、それが鬼目の誇りらしい。…下らないことだけどな。」
涙は蔑むように言った。
「俺が先祖返りだと分かった時、古くからのしきたりに従って宗家が俺を引き取った。人智を超えた先祖返りはそれだけで、畏れと信仰の対象。俺を神輿に担ぐことで、家が栄えると本気で信じてたんだな。俺は神棚の代わりだった。しかし俺の前に先祖返りが生まれたのはもう何代も前のことで、時と共に残された先祖返りや妖について記述された文献は少なくなっていた。俺が特に何もしてなくても、先祖返りについてろくに知ることもできない周りの人間は、俺がいつか暴虐に走って家を破滅に追い込むんじゃないかと恐れた。」
「そんな…。」
「まあ、仕方ないと言えば仕方ないさ。昔から鬼は大体、恐くて悪い存在だからな。」
嘲笑しながらも、やはり物悲しさを隠せない涙。
家内での自分の立場に、幼いながらも思うところがないはずがないと愛嘉理は察した。
「しかしそんな中でも、お祖父様だけは優しくしてくれた。俺が鬼目にいられたのは、お祖父様のお陰なんだ。今でもこの名を捨てない理由は、それに尽きる。…もういないがな。」
「…うん。」
涙にもかつては光があった。その事実に少し救われる反面、だからこそ感じてしまう今という闇は底知れないと愛嘉理は思った。
「お祖父様亡き後、俺を持て余していた宗家は理由を付けて分家である実の親の元に俺を返そうとした。しかし、問題児を手放して清々してた俺の親はそれを断った。宗家は残りの分家で俺を引き取ってくれる家を探したが、当然鬼の子の行く宛などなく全滅だった。最終的に宗家は有り余る程の手切れ金と共に、俺を追い出すことに決めた。この家、一人で住むには不自然だろ?」
「う、うん。」
「ここは鬼目の始まりの家らしい。今までは歴史を重んじて残してたみたいだけど、立地が最悪で使えないから取り壊そうって話が出てるって、一度だけお祖父様が話してくれたことがあるんだ。だけどそれに反対したお祖父様の指示で、定期的に修繕や手入れはしてたようだな。ちゃんと片付けたら、それなりに使えるだろ?」
涙は終始さっぱりとしていたが、最後の一言は辛そうな愛嘉理を気遣うようにわざと戯けるようにより明るく言った。
愛嘉理が「そうだね。」と頷くと、涙は真剣な顔をした。
「…お祖父様は俺にとって偉大な存在だったし、常に一族を思う姿を皆も愛してた。それでも、お祖父様は鬼じゃない。俺とお祖父様は違うって、俺は一人なんだって気持ちを拭い去れなかった。」
「…辛かったんだね。」
「もう慣れたよ。」
涙は再びわざと明るく笑った。今度は自分の為だ。
そんな涙に、愛嘉理は優しく微笑んだ。
「ねえ、鬼目くん。」
「何だ?」
「最初に話した時、私が言ったことを覚えてる?」
「?」
「心が泣いてるって。」
「ああ。したな、そんな話。」
「今もだよ。」
「え?」
「今も、泣いてる。」
「…泣いてるのは、人見だろ?」
「鬼目くんの代わりだよ。」
「…相変わらず変な奴。」
瞳からぽろぽろと雫が溢れ出す愛嘉理に、涙は困ったように笑った。
「話してくれてありがとうね。」
「いや、俺も話せて良かった。…聞いてくれて感謝する。」
袖で顔を拭いながら笑う愛嘉理に、涙も礼を述べる。
愛嘉理を前にすると、自分でも驚く程素直になれる。それが不思議でたまらなく、つい話し過ぎてしまったかもしれない。
既にそう思うのに、最後に一言涙の口から本音が零れる。
「…でも妖でもなければ人間でもない俺って、一体何なんだろうな…?」
「鬼目くんは、鬼目くんだよ。」
「え?」
「妖だろうと人間だろうと、その前に自分だもん。少なくとも私は、最近になってそう思えるようになったよ。」
「人見…?」
涙の目をひたと見据えて明るく言う愛嘉理のその言葉は、嘘ではないように涙には感じる。
