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後半第3節「戦力外通告」(後編)

拓真たちの「思想教育」から数日後

昼下がりの屋上。

いつもの隅っこに腰を下ろし、食堂で買った弁当を広げた。

食堂のゲートは相変わらず閉ざされたまま。諦めた「オタク側」は

教室かそれぞれの場所で食べている。

冷たい風が少し吹き抜け、グラウンドからは談笑する声が遠く響いてくる。


「……静かだな」

つぶやいても返事はなく、ただ雲の切れ間から射す光だけが弁当を照らす。


拓真も玲央達が属している「イケメンクラス」は午前授業のみで、もう帰っている。

同じ学校にいながら、ここまで扱いが違うのかと、思わずため息がこぼれた。


箸を進めながら、蓮はカバンの中から「七星生の心構え」を取り出して眺める。

今日の午後は、これを持参しての特別授業――それだけは告げられている。

だが、内容については誰も何も教えてくれない。


(……何をやらされるんだろうな)


食べ終えた弁当を片付け、深呼吸をひとつ。

冷たい空気が肺を刺す。


予鈴のチャイムが校舎に響いた。

蓮は立ち上がり、胸の奥に小さな緊張を抱えながら階段を降りていった。


――午後の特別授業が、いま始まろうとしていた。


蓮は弁当箱を片付け、階段を下りた。

廊下はしんと静まり返っている。

午前で下校したイケメンクラスの姿はなく、残っているのは自分たち「オタク側」だけ。


「……講堂、か」

つぶやいてカバンを机の上に置き、その中から「七星生の心構え」を取り出し、足を進めた。


校舎を抜けると、正面玄関前にはすでに数十人の生徒が整列させられていた。

皆、同じ「オタク側」のクラスメイトや他クラスの顔ぶれだ。

表情はどこか固い。中には緊張で落ち着かず、ポケットから小さなメモ帳を取り出している者もいる。


入口付近には、ICカードリーダ付き携帯端末を携え、「SS」と書かれている小さなバッジをつけた男女数人が立っていた。

制服は他の生徒と同じだが、胸元のバッジだけが彼らを異質な存在に見せている。


「学生証を提示してください」

前に並んでいた男子がカードリーダーに学生証をかざす。

ピッ――短い電子音。

画面には「許可」の文字が表示され、通される。


次の女子がカードをかざす。

ピッ――一瞬、赤い文字が点滅した。

SSの一人が小声で何かを確認し、ややフレンドリーな口調で告げた。

「……昨日の図書室利用、少し時間オーバーでしたね。気を付けてください」

「は、はい……」

SSが端末操作した後彼女は怯えながらもう一度カードをかざし、今度は緑の「許可」。


蓮の番が来た。

学生証を取り出し、リーダーにかざす。

ピッ――「許可」。

機械的な音と緑の光に、思わず安堵する。


「『心構え』は持参していますか?」

SSのひとりが笑顔を浮かべて尋ねた。

「はい」

冊子を軽く振ると、彼はうなずいた。

「確認しました。……頑張ってきてくださいね」

その一言が、妙に胸に残った。


講堂に入ると、すでに半分ほどの生徒が着席していた。

ざわめきはほとんどなく、みんな押し殺したように小声で会話していた。


蓮も後ろの方の席に腰を下ろし、冊子を膝の上に置く。

表紙に印刷された「七星生の心構え」の文字が、いつもより重たく見えた。


やがて前方の扉が開き、スーツ姿の教職員たちが列を作って入ってくる。

その中に、校長の姿もあった。

会場が一斉に静まり返る。


そして――壇上に立ったのは、かつて国政の表舞台に立った大臣や要職経験者たち。

彼らの演説が、今まさに始まろうとしていた。


壇上に立った初老の男は、かつて七星の卒業生であり、いまは法務大臣を務める人物だった。

背筋をぴんと伸ばし、淡々とした口調で口を開く。


「皆さん。まず伝えておきたいのは――“自由”とは無限ではない、ということです」


その声は低く抑えられながらも、不思議な迫力を帯びていた。


「人は社会の中で生きる以上、必ず“規範”に従わねばならない。

規範を守らず、周囲に迷惑をかける者は、たとえ一人であっても秩序を崩壊させる。

それを防ぐために“法律”があり、“罰則”がある。これは国に限らず、学校という共同体でも同じだ」


蓮は前の席で緊張したように背筋を正す生徒たちを見つめながら、静かに息を呑んだ。


「この七星で制定されている『心構え』――それは単なる注意書きではありません。

皆さん一人一人が秩序を守るための“契約”であり、これを守れぬ者は社会に適応できない者と見なされる」


会場の空気が固くなる。誰も咳払いひとつしない。


「私は法務大臣として、多くの事件や裁判を見てきました。

その中には“自由”をはき違えた若者も数多くいました。

自由を盾にして規範を壊し、最終的には自らの未来を壊したのです。

――皆さんには、そうなってほしくない」


一拍置き、彼は『七星生の心構え』を手に取って掲げた。


「ここに書かれていることを徹底しなさい。

それはやがて皆さんの人生を守り、社会を守り、国家を守ることにつながる。

そして、規範を乱す者がいたなら――ためらわず排除しなさい。

法とは冷たく見えるかもしれないが、秩序を維持するためには“冷たさ”こそ必要なのです」


その言葉に、蓮の胸はざらりとした重みで満たされた。

(……本当に、それが“正しい”のか……?)


