14,訪問者
その夜。
紅倉は芙蓉と小さな借家に住んでいるが、もう一人住人がいた。
彼は紅倉のお気に入りの、犬が大の苦手の紅倉のボディガードでもある、全身真っ黒の大きなシベリアンハスキー犬=ロデムである。
犬小屋にうずくまっていたロデムは灰色の瞳を開き、のっそり起き上がると表に出てきた。
街路灯の下にびっくりした顔で中年の婦人が立っていた。婦人は笑顔を作りロデムにあいさつした。
「こんばんは、おっきなワンちゃん」
ロデムは灰色の目でじっと婦人を見つめ、歯をむき出すと、「ウオウンッ」と、路地に大きな声を響かせた。婦人はヒッとすくみ上がり、
「こ、こら、やめて。怖いわ」
と手で一生懸命凶暴な大型犬をなだめようとした。ロデムは歯をむき出してううとうなり、再び
「ウオウンッ」
と吠え空気を震わせた。
「ヒッ」
婦人は額に脂汗を浮かべてひっくり返るように後ずさった。
ガチャリとドアが開いて芙蓉が顔を出した。
「こら、ロデム。どうしたの?」
芙蓉はロデムを叱りつけるような口調ではなく、むしろロデムが吠えている相手に鋭い警戒の視線を送った。ううとうなっているロデムを「しっ」と抑え、尋ねた。
「すみませんでした。失礼ですが、どちらさまでしょう?」
「こ、ここここ、こんにちは…」
婦人は唇を震わせて笑い、大きなカボチャのような帽子を脱いであいさつした。
「こちら紅倉美姫さんのお宅ですわね? 夜分遅く失礼いたします。わたくし、あのー……」
婦人は名刺を取り出しながら、ロデムが怖くて近づけず、芙蓉も意地悪にロデムを下がらせようとはせず、婦人は仕方なくその場で名乗った。
「わたくし、『手のぬくもり会』の易木(やすき)と申します」
芙蓉は風貌から予想していたものの、相手の素早い行動に「まあ」と思わず口を開けた。易木はロデムを怖がって脂汗を流しながら一生懸命作り笑いを浮かべ、
「あのお、紅倉さんにお会いさせていただけませんでしょうか?」
と頼んだ。芙蓉がふうんと考えていると、後ろから声がした。
「いいわよ、美貴ちゃん。寒いでしょう? 入れてあげて」
「ロデム」
芙蓉に命令されてロデムは小屋に戻り、大人しくしゃがんだ。
「どうぞお入りください」
芙蓉に大きくドアを開けてもらい、
「おじゃまいたします」
易木はほっとした顔で玄関に入った。
6畳の居間。現在午後8時。
紅倉はこたつに入り、赤いどてらを着た背中を丸めていた。電気ストーブもついている。紅倉は寒がりで暑がりなのだ。体温調節機能の弱い変温動物である。
「おじゃまいたします。わたくし、こういう者でございます」
易木はスカートをさばいて膝をつき、改めて名刺を紅倉に差し出した。
「これはどうもごていねいに」
紅倉はこたつから手を出して名刺をつかみ、
「どうぞおー、こたつに当たってください」
と自分の向かいを指した。
「それでは失礼しまして」
易木はぽっちゃりした顔に汗を浮かべ、上品な深いえんじ色のコートを脱いで畳み、こたつに足を入れた。冷たい外気が差し込んできて紅倉は
「寒かったでしょう?」
とニコニコしながら訊いたが、
「ええ。すっかり寒くなって」
と言う易木の額からは汗が流れ落ちた。易木の背後にじっと立って見守っていた芙蓉は
「夜ですから生姜湯でも入れましょうか?」
と台所に向かった。
「あ、いえ、どうぞおかまいなく」
と言った易木はとうとう白状した。
「実はその、もっと寒いかと思って3つもカイロを入れてきまして…」
紅倉は意地悪にニコニコ笑って訊いた。
「岐阜は寒いんですってねえ? こちらよりも気温は高いようですけど?」
易木は紅倉の意地悪に苦笑いしながら言った。
