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83,救急

 紅倉は谷底の沢に倒れていた。気絶している。丸く摩耗した大小の石を水が浸しているが、流れは見えず、放水は終わっている。

 放水はそこから15メートルほどさかのぼった山の斜面に開いた亀裂からなされた。ここにはまだちょろちょろと残りの水が流れ出ている。紅倉を吐き出したときにはかなりの水量、勢いがあったのだろう。

 穴からの放水が終わった沢は川底を覗かせていき、灌木やシダが中央まで浸食しているからここはもう長い間水は流れず、枯れ沢となっているのだろう。丸い石たちは白く乾いてもろくなった物が多く見受けられ、久しぶりの大量の水を吸いすぎてぱっかり割れてしまった物もある。

 ガサッガサッとまだ濃い緑を保つ陰性植物を踏み越え規格外のラブラドールレトリバーのジョンがクリーム色の巨体を踊らせて木々の間を走ってきた。まっすぐ紅倉の元へ駆けつけ、うつぶせに倒れぐっしょり濡れた体をコ−トの首のところをくわえて、ひたひたと顔を濡らす水から持ち上げ、高い岸へ運び上げた。

 だらんと首をうなだれて動かない紅倉は、獣の気配と両手の指輪を通して呼びかけてくる芙蓉の霊波に感覚を刺激され、眉間にヒクヒクしわを寄せながら意識を覚醒した。

「………い…………痛い…………体……………………」

 ブルッと震えが走ると、ガタガタガタガタと幼児のおもちゃのように体が震えて止まらなかった。ブルブルと唇が震え、歯がカチカチと鳴った。

「さ………寒い……………美貴ちゃん……………」

 体を丸めて肩を両手で抱きしめ、保護者である芙蓉を呼んで甘えようとした。ぬっと触れてきた毛の衣にすがりつこうとして、ハッとそれが自分がこの世でもっとも苦手としている生物であると気づき、

「ひっ、……、ひっ、……」

 はいずって逃げようとした。ジョンはのっしのっしと反対側へ回り込み、紅倉が沢に転落するのを抑えた。紅倉は反対側へ逃れようとし、ジョンは面倒くさそうに紅倉の体をまたいだ。紅倉は震え上がって固まり、紅倉の動きが止まったのを見るとジョンは沢側に戻り、紅倉に体を寄せてしゃがんだ。

 生理的に犬に極度の恐怖感を抱く紅倉はほとんどパニックに陥って呼吸を忘れ、またも失神しそうになったが、背中に触れる呼吸し血の通った生き物の肉体の温かさに心地よさを感じ、次第に気持ちが落ち着き、温かさに頼るようになった。

「……寒い…………」

 ガタガタという震えは止まらない。負傷した肉体が休息を要求し、寒い寒い…とうわごとのように思いながら、ガタガタ震えたまま紅倉は眠りに落ちていった。




「先生。先生。」

 耳元で呼びかけられて紅倉はうるさそうに目を覚ました。

「先生。大丈夫ですか?」

 芙蓉の声が途端に優しくなって尋ねた。紅倉は疲れた目を瞬かせた。

「美貴ちゃん……」

 泣いてる……、というのがぼんやりした影だけでも分かった。

「美貴ちゃん。寒い……」

「ええ。濡れた服を脱いでわたしの服を着てください」

 芙蓉はジロッと紅倉に腹をくっつけて横たわるジョンを睨んだ。

「オスはあっち」

 ジョンはのっそり立ち上がって歩いていった。

 芙蓉はスナイパーにビリビリに切り刻まれた白い服を脱いだ。中には身にぴったりした黒いスウェットスーツの上下を着込んでいる。

 芙蓉は紅倉に

「ちょっと我慢してくださいね」

 と声を掛けて服を脱がし、自分の白い服を着せた。

「ごめんなさいね。着替えを用意してくる余裕がなくて。我慢してくださいね」

 芙蓉は大きな石の上にお尻を付き、広げた股の間に紅倉を座らせ、背中から覆い被さって抱きしめた。

「こんなに凍えてしまって、…かわいそうに……」

 紅倉の震えは止まっていない。震えを押さえつけるように芙蓉はぎゅうっと紅倉を抱きしめた。

 谷底は既にかなり暗くなっている。時刻は4時半。ガス穴に入ったのは12時半。あれから4時間。ばたばたと様々な出来事が起こっていたが、それらは村の狭い空間とこの4時間という短い時間の間に濃厚に折り重なって進行していったのだ。

 紅倉の負傷と疲労はひどい。芙蓉はしばらくはここから動かせないと判断し、律儀に向こうを向いているジョンに声を掛けた。

「ジョン。ペンションに戻って毛布と、チョコレートみたいな物を見繕って持ってきて」

 ジョンは話が通じているのか、紅倉の重症具合を確認すると、さっと藪の中に駆け込んでいった。

「ロデムみたいに賢いといいんだけど」

「だいじょうぶよ」

 震えながら紅倉が答え、芙蓉は顔を覗き込んだ。

「あの子はわたしの中にケイさんがいるってちゃんと分かっているから、わたしを死なせないためにちゃんと考えているわ」

 芙蓉は紅倉の濡れた髪の匂いを嗅ぐように鼻をくっつけ、じっと抱きしめ、訊いた。

「誰にこんなにひどいことされたんです?」

「門番の巫女たちと、麻里って言う女子高生」

「それにケイさんでしょ?」

「………………………」

 紅倉は芙蓉のいわんとする事を予想して答えなかった。芙蓉は静かな声で厳しく尋問した。

「ケイさんにも殺されそうになったんでしょ? 今先生の中にいるのだって、先生の霊体を破壊するために潜り込んだんでしょう?」

「ケイさんは、わたしと心中したかったのよ」

「どうでもいいです。わたしから先生を奪う行為には変わりありません」

「美貴ちゃん、ケイさんのこと、嫌い?」

「許せないんです。先生を傷つける者は、誰でも」

 紅倉の全身は痣だらけだった。中にははっきり蹴られたひどい傷もあった。そればかりか……

 あの真っ白な雪のように透明だった肌が、赤黒く染みだらけで、やけどして膿んだようにケロイド状になった傷が顔から胸、腕に、多数あった。

 治らないかも知れない、と芙蓉はぽろぽろ涙をこぼしたくなった。

 こんな所、絶対先生を連れて来るんじゃなかった、と激しく後悔した。

「美貴ちゃん…」

 芙蓉の心情を察して紅倉が元気のない声を掛けた。

「ごめんね………」

 芙蓉の傷ついた心を知って紅倉もぽろぽろ涙をこぼした。芙蓉は抱きしめ、頬を擦り寄せた。

「帰りましょう、先生。もういいわ。もう、いいから、二人のおうちに帰りましょう? ね?…………………」

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