夫の人生最後の恋を、妻として応援した結果
これが人生最後の恋と、夫は言った――
わたくし、キリティア・フォン・レインフォードは、侯爵家の長女として生まれ、王命により結婚した妻である。
愛はなかった。
少なくとも、結婚式の誓いの言葉には。
王弟の息子であったライアン様は、その時すでに「王族ではない存在」だった。
かつて婚約していた公爵令嬢に一方的な婚約破棄を突きつけ、感情のままに行動した結果、王族籍を失った――それが彼の過去だ。
それでも彼は王の甥であり、温情によって貴族子弟のための学園で教師をしていた。
そして、その「体裁を整えるための妻」として選ばれたのが、わたくしだった。
嫌々の結婚。
それは彼だけでなく、わたくしにとっても同じだった。
けれど、わたくしは妻である以上、その役割を果たした。
領地の管理、社交、家の切り盛り。
夫がどこで何を思っていようと、侯爵夫人として恥のない振る舞いを貫いた。
五年。
子どもはいない。
理由を問われることはなかった。
もともと愛のない結婚であることは、周囲も知っていたからだ。
ただ――ライアン様は、不満そうだった。
わたくしを見る目には、常に「失望」が浮かんでいた。
そんなある日、彼はわたくしを、学園近くのカフェに呼び出した。
不思議に思いながら扉を開けたわたくしは、そこで一瞬、時が止まった。
ライアン様の隣に座っていたのは、少女だった。
年の頃は、せいぜい十六、七。
「こちら、マリエルだ」
紹介の言葉は、それだけ。
下級貴族の生徒。
継母と義妹に虐げられている可哀想な娘。
相談に乗っているうちに、心を通わせた――。
語られる言葉を、わたくしは静かに聞いていた。
「人生最後の恋なんだ。わかってくれ」
その言葉を聞いた瞬間、胸に湧いたのは――怒りではなかった。
理解である。
ああ、この方は、何一つ変わっていないのだ、と。
自分の感情を「運命」や「純愛」と呼び、
それを受け入れない他者を「冷酷」と決めつける。
五年前と、まったく同じ。
「……そうですか」
わたくしは、微笑んだ。
ライアン様は安堵したように息を吐き、マリエルは怯えた小動物のようにわたくしを見上げた。
――この時点で、わたくしはもう、勝っていた。
なぜ、受け入れたのか。
答えは単純だ。
彼が「夫としての責任」を、自ら放棄したから。
愛人を作ることと、
妻の前に連れてきて「応援してくれ」と言うことは、まったく別の罪である。
わたくしは、淡々と条件を整理した。
公的な場での振る舞い、マリエルの立場、 学園教師としての倫理、侯爵家の名誉。
そして、国王陛下への報告。
ひとつひとつ口にするたび、ライアン様の顔色が変わっていった。
「そ、それらは大丈夫だ、君は冷静すぎる」
「ええ。妻ですから」
その夜、わたくしは実家と王城に書簡を送った。
数日後、事態は動く。
まず、学園からの呼び出し。
教師と生徒の不適切な関係――それは、どれほど「純愛」を装おうと、処分対象だ。
次に、マリエルの後見問題。
下級貴族の少女を、既婚の元王族が囲うことは許されない。
そして最後に、離縁。
わたくしは、何も奪わなかった。
彼が自ら差し出したものを、受け取っただけだ。
爵位は維持されたが、侯爵家からの支援は打ち切り。
学園教師の職も失い、マリエルは親族の元へ引き取られた。
――人生最後の恋は、現実の前であっけなく終わった。
数年後。
わたくしは再婚せず、領地経営に専念している。
静かな生活だが、満ち足りている。
風の噂で聞いた。
ライアン様は地方の私塾で、細々と教えているという。
マリエルは、別の貴族に嫁いだそうだ。
人生最後の恋を応援した結果が、これである。
けれど、後悔はない。
なぜなら――
愛を言い訳に責任から逃げる者の末路を、
わたくしは、妻として、きちんと見届けたのだから。
◇◇マリエル視点
わたしは、選ばれたはずだった!