「さすがに岐阜からこちらには参ってませんが。はい、寒いですよ。あちらの寒さは底冷えがしますからね。こちらは空気が柔らかくて寒さもじんわり染み込んでくるようですが、あちらのぴりぴり身を切るような寒さに比べると穏やかですねえ」
易木はもうすっかり隠し事もなくなってしまったようにさっぱりした顔になって、穏やかに上品な笑みを浮かべて紅倉を眺めた。紅倉が訊いた。
「あなたの活動の本拠地はやはり東京? まだこちらの事件ではあなたの出番まで至ってないでしょうからねえ」
易木はにこやかにうなずいて答えた。
「ええ。私がお訪ねする必要がなければ一番よろしいんですけれどね。はあー……。どうなりますんでしょうねえ?」
二人は穏やかな微笑みを浮かべて見つめ合い、やがて芙蓉が生姜湯を入れた湯飲みを3つお盆に載せて戻ってきた。
「どうぞ」
と配り、自分もこたつに足を入れた。
「ありがとうございます。ご馳走になります」
易木は手を温めるように厚い陶器を両手で包み、ふーふー、ゆっくり一口飲んだ。
「甘くて美味しいですね」
紅倉も真似して飲もうとして、
「先生はまだ早いです」
と芙蓉に取り上げられた。二人の様子をニコニコ眺めて易木は言った。
「よろしいですわねえ、お二人仲がよろしくて。実はわたくし、個人的に紅倉美姫先生の大ファンなんですよ? お会いできてとても嬉しいんですのよ?」
紅倉は、ふうーん、とニコニコして、
「あんまりいいタイミングの出会いではなかったようですけれどねえ」
と牽制した。易木も残念そうに眉を寄せ、子どもに言い聞かせるようなゆっくりした口調で言った。
「紅倉先生なら、わたくしどもの活動の意義をお分かりくださると思います。犯罪や事故で救済されるべきは被害者であるべきです。その後も延々と被害者が加害者に苦しめられ続けることはあってはなりません」
紅倉も聞き分けよくうなずいた。
「それは同感です」
易木はうなずき、紅倉の理解に力を得て続けた。
「わたくしは直接何人ものそうした理不尽に苦痛を強いられ続けている被害者の方々とお会いしてきました。彼らに社会的な救済の手が差し伸べられることはなく、それどころか、しょうがないだろう、運が悪かったと思ってさっさとあきらめろと、世間から無言の圧力を受け、感情を強く抑圧されます。被害者は正当に裁かれない罪によって、では自分が悪いのか?と追いつめられ、精神的に身動きできなくなり、被害者の遺族は救えなかった被害者にあの時ああしていればと自分を責めることを強いられます。
そうではないのですよ、悪いのは相手方であって、あなたがその責めや不利益を背負ってやる必要はないのですよ?、とわたくしは彼らに話しかけます。もし、加害者側にそうならざるを得ない事情があったにせよ、それを負うべきは加害者を取り巻く環境であり、被害者のあなたが背負わねばならないことではないのですよ?、と説得します。
運がよい場合には加害者側の事情に補償金を支払わせることができ、それはお金の問題ばかりでなく、被害者にとっては悪いのはやはり自分ではなかったと精神的な安らぎを得ることができます」
それは易木や同じ「手のぬくもり会」の男性カウンセラー信木の訪問を受け、心の安らぎを得て、感謝していたという被害者、遺族たちのことを言っているのだろう。
そうして上手く補償金を得た場合、易木や信木、「手のぬくもり会」への謝礼はどうなのだろう?
熱っぽく語っていた易木の穏やかで上品な目が、興奮にギラリと光って、言った。
「わたくしどもはなにも最初から何が何でも実力行使に訴えようというわけではありません。
しかし。
そうでもしなければとうてい救えない場合があるのです。
それも、相当数。
被害者は、救われなければなりません。
それは、紅倉先生、ご理解いただけますわね?」