94,トラウマトラウマ
木場田は坂道を駆け上がり、ペンションの建物近くに来ると、辺りの様子、中の様子に神経を配った。
特に異常も見られず、そっと玄関に近づき、ドアノブに手を掛けた。鍵が掛かっていた。灯りがついていて、ガラスの内に人影はない。木場田は右手をノブに当て、むん、と力を広げた。鍵の機構を捉え、カチッ、と錠を外した。
ほうっと息をつき、ドアベルを鳴らさないように力で押さえ、そっとドアを開けた。抜き足差し足中に入り、ドアを閉めた。
閉じた空間の中でじっと気配を探り、よく知っている相原の霊波を捜した。霊波の発生は上の階に集中している。階段を上がりたい気持ちを抑えて1階の安全を確かめる。一瞬ギョッとしたのは……冷蔵庫か。霊気と強い磁場を発生させる物は混同しやすい。じっと動きがないか確認する間も上の霊波の揺らぎが気になってしょうがない。緊張はすごく感じるが、激しく動揺する差し迫った危機感はない。木場田は靴をどうするか迷ったが、そのまま廊下に上がり、そっと音を立てないように気を付けながら階段を上がり始めた。
平中と相原先生は猟銃を持った海老原が見張っていた。2階の別の部屋で広岡……信木の妻が拳銃を持って海老原の妻と娘と一緒にいるはずだ。海老原は妻たちと一緒にいたがったが、海老原の変心を警戒した信木に許可されなかった。海老原は恨めしく思ったが、妻子を人質に取られては危険な行動には出られない。
平中はそんな海老原をなんとか自分たちの側に引き込められないかと思ったが、じいっと考え込んでしまっている海老原は、明るい快活な表情はすっかり無くなって、ひたすら暗く、世をすねた、デスペレートな顔つきで、入り口付近に椅子に腰かけ、膝の上に寝かせた猟銃を、ベッドに並んで座った女二人にいつでも向けられるように手を掛けているのだった。
おずおずと相原が話しかけた。
「海老原さん……。わたしのことを、恨んでいるでしょうね。
わたしは駄目な教師です。教師失格です。
わたしはけっきょくまた逃げ出してしまいました。
前の学校の生徒たちも……、やっぱり先生であるわたしに見捨てられたと思っているんでしょうね……。
心に……、深いトラウマを与えてしまったと思います………」
若い相原は生徒のモンスターペアレンツのクレーム攻撃に萎縮して、学級崩壊を引き起こしてしまった。生徒たちがそのストレスの中で、もしそのストレスを晴らす方向を同じクラスメートの一人に求めたら、本当のひどいイジメが起き、海老原の実の娘のような取り返しのつかない悲劇を招いてしまったかも知れない。
もし自分が海老原の実子のクラスの担任だったとして、その自殺を避け得た自信がない。
おろおろするばかりで、結局自分も自分の力のなさを言い訳に、海老原の怒りを買った学校の心ない対応と同じことをして、海老原に殺されていただろう。
相原自身、モンスターペアレンツのトラウマにひどく心を傷つけられ、すっかり自分に自信を無くしてしまっているのだった。
海老原は暗い顔で、視線を斜め下に向けたまま、ぼそっと口を開いた。
「逃げたりしないで…………、きちんと謝って……、愛美のことを死んでからも大切に覚えていてくれたら…………、殺したり、大けがさせたり、ひどい目に遭わせたり、しなくても良かったんだ…………」
「済みません……………」
「誰も……、先生も、クラスメートも、愛美のことを、生きている間も、死んでからも、全然、どんなに辛い思いをしたかなんて、考えてもくれなかったじゃないか……。自分の言い訳ばっかりしやがって………、くそっ…………」
「済みません……………」
平中は一緒になってひたすら暗く深い渦の中に落ちていくような二人のやりとりをはらはらしながら見ていた。このままいつか、バンッ!、と暴発してしまうのではないかと……。
「わたし…」
相原がボソッと底抜けに暗い声で言った。
「実は養子なんです」
今現在「二代目の」愛美を娘にしている海老原は初めて明かされる相原先生の身の上にハッと目を上げた。
