53,紅倉の宣戦布告
赤い……かつて巫女たちだった女の幽霊は、奇声を上げながら鎖にぶら下がった体を揺すり、侵入者に怒っているのか、ただ不快に感じてむずかっているのか、判断できない。幽霊の常として論理的思考に乏しいものだが、これの場合、完全に壊れてしまっているらしい。
むうっと押し寄せてきた濃い臭気に芙蓉は胸が悪くなった。樽で熟成させた年代物の血液を掻き回しているみたいだ。
吐き気に頭痛がしながら、芙蓉ははっと基本的なことを思い出した。
「先生。ここに安藤さんはいないのでは? だって、こんな所、どんな状況だろうと普通の人間がここまで来れはしないでしょう? ましてあの幽霊から向こうにいるなんて、絶対あり得ません! ここまでの途中にいなかったんですから、安藤さんはこの穴にはいないんです!」
芙蓉は、やはりこれは罠か、と怒りを覚えた。安藤はどこか別の場所に隠されているか……、それより、とっくに殺されてどこかに埋められているのだろう。
「先生、引き返しましょう!」
芙蓉は紅倉の腕を掴んだ。が、その腕に抵抗を感じ、驚いて顔を見た。紅倉はいかにも心残りをありありと、じいっと赤い幽霊を見ていた。
「先生?」
芙蓉は非常に強い不安を感じて紅倉に呼びかけた。
「美貴ちゃん。あなたは引き返して。わたしは念のため奥を見てくるから」
「先生! いるわけありません!」
「うん……、まあ、そうなんだろうけれど……」
紅倉は自分でも分かっているくせにどうしてもあきらめきれないみたいに決まり悪い苦笑をした。
「なんだかねえ……、見てみたいのよ」
「先生!!」
芙蓉は怒ってぎゅうっと紅倉の腕を握った。
「あんな化け物、いったいどうするって言うんです!? あれは…………、パワーは先生より上です。違いますか?」
紅倉は困ったなあと眉を寄せた。
「そうみたいねえー」
「じゃああきらめてください。帰りますよ」
「やだ」
「先生っ!!」
芙蓉は本気で怒って紅倉の両肩を掴み、間近につばを飛ばして叱りつけた。
「あれはもう人の幽霊なんかじゃありません! 完全な化け物です! 救おうなんて、考えないでください!」
「別に救う気なんてないけど〜…」
叱られた紅倉も意固地になって聞き分けなく口を尖らせた。
「あれは毒の固まりですっ! あんな物に触れたら、ただじゃ済みませんよっ!」
「だ〜いじょぶ、だいじょぶ」
「大丈夫じゃありませんっ!!!」
「んんん〜〜〜」
駄々をこねる紅倉を睨み付けているうち、芙蓉は本格的に胸が悪くなって、吐きそうになって紅倉を放し、あまり触れたくない壁に手を付いてうつむいた。
「だいじょうぶ?」
紅倉が心配して丸まった背を撫でた。
「先生、お願いです、ここを離れましょう?」
「ごめんね美貴ちゃん」
紅倉がスッと離れて、芙蓉はぎゅっと胸が痛んだ。
「どうしても、ね」
紅倉は、ニヒルな薄笑いを唇に浮かべた。
「何故です、先生? 何がそんなに胸に引っかかるんですか?」
「なんかね……。
あの幽霊見てたら、ここの神様にむかっ腹が立ってきた。
うふふふふ……
なるほどねえ、『手のぬくもり会』がわたしに来てほしくなかったわけねえー。
彼らの大事な神様、表に引っぱり出して、ぶっ潰してやりたくなっちゃった」
芙蓉は、……これもここの毒素にやられたということなのだろうか、紅倉の精神状態が非常に危険なレベルにあることを感じ、恐れた。
「先生。先生だってこれまで、神と戦うのはさすがに無理だ、って、おっしゃってきたじゃないですか?」
「今回は、勝機があるの」
「危険な賭なんでしょう?命を懸ける?」
「まあね」
紅倉はもう意志を変えないすっきりした表情で、穴の奥を睨んだ。
「でも。所詮わたしはそういう戦い方しか出来ないのよ」