続いて壇上に立った厚生労働大臣は、白髪まじりの落ち着いた風貌で、穏やかな声で話し始めた。


「皆さん――まず、全国制覇を成し遂げた七星学園サッカー部に、心から敬意を表します。

その努力と結束は、健康であること、そして人と人とが支え合うことの大切さを示しました。」


柔らかい言葉に一瞬安堵した生徒たち。だが次の言葉は、鋭さを帯びた。


「しかし――この国の未来を担う皆さんに、ひとつ理解してほしいことがあります。

国家は『優れた人材』を守り、次世代に引き継がねばなりません。

そのためには“健康”と“資源”の配分を、ただ等しくではなく、効率的に行わなければならない。」


空気がわずかに張りつめる。


「例えば、医療や福祉にかけられる予算は限られています。

本当に価値のある人材に優先的に投資する――それが、国家を維持するための“合理性”なのです。

皆さんも知っているはずです。教室システムの健康データや成績データは、すでに国の政策決定に活かされている。

努力し、成果を出す者は“支援”を受ける。そうでない者は――淘汰される。」


生徒たちの中にざわめきが広がる。

「淘汰」という言葉に居心地の悪さを覚えつつも、「そうなのか…」と納得する者もいた。


大臣は一瞬、柔らかな笑みを取り戻す。


「誤解しないでください。私は弱者を切り捨てろと言っているのではありません。

努力し、可能性を示す者には必ず“再挑戦の機会”がある。

だが――その意思すら見せない者を、国家が無限に支える余裕はないのです。」


最後に、生徒たちへと真っすぐな視線を向ける。


「君たちが歩む未来は、ただ『生きる』のではなく、『生かされるに値する人間』として存在すること。

それを胸に刻んでください。七星(ここ)での学びは、そのための第一歩なのです。」


拍手が起きる中、数人の生徒たちの顔は、固まったままだった。


壇上に立ったのは、背筋をぴんと伸ばし、制服のような濃紺のスーツに小さな勲章をつけた男――警察庁長官。

その眼差しは一点の曇りもなく、講堂の空気を一気に緊張へと変えていった。


「君たち七星学園の生徒は、学業だけでなく“規律”を守ることでも注目されている。

だが――社会に出れば、規律を破る者、逸脱する者、そして秩序を乱す者が必ず現れる。」


一呼吸置き、低く響く声。


「国家にとって最大の脅威は“外敵”ではない。

内側から秩序を壊す、“異端”だ。

犯罪者、テロリスト、思想的に逸脱した人間……。それは皆、最初は“学校”や“家庭”の中から芽吹きます。」


生徒たちの間に、ざわりとした動揺が走る。


「だから我々は、未然に芽を摘まなければならない。

この七星の“教室システム”や生活データは、そのための有効な道具だ。

誰が夜更かしをしているか、誰が成績を落としているか、誰が異常な交友をしているか――。

それらは全て“予兆”として記録され、分析される。」


蓮の胸がずしりと重くなる。

(……完全に“監視”だ)


長官は冷ややかに続けた。


「もちろん、これは君たちを締め付けるためではない。

“健全な生徒”を守るためだ。

法を守り、秩序を尊ぶ者は守られる。だが一度でも逸脱すれば――我々は容赦なく介入する。」


沈黙の後、長官はふっと口角を上げた。


「七星生徒諸君。君たちは“選ばれた人材”だ。

君たちの未来は、この国の未来そのものだ。

だからこそ、規律を乱す者を見たら――ためらうな。

君たち自身が最初の防波堤となれ。」


最後の言葉が、突き刺さるように講堂に響いた。


拍手は控えめだったが、一部は力強く頷いていた。

一方、蓮の胸には、冷たい鉄の枷がはめられたような息苦しさが広がっていた。


重々しい拍手が収まり、警察庁長官が退場する。

会場には沈黙だけが残った。


椅子の軋む音、ざわつく気配すらない。

まるで全員が言葉を奪われたかのようだった。


壇上に、最後に立ったのは七星学園の校長。

白髪まじりの髪をきっちり撫でつけ、深い皺に刻まれた表情は、どこか“温厚さ”を装いながらも、その瞳は鋭く光っていた。


彼はゆっくりとマイクに手を添え、深呼吸をしてから語り始めた。


「――諸君。今日、ここで聞いた大臣方、そして長官のお話を胸に刻んでほしい。

七星学園は、ただの学校ではない。ここは“未来の国家を担う人材を育てる場”である」


その言葉に、前列の生徒会役員たちが姿勢を正す。

生徒たちも一様に緊張した面持ちでうなずいた。


校長は続ける。

「秩序なき自由は、ただの混乱だ。だが秩序のための規律は、諸君を縛る鎖ではない。

むしろ――それは“翼”だ。国家の未来に羽ばたくための翼なのだ」


体育館の中に、静かな熱が広がっていく。

しかしその熱は温もりではなく、息苦しい重さを帯びたものだった。


校長は手に持っていた『七星生の心構え』を高く掲げる。

「この冊子は、単なる紙切れではない。諸君の“証”であり、“矜持”である。

諸君一人ひとりがこの規律を胸に抱くとき、七星は、いや、この国は、揺るぎなき未来を築くだろう」


そして、少し声を落とし、会場を見渡した。

「だが――もしも、これを軽んじる者がいればどうなるか。

それはやがて、“仲間を危険に晒す”ことに繋がる。

諸君はもう理解できるだろう。……必要なのは、ただ一つ。“潔さ”だ」


その「潔さ」という言葉が、ひやりと生徒たちの背中に突き刺さる。

従う者は守られる。逸脱する者は排除される――

言葉にはされなかったが、その暗黙の宣告を全員が理解した。


校長は最後に、微笑を浮かべて締めた。

「皆さんの健闘を祈ります。七星の名に恥じぬよう、これからの日々を歩んでください」


拍手が起こる。だがそれは心からの共感というより、抑圧された空気の中で強制的に叩かされた音に近かった。


蓮は、膝の上に置いた冊子を強く握りしめた。

(……翼なんかじゃない。これは……鎖だ)


