74,先生と生徒の物語
平中は地震が起きたとき小学校の教務室で相原ゆかり先生とお茶を飲んで話をしていた。
机が4つ集まった狭い部屋の中でいろいろ物が倒れ、廊下に面した格子窓やファイル類を入れた棚の戸のガラスが割れ、揺れが収まると二人して机の下からおっかなびっくり這い出した。
「大きかったですね。震度4以上あったわね。この辺り地震は多いんですか?」
平中の問いに相原先生は
「いえ。こんな大きなのはわたしが来てから初めてです」
と青ざめた顔で答えた。平中はその様子を見て、
「でも、なんだか変な揺れでしたね? 昔話みたいだけど地面の下で大ナマズが暴れ回っているみたいな」
と鎌を掛けた。はたして相原先生は平中の疑いに答えるようにますます青ざめてまじまじと見つめ返してきた。
相原ゆかり先生はまだ二十代の、明るく優しい笑顔をしたとても感じのよい人だったが、一方で優しさが弱さになりひどく打たれ弱い印象があった。
先生はもう一人三十代の男の先生がいるが、こちらは祭の手伝いに加わりどこかに行っている。相原先生は子どもたちの担当で、踊りを終わっておもちを食べた子どもたちはその場で解散になり、平中は話しかけていっしょに学校に来た。紅倉に話を聞くよう依頼されていた外の人間のもう一人、ナンパな島崎巡査は突然県警本部長から緊急の用件で呼び出しが掛かり、大慌てですっ飛んでいった。学校の教務室で相原先生と特にどうと言うことのない世間話の中で村での生活を聞き取っていたのだが。
相原先生は笑顔しか似合わないような優しい顔に精一杯恐ろしそうに目を見開き、震える唇で言った。
「実は………、わたし、この村が怖いんです…………」
言ってしまってから、またハッとしたように目を見開き、両手で口を覆って恐ろしそうにガタガタ震えた。
「この村の何が怖いの?」
相原先生のお姉さん的年齢でこれまでうち解けた会話をしてきた平中は心配そうに、めいっぱい親しみを込めて尋ねた。相原は平中を旅行雑誌の記者としか知らない。相原先生は怯えた目で逡巡しながら、心のコアの部分の固い殻を破るように話し出した。
「この村はとてものどかないい所で、この学校は昔ながらの先生と生徒の良い師弟関係が残っていて、わたしのような人間には都会よりずっと合っています。でも……………。
この学校では、普通の小学校では教えないようなことを教えています……。
道徳の時間では、昔の語り聞かせ文化に触れるという名目で……、地獄の様子を話して聞かせたりします…………」
「地獄の様子? どんな風に?」
「悪いことをして地獄に落とされた人間が…………、そこでどんなひどい目に遭わされるか、とても…、生々しく…、聞かせるんです………」
「それはあなたが?」
「いいえ。そういう話は校長先生や教頭先生が。恐ろしくてわたしなんか耳を塞ぎたくなるような話を…………、子どもたちは平気で聞いているんです。もうすっかり慣れているみたいで、時に笑いながら………。幼い頃から周りの大人に聞かされているんだと思います。確かに昔はお寺の本堂に子どもたちを集めて住職さんが壁の地獄絵を見せて『悪いことをするとこういうところに落とされるんだぞ?』と脅して教育を行っていた所もあったようですが、わたしは子どもに聞かせるには生々しくて残酷すぎると感じました。
他にも、…こんな辺鄙な狭い村ですから、外の世界のことを知ろうと言うことで新聞記事をみんなでいっしょに読んだりするんですが、そこで選ばれる記事というのが陰惨な殺人事件や、その裁判の記事だったりして、わたしにはとても小学生の勉強に取り上げるような内容とは思えません。
でも、どうやら村の人たちはそういうことを当たり前に思っているようで、学校の教育方針にクレームを付けてくるような親はいません。………………………………。」
相原先生は何を思ってかひどく言いづらそうにし、額にびっしょり汗を浮かべた。
「どうしたの? なに?」
平中が心配そうに顔を覗き込むと、泣きそうになりながら、勇気を振り絞るように話し出した。
