51,神通
大字村は水が豊富である。
ケイは身につけている物すべて……サングラスも、脱いで、薄い白襦袢一枚だけまとい、禊(みそぎ)に望んだ。
地下で天窓など無い部屋は一切の闇で、入り口に置かれたLEDの白色のランタンだけが冷たい光を発し、奥に立つケイの半裸身を寒々と浮かび上がらせている。
部屋にはザアーーーーッと水の流れ落ちる音が響いている。
ケイは膝をつき、まず水槽に溜め置かれた水を桶にすくい、肩から掛けた。水は氷水の冷たさで、肌に突き刺すような痛みを感じ、心臓がショックに躍り上がった。ブルッと震えが走るが、体を慣らすために反対の肩からも掛ける。唇がブルブル震え、あごがカチカチ鳴った。カコンと桶を放り出して立ち上がる。体の震えが止まらない。ザアーーーーッと言う頭の上から水の流れ落ちるのを聞き、氷の飛沫の混じった冷気が恐ろしく後から後から沸き立ってくる。
ケイは覚悟を決めて地下の室内に注がれる滝に歩みを進める。すのこからセメントの水場へ下り、足首まで水に浸かった。ゾッとする冷たさが痛みと共に駆け上がる。この冷たさは危険だと心臓がドクドク警鐘を鳴らす。胸を締め付けられ、ヒッヒッとしゃくり上げるようにして、ザアーッと雪崩落ちる冷水に、足を進め、ザアッと頭を打たれる。ドドドドドオッと耳の中で激しく音が鳴り、体がブルッと大きく震え、一切の思考が奪われる。日頃口汚く悪態をついてばかりのケイが、一瞬で、無垢な少女のような殊勝な素直さになる。
『くそっ、わたしはこれから……』
と思うのだが、激しく頭と肩を打つ冷水に煩悩……抵抗心を叩き出される。ケイは無心になり、ただブルブルガタガタと体を震わせる。胸の前に固く両手を握り合わせ、ひたすら耐える。やがて。すっかり時間の感覚は失われているが。体の心まで凍えさせられついに意識がふうっと消え入りそうになると、自衛本能が、命を燃やすようにカッカと一個一個の細胞を発熱させる。スウーーッと震えが止まり、滝の中にもうもうと湯気を立ち上らせる幻想を見る。思考を超えて神経がカッと目覚め、ナイフのように鋭く研ぎ澄まされる。人間存在を超えた、神に、近づく。
ケイは背をしゃんと伸ばし、滝から出た。
部屋の外に控えていた麻里がやってきてバスタオルで軽く髪の毛と体の水滴を吸い取らせた。
「こちらへ」
麻里についてケイは廊下へ出る。
「ここから階段です。お気をつけください」
踊り場で向きを変え、更に下りる。更に。
地上からだいぶ下になるだろう、空気が重く、物音が重い。
「こちらです」
廊下を歩き、
「『室』でございます」
かしこまる麻里を行き過ぎ、音の響きの固い空間に出る。固い岩盤が剥き出しの10帖ほどの部屋であるのをケイの鋭敏な聴覚が見て取る。
固い空気感に、冷たく澱んだ空気のひとかたまりがゆらめいていた。床の中央に切られた「穴」の湿った空気がわずかな風に表面を漂わせていた。
部屋の中には3人の女がいた。鬼木の婆と年かさの巫女たちだ。小学生の女の子はいない。鬼婆もここではぬくい綿入れを脱ぎ、他と同じ白の小袖と緋袴姿をしている。
重い戸を閉めて麻里も部屋に入った。
ここも灯りはLED電球のランタンが使われていた。
部屋は寒い。熱を持つ物は女たちしかないが、冷たい空気は薄着の巫女たちの肌に深々と差し込んでいき体温を外へ外へ引き抜いていく。
その中でケイが最も寒いかっこうをし、まるで自身が冷凍庫のようだ。
「ケイ。頼んだぞ」
ケイは迷いのない歩みで穴の縁まで行く。1メートル四方の穴はやはり1メートルほどの深さで、下は湿った小砂利が敷かれている。
ケイは手を貸そうとする年輩の巫女を断り、縁に腰かけ、体をひねって前向きになりながらぺたりと砂利に足を付き、屈んで尻を付くと、寝そべった。床下は支柱が等間隔に並び、床と同じ広さの地面が壁に仕切られている。
「ケイ。よいな?」
「ああ。やりな」
婆が下がり、巫女たちが部屋の隅に畳んでおいた戸板を4枚ちょうつがいでつなげた物を持ってきて、穴を囲んで立て、合わさった端と端を縦のかんぬきでロックした。
婆の指示で壁のスイッチが押され、何か電気装置らしいそれは、入力を示す赤いランプが灯った。
ランタンの明かりが万が一の非常事態に備えるだけの必要最低限に絞られた。元よりケイの目にこの暗さでは光は映らないが、四角く切られた天井の隙間にもほぼ完全に光はなくなった。
電気装置が作動させた機構が働き、ブウウウーン…、とモーターの回る振動が伝わってきて、ゴトゴトと、もっと静かだが重い音が響いてきた。
ケイの手足と背中を、ひたひたと水が浸していった。真っ暗闇に冷たい水に浸されていったら、それは普通の人間には耐えられない恐怖だろう。禊ぎを行い心を凛と落ち着かせたケイにもその恐怖は抑えがたいものがあった。それでも、ケイは日常的にこの恐怖の中にいる。本心を言えば、車も、人も、恐ろしくてならないのだ。だが、この「死」の恐怖は、別種の恐ろしさをはらんでいる。
ひたひた背中を浸し、徐々に上がっていく水位は、耳を浸した辺りで止まった。
闇と冷たさに慣れたつもりが、恥ずかしいほどドクンドクンと心臓の鼓動を大きく感じた。
ざわざわと、足先からおぞけが走る。
近づいてくる。
すっかり冷え切ったケイの体でも、この氷のような冷たさの中ではずいぶん温かい熱源なのだろう。
それは人肌の熱を求め、匂いを求め、いそいそとこの囲いの中に身を伸ばしてきた。
ケイの裸足に触れ、はいずってきた。
ゾゾゾ、とおぞけが全身を走る。
『ああ嫌だ、この世で最もおぞましい感触だよ』
そう思いながらケイはじっと我慢する。ぬるぬるした形の定かならぬ物が脚を這い上がり、腰にまとわりつき、腕に絡みつき、首筋へ、ケイの肌へ、ぬるぬると染み入る嫌な感触ですがりついてくる。耳孔からケイの内部に入り込もうとする。おぞましい感触は顔に張り付き、唇を覆った。
ケイは巫女としてそれに身を委ねねばならない。
ぬるぬると髪の毛の中にまで染み込んできて、ケイは突然身が燃えるような強烈な感覚に震える。五体を超えて感覚が広がる。
今、ケイが「神」となる。
くわっと押さえつけられていた感情が沸き立ち爆発的に膨れ上がる。
ケイの「神の目」が開く。
意識がゴゴゴゴゴ、と物凄い勢いで「穴」を駆けていく。
『紅倉ああ…………』
自分でも制御の利かない衝動が暴れ出そうとする。
赤子が母を求めて泣き叫ぶように、ケイは紅倉を求めた。
紅倉……、わたしを………、
救ってみせろ!!!!……