紅焔の符号
村から聞こえる遠音で目が覚めた俺は昨晩遅くに現れた珍客のお陰ですっかり不機嫌になって不貞寝したギルの肩を叩いて起こすと本隊が野営している場所へのろのろと向かった。
丁度、スーが拵えた朝食を皆で摂っていた所だったので俺達もその輪に加わった。
「はい、どうぞ。ギルさんも」
「俺いいわ」
差し出された椀を礼を言って受取った俺の隣に腰を下ろしていたギルは未だに昨晩の事を引きずっているのか虫の居所が悪い声色でスーに断りを入れた。
「あらら……ギルさんご機嫌斜めですね」
苦笑しながら差し出した椀を引っ込めるスー。
「気にしなくていい。おおかたマスターに駄目出しを頂戴して不貞腐れているのでしょう」
普段は無口なカーマーがぼそっと火に油を注ぐ。本人にはその気はまったく無いのだが稀にこの獣人族はぽろっと的を得た皮肉を口にする。やれやれ……朝からこれか……するすると俺は席を移した。
「何だとカーマー。喧嘩を売っているのか?」
「スーが作った食事を断るギルが悪いんです」
「それじゃてめえを朝食にして食ってやる!」
椀を空にしたカーマーにギルが襲い掛かり取っ組み合いが始まった。これを予知していた俺を含む団員は全員既に安全地帯へ避難しておりコモジとリクは何かの寸劇でも見るかのように平然とそれを眺めながら朝食のおかわりをスーに要求していた。当のスーも寸劇を余所に元気に返事をしてそれに答えている。野営時にたまに見かけるこれは、俺には子供の頃動物園で見た仲の良い虎同士がじゃれ合う姿に酷似しているなとぼんやりと思うだけである。放っておけば時機に飽きて止めるだろう。
ギルではないが確かに昨晩の男の含みを帯びた言動には俺も少々苛立ちを覚える。何もかもすべてを知っている上で確かな事は何も教えない様はまるでマスターのそれと似ているとも言える。
「まあまあ、こんな所で事を構えるつもりは毛頭無いよ」
こんな所とは恐らくはミズリ地方の事を指しているのだろう。それにあの装備はやはり衛兵の物だ。この男は一体いつからミズリ砦に潜り込んだのだ? 初めての出会いからもう十年以上は経過した今でもまったく素性が謎なこの男。分かっているのはギードである事とマスターとは以前から知り合いである事、そしてたった今分かった事――この男も恐らくは俺達同様自身がギードである事を隠している。ギードが一介の衛兵に納まるはずは無い。
「事を構えるつもりは無いだと? 散々奇襲紛いのふざけた真似ばかりしてきてこの期に及んで都合が良すぎるじゃないか?」
「やだなあ、あれは挨拶でしょ挨拶」
挨拶と言えば確かに挨拶とも言えなくもないが、いささか度が過ぎる挨拶だ。最初の出会いは別としてその後はギルの言う通りまさに奇襲だった。結局はマスターに用事があったらしいが、どこか俺達の器量を量られていた気配を感じたのを覚えている。
「だったら今も挨拶してもらおうじゃないか。え?」
「こんばんは」
「ぶっ殺す!」
ギルを激昂させるツボを熟知しているか様な男の振る舞いには舌を巻いたがいささかやり過ぎだ。ギードを行使するしないを別にしても騒ぎを起こすには場所が悪過ぎる上に相手はミズリの衛兵だ。そもそも旅団の存続を危うくする等論外だ。旅団の守備たる俺達頭に血が上ったからとそんな事態を引き起こしては本末転倒だ。
「ギル、旅団を危険に晒すんですか?」
俺は制止を振り切って男に迫ったギルの背中にそう言い放った。それを聞いたギルはそこでぴたりと踏み止まった。男はギルが寸でで止まるか俺が止めるかを予想していたのかあのにやけ顔を崩さない。
「ちぇっ」
ギルは吐き捨てて言うと元居た場所へ足早に戻りこちらに背を向けて座った。気が短いとはいえこれ以上相棒にふざけた言動をされては俺の方もいつまでも平静を保てる程出来が良いは言えない。
「何の用ですか? マスターなら不在ですよ」
「ええ承知してますよ。つい最近あの方の印が発現しましてね。そろそろあなた方が来る頃と思いましてこうして待ち構えていたんです」
悠揚な口調で謎めいた事を言ってこちらを動揺でも誘っているのか。
「それで?」
「……ええ、明日には砦に駐在している騎士団からそちらの団長宛てに首長からの伝言が渡されるんですが……ま、要はリアスダイス首長直々に十五番旅団に預けたい荷物があるそうで」
リアスダイスの指名がかかったから砦に来いと言う事か。
