39,駆け引き
「ふにゃ〜、ふにゃ〜」「ふにゃ〜、ふにゃ〜」
廊下を巡って赤ん坊の泣く声がした。二重唱だ。
「あら、赤ちゃんがいらっしゃるんですね? お孫さん……じゃなく曾孫さんかしら?」
「ああ、あれは離れを貸しておるんだわ。夜泣きがひどうて旦那がまいっておっての。ここは何でも屋じゃからのう」
「千枝子さんというのは?」
「孫の嫁じゃ。赤ん坊の母親の世話を頼んどる」
「赤ちゃんは双子ちゃん? たいへんですねえ?」
「そうじゃろなあ」
「まだ生まれたばかりのようですが、安藤さんがこちらにお泊まりになったときはもう?」
微笑ましい赤ちゃんの話から触れられたくない話題に引き戻されて
「安藤さんかね……」
村長は頭が痛そうに眉間に深いしわを寄せ、指で揉みほぐすようにし、弱り切ったように紅倉を見た。
「出ていった………と言っても納得はせんじゃろうな」
「当然」
紅倉は逃さないようにまっすぐ村長を見つめ、村長も仏頂面でにらみ返したが、怖い顔の割りに心が優しいような村長はいたたまれないように視線を逸らした。「はあーー……」と重いため息をつき。
「安藤さんが見つからない限りこの村を出ていってはくれんかね?」
「はい」
「うん………。困ったのお…」
村長は斜め下から恨めしく睨むようにして。
「では、あんたらも生かして村から出すわけにはいかん」
じいっと睨む村長を紅倉はまっすぐ見下ろし、うっすら微笑した。
「やる覚悟があるなら、受けて立ちますよ?」
村長は助役にやったようにイヤイヤと手を振った。
「はあーーー、まったく………。とんだ災難じゃ。
訊くがな、あんたこそ我々とやり合う覚悟があるのかの? ペンションにもう一人、素人の女がおるんじゃろう? あれを巻き込んでいいんかい?」
紅倉は目を閉じて肩をすくめた。
「彼女がわたしたちを巻き込んだんです。恋人と同じ地で恋人と同じ目に合うのなら本望でしょう」
「きっつい女子じゃなあ」
村長は呆れて紅倉を眺め、しばし考え、
「恋人と同じ目に合うなら本望、か。本当にそう思えるじゃろうかのお……」
と、仁徳者とは別の、暗い、嫌な笑いを浮かべた。
「のう、紅倉さんや」
芙蓉も紅倉もまだ名乗っていないが、今更、と両者とも思っている。
「あんた下の天神様に面白い願掛けをしてきたそうじゃな?」
「はい。神様の面前で公言してきましたよ?」
「公安に殺されたら、日本に祟る祟り神になるそうじゃな?」
「はい」
「あんたが自分の命を守るためになんの罪もない一般人に不幸をまき散らすようなことをするとは思えんがのう?」
「買いかぶりです。わたしは誰より自分の命を惜しいと思ってますよ?」
「わしらに調べさせてもかまわんと言ったそうじゃの?」
「どうぞ。そちらのプロフェッショナルに調べさせてください?」
紅倉はウェルカムと両腕を開いた。村長は胡散臭そうに眺めながら、
「鬼バア。どうじゃ?」
と顔を横に向けて言った。
芙蓉は村長の顔を見ながら、はっと、後ろの、上を見上げた。
吹き抜けの2階の壁の障子を開けて灰色の髪のしわだらけの老婆の顔がこちらを見下ろしていた。
芙蓉はゾッとして、直感的に平中と喫茶店で話していたときの、先生の紅茶に映り込んでいたギョロッとした目玉を思い出した。あの目の主だと、くわっと開いた両目を見て確信した。
大きく開いたガラス玉のような目玉で見下ろしていた老婆は、
「婆さん、あんまり覗き込んで落ちるなよ?」
と村長に注意されて、ニッと、歯の欠けたピンク色の歯茎を見せて笑った。ガラスの目玉に普通の光が戻った。紅倉も体をひねって見上げ、
「こんにちは」
と挨拶した。
「はいよ。こんにちは」
老婆はしわだらけの顔で能面の翁のように口の端を吊り上げた。
「それで? わたしの診断はどうです?」
