13,はじまり
紅倉はため息をつくような顔で定期入れを手に取った。安藤の顔の上に軽く左手を当て、半眼になった。
「真っ黒な闇が見える。大きな、非常に危険な闇よ。安藤さんはその中にいる。けれど、生死は分からない。闇が濃すぎて外から中の様子を窺うことはできないわ」
紅倉は目を開き、定期入れを平中に返した。平中は受け取り、大事に手の中に包み込んだ。
芙蓉は平中をとても芯の強い女性だと思う。その平中が出会ってから一番ひ弱い女の顔を見せて紅倉に言った。
「紅倉先生。お願いします。安藤を助けてください。どうか、お願いします」
平中は深々と頭を下げ、肩を髪がサラサラこぼれ落ちた。紅倉は、
「もしかしたら、もうお亡くなりになっているかも知れませんよ?」
と言った。
「それでも、わたしを安藤に会わせてください。彼らが善なのか悪なのか、はっきり見極めます」
紅倉は首を振った。
「あなたは来ちゃ駄目。ハガキにも安藤さんがあなたは来るなと書いているでしょう?」
「会いたいとも書いています。わたしも、安藤に会いたいです」
紅倉は困ってため息をつき、芙蓉に訊いた。
「どうしよう?」
芙蓉はきりっとした顔で平中を見て言った。
「平中さん。あなたもジャーナリストとして相手が非常に危険な連中であるのは分かりますね?」
「ええ」
「それを理解した上で、それでもいっしょに来たいですか?」
「ええ。是非」
「先生」
芙蓉は表情をゆるめ、微笑むと言った。
「ジャーナリストってやっかいな人種ですね? あきらめて連れていきますか?」
紅倉はため息をついた。
「わたしは知りませんよ? わたしはお化け専門ですからね〜」
「生きている人間の相手はお任せください」
芙蓉にニッコリ微笑みかけられ平中は、
「ありがとうございます」
と、改めて頭を下げた。
紅倉がカップを両手に持ってじっと中を見ていた。
その様子に気づいて芙蓉が訊いた。
「さすがにもう冷めちゃったでしょう? お代わり欲しいですか?」
「ううん。これでいい」
紅倉はグッとカップをあおり、ゴクッと残りを喉に流し込んだ。
「ごちそうさまでした」
紅倉はカップを置くとお行儀よく手を合わせた。
芙蓉ははて?と思った。紅倉の口を当てたカップの中、夕焼け色の紅茶の中に目が映っていたように見えたのだ。いや、角度的に中の紅茶が見えたとは考えづらく、あれはきっと紅倉が見ていたイメージのフラッシュバックだったのだろう。紅倉に近い位置にいる芙蓉にはたまにこういうことが起こる。
あの目玉は紅倉先生のものではなかった。
ギョロッと剥き出し、ぐりぐりこちらを覗き込む、邪悪な物を芙蓉は感じた。
その感じ方までが紅倉先生の頭の中のイメージであるのかどうかは芙蓉には分からない。ただ、
敵との戦いは既に始まっていたのだ。
闇の中。
老婆のしゃがれた声が笑った。
「ひっひっひ。女め、わしの目を飲み込みおったわ」
闇の中、老婆は目に黒い布を巻き、完全に外界の視界を絶っていた。
代わりに両手で小座布団の上に鎮座した水晶玉をしっかり鷲掴みにし、そこに映る外の世界を頭の中に見ていた。まるでディズニー映画に出てくる悪い魔女のようだ。
「ひっひっひ。紅倉美姫か。…………こいつは……」
老婆のしゃがれ声は不機嫌に低くなった。
「なんとかせねばならんじゃろうねえ………」