108,悲鳴
ジョンはキースに襲いかかった。キースの犬種アイリッシュ・ウルフハウンドはその名の示す通りアイルランドの国民犬である同国においてはもっともメジャーな「大きな犬」であり、最大級の大型犬だ。普通ならラブラドール・レトリバーより一回りも大きな犬だが、ジョンは規格外の大きな個体だ。同じだけの体高がありがっしりした体つきをしていた。ガウウと唸りを上げて噛み合い転げ回る二頭の闘いは周りの人間たちを圧倒し何も行動を起こさせない迫力だ。
「ジョン! キースかいっ!? おまえたち何をやってるんだい!? おやめっ!?」
ケイは声を張り上げて命令したが、いつもなら彼女に絶対服従のはずのキースが、まったく聞く耳を持たず目を血走らせてケイの一番のお気に入りのジョンを攻撃し続けた。
2発も銃弾を食らい出血多量でふらふらのはずのジョンも気迫負けすることなくキースを攻撃した。ジョンは本能的にキースが「敵」であることを分かっていた。こちらの感覚をイラッと刺激するきつい臭いをさせていた。主人を守るためにジョンは全力で仲間を倒そうと頑張った。
唸りを上げ空気を激しく鋭く震わせる闘いは続き、
「ジョン! キース! おやめっ!!」
ケイの命令は虚しく、
紅倉は震えて立ち尽くした。
タタタッと、
境内を囲む高台に残り三頭の犬たちが現れた。
ずんぐりとでかく、見るからに力のありそうなセントバーナードのリンゴ。
細長い顔で手足のすらりと長いゴールドの毛を垂らす高貴なサルーキのチャーリー。
均整の取れた力強く運動能力に優れたジャーマン・シェパードのカール。
彼らは灌木の垣根を飛び越え広場に降り立つと、
カールがダッシュして二頭の闘いに飛び込み、機敏に飛び回り、隙に潜り込み、「敵」を攻撃した。
残るリンゴとチャーリーは、すっかり固まっている紅倉は無視し、入り口で呆気にとられている人間の男たちに近づいていって威嚇の牙を剥きだした。
「犬畜生が、舐めるなよ」
公安日本太郎が身を守るため拳銃を取り出したが、構えた途端、体が固まって動かなくなった。
背の高い面長のチャーリーがじっと睨んでいる。まさかこの男がその眼に怖じ気づいたわけでもなかろうが。
「くっ、なんだ…………」
日本太郎はじっとり脂汗を浮かべ、金縛りにあったようである。チッと舌打ちし。
「そうか、貴様か。何を企んでやがる……」
何者かを毒づいた。動けない日本太郎を、チャーリーは襲うつもりはないようである。
保安官信木も拳銃を持っていた。彼も懐から取り出し構えたが。
リンゴがのっそり前に出て、のんびり愉快な顔に、ぐわっと巨大な牙を剥きだして凄んだ。
信木保安官もその迫力に圧されたのか、構えた銃を下ろした。その態度に村長がうろたえわめいた。
「信木よ、何を躊躇しとる? こやつら狂うておるぞ? 早う始末せんか!?」
信木は哀れな目で村長を見た。
「狂っている、ようには見えませんがねえ」
「何を!?」
村長を落ち着かせるように言った。
「わたしにははっきりした意志を持っているように見えますがねえ? 犬畜生の考えじゃあなくですな、もっと高いレベルの。何を企んでいるか、見極めようじゃないですか?」
村長は半信半疑の顔で犬たちの様子を観察した。
「もしや、まだ神が……」
村長の古い意識を信木はこっそり笑った。
「さあ…………、どうでしょうかな?」
ガウウッ、ガウッ、
「ジョン! キース! カール! おやめっ!! おやめったらーー!!!!」
ケイの悲痛な訴えにようやく目が覚めたのか、争う犬たちが静かになった。
三頭はくっついたまま動かない。
ジョンの背中に取り付いたカールがジョンの左脚の付け根に噛みつき、がっちり鋭い牙を腱に食い込ませていた。
キースはジョンの顔に手を掛け、爪をえぐり込ませ、その首に大きく開けたあごをがっちり噛みつかせていた。
ジョンは運動能力を奪われ、呼吸をか細く制限され、流れ出た血液に体力は底をつき、悲しげに主を見つめていた。その心が伝わったようにケイが震える声で呼びかけた。
「ジョン?……… どうしたんだいジョン?………… 返事をしておくれ?………………」
なんとか呼吸を通わせていたジョンの首の筋肉が、力尽きた。ガリッと噛み込んだキースのあごが軟骨を粉砕した。
ジョンは白目を剥き、だらんと力が抜け、キースとカールは死んだ肉体を吐き捨てた。
「ジョーーーーーーーン!!!!」
ケイは無垢な忠犬の魂のため哀しみと怒りを込めて叫んだ。
「キース………、カール………、……チャーリー!、リンゴっ!!」
盲目のケイは自分の載せられた寝台の縁を両手で探って下へ下りようとした。
「おまえたち、どうしてしまったんだい? いったい…、何が狂わせている!?」
チャーリーとリンゴがこちらを向き、キースとカールと、八つの目がじっとケイを見つめた。
ケイの背にゾワッと悪寒が駆け上がった。
周囲はむごたらしい死体だらけである。その流れ出た血液が一気に気化したように空気が真っ赤に染まった。
「!」
盲目のケイは神と一体化したときには物を見ることが出来た。しかし普段単独で、紅倉のように霊力で物を見ることは出来なかった。盲者として、鋭い勘に頼るしかない。
ところが今、真っ赤に染まった空気の中で、ケイの網膜にかなりはっきりその場の様子が映った。
特に四頭の自分を見つめる犬たちの姿が。
その犬たちの視線が、ケイに身の毛のよだつ恐怖を感じさせた。
ケイは思わず寝台の上で後ずさるように
「……おまえたち………、よしな………………」
と震える声で命じた。
チャーリーとリンゴが凶暴な闘争本能を持て余すようにダッと駆け出し、ケイは
「きゃあっ」
と思わず悲鳴を上げた。が、
犬たちが襲ったのはケイではなかった。
ガウウッ、と興奮した唸り声を漏らして飛びかかるチャーリーに肩を突かれて紅倉は吹っ飛んだ。
勢い余って向こうまで飛んでいった細身で背の高いチャーリーが華麗な足取りでターンして戻ってくる間に、巨体のリンゴがどっしり足を踏ん張り、紅倉の腿にかぶりついた。
「ぎゃああああああーーーーーーーっっっ」
恐怖ですっかりすくんでしまっていた神経が、激痛に目覚め、紅倉は天に向かって大声で悲鳴を放った。
戻ってきたチャーリーが紅倉の顔を覗き込み、細いあごを開き、肩にガブリと噛み付いた。
「ぎゃあああああっ、ぎゃあああああああっ、ぎゃあああああああああっ!!!!!!!!」
理性も何も吹っ飛んで、ただ恐怖が支配し、肉体の激烈な痛みに、狂ったような悲鳴を上げ続けた。
「ぎゃああああああっ、ぎゃあああああああっ、ぎゃああああああああっ、
ぎゃああああああああああああああああああああああああっ 」