02,プロローグ〜13回目に死んだ男
梅雨の明けたさわやかな青空の下、看護士鈴原聡子はせっかくだから散歩の足を少し遠くまで伸ばしてみようと思った。
「佐藤さん、海を見に行ってみましょうか?」
鈴原看護士は押す車椅子の男性に話しかけ、一応返事を聞く間を空け、道路の先へと進んだ。鈴原看護士の勤め、車椅子の佐藤氏が入院する県立病院は海岸から200メートルほどの高台にあり、丘の上の住宅街を行くと、まっすぐ海まで見通せる十字路に行き着くことができる。少し遠いので普段の散歩でそこまで行くことはしないのだが、この日は素晴らしい天気で、梅雨のじめじめもからっと蒸発して、ポカポカ暖かくとても気持ちが良く、この哀れな患者にサービスしてあげようと思ったのだ。
車椅子に乗せさえすれば佐藤氏はとても軽く、車輪は滑らかに回転し、快適な散歩だった。
「さあ着きましたよ」
十字路を左折し、海の方を向けて車椅子のブレーキペダルを下ろした。
2軒住宅の並ぶ向こうに松林が広がり、その間を道が通っていき、青い水平線が覗いている。
「とっても気持ちよさそうだけど、潮風は体にさわるといけないからここから眺めていましょうね?」
サーー……、サーー……、と、彼方から穏やかな波の音が聞こえてくる。もうじきにここも海水浴のマイカーが押し寄せるようになるだろう。
海と反対側は長い長い坂道になっている。そちらは民家の屋根が段々と下がっていき、お寺の墓所と大きな山屋根があり、ずっと先の大通りに面してビルが並び、高層マンションとハイタワービルがにょきにょき生え、昔ながらの下町と開発された中心街が一望に見渡せる。
超高層ビルの窓ガラスがキラキラ光っているのをなんとなく眺めていると、坂道に面した家の塀からおばあさんが出てきた。二人は顔を見合わせるとあらと驚いた嬉しい笑いを浮かべた。お互い散歩をしている時によく出会う顔見知りだ。
「こんにちは。こちらがお宅でしたか?」
「ああ、こんにちは。お世話になっております。ええ、ここに住んでおります」
鈴原看護士は特にお世話をした覚えはないが、看護士の制服を着ているからおばあさんはもしかしたら病院の方に通っているのかもしれない。
「これからお散歩ですか?」
「ええ、さいです」
おばあさんはこちらへ坂道を上がってきて、鈴原看護士は
「お気をつけて」
と声をかけたが、思いがけず顔見知りに出会ったおばあさんはニコニコして、あっとつまずくと前に手をついて、坂道をごろんと後ろにひっくり返り、歩道の手すりにどんと背中を打って痛そうに顔をしかめた。
「あらおばあちゃん! だいじょうぶ!?」
鈴原看護士はびっくりして坂道を駆け下り、おばあさんに駆け寄った。
「いたたたたたた……」
おばあさんは起き上がろうと体をひねるが痛そうに顔をしかめて動けず、
「ああ、無理しないで。そっとね」
鈴原看護士が背中に手をそえて起こしてやった。
「だいじょうぶ? ひどく痛む?」
「え…、ええ、ちょっと……」
「痛いの背中だけ? 他に痛いところない?」
「え…、ええ……」
鈴原看護士はおばあさんの背中を抱きながら、この坂道はお年寄りには危険だわと思った。
「おうちに誰かいらっしゃいます?」
「娘が」
鈴原看護士は表札を見上げ、
「笹井さんね。笹井さあーーん! 笹井さあーーん! 手を貸してくださーーい! 笹井さあーーん!」
と呼んだ。大声で名前を呼ばれて玄関から何ごとかと中年の婦人が顔を出した。
「笹井さん。おばあちゃんが」
「あらまあっ! お母さん、どうしたの? だいじょうぶ!?」
鈴原看護士がそうっとそうっとと注意して、二人で支えておばあさんを玄関へ運んだ。
車椅子の佐藤氏はじっと海の方を向いてたたずんでいた。
彼は頭に柔らかな布の帽子をかぶり、その下には頭を覆う包帯代わりのネットが少しはみ出している。水色の病院着を着て、首に軽くタオルを巻いている。一見したところ体の方に怪我はないようだ。佐藤氏は周囲の黒ずんだうつろな目でぼんやり前を見て、力のない唇から涎をこぼしていた。看護士にすっかり忘れ去られてひとり道ばたに置き去りにされて、サーー……、サーー……、と静かな波の音を聞きながら、その表情は今の状況を分かっているのかどうか不明だった。