胸の奥に小さな棘が刺さる。

誰もそれを抜いてはくれない。


倉原は生徒会席から彼がいる席に視線を向けたまま、ほんの一瞬だけ蓮の表情を盗み見た。


(……やっぱり。野中くんも、もう気づいている。

これは“教育”なんかじゃない。“支配”だって)


彼女は深く息をついた。

だが、そのため息は誰にも届かない。


壇上に再び教員の一人が立ち、事務的な声を響かせる。


「本日の特別授業はこれで終了です。各自、教室に戻り、記録した要点を整理するように」


がたがたと椅子が引かれる音。

列をなして立ち上がる生徒たち。


蓮も、流れに押されるように立ち上がった。

目の前には無機質な出口。

そこを抜ければ、またいつもの「日常」に戻るのだろう。

だが、その日常は――もう今日の昼までと同じではなかった。


蓮が講堂を去る背中を見て、ともみは心の中で呟く。

(……野中くん…大丈夫。君は一人じゃない)


体育館を出ると、肌に触れる外気がやけに冷たく感じられた。

ざわめきながら移動する生徒たちの列に混じりながら、蓮は自分の足音だけが妙に響いているように思えた。


(……秩序の枠内で輝く自由、か)

さっき校長が言った言葉が、耳の奥で何度もリフレインする。


廊下の窓に映った自分の姿を、思わず見つめた。

全国優勝を果たしたはずの自分。

でもその誇りは、誰も見ていない。

むしろ「秩序を乱す可能性のある存在」として、今まさに線を引かれようとしている。


(俺は……“枠の外”に立たされてるんだな)


数日前に寄り道から帰る途中にイケメン側の生徒たちは、なお明るく談笑している。

「副総裁、すげぇ迫力だったよな」

「俺たち、選ばれた側なんだって実感したわ」

彼らの笑顔は眩しいほどだった。


対照的に、オタク側の生徒たちは口数少なく、うつむきながら歩いている。

中には、無言で袖をぎゅっと握りしめている者もいた。

(……みんなも同じだ。誰も声には出さないけど、不安なんだ)


階段を上がり、自分の教室が近づくにつれて、胸の奥が重くなる。

寄せ書きで祝福してくれたクラスの仲間の笑顔が脳裏をよぎった。

けれど――それさえも、まるで遠い記憶のように霞んでいく。


(あの拍手も、あの「ありがとう」も……もう“過去”なんだろうか)


扉の前に立ち、深呼吸を一つ。

気持ちを切り替えようと試みるが、頭の中に残るのはあの最後の言葉だった。


「誤れば責任が伴う」


(俺は……どこまで耐えられるんだろう)


小さな呟きを心の中で漏らしながら、蓮は重たい扉を押し開けた。


蓮が教室に戻ると、そこはまるで「お通夜」のような静けさに包まれていた。

ざわめきも笑い声もない。机に突っ伏している者、冊子をを機械のように開き、読み返している者。

目に光の宿っていない友人たちの顔を見て、蓮の背筋にぞわりと冷たいものが走った。


(……なんだ、この空気)


黒板の前に立つのは担任ではなく、講堂で同席していた別の教師だ。

白衣姿のその男は、抑揚のない声で言葉を吐き出す。


「――さきほどの講義内容を整理しなさい。『心構え』の該当箇所を開いて」


ざらりと一斉にページをめくる音。

生徒たちの動作はあまりに揃っていて、蓮にはそれが「指揮に従う兵隊」のように映った。


教師はチョークを持ち、黒板に無機質な文字を書きつける。


役割


国家を支える人材の階層


下位は「迷惑をかけないこと」が使命


「……これが、我々が君たちに求められている“スタンダード”です」


淡々とした声が教室を満たす。

蓮はノートを取るふりをしながら、心臓の鼓動だけがやけに大きく聞こえていた。


(俺たちは……ただの部品ってことか?

 全国制覇しても、努力しても……結局、“下”に押し込められるだけなのか?)


隣の席を見ると、友人が感情を殺した顔で「そう書け」と目で促してきた。

彼もまた“従うしかない”と悟った一人なのだろう。


「――復習内容は、明日までにまとめて提出。忘れずに」


教師の言葉に、教室の空気はひび割れることもなく沈黙のまま続いた。

ただ鉛筆の走る音だけが機械的に重なり合い、やがてチャイムが鳴った。


蓮は深く息をつき、閉じたノートを睨むように見つめた。

(……違う。これが正しいなんて、俺は思えない)


しかし、その想いを口にすることはできなかった。

――誰もがその言葉を待っているはずなのに、言えない。

「空気」が、完全に蓮の口を塞いでいた。


教師は去り、帰りのホームルーム

担任は立ち上がり、に数枚のプリントを持ち、歩みはゆっくりとしたものだった。


「……配るぞ」


淡々とした声と共に、一枚ずつプリントが配られていく。

誰も反応せず、ただ機械的に受け取るだけ。

その沈黙を破るように、担任はふと天井隅に取り付けられた防犯カメラを一瞥した。

ほんの数秒。だがその仕草に、生徒たちは敏感に気づいた。


配布が終わると、担任は前に立ち、教室全体を見渡した。

そして、重々しく口を開いた。


「私は教鞭をとって十五年になる。……正直に言おう。

これまでこの『授業』の後、目が当てられないほど荒れるクラスを何度も見てきた」


生徒たちの視線がわずかに上がる。

担任の声は決して大きくない。だが、言葉の一つひとつがしっかりと胸に響いてきた。


「けれど……君たちはよく耐えてくれた。私は本当に、このクラスを誇りに思う」


沈んでいた空気が、わずかに動いた。

蓮もまた、顔を上げて担任を見つめた。隣の席でも、数人が同じように視線を向けている。


「『先生方』が言ったように、大人になれば必ず目の当たりにする。例え無知であっても、例外はない」

担任は少し間を取り、机の上に手を置いた。

「そして……知る術は、限られている。だからこそ今、何を信じ、どう行動するかを考える力が大切なんだ」


その言葉に、クラスの空気が少しだけ緩んだ。

完全な解放ではない。だが「耐えていい」と肯定された事実が、沈んだ心に小さな火を灯した。


担任は柔らかく微笑んだ。

「……今日のホームルームはここまで。明日の宿題は忘れないように。」


夕陽が差し込む帰り道。

公園のグラウンドからはボールを蹴り、楽しく遊んでいる子供たちの音が聞こえる。

だが蓮は足を止めず、その音から目を背けた。


(俺は……これから、どうなるんだろう)