「そんな用件ならてめえがわざわざ来なくても明日になれば分かる事じゃねえか」
背後で話を聞いていたギルが苛立たし気に言う。それには同感だ。
「やだなあ、剣と拳を交えた仲じゃないですか。普通にこうして顔を合わせて話すのもいいじゃない。なんてね」
「てめえはいつかかならず倒す!」
「おーこわ。少なくとも俺はあなた方の敵に回るつもりはないんですがね……」
……この男には目星を付けた相手でもいると言うのか。尋ねた所で懇切丁寧に答える様な者でもあるまい。
「それじゃ、俺は巡回がありますのでこれで」
そう言っていきなり現れて一方的にこの場を辞そうと踵を返しかけた男に俺は言った。
「旅の終わりが近い。とはどういう意味ですか」
俺が質問するのは予想外だったのか質問自体に反応したのか判断がつかなかったが男の表情に――いや男の発する空気に翳りが走ったのを見逃さなかった。それもほんの一瞬の事ですぐに持ち前の悠揚とした態度に立ち戻った。
「あの方がそう言ったのですね」
俺は男の問いには答えず黙って視線向けた。
「その言葉の意味はジャックさん、あなた同様俺にも見当もつきません……と言うか、あの方の考えてる事自体さっぱりです」
「ではなぜ危険を冒してマスターに会う必要があるのですか」
やれやれといった風に苦笑を漏らし首を横に振りながら男は答えた。
「あなた方は少々誤解している様だ。ジャックさんギルさん味方ってのは心強い物ですよね」
その態度では誤解しか生まないだろうに。俺は無駄を承知で単刀直入に言った。
「あなたの敵はだれだ」
その問いかけにこの男の本性を垣間見た気がした。心の内に秘めた揺ぎ無い覚悟と言われる物があるのならばおそらくこの事なのだろう。紅焔の男の鋭い眼光は俺の身体を射抜き遥か遠く――おそらく男の標的である人物もしくは他の何かを見据えていた。
「それじゃ、持ち場を離れると先輩方に叱られるんで。旅の神の加護が在らんことを」
今度こそその場立ち去って行く男の背中を無言で見送った。
「けっ! 何が誤解だ。自業自得ってもんだろうが」
背を向けて男の非を打つギルだったが、何も感じていない訳でもあるまい。見方を変えればあの男もギルも似た者同士なのかもしれない。表面上は真逆だが奥底には鋭い直感と牙を隠し持っている。
男からはまともな返答は期待していなかったが収穫はあった。飽くまで推測だが俺達には男と共闘しうる何かが存在する可能性があるという事だ。
当然そんな相手に心当たりは無い。主とも言うべき国家を無くした今の俺にはこの旅団以外には何も無い。あったとしてもその場限りの何等かでしかない。旅の道中に捕まえた山賊どもが大挙して仕返しに現れるとでも言うのであれば無くもないが、あの男が見ていたのはそんな物では無い。もっと強大で殺伐とした何かだ……。
「何か揉め事か」
コモジ、リクと共に綺麗に横に並んで目の前で繰り広げられる滑稽な寸劇を観賞しながら朝食を摂っている俺達の背後から図太い声が上がった。
横目で声の主を窺うと革鎧を纏った男女二人と頑丈そうな鉄鎧を身に付けた男一人の三人組みだ。鉄鎧の前身いっぱいに描かれた紋章が目に入った瞬間に俺はおもむろにフードを被った。不自然に見えたであろうその行動に合わせてうまい具合に朝食の後片付けに取り掛かっていたスーが鍋を取り落とし大声を上げ、リクが大げさに立ち上がって対応した。
「これはこれは、おはようございます騎士様。まったく問題ありません。獣人族が朝の体操をしているだけであります。もうあれらは仲が良過ぎまして」
「ふん。不埒者どもが」
砦に駐在する騎士団が旅団に連絡を寄越すとは男から事前に聞いてはいたが、まさかもう既にこの村に入っていたとは思わなかった。立場上騎士団連中には顔を覚えられるのはいささか望ましいとは言えない。ただでさえ俺の黒髪は金髪程では無いが珍しいとされているので一度目に止まると覚えられ易い……迂闊だった。心の中で戯れるギルとカーマー幾つかの理不尽な呪詛の言葉を投をげつつそれほど観察眼が無い騎士団員である事を願った。
「貴様等が第十五番旅団か?」
「はい左様で御座います」
「……間違いないか」
「ええ。あ、貿易商発行の証明書をお見せ致します」
胡散臭さを嗅ぎ取った様子で念を押す鉄鎧の男。それに対して脇に置いていた革袋をあさり始めるリク。
