動き出す歯車 二
「あの、見苦しい姿を晒しちゃってすみませんでした。」
眼鏡を上げてごしごしと袖で涙を拭いながら謝罪する愛嘉理に、繋は一蹴するように笑った。
「別に、見苦しくなんかないだろ?それに、必要なことなんだから。」
「必要…?」
「そうだよ。君は自分を抑え込み過ぎだからさ。その瞳もね。」
この人は、吾生とは大分違う。しかし、吾生のようだ。愛嘉理はそう思った。
受け止め受け入れる吾生と、導くように諭す繋。しかし二人共、すべてを見透かした上でそれでも愛嘉理の存在を否定しない。言い回しや雰囲気は全然違うが、愛嘉理には底の知れなさが共通しているように感じた。
「だからどうしろと言う訳ではないさ。でも何だってね、負けない為の戦いになったらただ苦しいだけだよ。例えば競技なら、勝つ為に戦うから苦しくても楽しいんだしね。」
「…じゃあつまり、自分に勝つ為に生きれば良いんですか…?」
「それも違うよ。」
繋は、大袈裟に首を横に振った。
「じゃあ、どういう意味ですか?」
「確かに君は自分に負けない為に頑張ってるけど、そもそも自分と戦うなんておかしいことだと思わないかい?」
「そうですか?普通だと思いますけど…。」
繋の言う通り今まで自分との戦いに身を投じてきた愛嘉理には、理解しかねる質問だった。
しかし繋はそんな愛嘉理に呆れる様子もなく、まるで手強い相手を楽しんでいるかのように更なる言葉を紡いでいく。
「そうかい?でも、人生は競技じゃないんだ。自分って言うのは戦うんじゃなくて、付き合うものだと僕は思うよ。例えるなら、結婚相手みたいなものかな。」
「…?」
「ありのまますべてを受け入れる、それが長続きの秘訣ってね。だからさっきの話での勝ちって言うのは、強いて言えば楽しむことだよ。」
愛嘉理はその顔こそが発言のすべてを物語っている気がして、心の霧が晴れたように感じた。
「楽しんだもの勝ちってことですか?」
「簡単に言えば、そういうこと。その為には、色々な情報が入るように扉を広く開けておかないといけないだろ?自己否定でそれを閉ざすのは、すごく勿体ないことだよ。」
「自己否定…。」
「そうだよ。五年前にも、吾生くんに言われただろ?」
「はい、生と死の狭間の世界を彷徨うって…。」
その時の愛嘉理は余り意味が理解できなかったが、今の彼女もまた然りだった。あれから何度もそれについては考えてみたものの、納得のいく答えにはまだ出会っていない。
眉間に皺を寄せる愛嘉理に、繋はおかしさを堪えるように笑みを漏らす。
「それは本当だよ。今の君は、さっきまでの飛火里ちゃんと同じなんだ。」
「どういうことですか?」
「死んでも死にきれない。その思いが、彼女を霊としてこの世に留めていた。自分達の死が、君の自己否定を強めてしまったのではないかってね。」
繋は哀れむように言った。
「死んだことに気付いてなかったり、もっと生きたいという思いだったり、理由は様々だけど彼らについて一つ言えるのは、自分の死を否定しているってことだよ。」
「死を、否定する…?」
「そうだよ。当然生きている訳はないけど、死にきれてもいない。だから、生と死の狭間で霞のように彷徨っているんだ。…自分の生を否定している、君のようにね。」
最後に付け足された言葉が今の自分のすべてを物語っているような気がして、愛嘉理の胸に深く刺さった。
「生きても生ききれない。霊が死せる生物だとすれば、そんな今の君はまるで生ける屍のように僕には見えるよ。」
すべて、繋の言う通りだった。冷えた心を押し殺しながら、蝋人形のように泣きも笑いもせず、ただ存在し続けるだけの自分は生きているとは到底言えないと、他の誰でもない愛嘉理自身が感じてきたことだ。しかしそんな自分をどうすることもできず、それでも飛火里がいるから死ぬことは考えられなかった。しかしかと言って他に上手い生き方を思い付く程、愛嘉理は器用でもなかった。だからこそ吾生と出会って自然と自分に素直になれたあの日が、愛嘉理には掛け替えのない宝になったのだ。
しかしそれからの愛嘉理がそう在れなかったことは、自分が一番よく分かっている。だからこそ繋が責めるつもりも否定するつもりもなく、ただ自分の為に敢えて辛辣にも聞こえる指摘をしてくれていると愛嘉理には分かった。ならばその事実に耳を塞ぐことは罪に値するとさえ、愛嘉理には感じられた。
愛嘉理の苦しみを思い遣るように、繋は淡い笑みを向けた。
「存在するのに否定されたら居場所がなくなることは、君ならよく分かるだろ?まあ、それは吾生くんにも言えることだけどね。」
「吾生にも…?」
「うん。逆に言えば、だからこそ君にそう言ったんだろうね。」
「…?」
その発言に疑問を感じながらも、愛嘉理はあの時のやり取りを思い出していた。
「本当は、もうここにいちゃいけないんだ。」
居場所がないと言った自分に理解を示した吾生は、自らをそう語った。それと何か関係があるのだろうか。
愛嘉理が再び考え込んでいると、繋がそれを遮るように明るい声を発した。
「まあでも、とは言え僕は殆どの人が嫌う苦しみや悲しみを否定する訳でもないよ。」
「な、何でですか…?」
愛嘉理は、この短い時間で一生分の疑問符に襲われた気がした。繋の言うことは説明がなければ分からないことばかりだ、と愛嘉理には思えてならなかった。
「だってそれが必要なことだってあるし、そこから生まれるものもあると僕は思うから。」
「はあ…。」
それでも悲しみなど、苦しみなどない方が良いに決まっている。そこから何が生まれると言うのだろう?
