90,新秩序
調停者である信木保安官が話す。
「木場田君の意見はもっともだと思う」
木場田は喜びに顔を明るくさせ、村長は逆に旧友の裏切りとも思える言いように顔をしかめた。
「なあ村長。本当にこの村の中だけで生きていた我々の子供時代とは違う。我々大人世代だって、この村を維持していくのに、ずいぶん無理な、やりたくもないことをしてきたじゃあないか?」
「それがわしらの義務じゃ。わしらだって、ずいぶんと犠牲を払ってきたんじゃ……」
「そうですよねえ。だが、我々世代はそれを仕方のない義務として受け入れた。ですがねえ、我々大人だって、若い子どもたちに我々が払った犠牲を、同じように払わせようというのは、辛いじゃあないですか?」
「だが、しかし……」
分かっていますよ、と言うように信木は村長にうなずいた。
「木場田君。
外の話だがねえ。
外の世界だって、テレビで見るような楽園ばかりが広がっているわけじゃあないよ?」
「分かってますよ、そんなことは」
木場田はまるきり子ども扱いされて面白くない顔をしたが。
「自由かね? そう……
今の社会は個人主義が蔓延している。
自由、権利、自己責任。
社会の一員として社会を維持するために義務を担おうという意識は皆無だ。
外の世界の人間の無関心ぶり、無責任ぶり、自由放蕩ぶりは、
そりゃあひどいものだ」
信木の顔が豹変した。穏やかな英国紳士然とした顔つきが、目が三角に吊り上がり、隈取りのように深くしわが刻まれ、一瞬にして恐ろしい憤怒相になり、一同を唖然とさせた。
信木は視界が霞むようなどす黒い憤怒のオーラを放ち、口角泡を飛ばして激烈に言った。
「裁判なんてのは醜いものだ。
自分の非は決して認めず、
非は全て他人に押し付け、
自分の権利ばかり主張する。
弁護士は自分の弁護する極悪殺人者の被告を何が何でも助けようと、被告がいかに不幸な身の上で犯行がやむを得ないものだったか、厚顔無恥にも演出たっぷりのシナリオを用意して裁判官に長々と朗読する。
自分の弁護する極悪殺人者を助けるために、被害者の人権をおとしめ、遺族を苦しめることも平気でする。
道徳や、良識や、良心などというものは存在しない。
あるのは、
己の利益を守ることのみだ。
それが権利だと言う。
わたしのせいではありませんと自己弁護をするばかりで、
自分の責任を見つめようとする態度など、皆無だ。
裁判員裁判にも期待したが…、駄目だ。
世論なんて責任のない外野では
『凶悪犯罪に対する処罰が甘い!』
『極刑が当然だ!』
『裁判官の量刑は一般の感覚から乖離している!』
などと声高に叫んでいて、
だがいざ自分が裁判員として責任ある立場になった途端ころっと萎縮して、自分たちがさんざん批判してきた甘っちょろい量刑でお茶を濁しやがる。
どいつもこいつも、自分は責任を負いたくないのだ。
外の人間どもは、駄目だ。
自分、自分、自分、と自分を主張するばかりで、
他人の気持ちになんかお構いなしだ。
他人への思いやりなどないのだ。
他人の心の痛みなど、何ほどのこともない。
他人の心の痛みを思いやる神経が、現代人には退化して、無くなってしまったのだ!
他人の心など虫けら同様、幼児の悪戯のように踏みにじって、平気で笑っている。
イジメなんてことをやる餓鬼どもはみんなそうだ。
今の人間どもは、腐っている。
何が人間をそこまで腐らせた?
個人主義か。
原因などどうでもいい。だが、
対策は必要だ。
この数年、わたしはひどく忙しく、忙しさは募るばかりで、手を差し伸べてあげられない犯罪被害者を多数取りこぼしてしまった。たいへん気の毒であり、申し訳なく思う。
わたしは我々のシステムを効率化する必要をここ数年、痛烈に感じている。
神の天罰を必要とする事件が多すぎるのだ。
わたしは、
この際、公安と手を組むのは良い選択だと思う。 」
村長は眼を剥いた。
「ノブ。おまえ、自分が言ってることがどういうことか、分かっておるんか!? おまえ、それは、我々が先祖代々最も大切にしてきた、神の精神を、捨てるっちゅうことじゃぞ!!??」
村長はテーブルに手をついて膝を立て、腕とあごをブルブル震わせたが。
信木の顔から剥き出しの憤怒は消えていたが、代わりにすっかり薄情な、冷徹な眼差しに落ち着いていた。
「確かに我々は不幸な個人のためが信条だ。だが、
こう世の中が悪くなって、理不尽な不幸が量産されては、社会そのものに対して厳しく当たらねばらちがあかないだろう?
今の社会には粛清が必要なのだ。
畏れを知らぬ我身勝手な個人主義者どもに、神の怒りを知らしめる必要があるのだ。
神への畏れ。それが今の社会に決定的に欠けているものだよ。
それを為すためにはもっと大きな組織の力が必要だ。
我々はその組織の一部となり、我々の仕事にだけ専念すればいい」
村長は額に寄ったしわをヒクヒクさせて言った。
「為政者に取り込まれその力となるのは、この村が、先祖代々決してしてはならぬと戒められてきたことではないか?」
「それは我々神の力が戦争の道具として使われることを戒めてきたのだろう? 今は昔と違う。
国が割れて覇を争う時代はとうに終わった。
民主主義の時代だ。
我々も、もうとっくに変わっていても良かったのだ」
「ノブ……………」
村長は幼い時を自分の弟のようにかわいがっていた幼なじみの顔を恐ろしそうに見つめた。
張りつめていた糸がぷっつり切れ、背中を丸めてへたり込んだ村長は、ふと、2階の、こうした会合の時によくそこから覗き見していたお婆の姿を思い出した。
ひどく力のない声で。
「そうか。どうやら、わしにもう村を束ねる力はないらしい」
少し恨めしそうに木場田を見た。
「よかろう。それが村人の意志だと言うなら、わしも従おう。……民主主義じゃからな」
「はっはっはっはっは」
パンッ、パンッ、と日本太郎が大喜びして手を打った。