「もうよい。後ほど村の兵舎へ貴様等の代表者を寄越せ。リアスダイス首長の勅命である。分かったな」
「しゅ、首長の!は、ははあっ」
首長の名前が出ると途端に平伏して返事をするリク。だが、リク以外の俺を含める団員は完全に無視を決め込んで首を回して一瞥しただけで誰もぴくりとも動かない。騎士団が現れてから立ち去るまで終始鼻に指を突っ込んでこねくり回していたコモジを除いて。
騎士団は――特に王都ではその反り返った態度が旅団連中からは毛嫌いされており、中でも王立旅団は特に敵視されている。かといってザイドール王直属の部隊の一つである彼等に明白に楯突く事もできない。それが騎士団嫌いに拍車を掛けている。
この様な態度で接するのもそんな風潮が同じ様にこの旅団にもあり、あのギルとカーマーでさえその点では軌を一にする。もっともリクは旅団の交渉事の一切を任されているのでそうも言ってはいられない難しい立場だ。大雑把に言えば昔、逆にそう思われる機関に所属していた俺にしてみれば少しばかり複雑な心境にもなる。
「ちぇっ、何が勅命だ。偉そうに」
一頻り暴れて終えたギルが言い散らす。
「あの、僕不思議に思ったんですけど」
後片付けの手を休めてスーが誰に尋ねるともなく口を開いた。
「他の砦には騎士団の人達って見かける事って無いのに、ここの砦って衛兵に混じってあの人達よく見ますよね? 何でですか?」
「よく見てるなースー。ありゃ多分リアスって言うミズリの頭がいつ単騎でオトレノーアに攻め込んでもおかしく無い位の無類の喧嘩好きでよ。騎士団はそんな危険人物のお目付け役ってわけだ」
「ええっ!そんな怖い人なんですか……」
どこで仕入れた情報なのかギルが自慢気にスーの疑問に答えた。
「スー。ギルの話信じちゃ駄目です。リアスダイス首長は人格者として王都でも有名ですよ」
水を差すカーマー。まだ暴れ足りないのか。
「馬鹿者め! スーの話を聞いてなかったのか? お前のそれは耳じゃなくて角か? 騎士団がどうしてミズリ砦で威張り腐ってるかって聞いてんだよスーは」
「簡単な事です。オトレノーアを警戒する為です」
「警戒? 攻めて来るとでも? カーマーゼン先生? 休戦しましょうって言ってきたのは向こうだぞ? 子供の喧嘩じゃあるまいし休戦を申し出た国が攻めてくる訳が無いだろうが!」
「愚かな……獣人族の恥部ですね。もう二度と口を開かない事をお勧めします」
「なんだと!」
スーの素朴な疑問を皮切りに再び獣同士のじゃれ合いが再開したが、当のスーは慣れたものでそんな二人の様子に慌てる素振りも無く二人の会話から自分なりに納得した答えを得たのか、洗い物を抱えて村の方へ駆けて行った。
「やはりオトレノーアを監視するってのが正解なのかもな、話じゃ騎士団連中は砦跡にまで出張ってるらしいし……国力強化の名の下に戦争の英雄リアスダイスを将軍の席から外してでもミズリの首長に据えてさらに守人にあの姉妹の片割れを配したのもその証明といった所か……まあ、真意の程は分からんがうっとうしいのは確かだわな」
スーの問いになぜだろうとぼんやり考えた俺の耳にリクの言葉が入った。休戦になって十年以上も経過する今でもかつての敵国を警戒するのには何かしらの意図があっての事だろうが、はっきり言って今の俺には関係の無い話だ。
「呼ばれたみたいですがもう行きますか?」
「えー、いや。村に荷物を降ろすのが先だな。騎士団等待たせておけばいいさ。スーが戻ったら馬車を村に入れる。……お前等二人は村には近づくな。針路が決まったらスーをやる」
「はい」
ホイミア村を経由してミズリ砦に入るのは当初の計画にあった事なのでリクが言う針路とはそれ以降の事だろう。個人的にはマスターの事もあるので再びアリマドかハマリ方面に向かいたい所だが……どうかな。
「おーいっ! お前等いい加減しろ! 二人纏めて兵舎に連れて行くぞ!」
コモジが立ち上がったのを合図にリクの叫び声が響いた。
ホイミア村を遠く眺めながら村の北側へ回りこむ形でゆっくりと歩を進めていた俺達は道中狩人の親子に出くわして興味深い話を聞き出す事ができた。
何でも二週間と少し前の夜に青白い獣が走るのを複数の村民が目撃したというのだ。
ただ目撃されただけで実害は無かったそうだが、その話を鵜呑みにするのであればそれは召還術で召還された召還獣に間違い無い。