「いえ、わたしは実の親に虐待されたとかいう以前に、生まれてすぐに養子縁組の手続きが取られて、育ての親に引き取られたようです。育ての親もわたしを大切に育てて、愛してくれましたが…、どうしても、ちょっとした拍子に、ああ、やっぱり本当の親子じゃないんだな、と思うことがありました……」
海老原はじっと相原先生が話すのを見つめている。
「そのせいでしょうかね、何かいざというときに、わたし、自分にひどく自信が持てなくなって……、逃げ出しちゃうんですね………。不安で堪らなくて、自分は駄目なんだ、って、自分から逃げ出しちゃうんですね……。生徒の気持ちのよく分かるいい先生になりたかったのに……、全然……、駄目ですね………」
また暗い渦のスパイラルに落ちていく。海老原は何か思うところはあるのだろうが、今現在の自分自身の問題でもあり、何かはっきり考えを言葉に表すことは出来ないようで、悶々とした。
「海老原さん」
廊下からそっと声を掛けられ、海老原はギョッとし、
「しっ!」
と、誰か尋ねる前に制された。ドアノブが回り、ゆっくりドアが開いた。
「わたしです」
口に『しっ』と指を当てた木場田が現れた。木場田はベッドの二人にも声を立てないよう注意した。慌てて椅子から立ち上がろうとする海老原に。
「落ち着いてください。わたしは皆さんを助けに来たんです」
廊下の先を気にしながらドアの内に滑り込み、そのままドアを細く開けておいた。
「海老原さん、落ち着いて。わたしは味方です」
海老原は怒りと緊張でブルブル震えた。
「広岡さんもそう言って、わたしの妻と子を人質に取っているぞ?」
「そうです、その通りです。……広岡さんは恐ろしい人だ、今や村長に代わってすっかり村を支配してしまっている」
平中が信用できないように口を挟んだ。
「それを狙っていたのはあなたじゃなかったの?」
木場田はうるさそうに、……相原の表情を気にして、言った。
「そうだ。……だが、こんなことを望んでいたんじゃない。俺はみんなが幸せになることを望んでいたんだ。なのに……、今の村の様子はおかしい。みんな、悪魔に取り憑かれたようになってしまっている。神の毒素に、すっかり頭をやられてしまったみたいだ。村は今、非常に危険な状態だ」
木場田は恋人相原が村を逃げ出そうとした気持ちを正当化し、自分につなぎ止めておこうと必死だった。
「海老原さん、あなた方一家も危ない。一刻も早くここから逃げ出さなくてはならない」
海老原は信用せず、今にも猟銃を木場田に向けたそうにした。
「どうしてわたしたちが危ないんです?」
木場田はじりじりした気持ちで、辛抱強く海老原を説得した。
「それは…、村が愛美ちゃんを神の巫女にしたいからだ。お婆とヨシが殺された。新しい巫女が必要なんだ。あんた、娘を巫女に差し出す気があるか?」
「それは……」
海老原の心がぐらついた。
「あんたら両親が拒否の態度を取れば……、奥さんも危ない」
「なにっ!?」
「しっ。だから、今村は狂っているんだ。若い女たちを神の生け贄にして神を鎮めようとしているんだ。平中さん、…相原さん、それに奥さんも危ない。さあ、早く!、迷っている時間はない。とりあえず避難して、また村の様子を見に来ればいいでしょう? でも、今逃げ出さなかったら、恐ろしいことになってしまうんですよ?」
木場田のせっぱ詰まった説得に、海老原もうなずいた。
「は、話は分かった。でも、妻と娘が広岡の奥さんと一緒にいる。二人を助け出せないんなら話は無しだ」
と、猟銃を今度こそ木場田に向けた。木場田は両手を広げ。
「分かった。まず二人を助け出す。俺を信じろ」
海老原は追いつめられた目で油断なく「行け」と銃を振って指示した。木場田は真っ青な顔の相原に目でうなずき、そっと、廊下に出た。
海老原たちがこもっているのが階段を上がった一番手前の部屋、広岡の妻が海老原の妻子と一緒にいるのが一番奥の部屋だ。
木場田がそうっと足音を忍ばせて歩いていくと、中年女のヒステリックな声が響き渡った。
「誰!? さっさとこっちに来て顔を見せなさい!!」