ペテロンギウス
ペテロンギウス
ペテロンギウスは何やら体全体がぷかぷかと浮遊する場所にいた。
宙に浮くというよりも、水の中に浮かんでいると言った方が正しい。
熱いか、寒いかもよくわからない。別段、汗が出るわけでも、体が震えるわけでもないから、おそらく、ちょうどいい温度なんだろうと思った。
ペテロンギウスは両手と両足を伸ばして、息を吐いた。
水の中のような気もするが、ごぼごぼと泡が姿を現す様子も、音を立てる様子もまったく見受けられない。
ここはどこなんだろうと、ぼんやりとする頭の中で考えるが、特に答えが出てくるわけでもなく、結局、何も変わらないまま、時間が過ぎていくような気がした。
ペテロンギウスは、上も下もわからぬまま、上だろうと考えられる方向を向いて、寝そべってみた。
するとどこからともなく、ふらふらと半透明な球体が流れてきた。
その姿は、海面に揺られる海月と似ていた。
しかしながら、海月ではなくて、その物体は、ただの球体である。手も足も、触手も何もない。
白く透き通った体は、今にも壊れそうだった。
ペテロンギウスは、無性にこの球体に話しかけたくなって、おい、と声をかけた。
すると球体は、口があるわけでもないのに、はっきりとした声で、なんだ、と答えた。
「どうして、ここにいるんだ。」
ペテロンギウスは問を投げかけた。
どうして、自分がここにいるのか、ペテロンギウスにはわからなかった。
「どうしてって、どうして。」
球体は、そのまま質問を返した。
「どうしても、こうしても、君はここにいる事に疑問はないのか。こんなわけのわからない場所で、浮かんでいる事に、君は不思議に思わないのか。」
「不思議に思う?なぜ?」
球体は、まだ質問の意味を理解しようとしなかった。
両者の間には齟齬があった。1
球体は、言葉を発した後、少し考え込んで、
「気にする必要なんてないんだよ。ここでは。」
とだけ答えた。
ペテロンギウスには球体の発した言葉の意味がちっとも分からなかった。
「じゃあ、なぜ、気にする必要がないの。」
「気にする必要がないから、気にしなくてもいいんだよ。」
「…。」
ペテロンギウスは、その返答を聞いて、めっきり黙り込んでしまった。この球体と話して
いても埒が明かないことを、ペテロンギウスは理解できたからだった。
ペテロンギウスは、諦めたように溜息をついて、多分太陽が昇っているだろう方向に仰向けになった。
すると、どこか遠くの方からパサパサと叩くような音が聞こえた。
音のする方に顔を向けても、その時には、音は消えてしまっていて、さっきの音の主を見
つけることはできなかった。
ペテロンギウスは少し考えて、先ほどの音は、鳥が羽ばたくときの音だと納得した。
綺麗な音だと、ペテロンギウスは思った。
「哀れだ。哀れだ。」
と、隣を漂っている球体がぶつぶつ言っている声が耳に入った。
「何が哀れなんだい。」
と、ペテロンギウスは球体を見る。
「可哀想だ。こんなところから飛び立たないといけないなんて。可哀想だ。」
「ここから飛び立つと哀れなのかい。」
「そうとも。飛び立たなくてはいけないのは哀れだ。飛び立とうとするのが哀れだ。」
「飛び立つくらい、いいじゃないか。」
「そんな馬鹿な。君は、空が自由だと思うかい。空にはね。限界があるんだよ。自由だと思うかい。自由ではないんだよ。」
球体は息をのんで続けた。
「鳥はね。飛んでいるうちに限界を知るんだよ。それ以上進めない、高い空を知るんだよ。それは可哀想だ。飛んでいるのに。飛んでいるうちに気が付くなんて、可哀想だ。」
球体は、可哀想だ、可哀想だと続けた。
ペテロンギウスは、球体の話を聞くのも飽き飽きしてきたので、そうかそうかと答えて、
口を半分あけて、ぷかぷかと浮かんでいた。
すると、また緑の海藻のようなものが流れてきた。緑とも黄色ともいえない、どうにも気
持ちの悪い色だった。
海藻は、やぁ、と清々しくペテロンギウスに挨拶をした。
やぁ、とペテロンギウスも返した。
「君は、なんだ。手も足もあるじゃないか。なのになんでこんな所にいるんだい。」
海藻は半分ちゃかすように、ペテロンギウスに話しかけた。
「別に、理由はないさ。それは、君だって同じじゃないか。」
と、笑っている海藻に少し強い口調でぶつけた
「同じ?よしてくれよ。君と僕は違うよ。僕はね、海藻として生まれてきたんだよ。この意味わかるかい?海藻は自ら動かないで、光合成だけで生きていくんだよ。僕ら海藻は、動かないことを選んだんだ。動かないことが、僕らの生き方であるんだ。そして、子孫を残せる一つの方法なんだよ。君とは違うよ。」
海藻はきっぱりと言った。
「どういう事だ。」
と、ペテロンギウスはまた問う。
「君は自分の立場を理解していないんだろう。君には義務があった。ここにいても何も始まらないことを理解しながら、ここにいる事を望んだ。つまり、君は義務を投げ捨てたんだよ。何も考えず、こんなところにいる君は大ばか者だ。ほんとの馬鹿なんだよ。」
ペテロンギウスは、自らの四肢から血の気が引くのを感じた。
ここにきて、初めて寒いと感じた。
「また君はそうやって逃げるんだ。ここが、君にとって安楽な場所だなんて思わないでくれ。僕らだって迷惑だ。早くどっかに行ってくれ。」
海藻はそう言うと、ひらひらと体をくねらせて、そのまま遠くに流れて行ってしまった。
白い球体は、可哀想だ、可哀想だ、と呟き続けていた。
遠くで、鳥が羽ばたく音がした。
力強く、どこまでも、どこまでも、飛んで行きそうな気がした。
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