胸に残るのは担任の言葉と、体育館で浴びせられた「優生思想」めいた演説。

両極端な声が、心の中でせめぎ合う。


拳を強く握りしめる。

それでも――今日だけは。

担任が与えてくれた小さな灯火を、胸の奥にしまって帰ろうと決めた。


週明けの昼

屋上の片隅。

蓮は買ってきた弁当を広げ、風に髪を揺らしながらひとりで箸を進めていた。

静かで、どこか寂しい時間。


「――やっぱり、ここにいた」


振り向くと、扉の向こうから涼子が現れた。

手には小さめのパンと紙パックのジュース。


「佐藤さん……」

「食堂、もうカオス状態だったわよ。あそこで食べる気、失せたから」


涼子はそう言って、当たり前のように蓮の近くに腰を下ろした。

彼女の明るい声が、少しだけ風景をやわらげる。


「遅くなったけど、全国大会……おめでとう。ちゃんと見てたんだから」

「え……ありがとう」

蓮は照れたように笑って頭をかく。


「拓真と玲央ばっかり注目されてたけど、野中くんもすごかったよ」

「いや、俺なんて……」

「またそれ! すぐそうやって自分を下げるんだから」


涼子が頬をふくらませると、蓮は思わず笑ってしまった。


「でも、本当に良かった。あの試合、感動したんだから」

「……そう言ってもらえると、報われるな」


ほんの数分の会話だったが、蓮の胸の重さは少しだけ和らいだ。


昼休み終了のチャイムが鳴る。

涼子は立ち上がり、パンを食べ終えると笑顔を向けた。


「じゃ、またね。午後も頑張ろ」

「……ああ」


扉が閉まると、屋上には再び静寂が戻った。

残された蓮は、ほんのり温かい余韻を抱きながら片付けを始めた――。


昼休みが終わり、廊下はすでに人影が少なくなっていた。

蓮が屋上から降り、教室へ戻ろうとしたその時――


「――野中蓮くん、少しよろしいですか?」


背後から声をかけられた。

振り返ると、制服姿の二人組が立っていた。

ぱっと見は普通の生徒だが、胸には小さな生徒会バッジが光っている。

彼らこそ「SS」と呼ばれる存在。「School Security(学園警備隊)」の略称で

生徒会長直属の監視・取締り役をしている。


「……なんでしょうか」

蓮は心臓が跳ねるのを感じながらも、努めて冷静に答えた。


片方の生徒がフレンドリーな口調で口を開いた。

「今日、屋上で誰かと一緒に食事していましたね?」

「……はい」

「“七星の心構え”には、異性との不必要な接触は厳に慎むようにとあります。

ご存じですよね?」


蓮は思わず唇を噛んだ。

確かに涼子と並んで昼を食べていた。

だが、それを“違反”と言われるとは思っていなかった。


「誤解です。あちら側から話をしていただけで……」

「誤解かどうかは、こちらで判断します」

もう一人が割って入るように、冷たい声で言った。


「今回は注意ということで済ませます。ただし――」

フレンドリーな方が、端末を取り出し、蓮の学生証をかざすように促した。

「学生証をお願いします。記録に残しますので」


蓮は渋々カードを差し出し、端末にタッチした。

ピッという音と同時に、小さな警告ランプが点滅する。


「……はい、処理しました。これで一度目の記録です」

「……」


蓮の胸に冷たいものが広がる。

記録――つまり、次があれば「二度目」。それ以上は停学もありえる。


「それと」

フレンドリーな生徒が、手招きをし顔を近づけた

そして彼は、小声で声のトーンを落とした。

「来週から屋上の利用制限が始まります。……君も知っているでしょう? 食堂の件」

「……ええ」

「同じように、屋上も“混雑回避”の名目で制限されます。

実際は……まあ、オタク側の生徒が多く利用しているから、ですね」


蓮は息を呑んだ。

(……また居場所が、ひとつ消えるのか)


二人のSSは、最後に少しだけ柔らかい表情を見せた。

「俺たちも君の試合、見たんだよ。全国決勝、すごかった」

「……ありがとうございます」

「だからこそ、もう引っかかるなよ。次は助けられない」


そう言い残し、二人は足音を響かせて去っていった。


廊下にひとり取り残された蓮は、深く息を吐く。

温かいはずの涼子との会話の余韻は、もう跡形もなく消えていた。


午後の授業。

蓮は机に向かいながらも、さっきのSSの言葉が頭を離れなかった。


(……一度目の記録。次はない……)

心臓を締めつけるような圧迫感。

けれど、隣の席のクラスメイトは何も知らずに笑っている。

教室の空気だけが、自分から切り離されていくように感じられた。


放課後。

部室で拓真と玲央が笑いながら話していた。

「おい蓮! さっきの数学、小テストの点数どうだった?」

「玲央はやたら計算速かったよな」


蓮は笑顔を作って答える。

「……まぁ、そこそこ」


普段と変わらない声を出す。

本当は屋上での出来事を話したい。

だが――口にした瞬間、二人まで巻き込むかもしれない。


(……あの二人には絶対言えない。巻き込んだら……終わる)