「ああ、ほんに怖い女子だのう」
老婆は村長と同じように言ってケケケと笑った。
「確かに、天神様と契約を結んでおるわ。こりゃあえらいことじゃ。この女を殺したらこの日本は大混乱に陥るじゃろうて。ケケケケケケケ」
芙蓉は老婆を干からびた蝦蟇ガエルのように気色悪く思った。
「ほらね?」
と紅倉は指を立てて嬉しそうに村長に言った。村長は羽織の袖の中で腕を組んで面白くなさそうに
「今更道真公が日本を祟るようなことに手を貸すとは思えんがのう…。ま、ええわい」
言い、腕を出して泰然と構えると、紅倉と、芙蓉に、言った。
「じゃあ、神さんの助力を得ているおまえさんらに相談じゃ。おまえさんら、
村に入っとる公安どもを始末してはくれんかの?」
「駄目ですよ」
と、紅倉はにべもなく断った。
「わたしは神様とあっちが手を出さないように契約してもらったんですから、手出しの出来ない向こう側をわたしがやっつけるなんて、そりゃあ神様が怒ります。道徳的に、契約違反です」
「困ったのう」
村長は達磨のようにとぼけた顔でうそぶいた。
「ではわしらがあんたらを始末せねばならん。わしらは公安にあんたらを始末するよう命じられているんでな。わしらを守ってくれている奴らへの忠誠の証を見せろと脅されておるんじゃ。残念ながらわしらは痛い弱みを握られておって、奴らの命令に背くことはできんのじゃ。…悪いのう」
村長は眉を険しくし、眼力で射殺すような鋭い目つきになって紅倉を睨んだ。
紅倉の目が真っ赤に光を放った。
ガタガタガタガタと障子が揺れ、火鉢からバチンと炎が爆ぜ、ガタガタガタガタと部屋全体が小刻みに揺れだし、芙蓉は中腰になって落下物の危険から先生を守る体勢を取った。
「なんじゃ地震か? …おまえさんがやっておるのか?…………」
村長は怖い目を上に向けた。翁の婆さんは窓の縁に捕まって泡を食っていた。
「婆さん?」
部屋のガタガタ言う震えはどんどん大きくなっていき、ミシッと年季の入った太い梁から大きな音がした。
「ええい、やめえ! 村長、その女にこれをやめさせえっ!!」
婆さんは大口開けてわめき、村長は、
「紅倉殿。やめてくだされ」
と強張った顔で頼んだ。紅倉はパチパチ瞬きし、ミシッと音を立てさせて、スッと揺れは止まった。「おぎゃーー、おぎゃーー」と赤ん坊の怯えた泣き声がして、「あらしまった」と紅倉は肩をすくめた。村長は、
「恐ろしい人じゃ。こないな力まで持っておったかいな」
と脂汗を浮かべてなじるように紅倉を見た。紅倉はすました顔で。
「どうってことありません。わたしを殺したらもっとひどいことをこの村にしてやるぞ!、と、パフォーマンスしただけです」
「なんじゃい、わしらまで祟るのか?」
「はい。わたし、命が惜しいですから」
「勝手な女子じゃなあ」
村長は呆れてうんざりした顔になった。
「じゃあ、なんじゃ? おまえさん、わしらにどうせえと言うんじゃ?」
「ですから、わたしは安藤さんさえ返してもらえれば、この村には恨みも何もないんです。こんな物騒なところ、さっさと逃げ出します」
いかが?と紅倉は首をかしげた。村長は握った両手をあぐらをかいた腿に当て、ぐうとうなって紅倉を睨み、言った。
「どうなっておっても……、恨まんか?」
紅倉はうなずいた。
「この際です、致し方ないでしょう。平中さんへも、まあ、なんとか理解してもらいましょう」
村長は目を閉じてうなずき、開けると、暗い目つきで言った。
「まあ……、もう充分じゃろうな…、生きておるならじゃが………。
相分かりました。
安藤さんをお返しいたしましょう。ただし、
引き取りは、紅倉殿、あなたが行ってくだされ。わしら村の者の中に迎えに行ける者はおりませんのでな」
芙蓉は村長の暗い殺伐とした目つきを見て、とてつもなく嫌な予感がした。