59,もう一人の魔女
毒素の空気を脱してミズキはジョンと共に急ぎ山道を登りながら、ハッと思い出して芙蓉を振り返った。スポーツ万能の芙蓉は一度通った山道を楽々と登ってきている。芙蓉は何?と心配そうなミズキの顔を見た。
「麻里がいる」
芙蓉の知らない名前だ。
「誰よそれ?」
ミズキは不吉な胸騒ぎを振り払うように歩き出し、話した。
「木俣麻里(きまたまり)、外に寄宿して高校に通っている2年生だ。
……巫女の一人だが、鬼木姓ではない。
ああつまり、巫女の才能が認められた子どもは鬼木の頭領……今は鬼木の婆の、養子になって、鬼木姓を名乗るんだ。
麻里は生まれたときから別格扱いだったそうだ。つまり……」
ミズキは言いづらそうにしたが、思い切って続けた。
「麻里の母親は元巫女だったそうだ。
神は男神で、神に仕える巫女は処女でなければならない。だから巫女たちは生涯独身が原則だ」
「あらひどい。今時お寺のお坊さんだって妻帯が当たり前なのにねえ?」
芙蓉は茶々を入れながら、じゃああの妖怪婆さんも処女なのね?とお下劣なことを思った。ミズキは無視して続ける。
「神は女の体内に男の汚れがあるのをひどく嫌うんだそうだ。汚れに触れると怒り狂って女にひどく乱暴をする…………。
巫女になることを定められた女子は結婚も恋愛も禁じられる。村の厳しい掟だ。
だが、
麻里の母親は、掟に背いて男と恋に落ち、体を通じ合った。彼女は掟に背いたことをひた隠しにしていたが、神が汚れに触れ、怒り狂い、彼女を中に引きずり込み、無理やり犯したんだそうだ。
彼女はなんとか助け出され、厳しく問いただされて、男との密通を白状した。村では男も巫女と通じるのは厳しく禁じられている。相手の男は袋叩きにされ、見せしめに玉を潰されたそうだ」
芙蓉は胸がムカムカして顔をしかめた。
「麻里って子が高2ってことは、20年も前の話じゃないんでしょ? この村じゃいまだにそんなことをやっているの?」
「ああ。村の掟は、絶対だ」
と、それに関してはどうってことないようにミズキは言った。
「女はその後妊娠していることが判明し、そして生まれたのが麻里だ。
麻里は生まれたときから強い霊能力を持っていたそうだ。
麻里の父親が密通した男なのか、神なのか、分からないが、生まれながらに神の力を持っているのは確かだ」
芙蓉はそれはさておき気になっていることを訊いた。
「玉を潰された恋人はどうなったの?」
「麻里の父親だ。巫女を引退した母親と一緒に暮らしている」
芙蓉は、好き合った二人なのだろうがそういう目に遭って夫婦になるというのはどうなのだろう?、と哀れにも不快に思った。
「待ってよ。暮らしている、って、この村で?」
「ああ、もちろん。村で生まれた者は生涯村を離れることは許されない。俺たちみたいに村のために外で働く者は別だが」
「それでいいわけ?」
芙蓉は麻里の両親の夫婦を思って腹が立った。
「この現代日本で、そこまで個人の人権を踏みにじる行為がまかり通って、いいの?」
ミズキはうるさそうに立ち止まり、小馬鹿にしたような薄笑いを浮かべて芙蓉を見た。
「甘いな。この村に、日本国憲法なんて通じないよ」
歩き出す。芙蓉は、なるほどやはりこのミズキという坊やも骨の髄まで村の人間なのだと軽蔑する思いを抱いた。ケイへの優しい思いと矛盾するが、他者と身内の線引きが異様にはっきりしているのだろう。芙蓉はムカムカして、必要なことを訊いた。
「で? 麻里っていうのはどういう子なの?」
「それが問題だ。一言で言えば、異常だ。
