35,村のよそ者たち
「ほう、我々夫婦の他にもお客さんがありましたか? しかも若いお嬢さん方とは嬉しいですなあ」
灰色のハットを脱いでニコニコ挨拶する広岡氏はチャーミングに笑いながら怒ったふりをする奥さんに後ろからつつかれて大げさに肩をすくめて笑った。白と灰色の頭髪はふさふさして、しわの深い細面をしているが肌の血色は良く、実年齢より若く見えるのではないかと思われる。
「まったくいい年して、男って言うのは死ぬまで浮気性が失せないものなのね」
ジロッと睨む奥さんに広岡氏はおいおいと慌てた。
「よしとくれよ、俺がまるで本当に浮気性の女たらしに思われてしまうじゃないか?」
「あら違うんですか?」
奥さんは平然と言ってつんとすました顔をしている。と、困った顔の旦那にぷっと吹きだして笑った。
「はいはい、そうです、あなたは若い頃から女の尻を追いかけるより山歩きと写真が好きな枯れた朴念仁でした。年を取って少しは色呆けしてきましたか?」
「まったく、これですよ」
広岡氏は処置なしと言った風に両手を開いて見せたが、そうした外国の映画スターのような仕草が似合うなかなかの渋い二枚目だった。若い頃にはそれこそアランドロンのようなイケメンだったかもしれない。
奥さんの方も旦那より十くらい若そうな、スポーティーなキャップからパーマのかかった髪を広げ、丸顔にまつげの長い大きな目をした、ミュージカルスターのように派手な明るい感じの人だった。
「まあまあ挨拶はそれくらいで。立ち話もなんですから、どうぞ中へ」
とオーナー海老原氏が声を掛けたのは、広岡夫妻は坂を上がってきた道に立ち止まり、そのまま窓を見上げて話し込んでしまっているのだった。
室内を振り返ったオーナーは芙蓉たちにも、
「皆さんも下に下りてきませんか? ダイニングでお茶をお出ししますよ」
と言うので芙蓉は平中と顔を見合わせてうなずいた。
「先生、下に行きますよ」
子どもみたいにお尻でベッドでぽんぽん跳ねていた紅倉は芙蓉に声を掛けられてボヨンと前に跳ね上がって「うわあ」と危うくつんのめってすっ転びそうになった。
「何遊んでるんですか。いらっしゃい」
と、芙蓉に手を取られて下へ連行された。
ダイニングで改めて夫妻と挨拶を交わした。
「広岡と申します。こちら妻の奈央です」
「こんにちは。芙蓉です。こちら紅倉……さんと、平中さんです」
紅倉はちょこんと頭を下げ、平中は「こんにちは」と如才なく笑顔で挨拶した。
奥さんはマスカラが濃いめの大きな目を丸くして、どうやら紅倉先生と芙蓉を知っているようだ。デスク型のテーブルに向かって椅子に座ると、さっそく好奇心に輝く顔で訊いてきた。
「あら、紅倉美姫さんと芙蓉美貴さんですよねえ? あらまあ!感激! あの、握手していただいてよろしい?」
断るわけにもいかないので芙蓉は手を出し、夫人は立ち上がって身を乗り出し両手でしっかり芙蓉の手を握り、
「まあ紅倉先生!」
と感激した面もちでしっかり紅倉の手を包み込んで振った。
「あらあらまあまあどうしましょう!」
と嬉しそうな妻を見て旦那の広岡氏は申し訳ないような愛想笑いで芙蓉に訊いた。
「あの済みませんが、テレビの女優さんでしたかねえ? わたしあんまり若い人の見るような番組には不案内で」
「あなた、違うわよお」
と奥さんは旦那を肘でつついて紅倉に大きな愛想笑いを向けた。
「こちら有名な霊能力者の紅倉美姫先生とお弟子さんの芙蓉美貴さんよお。ほらあ、以前よくテレビで霊視をして行方不明者を見つけたり、殺人犯を逮捕させたりしていたじゃない?」
「あっ、ああああ、そうでした。そうですか、あの紅倉美姫先生と芙蓉美貴さんでしたか。いやこれはお見それしました。これはこれは光栄です」
妻のおつき合いでいっしょに番組を見ていたであろう広岡氏も思い出してニコニコして、敬意を表して今一度深々お辞儀した。奥さんが前のめりに二人に訊いた。
「先生、こちらにはどうして? また何か事件の調査ですか? 紅倉美姫現れるところに事件あり! ねっ?どうなんです?」
「いえいえ」
紅倉はすまして答えた。
「わたしはもう引退して、今は地方でひっそりまっとうな小市民の生活をしています」
「芙蓉さんもご一緒に?」