「おーい、帰るぞ!」

拓真が肩を軽く叩く。

その手の温もりに、少しだけ救われる。


「うん。今行く」

笑って答える自分が、まるで仮面をつけているように思えた。


夜、机に向かい勉強をしていても、頭の隅にちらつくのは警告音。

ピッ、と鳴ったあの機械音が耳にこびりついて離れない。


(……全国制覇しても、俺の居場所はどんどんなくなっていくんだな)


ペンを置いた蓮は、天井を見上げて深く息をついた。

誰にも打ち明けられない秘密を抱えたまま、変わらない日々を迎えるしかなかった。


昼休み。

七星学園の屋上は、いつもならオタク側の生徒たちの憩いの場だった。

だがその日、入口には簡易ゲートが設置され、SSが二人立っていた。


「……何で入れないんだよ!」

「俺たち、ここでしか落ち着けないのに!」


抗議の声を上げる生徒たちに、SSは冷静に告げる。

「規定です。オタク側の利用は制限されました。学食か教室で食事をしてください」

「ふざけんなよ! イケメン側は普通に入ってるじゃねぇか!」

「そうだよ!それに、学食もいまだに入れないじゃないか」

「システム修理はまだなのですか…」

「静粛に。違反すれば指導対象です」


ピッ、と無機質な端末音が響くたびに、彼らの学生証に「警告」の文字が記録されていく。

その光景に、さらに不満の声は高まったが、誰もSSには逆らえなかった。


蓮はその人だかりを遠巻きに見て、ため息をついた。

(……これじゃ、ますます肩身が狭くなるだけだ)


人混みを避け、校舎裏のベンチに腰を下ろす。

弁当箱を開き、ひとり箸を動かすが、味はほとんど感じられなかった。


「――野中くん」


不意に名前を呼ばれ、蓮は顔を上げる。

そこに立っていたのは、生徒会副会長の倉原ともみだった。


「……!」

咄嗟に立ち上がり、距離を取ろうとする。

彼女と一緒にいるところを見られれば、また妙な噂を立てられるかもしれない。


だが倉原は小さく手を振り、穏やかな笑みを浮かべた。

「大丈夫。私も“オタク側”だから」

蓮は動きを止める。


「……でも、生徒会だろ」

警戒の色を隠せない声。


「うん。だからこそ、言えることもあるの」

ともみはすっと隣に腰を下ろし、声を潜める。

「生徒会権限を使えば……少しは融通できる。全部は無理だけど、

あなたがここで一人で食べるくらいなら、誰も咎めないようにできる」


蓮は思わず目を見張った。

(……俺のこと、守ろうとしてる?)


ともみは、まっすぐに彼を見つめる。

「野中くん。あなたが一人で潰されるのを、私は見ていたくないの」


静かな昼下がり。

弁当箱の上に、どこか柔らかな風が吹き抜けた気がした。


弁当の箸を止めたまま、蓮は倉原を見た。

彼女の言葉は優しい。けれど、生徒会のバッジがやっぱり目に入ってしまう。


「……本当に、大丈夫なんですか」

声は自然と小さく、震えていた。


倉原は少し首をかしげ、穏やかに笑う。

「どうしてそんなに怯えるの?」


「だって……生徒会でしょ。俺がどこで何してるか、全部見られてる気がして……」


言葉にしてから、自分でも情けないと思った。

でも、それが正直な気持ちだった。


ともみはしばらく黙っていたが、やがて小さくため息をついた。

「確かに……生徒会って、監視してるように見えるよね」

そう言って、自分のバッジを外し、胸ポケットの中にそっとしまう。


「でも今ここにいるのは、“生徒会の倉原”じゃない。

 “オタク側”の倉原ともみ。……これで信じてもらえる?」


蓮は喉が詰まるような感覚を覚えた。

完全には信じられない。けれど、嘘を言ってるようにも見えない。


「……じゃあ、一つだけ聞きます」

恐る恐る口を開く。

「もし……俺が本当に潰されそうになったら。あなたは……俺を守ってくれるんですか」


ともみは目を瞬かせ、それから真剣に頷いた。

「……うん。できる限りのことはする」


蓮の胸に、ほんの少しだけ温かさが広がる。

だが同時に、それは危うい炎のようでもあった。

(……信じすぎるのは、危ない。けど……今は、この言葉を掴んでいたい)


静かな昼休みの校舎裏。

二人の間に、緊張と微かな安堵が入り混じった沈黙が落ちた。


その瞬間だった。


「――君たち、ここで何をしている?」


低い声が割り込む。振り向くと、胸に小さな生徒会バッジを付けたSSの生徒2人組が近づいてくる。

腕を組み、冷たい視線で二人を値踏みしている。


蓮の心臓が跳ねる。

(見られた……! また疑われる……!)


「異性との不必要な接触は禁止事項のはずだ。説明してもらおうか」

SS生徒の言葉は淡々としているが、どこか有無を言わせない威圧感があった。


蓮は言い返そうとして、声が詰まった。

だが、ともみが一歩前に出る。


「その必要はありません」

静かに、だが凛とした声だった。

彼女は胸元から生徒会役員の証であるカードを取り出し、隊員の目の前に突きつける。


「生徒会副会長、倉原ともみ。私の権限で、ここでの行動は問題なしと判断します」


一瞬、空気が凍りついた。

SS生徒は目を見開き、慌てて直立不動になる。


「……し、失礼しました! 副会長殿!」

SS生徒は頭を下げ、足早にその場を立ち去ろうとした。


ともみはその背中に、柔らかい声をかける。

「ご苦労さま。巡回、ありがとうございます」


生徒は一瞬振り返り、居心地悪そうに小さく頷いて去っていった。


蓮はそのやり取りを見て、余計に混乱した。

(叱り飛ばすかと思ったのに……。むしろ、普通に労ってた……?)


