95,男の夢見たこと
後にした部屋から
「里桜! 愛美! どうした!? 大丈夫か!?」
と海老原の悲壮な叫びが呼びかけた。
「里桜! 愛美!?」
一拍おいて、
「あなた!」
「パパ!」
と、海老原の妻子の怯えた震え声が呼びかけた。
「里桜! 愛美! おおい、二人に何かしたんじゃないだろな? 二人に何かしやがったら、許さねえぞ、こらあっ!!」
負けじと女が声を張り上げた。
「さっさとこっちに来なさい!!!」
前と後ろから苛々した声に煽られて、ええい!と木場田は踏み出し、奥の部屋のドアを、開けた。
いきなりピストルの弾を撃ち込まれるのを警戒したが、入り口正面に向かって海老原の妻子が並んで立っていた。二人とも真っ青に怯えきった顔をして、後ろで二人に隠れるように信木の妻がピストルを母親の背中に突きつけていた。
まつげのピンピン立った大きな目でギラリと憎々しげに木場田を睨み付けている。
「おまえは……、青年団長の木場田だね? そうか、やっぱり恋人を逃がしに来たんだね?」
「信木保安官の奥さん……」
木場田も怒りを込めた目で睨み付けた。
「村はもう保安官が牛耳ってる。もうここで人質を取っておく必要はないぞ?」
木場田は人質の二人が怯えるほど悶々と赤い怒りを燃やした。信木の妻が言う。
「あらそう。でもまだ旦那の連絡はないのよ。連絡が来たら、あんたが来てることを報告してあげるから、大人しく待ってなさい」
「・・・・・・・」
木場田は悔しそうにしながら怒りのオーラを燃え立たせた。信木の妻は意地悪くにやけている。信木の妻はこの村の人間ではない。この村を訪れたのは長い結婚生活の中でこれが初めてのことだ。
霊力に対する耐性はないと見た。
「はああっ!!」
木場田は部屋に充満させた怒りのオーラを信木の妻に勢い良く収束させた。
「ぎゃっ」
パンッ!。
「きゃあっ」
「きゃああっ」
信木の妻が後ろに突き飛ばされてひっくり返り、銃弾は天井向けて発射された。壁に「ゴンッ」と後頭部を打ち付け、信木の妻は失神した。
「さっ、早く! 急いで!」
木場田は母娘を守るように部屋の外へ急がせ、
「あなた!」「パパ!」
「里桜! 愛美!」
夫婦親子は無事再会を果たした。
木場田は海老原を急がせた。
「早く車を。みんな揃って逃げるんです!」
行こう!、と海老原は妻と娘の背中を押すように階段を下りていき、木場田は部屋の中を見た。
「二人も急いで」
平中が先に出て、木場田は相原とまっすぐ見つめ合った。
「貴一さん…………」
相原はいろいろ聞きたいことがあるのだろうが、混乱で胸がいっぱいのようで、自分の気持ちもよく分からないのだろう。
「俺は君を愛している。それだけ、信じてくれ」
木場田は泣きたくなる真剣さで恋人を見つめ、相原もうなずいてくれた。
「一緒に来るんでしょ? 側にいてね?」
木場田は一瞬迷った。自分の「へその緒」もまだ麻里に握られている。あれはこの村で産まれた赤ん坊が神に忠誠を誓い、神の庇護下に置いてもらう……奴隷の契約書だ。神=村を裏切れば、引きちぎられ、命を絶たれる。黒木の仲間の末木はそうして麻里に殺されたらしい。
自分が裏切って逃げたと知られれば、自分も確実に殺されるだろう。
木場田のためらいに相原の目が不安に陰った。
「行こう」
と、木場田は言った。
「もう、俺は君から離れない。一緒に生きていこう」
全てを懸けた、命懸けの恋だ。
安藤が穴から連れ出されたという話は聞かない。生きていてもまともな状態ではあり得ない。黒木たちを裏切り、死に追いやった。彼らが命懸けで守ろうとしたケイを、忌まわしい祭の捧げ物に堕そうとしている。
呪われた、黒い血の運命だ。
何もかも自分の望んだことではない。自分はただ、普通に、この人を愛したかっただけだ。
自分の呪われた運命と行動を知ったら、この人はまた自分の元を去ってしまうだろうか……。
懸けよう、と思った。
命を。
今、愛する人と一緒にいられる瞬間に。
自分が死んだら、愛する人が傍らで泣いてくれるだろうこの時に。
青ざめながらほっとした表情を見せる恋人に、
「行こう」
手を差し伸べた。冷たく細い手が握り、力強く握り返し、包み込んだ。
生きたい、と強く思った。
俺は、この人と、自分の人生を生きたいんだ!、と大声で叫びたい気分だ。
……紅倉が頼りか。
とにもかくにもあの穴から生還した。麻里の絶対的優位は変わらないだろうが、望みを懸ける希望はある。現金なものだと笑ってしまいたくなるが、紅倉が麻里を倒せば、もはや神を操れる者はなく、神のシステムは、村の体裁は、崩れ去るだろう。
壊れろ壊れろ、ちりとなって消えてしまえ!
すべて俺の悪夢を、空のかなたへ吹き飛ばしてくれ!
表に出ると海老原が車のエンジンを掛けたところだった。4ドアのハッチバックで大人5人子ども1人の乗る座席はないが、バックドアを開けてトランク部に乗れば何とかなる。村から離れさえすればいいのだ。
相原を後部座席に向かわせ、自分はバックドアを開けると、道を、坂の方から声がした。
「団長。どこへお出かけだよ?」