仮に誰かしらが目撃された近辺でギードを用いた戦闘が行なったとしたならばもっと警戒が厳重に敷かれているはずだ。リアスダイスがそんな事態を黙って見過ごすはずも無い。そんな様子も無い所を見るとただ単に召還獣が走り去るのを目撃しただけなのだろう。
では、一体誰が召還したものなのか? 召還術を行使できる人物はマスターしか心当たりが無かったが二週間前俺達旅団はマスターを伴ってアリマドに居たのであの人が行使したとしても遠方であるここに召還する等考えられない。残る疑いは二つ、あの紅焔の男の仕業かオトレノーアの偵察かだ。どちらにせよ考えを巡らせても詮無い事だったが、いささか召還獣とは穏やかでは無いな。
「案外、マスターかもな」
光る獣を狩って首長に褒美をもらうんだと息巻いた狩人親子と別れてた後、ぽつりと言ったギルの顔を凝視した。
「そんな筈がないって顔だな。ま、俺も同感だがよ。石頭のジャックさんにはそんな飛び抜けた考えは出てこんわな」
ギルの嫌味に非難の視線を送ると同時に「常識に囚われるな」とのマスターの言葉を反芻してみたりもする。
「これって言う証拠がある訳じゃないんだがな、まあ何せマスターだからな」
証拠は無いと言いつつ何か思い当たる節でもありそうな含みのある言動をする。百歩譲ってマスターの仕業だとしてその目的は何なのだ。これも同じく詮無い事だ。
午前も終わりを告げようとした頃、林の影で休んでいた俺達の所へ馬を駆ったスーがやって来た。結構な期間南部での活動が多かったせいかミズリに入ってからは気候も緩やかになり革のマントでは少々暑い位だ。馬にでも乗って駆けると気持ちがいいだろうに。
「見つけたー。ジャックさんギルさん。この子がジャックさんの事大好きだから助かりましたよ」
スーが馬の首を撫でながら言う。馬の世話を俺が好んでやっていた為か主人と勘違いされる事もしばしばあった。敏感な臭覚を発揮してここまで辿り着いたのだろう。
「おースー、針路が決まったか。俺はやっぱ山道がいいなあ」
「ざーんねん。ミズリ砦経由で王都です」
「ちぇっ、王都かよ。王都以降の予定は?」
「王都で空車してそれからの予定はまだ無いそうです」
「そっか……ま、たまには王都にも帰らないとな」
「ですです。それとですねミズリ砦で載せる事になった王都着の荷物は砦の偉い人からの依頼品だそうなので念のため本隊を視界に入れて並行するようにと、リクさんからです」
「……おいおい、並行はいいとしてわざわざそんな伝言寄越すって事は……」
「街道を行くんでしょうね」
「一体何を受けやがったんだ……」
通常、俺達十五番旅団は各地方を結ぶ幹線経路――街道は殆ど使用しない。街道を我が物顔で往来する王立旅団に出会いたくないのももちろんだが、団長コモジのこだわりでその地方内でも認識されていない程ごく小さな部落等を主に巡るのを主体としている。そしてそれ等は街道を大きく離れた場所に点々と存在している為必然的に旅団も街道から遠ざかる事になる。なので街道に沿って真っ直ぐ王都を目指す事等今までに無かった針路だ。
「四日か五日後に砦を出発ですか?」
「いえ、砦までは迂回路を取りますので六日後に砦発の計画です」
ミズリ砦を出発するまでに本隊と合流すればいいわけか。
「分かったよスー。ありがとな。もう出発したんだろ? もう戻りな。きっちりやるからよ」
「はい。それじゃあ旅の神の加護を、です」
「おう」
スーは俺達の為に準備して持ってきた水入りの革袋を投げて渡すと本隊へと向けて馬を走らせ去っていった。
「今朝の騎士団が言ってた勅命ってやつだな」
「たぶん」
スーの影が地平線に消えたのを合図にギルが言った。
「少し迂回して戦湖に寄って行くか?」
気を利かせて提案してくれたが断った。行っても何も起こりはしないだろうし変な焦燥の感に駆られるだけだろう。「そうか」と答えたギルの声も何だか寂しそうで申し訳なく思う。
「少し潮の香りがしますね」
「まあ、ミズリだからな」
「行きますか」
「おう」
俺達はのろのろと立ち上がってミズリ砦へ向かって歩き出した。
アリマドからここに至るまでいささか刺激的な話や出会いと別れに遭遇したが、どれも釈然としない事柄ばかりだ。この先も着地点が見つからない居心地のいい迷走を続けるのだろうか? ……自分で何かを見出すとは何ともやっかいな問題だ。