79,水流
麻里はメイコを引き連れ神の穴を進み、四角い貯水池へ出た。その岸にひどく負傷した紅倉が転がっているはずだったが。
「あら、いませんわ」
紅倉の姿は倒れていた所になかった。
「まあ、まんまと逃げられてしまいましたわ」
麻里はよいしょと岸へ上がり、紅倉が倒れていた場所に出血の跡を確認し、
「どこかなあ〜〜?」
と、ガス穴を懐中電灯で照らして覗いたが、
「いませんわね」
と、向き直り、明かりを自分が出てきたのと反対の水路の穴に向けた。水深40センチほどでさらさらと淀みなく水が流れている。一時濃厚だったウイスキーの香りも今はすっかり消えている。神は途中の部屋で休んでいた。しばらくアルコールが抜けないでうつらうつらしていることだろうが、じきに夜のお楽しみイベントでバッチリ目覚めるだろう。
じいっと意識で水路の先を覗いた麻里は、
「いましたわ」
と、腹を立てるより可笑しくて堪らないというようにニンマリした。
「思ったより根性ありますわね。ではその根性に敬意を表しまして。メイコ姉さま」
ここがその昔恐ろしい所であったことをお婆より聞いているメイコはゾッとした表情で部屋の様子を照らし出していたが、呼びかけられてビクッと思わず光線をまともに麻里に浴びせた。麻里は不快そうに目を細め、
「メイコ姉さま、一々ビクつかないでくださいまし。鬱陶しい」
と叱り、ひどく意地悪に笑った。
「戻りますわよ。戻ったら神職にここにめいっぱい水を流すよう伝えてくださいな」
そして考え。
「神に自分のお部屋に帰っていただかなくてはなりませんわね。メイコ姉さま。手伝ってくださいましね」
メイコはヒイイ〜とおののいた。
「どどどどど…、どうやって?……」
「押して行くに決まっているでしょう?」
「かかかか…、神にふふふふ触れるの?……」
麻里はうんざりした顔をした。
「大丈夫ですわ、寝惚けた神にあなたが食べられてしまわないようにちゃんと見張っていてあげますから。それとも…」
さっきと同じひどく意地悪な笑いを浮かべた。
「……神のおやつにしてしまおうかしら?」
麻里が見たとおり紅倉は真っ暗な水路を下っていた。水路は肩幅より少し広いくらいに狭まり、底に肘を付いて這っていくと水はザバザバとあごを浸して顔に跳ね、鼻に入って紅倉はゴホゴホとむせた。立って歩く高さはない。
暗闇の中普通の人間には耐え難い恐怖であるし、紅倉にも恐怖はあった。意識が集中できず先を見通すことが出来なかった。このまま空気のあるところを進んでいける保証もなかった。意識が肉体を離れて楽になりたがる誘惑と繰り返し戦っている。今それをしてしまったら、肉体は確実に溺れ死ぬだろう。
かなり無茶な賭だと自分でも思ったが、あの場を切り抜けるには他に選択肢はなかった。あの麻里という悪魔に捕まってしまったら、芙蓉が危ないと思った。芙蓉は自分を助けるためにはどんな危険なことでもするだろう。芙蓉が強いのは知っていたが、麻里には勝てない。あれは、自分が倒さなくてはならない相手だ。…だが、今麻里と闘う力はない。手当をして、休んで、体力を回復しなくてはならない。そのためには、なんとしてもここから生きて脱出しなくてはならない。
紅倉は何度も眠り掛けて、その度水を飲んで溺れかけてパニックに陥りながら目を覚ました。
最初お酒の冷ややかな匂いがしていて、薄めた梅酒しか飲めない紅倉はそれだけで真っ赤になって眠ってしまいそうになったが、やがてなくなった。
紅倉は必死に眠気と闘いながら這い続けた。水路はやがて坂が急になり、壁がごつごつと自然の物になり、曲がりくねった。狭いところを水の流れが急になり、紅倉は背中をバチバチ叩かれながら必死になって狭いカーブを這い出た。
横幅は狭いが縦の亀裂は高くなって立って歩けるようになった。空気に外に通じる新鮮さが感じられて、紅倉はようやく生き返った気がした。しかし。
ゴゴゴゴゴゴゴ……、と背後から不穏な音が響いてきた。
まさか、とひどく嫌な予感がした。果たして、霧が吹き付けたと思ったら、
「ドドドドドドド」
と狭い穴に溢れんばかりに大量の水が押し寄せてきて、ひ弱な紅倉に殴りつけ、体を水中に転がし、もみくちゃにした。体のあちこちを岩に打ち、頭も打って鼻の奥にキーンときな臭さが溢れた。それ以前に息が出来ず、必死にもがいてドドドドド、と激しく弾ける波の上に顔を出し、必死に息を吸い込んだかと思ったらまた水中に転がされ、したたかに頭を打った。息が出来ないと水の冷たさが容赦なく体内に浸透してきて心臓がきりきり痛んだ。新鮮な大量の水の冷たさを、これは体にとって危険だと思った。息をしようとして出来ず、死の息苦しさに思考が完全にパニックに陥った。
死に直面した紅倉は無意識のうちにSOSを発した。
切れていた芙蓉との霊的リンクが復活した。
紅倉との霊的リンクが復活してハッとした芙蓉はその時、ペンションもみじの駐車場に着いていたが、そこでまた一つの危機に遭遇している真っ最中だった。
芙蓉には今、散弾銃の銃口が向けられていた。