「実はわたし………、前に務めていた学校でトラブルに遭って、教師を辞めようと思っていたんです。
先生になり立てで一年生のクラスを受け持ったんですが、ちょっとイジメのような問題が発生して、対応に苦労しました。それは子ども同士のちょっとしたことで、わたしもイジメという認識ではなく、みんなで仲良くしましょうね?と融和を計ったつもりだったんですが……。生徒の母親が学校にやってきまして、わたしの娘がイジメをしているってどういうことですか!とひどい剣幕で。わたしはそんなこと言ったつもりはないんですが、わたしがそう言って娘さんを叱ったと決め付けて、どう説明しても納得してくれないんです。わたしはその母親に保護者会でつるし上げにされ、まるで土下座をするようにみんなの前で謝らせられました。ところがそうすると今度はいじめられていた女子生徒の母親がやってきて、自分の娘がいじめられているのにどうして守ってくれないんですか? あなたは経験不足で、そんなことでは子どもを預けられません、もっとしっかり指導力を発揮してくれなくちゃ困ります、とさんざん説教されて」
「モンスターペアレントね」
平中の指摘に相原先生はうなずき、続けた。
「わたしは……、生徒たちが騒いでも怖くてまともに注意できなくなってしまい、すっかり学級崩壊のような状態になってしまいました。そうすると同僚教師たちからも白い目を向けられて指導され、それが知れるとますます母親たちが不安の声を上げてわたしを攻撃してきました。わたしはすっかりノイローゼになって病院の精神科に通うまで悪くなって……」
相原先生は何かひどくショッキングなことを思い出したようにブルブルッとひどく震え上がった。平中は肩を抱き、今はもう大丈夫よ?と優しく揺すってメッセージを送った。相原が勇気を出して続ける。
「そんなときに……、恐ろしい事件が起こったんです……………。
わたしにひどくクレームを付けていた母親が………、何者かに刃物で顔を切られたんです」
相原先生はまたブルブルッと震え、ギョッとした平中も緊張してぎゅうっと相原先生の肩を抱きしめた。
「買い物帰りの、夕方の暗い道でのことでした。二度三度と繰り返し切りつけられたらしく、悲鳴も上げられずに顔を覆ってうずくまってしまったそうです。暗い道で何が起こったのか分かりませんでしたが目撃者は数人いました。コートを着て、帽子を被って、サングラスとマスクを掛けた、買い物袋をぶら下げた中年の小太りの女性だったそうです。うずくまった女性がどうなっているのか気づいて、大騒ぎになったときには中年女性の姿は消えていたそうです。
わたしはまだ中年に見られるほど老けてないつもりですが、刑事が来てアリバイを訊かれました。事件のあった時刻わたしは病院にいて、完璧なアリバイがありました。犯人は精神に異常性のある通り魔だろうという見方が強いようで、わたしは本気で疑われていたわけではないと思います。
もちろんわたしは犯人ではありませんが、正直言って恨んでいた相手ですから、まるで自分が犯人のように恐ろしくなってしまいました。
その人は最初に娘がイジメをしていると決め付けられたと学校に乗り込んできた母親だったのですが、その反対側の娘がいじめられていると激しく訴えてきていた母親が、反目する相手が出てこられなくなったものですからここぞとばかりに厳しくクラス改革するように強要してきました。わたしは毎日教壇に立つのがやっとの状態で、そんな極端なこととても出来る状態じゃありませんでした。その母親は毎日のように学校に来るか電話してくるかしてわたしを叱りつけ、わたしはもう、精神がぼろぼろになって、自殺することまで考えるようになってしまいました。
すると、今度はその人が同じように顔を切りつけられる事件が起こりました。
その人は前の被害者と反目していたということでやはり一時期犯人と疑われたらしいですが、犯人ではなかったようです。
今回の犯人も同じ中年女性であったようですが、けっきょく正体は分からず、まだ捕まっていません。
