47,穴の入り口
目的の場所は峠を越えてしばらく下った所だという。
紅倉はひ弱に見えてこれで愛犬ロデムの散歩で足腰はけっこう鍛えている。ちなみに今日の紅倉のファッションは、芙蓉がいつもの黒ではなく真っ白なのに対し、黒の温かいボア付きコートと、こちらもいつもの白と反対だ。黒の厚いパンツに、登山靴ではないが足首を守るブーツタイプの靴を履いている。
山を登っていくと、隣の尾根の上に、高圧線の鉄塔とそのとなりに各種アンテナの群が立っているのが見えた。鉄塔からは電線が伸び、道道の電信柱を経由して各戸へ電気を供給し、反対の山中に立つ鉄塔につながり、山の向こうへ消えていく。
村の中から見たのでは気づかなかったが電柱とアンテナ類の立つ尾根は両隣とほぼ同じ高さのだいぶ広い台地になっているようだ。
商業施設のまるで見当たらない村だが、生活は現代の文化レベルをちゃんと持っているようだ。
道は知らなければ絶対気づかない、小さな岩山を越えた裏に細々と続き、何重にも道を誤魔化しながら底へ底へと深く谷を下りていく。すっかり日差しが遠のき、濡れた土の臭いが足元から身を包んでくる。木場田は大型の懐中電灯を持っていたが、それを使わなければならないほどの暗さではない。目的地で必要になるのだろう。
下りきった谷間を道は続き、
木々の間を薄暗い中ハッと目に焼き付くように真っ赤な鳥居が立っていた。
道幅がないので広場に立つ物よりだいぶ小さく、芙蓉ならジャンプして手が届くくらいの高さだ。
しかし妙に真っ赤だ。しんと音がしそうな薄暗がりに、赤色だけが浮き立って周囲を闇に沈めていくような見え方をする。
妙に静か、というのはただ単に音がしないだけではない。自分の立てる音もハッとするほど耳に痛く、そのくせ響かずにすぐに立ち消える。周りの木々が、土が、空気が、音を吸収して無にしてしまうのだ。巨木の立ち並ぶ神社の聖域がこのような静寂をたたえているが、そうしたすがすがしさはない。胸をかき乱す得体の知れない不安が、真っ赤な鳥居をくぐってビシビシ吹き付けてくる。ケイがここだけは近づけないと言ったのがよく分かる。
「この先はまっすぐです」
木場田について鳥居をくぐり、先へ進むと、また鳥居が現れた。
平らな道で歩くのに余裕が出来た紅倉は木場田に訊いた。
「安藤さんがその『穴』に入った経緯を教えてくれます?」
木場田は前を向いたままどこまで話すべきか考えあぐねる困惑を感じさせつつ話した。
「安藤さんは旅行雑誌の記者を装って村の秘密をあちこち嗅ぎ回っていたんです。それを邪魔に思った村長が、『山の裏側に古いほこらがある。ずいぶん昔からある物でなんの神様を祭った物か分からないが、村人の何人かは今でもお参りしているようだ。そこで何やら秘密めいた儀式をやっているという噂を聞いた』と教えたんだそうです。安藤さんはその話を確認するためにそこに向かって、帰ってこなかった、というわけです」
と、だいぶ話をはしょって簡単にしてしまった印象を芙蓉は受けた。少なくとも安藤がその話になんの疑いも警戒も抱かずにまんまと危険な穴に入っていったとは考えづらい。無理やり追い立てられ、仕方なく逃げ込んだ、というのが実際のところではないか?と芙蓉は思った。紅倉が訊いた。
「あなたは安藤さんとは?」
「ええ。わたしが村の青年団の団長だと聞いて話を聞きに来ましたよ。一応若い人間の代表として村の暮らしや将来の展望なんかを訊かれました」
「インタビューを受けただけ? 個人的に親しくはしなかった?」
紅倉はペンションの作戦会議で「村の何者かが安藤さんの葉書と荷物で自分たちをここに呼び寄せた」という疑惑を披露したが、その「何者か」を木場田だと推理しているようだ。確かに青年団長なら村の内外を行き来しても怪しまれず、荷物の発送を引き受ける立場にもあるのではないだろうか? 紅倉の問いに木場田は
「ええ…、まあ……。有り体に言えばわたしが村の案内をしながら、実は監視して村長に報告していたわけでして……。確かに、村で一番多く話したのはわたしです」
口調に迷うところはあるが、自分だとはっきり言いきった。
紅倉先生を招いたのはこの木場田であろうと芙蓉はほぼ断定した。
だとするなら、問題はその動機だ。
木場田は骨格的に明らかにこの村の人間だ。しかし表情に他の村人にはないあか抜けた明るさ=社交性がある。
村長に安藤の行動を報告しながら、広岡氏の説明によれば青年団長=昔で言う百姓代は一般の村人の代表として行政の長である村長、助役の行いを監視する役目でもあるという。村の将来を背負う者として今の村のあり方になんらかの不満を持っていないのだろうか?
木場田自身は安藤をどうしたのだろうか?
村長の不穏な動きに対して、村から逃がしてやろうとはしなかったのだろうか?