「前に言ったでしょ。私も一人ぼっちの辛さが分かるって。私もね、ずっと鬼目くんと同じだった。人間にも妖にも恐れられて、生きてるのが辛かったんだ。鬼目くんも、本当はずっと気になってたんじゃない?私の瞳や霊力のこと。」
「あ、ああ…。」
気にならなかったと言えば嘘になる。半妖には見えない人間の愛嘉理に、何故これだけの霊力が備わっているのか。最初は愛嘉理が何のつもりで近づいてきたのかも分からず自らの過ちへの報復も一瞬疑ったが、すぐに戦う力もなければ戦う気もない優しい存在なのだと分かった。だから、気にしないようにしていた。しかしやはり、心の底では気になっていた。
「私にも、この力の理由は分からない。でもどうしてこんな風に生まれちゃったんだろうって、ずっと悩んでた。だけど鬼目くんにお祖父さんがいたように、私には妹がいた。周りに化け物の子って言われても、妹だけはいつも心から私を慕ってくれた。だから、どんなに辛くても生きられた。それでも、思っちゃうよね。違うんだもん。どんなに望んだって、私は私以外の誰にもなれない。鬼目くんがそうであるように。」
「人見…。」
愛嘉理の過去は自分と似ている。しかし、今の愛嘉理は自分とは違う。愛嘉理は今、自分の為に辛い過去を話してくれている。涙にはそう感じた。
「両親は苦しんで、私が五歳の時に妹を連れて心中したんだ。それからは親戚の家を渡り歩いたけど、どんな場所に行っても私は化け物の子って呼ばれて嫌われてた。だから今年の春から一人暮らしを始めたんだ。」
「そうか。」
「ずっと心を閉ざして、私が我慢すれば大丈夫って思って生きてきた。でも吾生や澄風さん、繋くん、紡ちゃんや触ちゃん、色々な存在に出逢ってくうちにそれは違うって思うようになったんだ。そんな生き方は寂しいって。」
「どうして…?」
それが何故なのか。傷付けるくらいなら傷付く方が良い。ちゃんと生きられないなら、死んだ方が楽だ。未だそう思う涙には、愛嘉理の言葉の意味が全く分からなかった。
「家族を失って絶望してた時に、私は吾生と出会ってね。私が私だから友達になれたんだって、言ってくれた。その時は全然分からなかったけど、今なら少し理解できる気がするよ。だってこうして関わり合えたのは、涙くんが鬼で私がこの瞳を持ってたからだもん。」
「俺達が、俺達だから…?」
「そうだよ。皆が私を受け入れてくれて、私も少しずつだけど自分を受け入れられるようになった。鬼目くんもきっと私と同じで、ずっと孤独の中で苦しんでたんだよね。でも、もう大丈夫だよ。だって、ここに仲間がいるから。」
目を見開く涙に、愛嘉理は頷く。しかし涙は、それを強く否定するように首を激しく横に振る。
「でも俺は、たくさんの存在を傷付けた…。そんな俺が赦されて良いはずがない…!」
「どうして?そう思うなら、その相手に赦されるまで償えば良いだけだよ。もし鬼目くんが自分を赦せないなら、私が赦す。だからもう、苦しまなくて良いんだよ。鬼目くんは、一人じゃないんだから。」
愛嘉理は優しく涙の肩に手を置いた。
「…何故だ?」
「え?」
「何故こんな俺に、そこまで…?」
その問いに、愛嘉理はまるで涙が下らないことを言ったかのように笑った。
「友達だもん、苦しみを分かち合うのは当たり前だよ。」
「…!人見…!」
涙が言葉を詰まらせると、「愛嘉理だよ。」と赤い瞳の少女は言った。
「え?」
「ね、涙くん。」
「ああ、愛嘉理。」
夜の闇に包まれたその不器用な鬼の目に、涙が一粒煌めいた。
「愛嘉理の料理があんなに美味い訳が、ようやく分かった気がするよ。」
「え?」
「心、なんだな。」
涙は晴れやかに特徴的な八重歯を覗かせた。
「心?」
「ああ、そうだよ。」
余り意味が分かっていない様子の愛嘉理にそれで良いとでも言うように頷くと、涙は「また気が向いたら作ってくれよ。」と愛嘉理の頭をくしゃっと撫でた。
「?うん、勿論。」
それでもまだ涙の言葉を理解できない愛嘉理だったが、その意味よりも価値のある涙の笑顔に元気良く頷いた。