今回もわたしは病院にいて完璧なアリバイがありました。
わたしは犯人じゃありません。でも完璧すぎるアリバイがあるとかえって疑われるようで、警察には何度も事情を訊かれました。
二件の事件でクラスの母親たちはすっかり何も言わなくなりました。同僚教師たちもです。みんな無言で、でもわたしを犯人と同じ目で見て怖がっていました。
わたしはなんとか一年間勤め上げ、教師を辞めようと思っていましたが、山の中の生徒の数人しかいない小さな学校への赴任を打診されました。元々憧れてなった教職ですし、このまま辞めたらこの先一生トラウマになって何もできなくなるんじゃないかという恐怖で、その話を受けました。
そうしてやってきたのがこの学校で、今年で二年目になります」
相原は話し終えてはあーーー……と深く息をつき、自分自身これをどう考えてよいか分からないように平中に視線をよこした。平中は椅子に座る相原先生を横から立ち膝になってすっかり抱きしめるようにして話を聞いていたが、ようやく汗ばんだ手を先生の肩から放し、代わりに手を取って、じっと見つめて尋ねた。
「嫌なことを訊くけど、あなたは誰かに……、その人たちを黙らせるように依頼したりしていない?」
相原は信頼して話した平中に疑われるように言われ、ショックに泣きそうになって首を振った。平中は手を握りしめて、振った。
「ごめんなさい。あなたを信じるわ。たぶん、村はあなたのような先生がこの学校に欲しかったのよ。誰かにひどく攻撃されて、心に深い傷を負ったような人が。その人たちが襲われたのは、あなたにこの学校に勤めてもらうための、この村からの報酬だったのよ」
相原先生は悲壮に目を見開き、わなわなと震えた。平中は真剣に見つめて言った。
「この村は、そういうことをやっている所なのよ。はっきりしたわ、子どもの頃から極端な善悪を教え込んで、この村その物が、『手のぬくもり会』、お金で悪人を呪い殺すことを請け負う、『呪殺村』なのよ」
相原先生は歯をカクカク言わせて怯えた。
「…………怖い…………………」
その時、
カンカンカンカンカン、
と、けたたましく半鐘が打ち鳴らされ、相原先生はビクッと飛び上がりそうになった。
「あれは何?」
「あ、あれは…。…役場の鐘が鳴らされたら、それは夜の秘祭の始まる合図だから、祭に参加する選ばれた者以外は外に出てはいけないという合図…だそうです。……!」
相原先生はまた何か思いだして怯えた。
「わたし……、嘘をつきました……。芙蓉美貴さんに祭は最初から今日やる予定だったのか訊かれて、そうだと答えたんですが……、嘘です。観光客がお見えになっているから今日やろう、ただ本当の祭らしく最初から今日やることが決まっていたことにしよう、その方が観光客向けのパフォーマンスじゃなく伝統文化として喜んでもらえるから、と校長に言われて……。本当は大晦日に行う予定だったんです」
相原先生はそれも裏で何か恐ろしい計画がなされていたのかと今さらながらに怯えた。
「わたし………、ここから逃げ出したい………」
それまで疑惑の内に押さえ込んでいた恐怖がとどめようもなく膨らんできたようで、相原はすがるような目で平中を見つめた。平中は緊張した顔でうなずいた。
「そうね。ひどく嫌な予感がするわ。いったん村を離れて様子を見た方がいいわね。行きましょう。」
平中にはっきり言われて相原はほっと表情がとろけたような顔になって椅子から立ち上がろうとした。
廊下に面した格子窓のひび割れたガラスの向こうから真っ白い怖い顔がじっと睨んでいた。
相原は
「きゃあっ」
と悲鳴を上げた。
ドアを開けて入ってきた。
「…な、成美ちゃん………」
それは薄草色の祭半纏を着て顔におしろいを塗ってお化粧した5年生の鬼木成美だった。……鬼木巫女衆の最年少の一員である。
「先生。村を裏切って、逃げるですって?」
成美は歪んだ上目遣いの恐ろしい顔で相原先生を睨み、平中はさっき聞いた地獄の話を思い出し、ゾッと、子どもの成美が地獄の鬼のように見えた。