今向かっている「穴」はケイも恐れて近づこうとしない場所だ。村長は村人の中にお参りしている者がいると言っていたそうだが、それは明らかに嘘だろう。中に入ったらまともではいられないというのだから。
しかし逆に、もし、村人が凶器を手に直接安藤を襲ってきたようなら、村人たちが決して追ってこない逃げ場でもある。
更にうがった見方をするなら、木場田がそう安藤をそそのかして穴にとどめ置き、紅倉を呼ぶ餌に利用している、とも考えられる。
話して歩きながら2つ、3つ、4つと鳥居をくぐった。
次々現れる鳥居は、最初20メートル間隔くらいに思ったが、徐々にその距離を縮めていき、10メートル、7メートルと、くぐる前から向こうに次が現れた。
漆を塗ったように真っ赤だった鳥居が、段々黒ずんでいき、それは年月を経て使い込んだ堆朱の色の変化のようだが、その黒はべたべたと手垢にまみれたように汚く感じられた。中から汁がにじみ出して粘つくように見え、間違っても触れたくない。周りの木々の幹がいくつもうろを開けてぼこぼこ病気のようにこぶを作り、黒く湿ってねじ曲がっていた。
「すみません、わたしは、これ以上は……」
木場田はそれ以上足が進まないように立ち止まり、青黒く、生唾を飲み込んで必死に吐くのを堪えているような顔を見せた。
「いいですよ」
と紅倉は無理をいたわるように言い、どうぞと後ろを指した。
「すみません」
木場田が逃げるように後ずさると紅倉が吹き付ける邪気からかばうように前に立った。木場田は少し持ち直した顔で。
「この先にしめ縄の張った洞窟がありますから、そこが目的地です。安藤さんはその中にいるはずです」
「そう」
先ほどの木場田の説明は怪しいが、紅倉は追求せずうなずいた。その代わりに。
「安藤さんの質問に、あなたはどう答えたんです?」
「安藤さんの質問?」
「あなたはこの村をどう思っています?」
安藤は具合悪そうに体をそわそわさせながら、眉間にしわを寄せて質問を反芻するようにうんうんとうなずきながら、
「村は好きです。生まれ育ったところですからね。大切に思っています」
と答えた。
「こんな窮屈な村を、出たいとは思いませんか?」
「わたしたちはここで生きて行くしかないですよ」
「なんで?」
「わたしたちは運命共同体ですから」
「村の外で活動されている人もいますよね?」
「彼らだって、心はこの村にあります」
「郷土愛、っていう意味?」
「意味は………、いろいろです」
木場田は思わせぶりに笑おうとして、体の不調に思い切り気持ち悪い顔になった。紅倉はまっすぐ木場田の心を見つめるようにして訊いた。
「わたしが村をぶっつぶす存在なら、あなたはどうします?」
木場田は限界が近いように表情をうつろに、体をふらふらさせながら言った。
「その裁きは……、中の門番に任せますよ」
「ありがとう。どうぞ、お帰りになってけっこうです。ああ、もう一つだけ」
紅倉は人差し指を立てて質問した。
「あなた、ご結婚は?」
「いえ。まだです」
こんなひなびた田舎では嫁の来手がなくて、とかなんとか冗談の一つも言いたくなる話題だろうが、もう木場田は余計なことは一切思考が回らないようだ。
「ありがとう。もういいですよ」
芙蓉が懐中電灯を奪うように受け取ると、木場田はぼうっと夢遊病者みたいな様子でよろめきながら去っていった。後ろ姿を目で追って、前方に向き直った芙蓉もいささか血色の悪い肌をしている。
「美貴ちゃんも帰っていいわよ? とりあえず美貴ちゃんのお世話になるような危険はないと思うから」
「いえ。どんなところなのか見てみないと安心できません」
と、芙蓉が先に立って歩き出した。紅倉が追い越し。
「背中に隠れて付いてきて」
「すみません……」
芙蓉は素直に従った。これまでも危険な心霊スポットにはいくつか行っているが、先生に守られてさえ、これほど気分が悪く、心が押しつぶされそうに弱くなったのは初めてだ。
鳥居をくぐる。
心臓から送り出されたばかりの血のように真っ赤だった鳥居が、今はめっきりべたべたした黒が支配的で、周りの木々のねじれ具合は段々に凄まじく、放射能に犯されたようにおどろに形を崩している。
向こうに4つ、連続して鳥居が立ち、それはもう真っ黒で、タールのように溶け落ちそうで、そして、岩の壁にしめ縄を張った洞窟の入り口があった。
それを見た瞬間に芙蓉はゾッと心臓に細かな裂け目が走ったようなショックを受けた。
近づきたくない!、と正直に思った。
洞窟は人の手が入っていて、縦2メートル、横1・5メートルくらい、炭坑のように木の枠で支えられ、床板もあり、それは奥へそのまま続いているようだ。
上辺から少しはみ出してしめ縄がぶら下がっていたが、真っ白に色の抜けたわらが中から弾けたようにばらばらにささくれ立ち、縛りが弱まっていた。
岩肌を木の根が割って飛び出していたが、樹皮がずり剥けたように割れ、白い中身を見せ、土の関係なのだろうが生傷のように赤い筋を走らせ色を滲ませていた。
鳥居を二つ残して、芙蓉はとうとう足が動かなくなってしまった。
「いいわよ。美貴ちゃんもここから離れて、わたしの帰ってくるのを待っていて」
紅倉が引き返してきて芙蓉の手から懐中電灯を受け取ろうとした。芙蓉は意地になって放そうとしなかった。そのくせ心がフリーズドライのようにがさがさに縮み上がって声を発することもできない。固まってしまった芙蓉に紅倉も困ってしまった。
「美貴ちゃん。わたしは大丈夫だから。ね?」
懐中電灯を握りしめた手を両手で包んで、固まった指を揉みほぐそうとする。恐怖の表情を張り付かせて呼吸をする黒い穴に魅入られたように目を見開き、芙蓉は一生懸命指をほどこうとする紅倉の指に甘え自分の使命を放棄しそうになった。
先生、ごめんなさいっ!………………………
ひどく後悔するのが分かっているのに、得体の知れない恐怖に心が負けそうになった。
指が外れ掛けたとき、
芙蓉の目は信じられない物を見て、驚きの色を差した。
誰も入れないはずの呪われた洞窟から、
白い少女が出てきたのだ。