36,村の秘密
「村長が怪しいというのは、どういうことでしょうか?」
広岡氏が聞きとがめるようにいささか眉をひそめて言った。
「その…、安藤さんという人が行方不明になっているのが村長の仕業だと疑っているんですか?」
広岡氏は状況的に安藤なる人物の身内らしい平中に少し遠慮しつつ村長を援護するように訊いた。
紅倉ははて?と首をかしげて広岡氏に訊いた。
「あなたは、村長さんとお知り合いなの?」
そうなの?と紅倉のシンパの奥さんも旦那の横顔を見て、広岡氏は
「ええ」
とうなずいた。ペンションオーナー海老原氏を見て。
「わたしは前から何度もこの村には来ていますから、その度に村長さんにはお世話になっています。今さっきも妻と一緒に挨拶に伺おうかと思ったんですが、どうやら来客中だったらしく止してきたんです。ご主人、こちらを始めたのはまだ昨年のことでしょう?」
海老原氏はうなずいて答えた。
「はい。去年の秋から始めましたんで、ようやく1年経ったところです」
海老原氏は思い出して上での芙蓉の質問に答えた。
「この土地は村有地を格安で売ってもらったんですよ。建物を建てるのも地元の方にずいぶん手伝ってもらいましてね。わたしたち親子も2ヶ月ほど村長さんのお宅に居候させてもらいまして、村長さんにはずいぶんお世話になりました。お孫さんの百子ちゃんにも愛美のお姉ちゃんみたいに仲良くしていただいてます」
なあ?と訊かれて奥さんもうなずいた。広岡氏は笑顔で確認して、紅倉と芙蓉、平中に言った。
「人格者ですよ。確かに外の人間に対して警戒心が強いですが、一度認めてもらえればうち解けてあれこれ世話してくれます。わたしがこのペンションを予約したのも村長さんから紹介の葉書をもらいましてね」
「あ、そうだったんですか?」
と海老原氏は顔をほころばせた。
「ええ。………そうですねえ……………。
この村のことをお話ししましょうか。
この村が平家の落ち人の隠里だという噂があるみたいですが……」
広岡氏は海老原氏を見て苦笑した。きっと到着した広岡氏を自分よりずっと村のことに詳しいお馴染みさんとは知らずに落ち人伝説を得意になって吹聴したのだろう。
「確かに平家派の人間たちが先祖のようです。ただ、落ち人というのは当たらない、源平合戦よりずっと古くからあった秘密の集落であったようです。これは村長も誰も真実を知らない、決して形……つまり文字などの記録に残してはならないときつく戒められた上での口語りの伝承だそうですが、天皇の隠し子を当時の血で血を洗う権力闘争から守って隠し育てるために開かれた村だそうです。本当のところは、ですから、知りようもないんですが、設立当時には重要な意味のあった村だったのでしょう。しかし時…時勢の移ろいによってその意味はもう失われ、それでもおそらく村の人間は実直に村の在る意味、自分たちの生きる意味を守っていたのでしょうね。それすら、はるか1000年以上前の話です。今も村人の中に天皇の血を有する者がいるのかどうか、記録も何もないわけですから、まったく分からないんですが、先祖のイデオロギーというものが今も確かに村の人たちの中に流れているんでしょうなあ」
「こりゃあ驚きましたねえー」
海老原氏が感心してのけぞるようにして言った。
「おそれ多くも天皇様のご子孫様であらせられましたかあ! ううーむ、なるほど、そりゃあ外の人間に対して警戒するのも当然でしょうねえ〜〜」
うんうん!と、海老原氏はすっかり納得して感じ入ってしまった。単純な海老原氏に温かい微笑を向けて、広岡氏は芙蓉たちを説得するように言った。
「それが事実であったとしても、まさか、それこそおそれ多くも天皇陛下の遺伝子を調べて子孫を特定するなんて不遜なことをするわけにもいきませんし、もう何十代と代を重ねているわけですから、今更天皇の血がどうのと、意味もないでしょう。…おっと、これも不遜な発言でしたな。聞かなかったことにしてください」
苦笑いする知的な広岡氏に、紅倉はニヤッと得意の意地悪な笑いを浮かべて言った。
「源平以前に分離した天皇の血筋なら、確かに、意味ないでしょうねえ。南北時代を挟んでますからねえ」
広岡氏は一瞬ひやっとした顔をして、紅倉を油断ならない相手と見つめて言った。
「あなたそれは、見方の問題で、血筋の問題とは別ですよ」
なんです?と分からない顔をする芙蓉に、広岡氏は紅倉の「間違い」を指摘する意味でも説明した。
「紅倉さんの言っているのは南北朝時代の後醍醐天皇と足利尊氏の争いのことでしょう? 中学校の日本史の授業で習ったんじゃないですか?」
芙蓉は思い出そうとして苦い思いをした。
「実は日本史は割と最近勉強し直したんですが……、その時代の政権はなんだかごちゃごちゃしていて誰が誰やらさっぱり分からなかったような気がします」
広岡氏は
「そうですね」
と笑い。
「正当の天皇である後醍醐天皇に対し、武士団の頭領であった足利尊氏が反乱を起こし、後醍醐天皇を京都から追い出し、傀儡の天皇を擁して新朝廷を興した、と、まあ大まかに言えばそういうことで、結果的に足利将軍の室町幕府が興って足利尊氏の北朝が勝利したと見ていいと思いますが、誰が誰やら分からないとおっしゃられたように南北朝の勢力争いで内情入り乱れて、まさに誰が誰か分からない状態が続き、実際のところ誰が勝利者なのか難しいところです。明治期の歴史研究では天皇に弓を引くとはけしからんと南朝こそが正当であるとし、南北朝時代という名称に関しても正当南朝の置かれた吉野の地を取って吉野朝時代とすべしとのお達しが下されましたが、まあ、戦後は南北朝時代で通ってますね?
それで先ほどの不遜な発言ですが。
足利尊氏が擁した光明天皇ですが、何もどこの誰とも知れない人物を持ってきたわけではなく、そもそも大覚寺統と持明院統に皇室が分裂した権力争いが背景にあったわけで、相手方が認めないだけでどちらも血筋の上ではまぎれもない天皇の血筋にあるわけです。要するにずいぶんと大げさな兄弟喧嘩ですな」
お分かりかな?と若い紅倉をたしなめるように柔らかな微笑を向ける広岡氏に紅倉は肩をすくめて舌を出した。
「あらま。浅はかな素人の知ったかぶりがとんだ大恥でした」
分かればけっこうと広岡氏は大人の態度でコーヒーを口にしたが、紅倉は
「じゃあ……、なんで今の皇室は『直系の』血筋にこだわっているんでしょうねえー?」
と言って、広岡氏は危うくコーヒーを吹き出しそうになった。
「いや、あなた、それは……」
広岡氏はハンカチで口元を押さえてとがめるような目で紅倉を見やり、紅倉はニヤニヤ笑いながら手を上げ、
「はい。危ない話題はよしましょうね。特に女は」
と、すまして緑茶をすすった。芙蓉は、広岡氏はきっと先生を食えない女だと苦々しく思っていることだろうと思いつつ、こちらもすまして緑茶をすすった。
要するに紅倉ははるか彼方の血筋云々を未だに引きずっている(本当のところは分からないが)村のアイデンティティーを揶揄したかったのだろう。
芙蓉にはこの逸話が現在の村のあり方にどう関わっているのか分からなかったが。