103,人の限界
紅倉の肌は、時間が経って腫れがひどくなってきた。目は重そうに閉じがちになり、ひどく疲れて、眠そうだ。それでも紅倉は話し出した。
「わたしたち、いったい何やってるんでしょうね?」
村長が怪訝そうに訊いた。
「何、とは?なんじゃね?」
「わたしはここに、最初から、安藤さんを捜しに来ただけだとさんざん言いました。ですよね?」
「そうじゃったな……」
「それなのに、変な横やりのせいですか?」
非難がましく公安を睨み、日本太郎はとぼけて肩をすくめた。
「安藤さんは既に信木さんが穴から助け出して病院に入院しているそうじゃありませんか?」
紅倉が非難の目を信木にも向けると、村長が、
「なんじゃと!? 信木、それは本当か!?」
驚いて信木を問い詰めた。信木は涼しい顔で、
「ええ。その通りです。村の状況が把握できていませんでしたのでね、内緒にさせていただきました」
と説明した。村長は愕然とし、
「なんじゃと? おまえ、わしにも黙っておくて、どないな了見じゃ? それが分かっておれば、分かっておれば…………」
改めて数々の後悔が胸に去来した。お婆に、ヨシに、黒木たちに、ケイに、村の若者たちに……
無駄に死なせてしもうたじゃないか!・・・・・・
信木の秘密主義が恨めしく思えてならなかった。信木は何とも思わないのか平然としている。じいっと信木を睨む村長に紅倉が訊いた。
「何人死にました? ずいぶん、お亡くなりになってるんじゃありません?」
「うむ……。ずいぶんと……、死におった……………」
村長は、自分が知っている以上に死んでいるのだろうと思った。自分が事態に気づいた後も、尚。
それもこれも、全てこの女、紅倉が来たせいなのだが……………。
紅倉はため息をついた。腫れた唇が苦しそうだ。
「わたしだってね、来たくなかったんですよ? 本当ですよ?
あーあ、さっさと安藤さんを返してくれれば、こんな所、さっさと出ていったものを」
恨みがましく、嫌みったらしく、また不自由にため息をついた。唇に溜まった唾液がツーッとだらしなく垂れた。
「おかげでこの有様です」
ジロッと村長を睨んだ。
「神とは争わない、というのがわたしの一つのモットーだったのに。
でも、ここの神は、『神様』じゃなかった。人間が自分の都合のいいように操っている、ただの巨大な霊力のバケモノだった。
人に操られる神など、神ではないわ」
「否定するのかね?」
村長がぶ然と問いただした。
「あんたは世の悪人に対して、この村と同じ考えをしておるんじゃなかったか?」
紅倉はうなずいた。
「そうですよ。世の中には絶対に許すことの出来ない犯罪があります。
犯罪と言っても法律を犯すばかりじゃありません、それをされた人間が、血の涙を流して『許せない!』と思うような罪です。
どんな言い訳をしようと、絶対に、許せないことが世の中にはあるんです。
死刑廃止を訴える人がいますが、わたしには理解できません。
復讐で人を殺しても殺された人が帰ってくるわけではない、
復讐は新たな復讐を生み、虚しいだけだ。
殺された人は自分がされたのと同じ復讐殺人を望んでなどいないだろう。
ふんっ。
なんてお人好しな、くっだらない自己満足だろうと思います。
わたしなんか自分が殺されたら絶対お化けになって殺した相手を呪い殺してやるわよ。
復讐しても虚しいだけだ? そうよ、虚しいわよ。でも、
人を憎しみ続ける苦しみからは解放される。
殺された人間は決して帰ってこないわよ。当ったり前じゃない。でも、