ともみは振り返り、いたずらっぽく笑う。

「ね。言ったでしょ? ……私が一緒なら、何とかなるって」


蓮はしばし呆然と立ち尽くした。

言葉は出てこない。ただ、胸の奥で不安と安堵がせめぎ合っていた。


「……」

唇を噛む蓮を見て、ともみは少し優しく笑みを和らげる。

「大丈夫。今はね」


その言葉に含まれた意味を、蓮はまだ理解できなかった。


「……ありがとうございます」

言葉にした瞬間、自分の声が少し震えていることに気づき、蓮は箸を止めた。

(本当に助かった……でも……)


SSに見せたあの態度。

まるで「副会長」としての彼女は絶対的な存在だ、と言わんばかりだった。

だが同時に――押田の「派閥」に属する者でもある。

恩義と不安が、胸の奥でせめぎ合う。


「野中くん、卵焼き好きでしょ? 半分あげる」

ともみが差し出した箸先には、きれいに焼かれた黄色が揺れている。


「えっ……いや、悪いですよ」

慌てて手を振るが、彼女は小さく笑って、容赦なく蓮の弁当箱に乗せた。


「いいの。私、作りすぎちゃったから」


……そんな自然なやりとりさえ、蓮にはどこか不思議に思える。

(どうしてここまでしてくれるんだろう……? ただ“同じ側”だから? それとも……)


「野中くん」

ふと、ともみの声が少しだけ真剣味を帯びる。

「大丈夫。誰が何を言おうと、あなたが“頑張った”ことは事実なんだから」


一瞬、心臓をつかまれるような感覚がした。

彼女の瞳には、押田に従わされている“人形”のような影がなくて――

ただ、同じステータスに縛られた者としての温かさがあった。


「……ありがとうございます」

蓮はそれだけを返し、そっと目を伏せる。


隣でともみは、自分の弁当を開いた。

ふたり、風に髪を揺らされながら――静かに昼食を並んで食べ始める。


(信じきるのは……怖い。けど、この人がいてくれて……少し救われた気がする)


そんな揺れる思いを抱えたまま、蓮は箸を進めた。


弁当を食べ終えた蓮は、空になった箸箱を膝の上で弄びながら、小さく息を吐く。


「……ふぅ。ごちそうさまでした」


隣を見ると、ともみもまた箸を置き、空を仰いでいた。

秋の青空が広がる中、その横顔は一瞬、大人びて見えた。


「野中くん」

ぽつりと呼ばれて、蓮は思わず背筋を伸ばす。

「今日みたいに……誰かが理不尽に突っ込んできても、全部“あなたが悪い”なんて思わないで」


「……でも、俺が狙われやすいのは事実だから」

蓮の声はかすれ気味で、どこか自嘲に近い。


ともみは首を横に振る。

「そうやって抱え込むから、余計に狙われるんだよ」

優しいけど、どこか切ない響きを帯びていた。


蓮は言葉を失い、黙ってうつむいた。

屋上の影が少しずつ伸びていく。

校庭からは部活の掛け声が響いてきたが、この場所だけは取り残されたように静かだった。


「……時間、そろそろだね」

ともみが立ち上がり、スカートの裾を整える。

「ごちそうさま。ありがと、野中くん」


「え? ……俺、何もしてないけど」

思わず返すと、ともみは肩越しにふっと笑った。


「一緒に食べてくれただけで、十分」


その笑顔に、蓮は一瞬返事を忘れてしまった。

気づけば、胸の奥にほんの小さな温もりが灯っている。


「……こちらこそ、ありがとうございました」

小さく頭を下げると、ともみは軽く手を振り、先に階段を降りていった。


残された蓮は、空を見上げる。

(……やっぱり信じきるのは、怖い。でも……)

ほんの少しだけ、今日の昼は救われた気がしていた。


夕暮れのグラウンドに、スパイクが芝を叩く乾いた音が響く。

七星中サッカー部は、全国制覇を終えても練習を欠かさなかった。

ただ、この日の空気は少し違っていた。


グラウンドの外、数人の記者がカメラを構えていたのだ。

「全国初優勝チーム」「無名からの快進撃」――そんな見出しを狙って。

部員たちの視線は、自然とそのレンズを意識してしまう。


蓮も例外ではなかった。

ボールを受け取るたび、背中に光が突き刺さるような感覚がある。

(……落ち着け。普段通りに)

自分に言い聞かせながら、パスを繋ぐ。


その時、背後から低い声が囁かれた。

「……野中先輩。右サイドのポール、見てください」

声の主は湯田だった。汗を拭いながら、表情は険しい。


「ポール?」

蓮が一瞬視線を流すと、確かにライン際に置かれたマーカーが不自然な位置に転がっていた。

足を取られれば派手に転び、報道陣のカメラに“失態”が映る絶好の位置。


「……三年の先輩たちが、さっき置いたんです。

 『どうせオタクが全国取れたのはマグレだ』って。ここで醜態さらせば、証明できるって」

湯田の声は震えていた。だが、真剣そのものだった。


蓮は一瞬、息を呑んだ。

(……そんなことまでして……)


次の瞬間、ボールが回ってきた。

ライン際へドリブル――だが、蓮はギリギリで軌道を変えた。

ポールを踏むことなく、逆に切り返してDFを抜き去り、正確にセンタリングを上げる。


「ナイス!」

拓真が走り込み、強烈なシュートを叩き込んだ。ネットが大きく揺れる。


歓声とシャッター音が同時に響いた。

グラウンドの外の記者が「さすが全国王者!」と口々に語る。


一方で、ポールを仕掛けた三年たちは顔をしかめていた。

「ちっ……気づきやがったか」

「1年のチクりか……」


しかし、その表情を拓真と玲央は見逃さなかった。

拓真の目は怒りに燃え、玲央の瞳は鋭く細められていた。


(……あいつら、まだ蓮を潰そうとしてるのか)

