The Beginning
「先生。美貴です。分かりますか?」
芙蓉が呼びかけても紅倉は目を開いたきりなんの反応もなく、なんの感情も見せなかった。
「せんせ……」
芙蓉はこれからの二人の生活を思って、やはり悲しくてやりきれず、新たな涙を流した。
と、
芙蓉は腕を掴まれぎょっとした。
「先生? 先生? 分かりますか?」
紅倉はぎゅうっと芙蓉の腕を掴み、ガラスの目を開けたまま、ブルブルと震えだした。
「先生!?」
芙蓉は奇跡を信じ強く呼びかけた。
「・・・・・・・お・」
紅倉の口が開き、一生懸命何か言おうとした。
「なんです?先生? ゆっくり、おっしゃってください?」
芙蓉は聞いていますよ?と言うのを分からせるように紅倉の震える口に耳を当てた。
「・お・・・・・・ん・・・・・・・な・・・・・・・・
わ・・・・・・・・・
た・・・・・・・・・
し・・・・・・・・・」
「女? そうですよ、先生は女ですよ? それがどうしたんです?」
芙蓉は耳をすませたが、紅倉の口はそれきり何も言わず、開いたきりの目は乾き、自然と涙がこぼれた。
芙蓉は諦め、まぶたを閉じてやった。
先生は生きている。何か言いたいことがある。
奇跡は一朝一夕には起きないかもしれないが、しっかりと見守っていようと思った。
※ ※ ※ ※ ※
京都の街を離れた山のすそ野に建つ4つの塔を結んだお城のような「京都済命病院」。
固い秘密主義を貫く、因縁浅からぬこの病院に、紅倉美姫は入院していた。
半年が経とうというのにあれきり一度も目を開かない。
2ヶ月が経って、紅倉は妊娠しているのが分かった。
芙蓉は半狂乱になるほどショックを受け、いったい誰がわたしの先生を!!、と激怒したが、ハッと、あり得ない可能性を思い立った。
妊娠2ヶ月を診断された胎児だが、その成長は異様に早く、半年で臨月に至った。
今、高度集中治療室で出産されようとしている。
芙蓉の厳命で女性スタッフのみでチームが組まれ、現在院長を務める細木原教授が助産を担当した。
意識の戻らない紅倉に帝王切開が検討されたが、赤ん坊が外に出てこようとする意志を強く感じた芙蓉の意見により自然分娩に任せることにした。
紅倉にいきみは見られなかったが、赤ん坊は自然と産道を押し出されてきた。
そして赤ん坊の顔が覗いたとき、突如、
「ああああああああああーーーーーーっっっ」
と紅倉が大声を上げた。
赤ん坊の顔が外に出て、真っ赤な瞳が開いた。
紅倉はまるで赤ん坊の代わりのように大声で悲鳴を上げ、見守る芙蓉はきつく手を握り締めてやった。
ぬるっと赤ん坊の体が吐き出されると、紅倉の大声が止んだ。目を見開き、うつろで、開いた口から涎が垂れていた。
芙蓉は赤ん坊の様子も気になったが、紅倉も心配した。
紅倉のうつろな瞳はまるで、魂を抜かれたようだった。
赤ん坊を取り上げた細木原教授が助手にへその緒を切るよう指示すると、赤ん坊がギョロッと目を剥き、教授の手を邪険に振り払った。
うねうねとした青いへその緒がブルンと震えた。
赤ん坊は下に落ちないように紅倉の腹に自分でしがみついた。
お尻の下に飛び出したへその緒が、ブルン、ブルン、と震えて、中で何かが激しく移動している。
紅倉はガタガタ震えだし、
「ハッハッハッハッハッ」
と激しく息を吐いた。激しく体が揺れ、肩が持ち上がり、脈を取っている機械が「ピーーーーッ」と鋭い警報を鳴らした。
「・・・・・・・・・」
芙蓉も、教授らも、呆気にとられて見守るしか出来なかった。
紅倉の腹にしがみついた赤ん坊は、成長していた。母胎につながったへその緒から母親の栄養を吸い取り、急激に、1ヶ月、2ヶ月、3ヶ月、半年、1年、……2年と、見る間に恐ろしいスピードで成長していく。
一方母親の紅倉は、震えながら見る間に痩せ細っていき、ついに心拍が停止し、震えが止まり、がっくり動かなくなったかと思ったら、ズルッ…、ズルッ…、と音でもしそうに中身を吸われ続け、がくり、がくり、と揺れ、極限まで……骨と皮まで痩せ細ると、肌が蛍光を発しながらとろけだし、全体の形がとろけていった。
赤ん坊……とももう呼べない、子どもは成長を続け、10歳を越え、15歳を越え、…………ようやく成長が止まった。
紅倉は髪の毛を残してすっかり溶けてしまい、しぼんだへその緒は自然と娘の腹部から抜け落ちた。
16、7歳に成長した娘は、分娩台に腰かけ、「ふうーーーー…」と息をつき、目を開いた。
綺麗なグリーンの瞳をしていた。
娘は左右に首を傾け、体にこびりつく赤いかすを落としながら、むん!……、と伸びをした。
「はあーっ…」
瞬きして、しっかり芙蓉を見た。焦点がピタッと芙蓉の目に合って、芙蓉はドキリと心臓を高鳴らせた。
「 紅倉美姫、新生。
あー、女でよかったわ。 」
__次のエピソードへ、続く。