生きていたときの思い出を素直に慈しむことは出来るわ。憎い相手が生きていたのでは、
愛する人が殺されたという、その時点から心は動かない、どんなに前に進もうとしても、過去を慈しもうとしても、どうしたって『殺された』という時点に心は引き戻されてしまうのよ。
その人間が生きていては、
被害者は『憎しみ』という一点から決して前にも後にも、動くことが出来ないのよ。
死刑執行は、決して許されない犯罪の、被害者の、当然の権利よ」
「同じじゃあないか、我々、村と。何故、神を滅ぼした?」
「矛盾よ」
「矛盾、とな?」
「そ、矛盾。
正しい事をしているはずのケイさんや、木場田さんや、この村が、その行いを守るために苦しんでいる」
「辛い仕事じゃ。じゃが、誰かが引き受けねばならぬ必要な仕事じゃ」
「ふうん。でも、いっぱいお金もらってるじゃない?」
「……わしら村にも生活はある。わしらは神に仕える仕事に奉仕している。奉仕と生活を維持するためにそれだけの金額も仕方なかろう?」
「村一丸の家業ですものねえ。でも、被害者は愛する人を失い、犯罪の悪夢に悩まされながら、更に巨額の支払いの負担をさせられるわけですよ? ひどい話じゃないですか?」
「仕方あるまい。それともただで、ボランティアで人殺しを引き受ければ褒めてくれるか?」
「ええ。ご立派、と褒めてあげますよ? ま、それで天誅を気取ったただの暴力馬鹿が大威張りで人殺しをするようじゃ困りますけれどね。あなた方は……まさかそんな輩じゃあないでしょうねえ?」
「疑うな。そんなんじゃあないわい」
「はい、失礼しました。じゃあ……、あなた方は人殺しという行為そのものには苦しめられている? それとも、もうすっかり、
人を殺すことに麻痺してしまっていますか?」
「…………………」
「ま、あなた方のことはいいですが、
話を戻して、
犯罪において、犯罪後の負担を、被害者が受け持つのはおかしい。
犯罪の被害者側が、更に犯罪の社会的意味の被害者になるのはおかしい。
裁判のことを言ってるんですよ。特に加害者に同情的な、あくまで加害者の更生を目指す弁護側の。
わたしは死刑廃止に明確に反対します。
加害者を殺さなければ、救われない被害者がいるからです。
加害者にも犯罪者にならざるを得なかった不幸な事情がある。
でもね、
同じ事情を抱えていたって、決して犯罪者にならない人間が、大多数なのよ。
凶悪犯罪を犯すのは、その人間がそういう人間だからという、当たり前の事なのよ。
……なんてことを言えば弁護側に『あなたは何も分かっていない』と叱られるんでしょうね?
きっと加害者の不幸な、ひどい過去を、これでもかこれでもかと見せられるんでしょうね?
でもね、そんなこと、
犯罪の被害者にはどうでもいいことなのよ。
じゃあ自分がどうして殺されたり、レイプされたりしなければならないのかなんて
理由には、
全然ならないのよ!
加害者の不幸を、被害者がひどい目に遭わされて、慰めてあげなければならない理由なんかにはね!
弁護側は加害者の不幸を披露して被害者側に『許し』を求めるんでしょうね?
裁判という公の場で許しを求めるということは、社会にその『許し』を認めてもらおうと言うことです。
被害者側に社会の一員として『許し』を認めろと言うことです。
では、
それは『社会』が自分の不備のせいで加害者の不幸を見逃してきた『罪』を、被害者に一方的に押し付けるという事じゃありませんか?