そう思い理解に苦しむ愛嘉理を、繋は全く意に介さない様子で笑った。
「僕は君が今まで感じてきたそれらを、蔑ろにはしないで欲しいと思うんだ。君次第で、すべてはいくらでも財に変えられるんだからね。」
「財に…?」
「そうだよ。それだけ色々なものに触れて、理解してきたってことだから。だからこそ寄り添えることだってあるし、学びや気付きを得ることもあるだろ?」
「確かに…。」
愛嘉理は吾生を思った。すべてを理解する吾生は、誰よりも心の痛みに触れてきたはずだ。心の痛みを感じられなければ、きっと人に寄り添うことはできない。吾生が優しいのはそれ故ではないか、と。
愛嘉理の様子に、繋は満足げに微笑んだ。
「どんなものだって、無駄だと切り捨てればそれはその人にとって無駄なものだよ。でもそれは逆に言えば、自分の考え方次第でいくらでもそれらに意味を持たせられるってことでもあるんだ。」
「意味…。」
「そう。この世界に意味のないものなんてない、そのすべてには意味が隠されてると言う人がいるけど、僕から言わせればそれは違うよ。」
「どういうことですか?」
常識的観念を根本から覆すような発言に、愛嘉理は素直な疑問を呈した。
「究極、世界に意味なんてないのさ。」
「…?」
ならば世界は何の為に存在し、廻っているのだろう?繋にとって世界は、それ程に軽々しく馬鹿馬鹿しいものだと言いたいのだろうか?
顔には出さないが少し気を悪くする愛嘉理に、繋は「違うよ。」と笑った。
その発言に、愛嘉理の心臓は跳ねた。思考を読まれるのはやはり身体に悪い、と愛嘉理は思わざるを得なかった。
繋は、その余りのおかしさに思わず身を歪める。
「ごめんごめん。つまり、意味は託されるものってことだよ。そして、それを託すのは僕達存在する者だ。そう考えれば、自分次第でいくらでも世界を変えられる気がしないかい?」
「確かに、そうですね…!」
繋が自らの発言の真意をそう解説すると、愛嘉理の表情が少し変わった。
予め描かれているのではなく、自ら描いていくもの。世界はそういうものだと考えた方が楽しい。当たり前だ。決められるより、決める方が楽しいに決まっている。
愛嘉理の顔は、見る見る明るくなっていく。
「世界は点だ。そのすべてを線で繋ぐのは、自分ってことさ。当然、その逆もね。そう考えた方が、楽しいだろう?」
「はい!」
愛嘉理の顔は晴れやかだった。あの時、吾生が言ったことを繋のお陰で大分理解できたからかもしれない。
吾生は言っていた。望み続ければきっとまた会える、と。世界を決めるのが自分なら、五年間抱き続けたこの望みが叶う日は来るかもしれない。
そう思うと、愛嘉理はこれから己が歩む道に希望が持てた。
「ところで…。」
「はい?」
「さっきから君は、とてもこの山が気になるようだね。」
背後に聳える月見山を見て、繋は言った。
「え、あ、その…はい。」
親戚の家を邪魔者扱いされながらたらい回しにされて来た愛嘉理は、高校入学を期に一人暮らしを申し出た。両親が遺したお金があるから、生活には困らない。そう言うと、親戚は大層喜んだ。遺産目当てですら、愛嘉理には誰も近寄っては来なかった。
そうして、雪光村に引っ越して来たのは一ヶ月前。生前この村に縁のあった父方の祖父母と共に、家族は葬られている。だから、新居にここを選んだ。それから毎日ここへ足を運んでいる。
しかし、それだけではないのも確かだ。愛嘉理は、五年前の出会いを忘れることができずにいた。更に言えば、この山のどこかに吾生はいるという確信が愛嘉理にはあった。
根拠はない。しかし、感じる。吾生はここにいる。
そう思うと、愛嘉理はいても立ってもいられなかった。しかしそうは言っても妖山の異名は伊達ではなく、その異様な雰囲気に中々立ち入る勇気が出せなかったのも事実だった。
そんな愛嘉理の事情を見透かして、繋は悪戯な笑みを浮かべる。
「行ってみるかい?」
「え?でも噂ではとても怖い山だって、さっき…。」
「でも、逢いたいんだろ?吾生くんに。」
その通りなので、否定はできない。全身に響くこの胸の高鳴りがすでに答えを出していることを、愛嘉理自身が感じていた。
愛嘉理が必死に抑えるように胸に手を当てると、繋はニヤリと笑った。
「噂なんて、案外宛になんないものさ。」
「でも…。」
心は決まっている。しかし、自分は戦う術を持っていない。もしもあの時のように、また妖に襲われてしまったら…。
なおも逡巡する愛嘉理に、繋は呆れたように首を横に振った。
「口ではそう言いつつ心が逸ってるのは、そういうことじゃないのかい?確証はなくても、確信はしてるみたいだしね。」
愛嘉理は観念したというように、大きく溜め息を吐いた。
「…何でも分かっちゃうんですね、吾生みたいに。」
「まあね。安心してよ。僕がいれば彼の元へ辿り着けるだろうし、怖い目にも遭わずに済むよ。」
「本当ですか?」
尊敬の眼差しを向ける愛嘉理に、繋は満更でもなさそうに頷いた。
「じゃあ、行こうか。」
「はい!」
二人は歩き出した。