村の子どもは小学校を卒業して外の中学高校に通うと周りとどこか違ったところがあって、孤立し、イジメの対象になることが多い。麻里の中学時代は特にそうだったが、麻里をいじめた生徒はことごとく精神異常を引き起こして不登校になってしまった。担任も学年の途中で2度代わっている。そういう問題を引き起こして麻里自身はどうかというと、落ち込んでいじけたりするようなことはなく、超然として、面白がっていたようだ。高校に進んでからはすっかり噂が広まって麻里にちょっかい出す人間はいなくなった。麻里は…、遊ぶ相手がいなくなって退屈しているらしい……」
芙蓉は嫌な子のようだなと思った。一見先生に似たところがあるように思うが……、先生はきっとこの子は嫌いだろう。
「麻里は鬼木姓でないように正式の巫女ではない。が、子どもの頃から勝手に穴に潜り込んで神を相手に遊んでいたらしい。何度もお婆や村長に叱られたらしいが、全然反省なんてしないんだろうな。大人なんて、怖くもなんともないんだろう。
その気になれば、簡単に精神を破壊したり、殺したり出来るんだからな」
「殺したことがあるの?」
「父親の玉を潰した男……、当時の青年団団長だった男だが、背骨の腫れ上がる奇病に犯され、5年以上苦しみ抜いた挙げ句に死んだ。最後は完全な廃人になってしまって、もう飽きたということなんだろう、麻里が中学に通うために村を出る当日にひどい悲鳴を上げて事切れた。村で麻里は腫れ物に触るような扱いで、麻里に逆らえる人間は誰もいない。面と向かって悪口を言えるのは…、ケイだけだ」
ミズキはちょっと笑ったようだった。芙蓉は麻里に対するイメージをちょっと修正した。考えてみればちょっと可哀相な子でもある。それ以上に恐ろしく危険な少女のようだが。
芙蓉は、芙蓉にとって重要な質問をした。
「見た目はどうなの? その子、化け物みたいな容姿をしているの?」
ミズキは、何を訊いてるんだ?と呆れたような顔を見せて、答えた。
「いや。黙っていれば綺麗な子だよ。日本人形みたいに気味悪いけどな」
芙蓉は、不気味系美少女、けっこう好みかも知れないわ、と思った。ミズキが立ち止まり、振り返って冷たい目で注意した。
「麻里を味方にしようなんて間違っても考えるなよ? おまえがニヤニヤ考えているようなまともな人間性なんてこれっぽっちもない、化け物、だからな?」
怖い目で釘をさし、再び歩き出した。なんだかジョンまで芙蓉を馬鹿にしたような顔をしている。
なんなのよ、つまんない、と思いながら、
峠の上りが終わり、向こう側、村へ下る地点に来た。ここもあからさまに道を隠し、岩を乗り越えなくてはならない。ジョンが飛び上がり、ミズキが慣れた足でひょいひょいと足場を辿って上がり、芙蓉も舐めないでよねとちょうど自分の背丈くらいの岩場を木の根を頼りに上り始め、
芙蓉は今日白いふわっとした羽織袴みたいな服を着ている。自分の得意の合気道のスタイルに合わせた服装だ。
岩に上がりきると眺望が開けふもとの村がよく見渡せた。
時刻は3時を過ぎ、だいぶ傾いた冬の日が峠の影を長く伸ばし村の半分を覆っている。祭はどうなったのだろう、山はのどかに静かで、水色の空の空気は冷たい。
芙蓉はふっと反射的に岩場から飛び降り、前で待っていたミズキが驚いた顔をした。
ビシッと岩の破片が鋭く跳ねた。その後でヒュンと言う空を突き抜ける音が聞こえた。
芙蓉は素早く這うように走り、茶色の尖った葉を付けた大木の根元に身を沈めた。ミズキとジョンも走り込んできて身を隠した。
「狙撃か?」
緊張した怖い目と、驚きの表情で芙蓉に尋ねた。芙蓉は涼しい顔で、目は鋭く緊張し、隣の峠を窺った。
「どうやら業を煮やして撃っちゃったみたいね。神様に願掛けしているのは先生だけだからわたしは殺してもかまわないってことかしら?」