117,解放
『死を覚悟したか。なるほど肉体を捨てて紅倉を守る気か。
だが無駄なことだ。おまえは、
『神』にはなれぬ。
悔しいか? 悔しいだろうな、芙蓉。
正義は必ず勝つ、とでも思っているか? それとも、
『 愛 』、か?
そんなことを言う輩は、欺瞞か、馬鹿だ。
この世を動かす物、それは、
『 力 』をコントロールする術を持っている者だ。
真にその術を持っている者は自分が力を持たずとも、どうとでも立ち回って物事を操れるものだ。
芙蓉。おまえがどんなに力を高めようと全て俺の手の内。おまえはどうあがこうと操られ、何も、思うままにはならぬのだ』
この陰陽師の言うとおりなのだろう。自分はこの男には勝てず、自分は死に、先生も助けられないのかもしれない。
でも、では魂とはなんなのだろうかと思う。
心など単なる現象だとかなんとかこの男はほざいていたが、
なんにも分かっていない、
と強く感じた。先生の軽蔑する「頭のいい馬鹿」の典型じゃないか?
この男が見ている物とは全然別のところに自分たちの「真実」がある、きっと、と信じる。
この男には、未来永劫、それが分からないだろう。
愛などくだらんと笑う男に、
愛などない。
当たり前の事じゃないか。
愛を知らないおまえが哀れなのだ。惨めなのだ。何もかも思い通りに操っている気で、一番大切な物を、おまえは得られていないじゃないか?
わたしと先生はそれを持っている。
だからわたしは、死んでも、おまえに屈しない。おまえの思い通りになど操られない。
おまえが操っているのは、単なる現象だ。
単なる現象の中に、本当に大切な真実など、無い!
魂など無い、幽霊などいない、と科学的に言って得意になっている学者と同じじゃないか。
おまえは馬鹿だ。おまえが軽蔑している馬鹿が、おまえ自身なのだ。
おまえは自分が馬鹿だということに永遠に気づかないんだろう。
言ってやろう、一言、呪いの言葉を。
「おまえは」
『なんだ?』
「不幸だ」
『ほう。そうか、俺は不幸なのか。考えたこともなかったぞ。ありがとう』
「どういたしまして」
芙蓉は霊的エネルギーを最大にした。ガラスのドームいっぱいに光が揺らめき、虹色のオーロラがはためく。
全力で放った力が鏡に増幅されて返ってきて、尚全力で霊力を放ち続けたら、どうなる?
ぶつかり合って、大爆発を起こし、自分も、先生も、粉々に砕けて溶け合えば、それで幸せだ。
鏡よ、砕けよっ!
・・・・・・・・・。
芙蓉の目の前に白い女の子が現れた。
紅倉の守護霊、姫倉美紅だ。
『どうした芙蓉、怖じ気づいたか?』
美紅は首をかしげ、悪戯っぽい目をあらぬ方に向けた。どう?あの人、見えてないわよ?と言うように。
美紅は芙蓉を見ると、両手を開いてひらひら指を動かした。芙蓉は自分の手を見た。両方の薬指に、先生とお揃いの銀の指輪。
美紅が芙蓉にだけ聞こえる声で言った。
「仕方ないわ。しゃくだけど、紅倉を解放しましょう」
芙蓉は眉をひそめた。それはきっとあまり良いことではないという予感がした。でも……、仕方ないのだろう……………。
「 はっ、 」
芙蓉は全身から全力のオーラを放った。
七色の光の奔流は全て鏡に吸い込まれていき、何百倍の圧倒的な白さになって芙蓉の放ち続けるオーラを圧して迫ってきた。
芙蓉は左右に手を開き、『集まれ、わたしのオーラ!』と命じた。途端に光は一方的な流れになり、左右の指輪に吸い込まれていった。強烈な引きの力にガラスのドームが崩壊した。
「 先生っ。 」
横たわる紅倉の全身から、
闇が噴き出した。
「・・・・・・・・・・・」
芙蓉は噴き出す闇に飲み込まれて予想外の「色」に驚いていた。当然高貴で力強い「白」が輝くと思ったのだ。
「痛ッ!」
芙蓉は手の甲に、頬に、ピリッ、ピリッ、という鋭い痛みを感じた。手を見ると、濃い紫の血管が浮き、全体の肌を毛細血管が黒く這い、肌の表面が赤く濡れていた。それが紅倉の体から噴き出したオーラの実体化した物だと気づいた。真っ黒な闇は、実は凄まじく凝縮した「赤」だったのだ。
「逃げて!」
美紅が叫んだ。
「紅倉の本体が目覚める!」
「!?・・・」
「早く!」
美紅は芙蓉の手を掴んで引っ張った。芙蓉は走り出した。振り返っても闇の中に紅倉の体は見えない。
村長と信木の間を駆け抜けた。
『わははははははは』
空から嫌な笑い声が降ってきた。
『そうだ! これが欲しかったのだ! 見せてみろ、紅倉美姫! おまえの、本当の力を!』
何もかもあの陰陽師の「式」の内なのか?
「いいから、急いで脱出するのよ!」
美紅に手を引かれて芙蓉は走り続けた。
村の人間たちは逃げ出すことをしないで口を開けて広がる闇の中心を見ていた。長年神に仕え続けてきた彼らは、神秘の体験への畏れと憧れが強すぎるのか?
「急いで!急いで!」
美紅と芙蓉は走り続ける。それを追って、紅倉から発した闇は広がり続ける。
広場を通り過ぎて、ペンションへの道をひた走り、ようやく辺りが普通の夜の暗がりなのを見て芙蓉は振り返った。
何か居る。
村の3分の1を覆った闇の中に、それを突き抜けて、赤い、巨人が、立っている。
身長10メートルもある、裸の鬼女だった。
先生……、と芙蓉は思った。
「まだ駄目! 山の上まで離れて!」
美紅に手を引っ張られ、芙蓉はまた走り出した。
何か恐ろしいことが起きる空気がゾッと背中を押した。