「はい。わたしは生涯先生のパートナーですから」
「そうですの。そういえば最近すっかりテレビでお見かけしないと思ったら、あら残念ねえ、そうですの…。いえね、世の中へんてこな嫌な事件が多いでしょう? 先生みたいな方にはまだまだ大いに活躍していただきたいところですのにねえー……」
「わたしなんかいてもいなくても、結果は同じですから」
すっかり悟りきったように言う紅倉に奥さんは残念そうな顔をしたが、芙蓉の見るところ奥さんに何かしら深刻な思いがあるわけではなく、ワイドショーのネタが一つ減ってしまった程度の野次馬的興味だろう。
オーナーと奥さんがコーヒー、紅茶、緑茶を運んできた。
「広岡さんのご主人と平中さんがコーヒー、奥さんが紅茶、紅倉さんと芙蓉さんが緑茶でよろしかったですか?」
オーナーと奥さんはそれぞれに配り終えるとお盆を手に抱え、話の仲間に入りたいような素振りを見せた。
紅倉がおもむろに言った。
「実は、事件かどうか分からないんですけれど、わたしたち人を捜してここ大字村に来たんです。
こちらに安藤さんという男性が泊まりませんでした?」
紅倉に見上げられてオーナーは、
「安藤さん。はい。泊まっていかれましたよ」
と答えた。芙蓉平中も是非聞きたいという顔を向けたのでオーナーは予備の椅子を引っ張ってきて奥さんと並んで座り、話した。
「安藤、哲郎さん、でしょうか?」
「そうです」
「よく覚えていますよ……と申しますか広岡さんにご予約いただくまで最後のお客さんでしたから……」
オーナーは情けなく笑い、続けた。
「2週間前ですね。2日間お泊まりになりました」
平中が訊いた。
「2日間、安藤は何をしていました?」
「何と言って……、休暇ということで村をのんびり散策されていたようですよ? 紅葉の最後の見頃の頃でしたから……、カメラを持ってましたから写真を撮っていたんでしょう。旅行雑誌の記者さんなんでしょう?」
「ええ、そうです」
と紅倉が受け取って、訊いた。
「具体的に村のどこへ行っていたか分かりますか?」
「いやあー……」
オーナーは分からないように首をひねり、代わりに奥さんが
「村長さんに訊けば分かるでしょう?」
と言い、オーナーは、ああそうか、とうなずいた。
「そうです、村長さんの所です。実はですね、安藤さんには3日間滞在の予定で、宿泊費前払いでいただいていたんですよ。でも3日目は村長さんの所にご厄介になると言うんで村の若い人が荷物を受け取りに来たんですよ。それで1日分の宿泊費、キャンセル料をいただいて残りをお返ししなくちゃと思ったんですが、それは申し訳ないからいいということで、そのままいただいちゃったんですよ」
平中はハッとして、暗い疑惑に惑う顔を芙蓉にうなずかれて小さくしっかりうなずき返した。紅倉が訊く。
「安藤さんとはその後お会いしました?」
「ええ。夕方、デザートにマロンパイを焼いたんで、せめて余分な宿泊費のお返しに届けに」
「安藤さんに直接会いました?」
「ええ。突然悪いねえと謝られましたが、こっちはお金をいただいちゃっているんで」
「何か他に話しました?」
「村長さんにこの村の歴史を聞くんだと言ってました。明日帰る予定だけれど、その前に顔を出すよと言ってらしたんですけどねえ……」
「翌日は来なかった?」
「いや、ちょうどタイミングが悪かったみたいで。わたしは町に買い出しに出かけて、妻がいたんですが、愛美が具合が悪くなったと学校から連絡があって迎えに行っている間に来たらしくて、帰ってきたら駐車場の安藤さんの車がなくなっていて。後で村長さんに訊いたらやっぱり昼前に帰ったそうですから、タイミングが悪かったですねえ」
「愛美ちゃんは今どちら?」
「下で大人しく宿題をやってますよ」
「ふん…。愛美ちゃんの具合はどうだったんです?」
「幸い軽い貧血で、どうと言うことはなかったですけれど、一応連れ帰ってきました。たまにあるんですよ。成長と共に徐々に治っていくと思うんですが」
「ふん…。村にお医者さんは?」
「一軒、直木医院っていう小さな診療所があります。大した設備じゃないですから大きな病気や怪我をしたら町まで出なくちゃならないですけれどねえ」
「ふん……、そうですか……。じゃあやっぱり怪しいのは村長さんのようね」