最初は、優しい先生だった。
それだけだったのに。
授業のあと、少し残って質問をしたとき。
家のことを、ぽろっと話してしまったとき。
先生――ライアン様は、真剣に、わたしの話を聞いてくれた。
「君は悪くない」
その言葉が、どれほど救いだったか。
継母に疎まれ、義妹に見下され、
家では空気のように扱われていたわたしにとって、
『君は悪くない』と言ってくれる大人は、彼だけだった。
だから――勘違いした。
これは特別なんだ。
わたしは特別な存在なんだ、と。
先生は、奥様とはうまくいっていない。
本人の口から聞いた。
政略結婚で、愛はない。
子どももいない。
だから、わたしが――
わたしこそが先生の、人生最後の恋の相手だと。
カフェで奥様に会った日。
あの方は、とても静かだった。
怒鳴りもしなかった。
泣きもしなかった。
ただ、わたしを一度見て、微笑んだだけ。
その笑顔を、わたしは
「余裕」だと思った。
「諦め」だと思った。
勝ったと思った。わたしより、ずっと高位貴族生まれの奥様に。
人生の苦労なんて、一つもしたことがないような女性に。
でも。
次の日から、世界が少しずつ、壊れ始めた。
学園に呼び出され、
『相談』という言葉では、済まされない関係だと告げられた。
先生は、わたしをかばった。
「この子は悪くない、すべて私の責任だ」
その姿に、胸が熱くなった。
やっぱり、愛されている――そう信じた。
あの綺麗な奥様よりも、先生はわたしを選んでくれたのだ。
けれど。
最終結果は違った。
先生は教師を辞めさせられ、
わたしは親族の元へ引き取られることになった。
「すぐ迎えに行く」
そう言ってくれたのに。
手紙は、来なかった。
迎えも、来なかった。
あとで知った。
先生は、生活に追われていた。
仕事も、地位も、失って。
わたしは――選ばれた恋人じゃなかった。
都合のいい『癒やし』だった。
奥様は、何も言わなかった。わたしを責めたりしなかった。
でも、すべてを奪っていった。
わたしから「夢」を、
先生から「責任逃れの居場所」を。
それに気づいたときには、もう、戻れなかった。
◇◇ライアン視点
――なぜ、あの女は何もしなかったのか
私は、間違っていなかったはずだ。
愛を選んだだけだ。
人生最後の恋を、大切にしただけだ。
そう思っていた。
思いたかったのだ。
だが、今となっては、わかる。
キリティアは、何も奪わなかった。
私が自分で差し出したものを、黙って受け取っただけだ。
彼女は、怒らなかった。
責めなかった。
泣いて縋ることもしなかった。
あれが、どれほど恐ろしいことだったのか、当時の私は、理解していなかった。
「応援します」
そう言われたとき、私は勝った気でいた。
妻に勝った。
妻を押し付けた、王家に勝った、と。
だが違う。
あれは、見切りだった。
私は、教師としての立場を軽んじていた。
王位継承権を持っていた私が、するような仕事ではないと。
夫としての責任を放棄していた。
男としての覚悟を持たなかった。
マリエルを守ると言いながら、
守れる力を、自分から捨てた。
キリティアは、私に選択肢を与えたのだ。
それでも私は、
「愛」を言い訳に、楽な方を選んだ。
今でも、ふと思う。
もし、あのとき彼女、キリティアが泣いて、怒って、取り乱してくれていたら。
私は、自分の愚かさに、気づけたのではないだろうか。
いや……。
無理だ。それくらいは分かる。
彼女は正しかった。
だからこそ、何もしなかった。
何もされなかったことが、
これほど堪えるとは、思わなかった。
私は今も、彼女の名を、誰にも言えないまま、生きている。
口にする権利を手放したのだから。
人生最後の恋は、
確かに、あった。
だがそれは……。