二人の胸に、疑念と苛立ちがじわじわと広がっていく。


蓮はただ、何事もなかったように走り続けた。

湯田の忠告がなければ、今ごろ自分は全国に“晒される笑い者”になっていただろう。

それを考えると、背筋が冷たくなった。


夕暮れのグラウンドに静けさが戻る。

取材陣はすでに引き上げ、残ったのは汗に濡れた部員たちの息遣いと、片付けの物音だけだった。


拓真はスパイクを脱ぎかけた足を止め、振り返った。

視線の先には、さっきポールを仕掛けた三年の先輩たちが固まっている。

彼らの顔には、まだ悔しさと苛立ちが残っていた。


「……おい」

低い声で呼びかけた瞬間、空気が張り詰めた。

普段は明るい拓真の声色が、鋭く冷えていたからだ。


「今日の、あれ……お前らだろ」

拓真が一歩、二歩と近づく。

その背には汗にまみれた筋肉の張りと、全国を制した自信が宿っている。


三年の一人が鼻で笑った。

「何の話だよ。勝手に足滑らせるのも実力のうちだろ」


次の瞬間、拓真の拳が壁を打ち鳴らした。

「ふざけんな! 仲間を、なんで足引っ張ろうとするんだ!」

その怒声に、部室が震える。


玲央も口を開いた。

声は静かだが、目は氷のように冷たかった。

「俺も見た。……蓮の前に置かれた不自然なポール。

 もしあそこで転んでたら、全国の記者に“七星の恥”として映されてた」


三年たちは顔を見合わせ、言い訳を探す。

「……別に、ちょっとした悪ふざけだろ」

「アイツはオタクだし、持ち上げられすぎてるから、調子に乗るなって「警告」をしたつもりだったけど……」


玲央の瞳が鋭く光る。

「“オタクだから”って潰すのが、お前らの“サッカー”か?」

その一言に、三年たちは口を噤んだ。


拓真が畳みかけるように吐き捨てる。

「二度と蓮にちょっかい出すな。俺と玲央が許さねぇ」


しばし沈黙――やがて三年の一人が舌打ちし、荷物を乱暴にまとめて部室を出ていった。

残された者たちも、不満げな顔を隠せぬまま続いて出ていく。


残った空間に、荒い呼吸と緊張の余韻だけが残った。


玲央は深く息を吐いた。

「……ったく。くだらねぇ」

拓真も頭を掻きながら、少し笑みを見せる。

「でも、これで少しは黙るだろ」


二人はロッカーに腰を下ろした。

その視線の先で、蓮は黙々と後輩とボールを片付けていた。

何があったのかは気づいていない――ただ一心に、グラウンドを後にする準備をしている。


(……守るのは、俺たちの役目だ)

拓真と玲央の胸に、同じ思いが宿っていた。


グラウンドの隅でボールを片付けていた蓮が、ふと部室の方を振り返った。

拓真と玲央が三年の先輩たちに詰め寄り、空気が張り詰めていたのを――彼は見逃さなかった。


蓮はタオルで額の汗を拭いながら、二人に歩み寄る。

「……なあ。さっき、先輩と何かあった?」


拓真は一瞬言葉を詰まらせ、頭をがしがしと掻いた。

「いや、ちょっとな。上の連中が……その、軽口叩いてただけだよ」


玲央も視線を逸らし、靴紐を結び直しながら短く続ける。

「気にするな。……お前は今日、十分すぎるくらい走った」


蓮は眉をひそめた。

二人が本当のことを隠しているのはわかる。

だが、それ以上問い詰めることはできなかった。


「……そっか。ありがとな」

そう言って笑顔を作ったが、その奥に小さな不安が残った。


拓真はそんな蓮の肩をどんと叩く。

「気にすんなって。お前はお前のプレーを続けりゃいいんだ」


玲央も短く頷いた。

「……俺たちが隣にいる」


その一言に、蓮の胸に温かいものが広がった。

(……本当に、頼もしいな。二人とも)


