93,別れを惜しむ
芙蓉が紅倉を連れ、ジョンを伴い枯れ沢を出発したのは7時10分、ガス穴の入り口に到着したのは7時30分だった。
「それでは先生、わたしはペンションに寄って平中さんたちを逃がしてからケイさんの所へ向かいます」
秘祭は村の南側の、墓地の裏の社で行われるそうだ。
「先生。絶対に、麻里をこてんぱんにやっつけて、ケイさんの所に来てくださいね?」
「もち。今度は絶対に負けないんだから」
「約束ですよ? それじゃ、後ほど」
「バイバーイ」
紅倉は手を振って不吉な黒い鳥居をくぐって穴に入っていった。最初に来たときには恐ろしくて足が動かなくなってしまった場所だが、今はわりと平気でいられる。中にいたおぞましい赤い巫女を紅倉がやっつけたからだろう。
芙蓉は懐中電灯で紅倉の背中を照らしていたが、すぐに穴の陰の中に消えていった。
「行っちゃったわね」
声に呆れて隣を見た。姫倉美紅(ひめくらみく)、紅倉美姫の守護霊だと名乗る、ピアノの発表会みたいな白のスーツとスカートをはいた、10歳くらいの紅倉似の美少女だ。
「あなたまだいたの? 穴を出てから姿が見えなくなったから先生の中に帰ったと思っていたわ」
「わたしはずっと美貴ちゃんについていたわよ? 出番が無くて邪魔だろうから姿を見えなくしていただけ」
「あらそうだったの? 都合のいい姿ね? 先生に会えたのに戻らなかったってことは、まだ先生に命の危険があるということ?」
「この村を無事出るまではね、油断できないわ」
「それは言えてるわね」
芙蓉は暗い目で真っ黒な穴を眺めた。
……先生を、あのまま眠らせておいてあげたかった。
その結果ケイがどんなひどい目に遭わされようと……、先生は自分を怒りはしないだろう。ただ、心が冷えて、自分に笑顔を見せてくれなくなるかも知れない。それが辛くて、
「先生、時間ですよ? 起きてください?」
と、泣きながら起こしたのだ。
「さあ出発しますよ? 麻里って性悪女子高生をやっつけに行きましょうね?」
と。
紅倉は重そうなまぶたを開けて、
「美貴ちゃん…。起こしてくれてありがとう」
と言ったのだ。
その言葉を聞いて芙蓉は、やはり起こすんじゃなかったと深く後悔した。どんなに恨まれて、嫌われても、起こすべきじゃなかったと思った。
先生の力を信じよう。・・と、思うしか芙蓉には出来なかった。
ジョンは芙蓉を見上げ不思議そうな顔をしていた。芙蓉が見えない誰かと話しているのが不思議らしい。芙蓉はあら?と思った。どうやらジョンには美紅が見えないらしい。洞窟の中でジョンが芙蓉に唸ったのは単純にケイとケイの認める仲間以外になつかないのと、その奥の禍々しすぎる霊気を感じてのことだったようだ。それでも犬が大の苦手の紅倉の守護霊である美紅はジョンの視線を避けて芙蓉の陰に隠れるよう移動した。
「犬、怖い………」
「この子は大丈夫でしょう?」
芙蓉は美紅の肩を抱いてやった。はっきりした感触がある。芙蓉にはこの子が肉体を持たない霊体とはとても思えない。……妹にしてしまいたいわ……と思うくらいだ。美紅がジロッと芙蓉を睨んだ。
「美貴ちゃん、不純」
「あら、未成年者に手なんて出さないわよ? ……あなた、17歳の姿になれないの?」
「なってあげない」
「ケチ」
芙蓉は微笑んで……、はあーっとため息をついた。
「行きましょう」
「わたしのことはお気遣い無く。またね」
美紅はパッと消えた。
「おーい、美紅ー。声くらい聞かせないの?」
しかし美紅の気配は皆無で、ハアッと強めの息を吐いて芙蓉は気持ちを切り替えた。
「行くわよ、ジョン」
芙蓉は軽く駆け足をした。冷たい夜気に体を温めるウォームアップだ。
芙蓉は平中たちの救出を軽く見ていた。
紅倉との別れを惜しんで時間を無駄にした以前に、紅倉の体を気遣って時間の設定を遅らせたのが、芙蓉を悲劇の現場に間に合わさせなかった。
芙蓉がペンションに到着したとき、そこには既に血の惨劇が跡を残すばかりだった。