取り戻せない過去への、後悔の名前だ。
◇◇わたくしが、夫の恋を応援した理由。
すべてが終わったあと、
わたくしは驚くほど、穏やかだった。
怒りも、悲しみも、
嵐のように吹き荒れることはなかった。
たぶん――すでに終わっていたのだ。
ライアン様が、あの少女を隣に座らせ、「人生最後の恋だ」と言った瞬間。
あの方は、夫であることをやめた。
わたくしは、妻として、
それを確認しただけのこと。
家族や友人に何回も訊かれた。
「どうして許したのか」と。
違う。
許したのではない。
放したのだ。
手を伸ばし続ける価値が、そこにはもう、なかったから。
五年間、わたくしは誠実であろうとした。
愛はなくとも、尊重する気持ちはあった。
けれど彼は、わたくしを『障害』だと見なした。
自分を悲恋の主人公にするために、妻を悪役に仕立て上げようとした。
だから、手放した。妻と言う身分と役割を。
夫が描いていたシナリオの舞台に、立ってあげなかった。
何も言わず、何も奪わず、何も縋らず。
それが、いちばん残酷だと知っていたから。
マリエルという少女について、思うことがないわけではない。
けれど、彼女は被害者であると同時に、「見ないふりをした当事者」でもあった。
既婚者だと知っていて、教師だと知っていて、それでも「選ばれた」と信じた少女。
その感情は純粋だったかもしれないが、無知は無自覚に罪を生む。
わたくしは、彼女の幻想まで、壊すつもりはなかった。
現実は、いつだって、自分でぶつからなければ意味がない。
ライアン様は、愛を選んだのではない。
責任を放棄しただけだ。
それを、愛と呼ぶから、同じ過ちを繰り返す。
あの方が失ったものは、地位でも、職でもない。
「選ばれる資格」だ。
それに気づいたときには、もう、誰も彼を選ばない。
わたくしは、今、とても自由だ。
誰かの感情の後始末をする必要もなく、誰かの未熟さを背負う義務もない。
静かな朝に、自分のためだけに紅茶を淹れる。
それだけで、満たされる。
人生最後の恋をした夫を、わたくしは、確かに応援した。
彼が、わたくしの人生から完全に退場するために。
それが、妻としての、最後の務めだったのだから。
現在のわたくしは、誰の妻でもない。
されど、孤独ではない。
朝は、自分の意思で目を覚ます。
誰かの不機嫌を気にすることも、誰かの未熟さを補う必要もない。
侯爵家に出戻ったわたくしは、当主代行として領地を治めている。
不思議なことに、妻であったころよりも、人はわたくしの話をよく聞く。
決断は早い。
約束は守る。
感情で責任を曲げない。
そう評価されているらしい。
社交の場では、時折縁談が持ち込まれる。
再婚の話も、決して少なくはない。
けれど、わたくしは首を横に振る。
誰かに「選ばれる」ために生きる必要が、もうないから。
今のわたくしは、選ぶ側である。
誰と時間を過ごすか。
誰の言葉を信じるか。
誰に、微笑みを向けるか。
すべて、自分で決めている。
かつて 「冷たい妻」と呼ばれたことがある。
感情を荒げず、引き止めず、恨み言一つ、言わなかったから。
あれは冷たさではない。
自分の矜持を保っただけ。
人生最後の恋をした夫を、わたくしは応援した。
彼の人生のためではなく、わたくし自身の人生を守るために。
今、窓から差し込む光は、とても穏やかだ。
この静けさを、誰かのために手放すつもりはない。
もし、いつか。
この静寂を乱すほどの人が現れたなら……。
そのときは、わたくしが、選ぶ。
選ばれなかった女としてではなく、選ばれる価値を、自分で証明した女として。
わたくしは今、わたくしの人生を生きている。
了
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