自分のせいのくせに、それを棚上げにして、不幸な被害者に、ま、かわいそうな人なんだから許してあげなよ?、なんて、何様のつもりよ?、馬あ〜鹿。てめえで責任持てってえーのよ、馬あ〜〜鹿。」
村長は紅倉の興奮した壊れぶりに呆れ返った。
と、紅倉はくるっと冷たい目になって言った。
「だからね、矛盾なのよ。
被害者も社会の一員。加害者の不幸を知らんぷりしてきた社会の一員で、広い意味では、確かに、加害者に対して罪があるのよ。
だからね、わたしも、被害者が自分はこんなにひどい目に遭ってこんなに苦しんでいるのに、どうしてみんなもっと真剣にわたしのことを考えてくれないんですかっ!?、と涙ながらに感情的に訴える姿は、鬱陶しいな、と、思っちゃうのよね。
じゃあ、あなたはどうなの?、と思うわけ。あなたは自分が被害者になってそんなに社会の無関心を怒っているけれど、被害に遭ったのがあなたじゃなかったら? あなたはそんな風に他人の被害に熱心に同情したの?、ってね」
村長は困って眉をひそめた。
「あんた、けっきょく、どっちの味方なんじゃい?」
紅倉は肩をすくめ、痛そうに顔をしかめた。
「それも矛盾。わたしだって社会の一員ですからね。
だからねえー…………………、それが、
今の人間の限界
だと思うのよ。
わたしたちがこの社会で生きている以上、わたしたちはこの社会を守らなければならない。
この社会で生じてしまった『不幸』は、どうしたって誰かが犠牲になって帳尻を合わせなければならない。それをしなければ、わたしたちはこの社会を維持できない。あなた方がこの村を守ろうとするのと同じようにね。
でも、その犠牲を犯罪の被害者が払わなければならないというのはおかしい。それをしていたら、
この社会で真面目に正しく生きている人々が、社会そのものを信じなくなってしまう。
社会が、壊れてしまうわ。
犯罪の罪は、それを犯した人間が償うのが正常です。
決して許されない罪を犯してしまった者は、その者にどんな事情があろうと、死罪を以て償うのが社会の正常な在りようなんです。
ここで弁護側、死刑反対論者は言うのでしょう、
社会の不備を不幸な人間の一時の過ちに押し付け、社会の犠牲にするのか?、と。
その通りです。
かわいそうなのかも知れませんが、犠牲になってもらわなければ収まりがつきません。
それが我々、今の社会の、限界なんです。
死刑反対を訴える人間は、それならば、人を死刑になんてしなくて済む社会の整備をこそ考えるべきなんです。
この数年裁判の様子を伝えるニュースの中で『被告は犯行時心神耗弱(こうじゃく)の状態にあり』『責任能力はなかった』という弁護側の言葉がよく聞かれるようになりましたよね? どんな殺人事件の裁判でも馬鹿の一つ覚えのよう。
ここにも矛盾があります。
そういうことで通り魔殺人がなんでもかんでも許されていたら、当然、じゃあそんな危険な精神病を患った人間はみんな施設に閉じこめて厳重に管理しておけ!、という声が上がるでしょう。社会が自分の身を守るための当然の論理です。
となれば人権擁護派は当然人権論を持ち出して牽制するでしょう。
そうして、また、誰も悪くない凶悪殺人事件が発生する。
誰も彼もが責任を誰かのせいにして、結局、誰一人責任を取らず、罪人のいない犯罪の被害者だけが一方的に多大な損害を被る。
ね? これで社会がまともに維持できる?
だからね、
矛盾を承知の上で、
犯罪の責任は加害者が負わなければならないのよ。それが社会の犠牲だとしてもね。
それが、悪、だとしてもね。
その罪も、誰かが負わなければならない」
紅倉の腫れた唇が割れて、だらっと真っ赤な血が滴った。
自嘲するように笑って、言う。
「誰か個人がそれを負えば、その人は不幸になり、人生を壊してしまう。
無理と矛盾があるのは分かっているのよ。社会は全然完璧なんかじゃなく、理想にはほど遠く、出来ないことだらけなんだから。だからこそ、
社会がそこから逃げずに、責任をきちんと引き受けなければならないのよ。
そしてその社会を作っているのは間違いなくわたしたち一人一人なのだから、
社会は、まだまだ全然発展途上なんだから、
わたしたち一人一人が見識と思想のレベルを上げて、この社会を良くしていくよう努力していかなければならないのよ」
じっと黙って聞いていた信木カウンセラーが言った。
「裁判員裁判にはわたしも期待したんですがねえ」
紅倉は信木を見て残念そうに笑った。
「そうですね」