73,それぞれの道
村唯一の診療機関「直木医院」の直木医師は70過ぎのかなり目つき手つきの怪しい老人だった。
芙蓉はベッドでケイを他に何もなかったので白衣に着替えさせ、ミズキは黒木末木のために薬や包帯を風呂敷に包み、斎木は車を取りに走った。
目に血が垂れてくるので自分で包帯を巻きながら、黒木は背中で目隠しの向こうの芙蓉に話しかけた。
「ケイは、どうなんだ?」
「魂が抜けているわね。このまま戻らなければいずれ衰弱して体も死んじゃうでしょうね」
「そうか…。紅倉がどうなったか分かるか?」
「分からないわ」
「そうか。お婆の話だとケイの魂は紅倉の中に取り込まれてしまったそうだ。我々としても紅倉に会ってケイの魂を返してもらわなければならない」
「ずいぶん勝手なことを言うわね?」
芙蓉は不機嫌を隠そうともしないで言った。
「この人は先生を殺すために神と同化したんじゃないの?」
「村長に脅されて仕方なくだ。ケイは、紅倉に心酔していた」
「あっそ」
状況的にこちらから地下の穴に潜って紅倉を救い出すのは無理なようだ。芙蓉は事態に対処するため苛々を吐き出し、冷静になって言った。
「村長が命じたのね?」
「そうだ」
「あのダルマ狸。…あなたたちはどうするの? 村長命令に背いたんでしょ?」
「俺たちは村を出る。ミズキとケイをあんたに預ける。紅倉と合流して、二人をいっしょに逃がしてやってほしい」
「さて、どうしようかしら?」
芙蓉はケイの着替えを済ませ、
「いいわよ」
とミズキに声を掛け、いそいそやってきたミズキをジロリと睨み、
「わたしは先生が何より大事。先生を救うための足手まといはごめんよ」
ときつく言った。ミズキも何か言いたそうに芙蓉を見つめ返した。
「先生がこの人に平中さんのボディーガードを頼んだわよね? 平中さんはどうしているの?」
ミズキはハッとしたように、
「いや、俺は……」
と口ごもった。
その時、カンカンカンカン、と甲高く鐘が連打される音が聞こえてきた。黒木が
「役場の半鐘だ」
と言い、芙蓉は人の本能に訴えかけて不安にさせる音に目をつり上げながら黒木を振り返り、
「わたしは平中さんに責任があるわ。彼女を村から脱出させて、先生を助け出す。そっちは勝手にやってちょうだい」
と、意識の戻らないケイを冷たく突き放した。黒木は、
「そうか。仕方ない。では紅倉を助け出したら村の外でミズキと合流してやってくれ」
と言い、ミズキに、
「行くぞ。あれは俺たちに追っ手を掛ける合図だろう。ケイを守って村を脱出するんだ」
と急がせた。
「お先」
芙蓉は先に玄関に向かった。表に出ると甲高い半鐘の連打が直接耳を打った。番犬のようにそこで待っていたジョンが思わず不安そうな顔で芙蓉を見上げた。
「悪いわね」
芙蓉は犬の主人を見捨てた詫びを言い、不安な警告音に負けないように意識を集中し、勘を働かせた。
「学校ね」
紅倉は平中に村の外から入ってきたと思しい小学校の女教師と駐在所の巡査に話を聞くよう頼んでいた。あれからだいぶ時間が経ってとっくにペンションに引き上げているかもしれないが、それならその方がよい。しかし芙蓉の勘は平中を小学校にいると見た。ペンションと逆だが、医院からは近い。
芙蓉が走り出すとジョンがいっしょに走り出した。芙蓉は仕方なく立ち止まり、
「あんたのご主人はあっち。わたしは別行動よ」
と指で戻るよう教えてやったが、ジョンはじっと芙蓉を見て目をそらさなかった。
「連れていってくれ」
ケイを背負ったミズキが出てきて言った。
「紅倉がいなくちゃケイが目を覚まさないことを知っているんだ。あんたが紅倉を連れて逃げてしまわないよう見張るつもりなのさ」
芙蓉はジョンを片目をつり上げて睨み、
「役に立ってもらうわよ?」
と言い、ジョンは
「ワンッ」
と、早く行けとでも言うように一言吠えた。
「後で引き取ってもらうわよ」
とミズキに言って芙蓉はジョンを引き連れ走り出した。
赤いワゴン車が斎木に運転されて走ってきた。ミズキの運転する車だが、村の人間は村に置いている間キーは差しっぱなしかダッシュボードに置きっぱなしにしている。ミズキは後部座席に間にケイを挟んで黒木と乗り込みながら訊いた。
「他の犬たちは?」
自分がジョンを連れ出すとき他の四匹には末木の家に向かうよう指示して行かせた。黒木は、
「いなかったな。地震に驚いて逃げたんだろう」
と答えた。ミズキは彼らが地震だろうと主人のケイを見捨てて逃げたとは思わなかったが、逆にケイを捜してどこかに向かい、人間たちと行き違いになったのかもしれない。それとも地震のせいで動物のナビゲーション感覚が狂ってしまったか。いずれにしろ彼らを捜している時間はないし、ミズキがケイ以外にはけっして慣れようとしない犬たちの心を測り知ることはできなかった。
「飛ばせ。ルートは任せる」
黒木に言われて斎木は車を発進させた。半鐘はいつの間にか止まって、村はその名残ですっかり何かが欠けたような静寂に包まれている。
葬式に沈んだように静まり返った村をワゴンカーは走っていく。
じきにその静寂が赤い霧に染まっていくことだろう、山間のこの村は決して照らさない夕日の赤の代わりに。