12,ちょっとした暗号
平中はカバンから一枚のハガキを取り出しテーブルの紅倉の前に差し出した。どうせ紅倉には読めないので芙蓉が手に取って読んだ。絵ハガキであり、東京の平中江梨子への宛名の下に通信欄がある。
「拝啓 愛しのエリコ嬢。
俺に会えなくて寂しいだろうが、まあ我慢してくれ。
君もこっちに来れるといいのだが。ごらんの通り素晴らしい紅葉だ。
だがやはり君は来ない方がいいな。こっちの冷え込みはハンパねえぞ?
腹をこわしたらたいへんだから君は来るな。
俺もできるだけ早く帰りたいと思うが、よく分からん。
すごく君に会いたい。
じゃ、グッバイ。」
芙蓉はハガキから平中へ視線を移した。平中は寒そうにじっと耐えるような顔をしていた。芙蓉はハガキを裏返してみた。なるほど背後に高い岩の壁がそそり立ち、左右から赤と黄の紅葉で埋め尽くされた山の斜面がせめぎ合っている。白いフレームに印字がある。
「紅葉美しい一の倉沢」
その横に表の黒の万年筆とは別の赤いボールペンで
「姫川を望む」
と書き込まれているが、滲んで消えかかり、表よりずっと古い書き込みのような印象がある。
「ふざけたハガキでしょ?」
平中はフッと笑いながら言った。
「それ、岐阜の郵便局の消印なのに、その絵ハガキは群馬県の物なのよ? 一の倉沢は群馬県と新潟県にまたがる谷川岳の一部に数えられる、日本三大岩場の一つ。たぶん、たまたま、カバンの中にでも入っていた古い絵ハガキを代用したんでしょうね。ちらっとメモされている姫川も長野県白馬村から新潟県の日本海へ注ぐ名水で有名な一級河川だけど、群馬県の谷川岳とはぜんぜん別の場所よ」
芙蓉は一の倉沢の写真をじっと見つめ、平中を見て訊いた。
「安藤さんは、紅倉先生について何か言っていたんですか?」
芙蓉の問いを受けて平中はニヤリと笑った。
「気づいた?」
芙蓉はうなずいた。
フレームの文句に、黒インクで小さく数字が打たれていた。
「 紅葉美しい一の倉沢 姫川を望む 」
芙蓉が言った。
「数字の順番で読むと、『紅倉美姫』。つまり、『紅倉美姫を望む』」
平中はうなずき、言った。
「小学生並の暗号だけど、きっと安藤が何かあったときの非常通信用に準備していたんでしょうね。もし、敵の目に触れても、見過ごされるように」
差出人は「鉄道ジャーナル」とだけ書かれている。安藤「哲」朗を示す、暗号と言えば暗号か。
平中は悲しそうな目で笑いながら言った。
「こっちに来てほしいとSOSを送っておきながら、わたしには来るなと言う。紅倉先生、安藤はあなたに助けを求めているんです。
安藤は紅倉先生に興味を持ってずっと調べていました。たぶんどこかでお会いになっていると思います」
平中はジャケットの内ポケットからパス入れを取り出し、中を開いて見せた。おそらく腕を伸ばして自分で撮ったのだろう、笑顔でVサインする平中と、面長で眉が濃く、厚いまぶたに切れ込みの深い二重の、視線の強い目をした男性が仲良く顔を寄せて笑っている。「007」の4代目俳優から女ったらしな甘さを抜いたような渋めの二枚目だ。芙蓉は「ああ」とあごでうなずいた。
「背の高い、耳の辺りに若白髪のある人」
うん、と平中が嬉しそうにうなずいた。
「実物は高田純次みたいにもっとふやけた感じだったわ」
あらら、と平中は苦笑し、紅倉はイヒヒと白い歯を見せて言った。
「美貴ちゃんは男に対しては厳しいものね〜。嫌いだから」
「あら、芙蓉さんがレズっていう噂は本当なの?」
「本当よ」
芙蓉はツンとすまして否定もしなかった。平中はニヤニヤ笑い、えりの中に指を入れてネックレスを引っぱり出した。
ネックレスにはシルバーのリングが通されていた。
「彼がプレゼントしてくれた婚約指輪です。仕事柄「じゃま」なのでこうして胸に大切にしまっているんですが。
彼はスクープにどん欲な人でした。でも芸能人を追い回して一時的な特ダネを狙うんじゃなく、本にできるような、社会的な大きなスクープを欲していました。作家に転向したいと思っていたんです。わたしとつき合うようになってからは、できるだけ早く。紅倉先生を追っていたのもそのためです。でもこっちの呪殺事件に出会って、乗り換えたんですね。
彼はスクープを狙ううるさい記者だったでしょうが、そのために人の心を踏みにじるような利己的なことはしなかったとわたしは信じます。
紅倉先生。安藤はあなたにとってはハエみたいに目障りな存在だったかも知れませんが、こうして先生を頼っているんです、助けてはくださいませんか? 安藤が……生きていればの話ですけれど…………」
平中の表情が不安定に暗く沈み、芙蓉は悪い予感を思い出した。
「先生。安藤が生きているか、お分かりになりますか?」
平中は二人の写った写真を紅倉に差し出した。