松林の中に大きな護国神社があり、そこを住処にしている者かどうか分からないが数羽の鳩たちがグックーとひょうきんな鳴き声を上げながら道ばたを歩き、餌を探して地面をついばんでいた。
その内の一羽が佐藤氏を見上げ、何を思ったか羽をばたつかせて膝の上に飛び乗り、グックーと鳴き声を上げた。佐藤氏の目玉が動いて、ひくりひくりと薄いまぶたをうごめかせた。鳩は鳴きながら、佐藤氏のパジャマをついばんだ。くちばしにつまんで引っ張り、おいしくないと見ると、自分の乗っている太ももを突っついた。ブツブツとついばんで、布に穴を開けると、中へくちばしを突っ込んで、ブツブツとついばんだ。佐藤氏は目を剥き、まぶたを痙攣させ、体を揺らした。しかし手すりに置いた手は動かず、膝もお行儀よく揃えたままだった。ブツブツ佐藤氏の太ももをついばんでいた鳩は顔を上げ、横へ向きを変えると、手すりをつかむ手首をついばみ始めた。佐藤氏のまぶたの痙攣が大きくなり、白い血の気のない顔にぬめった汗を浮かべた。鳩は手首の皮膚をついばみ、佐藤氏は一生懸命不自由な体を揺すった。懸命に揺すっていると鳩はようやくばさばさ羽を羽ばたかせて飛び上がり、佐藤氏の頭上を越えていった。
佐藤氏はべっとり脂汗を浮かべた顔で、ひどく疲れたようにまぶたを閉じかけたが、足元でガチッと振動があって、まぶたを驚かせた。ばさばさと、再び鳩が佐藤氏の膝に舞い降りた。佐藤氏は目を剥きだして必死にブルブル震え、鳩はひょうきんにくるっくるっと首を回し、ばさばさ飛び上がると、佐藤氏の顔にくちばしを伸ばした。佐藤氏はブルブル震えて必死に顔をそらそうとし、鳩のくちばしが危うく目の下をつつくと、弾かれたように首を後ろに引いた。
車椅子がゆっくり後ろに動き出した。
佐藤氏の目が驚愕した。
飛び上がった鳩はばさばさ羽ばたき、車椅子はゆっくり道路を横断していき、佐藤氏は恐怖でブルブル震え、車椅子はゆっくり、後ろの坂道へ向かっていった。
「それじゃあおばあちゃん、お気をつけて。坂道と車には十分気を付けてくださいね」
鈴原看護士はおばあちゃんと娘さんの感謝の言葉を受けて笑顔であいさつして玄関を出てきた。おばあさんは幸い特に怪我もしていないようで、安心してよいようだ。あらたいへん佐藤さんが起きっぱなしだったわと思ったが、安全なところにしっかりブレーキをかけて止めてあるから大丈夫でしょう、でも看護士長に知れたら大目玉だわねと思って坂道を見上げると、後ろ向きの車椅子が前を通り過ぎていった。
びくっとしながら見送った鈴原看護士は、そのまま坂道を後ろ向きで駆け下りていく車椅子を見送った。車椅子にしっかり座った佐藤氏の恐怖の視線がこちらを見ていた。
車椅子が駆け抜け、危うく横道を走ってきた自動車が激しくクラクションを鳴らしていった。
4ブロックも坂道を駆け下り、お寺の前の大きめの通りに飛び出したところで車椅子は走ってきた自家用車に撥ねられ、ガッシャーンと音をさせて佐藤氏は放り出され、反対車線を走ってきたトラックのフロントに激突された。トラックはひどい音でブレーキをかけて止まったが、佐藤氏は遠く跳ね飛ばされ、アスファルトに激しく転がった。キイッキイッとブレーキ音が響き車が止まっていった。人が集まってきて、撥ねてしまったトラックの運転手も呆然とした顔つきで降りてきた。佐藤氏の手足はあらぬ方へ折れ曲がり、アスファルトの上には頭を中心にどくどくと赤黒い染みが広がっていった。
坂の上から眺めていた鈴原看護士は思わずつぶやいた。
「あらまあ、どうしましょう」
110番通報でパトカーが駆けつけ、救急車が駆けつけたが、その場で被害者の死亡が確認された。坂道を下りていた鈴原看護士はとんでもない事態に気が動転して目を真っ赤に泣きはらしていたが、遺体を救急車で運ぶため急ぎ現場写真を撮っていた交通課の警官は佐藤氏を見て不謹慎に言った。
「あーあ、とうとう死んだか。これが………13回目の事故か?」
と、まるであきれ返ったように言い、不思議そうな顔をする鈴原看護士の視線におっとと肩をすくめ、取り繕ったように合掌した。
「ま、これでこの人もようやく楽になれたでしょうよ」
鈴原看護士は知らなかったが、佐藤氏が交通事故に遭ったのはこの1年半ほどで実に13回目のことだった。そしてようやく不幸な事故遭遇記録にピリオドを打てたわけだが、その顔は、神経が麻痺してろくに動かないはずが、すさまじい恐怖と苦痛でねじ曲がっていた。