けれど――

彼らが何を隠しているのか、その真実を知るのは、もう少し先のことだった。


夕暮れの街を、三人は肩を並べて歩いていた。

部活終わりの疲労が全身にまとわりつくが、不思議と心地よい。


「はぁー、今日も走ったな」

拓真が伸びをしながら声をあげる。

「お前はいつも元気だな……」

蓮は苦笑しつつ、スポーツドリンクをひと口。


玲央は無言で前を歩いていたが、不意に立ち止まり、振り返った。

「……野中」

「ん?」

「今日の守備、悪くなかった。……もっと自信持て」


蓮は思わず目を見開く。

「玲央……」

拓真がニヤリと笑った。

「おおー、アイスマンが褒めたぞ!これはレアだ!」


「……バカ」

玲央は顔を背けたが、耳が赤いのを蓮は見逃さなかった。


三人の笑い声が、夕暮れの道に溶けていく。

だが蓮の胸の奥では、昼間の倉原の言葉や、先輩たちの冷たい視線がまだくすぶっていた。

――それでも、隣にいる二人の存在が、ほんの少しその不安を和らげていた。


翌日

放課後のグラウンド。

次の練習試合を前に、部員たちはいつもより緊張感を持って集まっていた。


「今日から新しい布陣を試す。スタメンは――」

キャプテンが名簿を読み上げていく。


「FW:藤井、東條……」

「MF:川嶋、後藤、南……」

「DF:湯田、三年の柏、源……」


次々と名前が呼ばれる。だが、最後まで「野中」の名は出なかった。


「……以上だ」

キャプテンがボードを閉じる。


「……え?」

蓮は思わず声を上げた。

「俺の名前が、ない……」


「お前はサブだ」

冷たい一言。


「ちょっと待ってください! 全国で戦ったのは野中先輩も一緒だったじゃないですか!」

後藤が慌てて声を上げる。南も頷いた。

「そうです! 野中先輩のパスがなかったら、僕らゴールできませんでした!」


だがキャプテンは眉をひそめ、低い声で言い放った。

「全国は全国だ。これは“次”の戦いだ。俺たちは“問題児”を抱えるつもりはない」


その言葉に、部室からもざわめきが広がる。

「やっぱ噂、本当だったのか」

「空き教室の件だろ?」

「証拠あるらしいぜ」


蓮は拳を握りしめた。必死に否定したい。だが言葉を発すればするほど、さらに泥沼に沈むような気がした。


沈黙の中、拓真が一歩前に出た。

「……キャプテン、それは違うだろ。蓮は“問題児”なんかじゃない」

玲央も低く付け加える。

「俺も同意見だ。全国を勝ち抜いた実力を、噂で切り捨てるのか」


しかし、キャプテンは笑みすら浮かべた。

「いいのか? 俺を敵に回すと、この部は成り立たないぞ」


睨み合う空気。

だが結局、練習試合のオーダー表に「野中 蓮」の名が記されることはなかった。


蓮は胸の奥に、初めて「居場所を削り取られる」感覚を覚えた。


試合当日。

ピッチの芝がまぶしく光る。だが、蓮の立ち位置はベンチですらなかった。

与えられたのは、観客席の端。まるで「外部の人間」と言わんばかりの配置だった。


(……俺が、ここで見てるだけなんて)


胸の奥で言いようのない苦さが広がる。

フィールドに立つのは拓真、玲央、そして後輩の後藤と南。


「キックオフ!」


ホイッスルと同時に相手が猛然と攻め込んでくる。

ディフェンスラインを突破されかけたその時――


「くっ……!」

後藤が身体を張ってボールをカットした。

小柄な体が相手に押されながらも、必死に足を伸ばして食らいつく。


続けて南が受け取り、慌てず冷静にサイドへ展開する。

その一連の流れは、かつて蓮が作ってきた“リズム”を思わせるものだった。


(……成長したな。後藤も南も)


胸の奥にほんの少し、誇らしさが灯る。

だが同時に、強烈な寂しさも押し寄せた。

自分がいなくても、チームは前に進んでいく――そんな現実を突きつけられるようで。


ピッチ上では拓真が豪快な突破を見せ、玲央が正確なパスを供給する。

会場が湧き、観客席から歓声が飛ぶ。


「マーベリック!」「アイスマン!」


名前を呼ぶ声に、蓮は思わず拳を膝の上で握りしめた。

その中に「グース」の名が呼ばれることは、ついになかった。


試合は接戦。

それでも、後藤と南は持ち味を発揮し、最後まで走り抜いた。

笛が鳴り、スコアはギリギリで七星が勝利。


「よっしゃああ!」

ピッチ上で拓真が雄叫びを上げ、玲央が静かに拳を突き上げる。

後藤と南は肩で息をしながらも、晴れやかな笑顔を浮かべていた。


観客席の片隅。

蓮は小さく呟いた。

「……ナイスゲームだ。ほんとに」


その声は歓声にかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。


試合を終えたメンバーたちが引き上げ、汗の匂いと芝の匂いがまだ残っている。

蓮はベンチ脇でスパイクを磨き終え、帰ろうとしていた。


「……野中、ちょっといいか」

声をかけてきたのはキャプテンの三年生だった。

表情は険しくもなく、むしろ疲れきったように見える。


「今日、お前を外したのは……俺は不本意だった」

「……?」

蓮が顔を上げると、キャプテンは少し視線を泳がせてから続けた。


「生活指導から“注意”が来てた。SSが見てるってよ。

 『野中をスタメンに置くな』ってな」


蓮の胸がずしりと重くなる。

(……やっぱり、あの取り締まりが……)


キャプテンは苦い顔をした。

「さらに、生徒会役員と……高等部のサッカー部の連中からも圧力が来た。

 “全国優勝は運。調子に乗らせるな”……ってな」


拳を握り締めるキャプテン。

「正直、俺はお前を出したかった。今日の相手にはお前の“繋ぎ”が必要だった。

 でも……これ以上逆らえば、部全体に火の粉が降りかかる」


沈黙。

蓮は俯いたまま、スパイクを磨く手を止めなかった。


「……すまん。俺はキャプテン失格だ」

絞り出すような声に、蓮は首を振った。


「……キャプテンのせいじゃないです。

 全部、分かってますから」


無理に笑みを作った蓮。

その笑顔を見て、キャプテンの胸はさらに痛んだ。


扉の外では、すでにSSの二人が腕を組んで立っていた。

生徒会に報告するため、誰がどの練習に参加したかを監視している。

彼らの鋭い視線に、部室の空気はどこか冷え切っていた。


(……ここはもう、“俺の居場所”じゃないのかもしれない)


蓮は心の奥でそう呟きながら、黙ってスパイクをバッグにしまった。


3学期

冬休み明けの朝のホームルーム。

担任が教壇に立ち、静かに口を開いた。


「……皆に伝えておかないといけないことがある。

 今日から、このクラスの仲間が今泉と堀井の二人が、転校することになった」


教室にざわめきが走った。

名前を呼ばれると、誰もが知っている“愛されキャラ”の二人だった。

明るく、いつも笑顔で場を和ませてくれた存在。


「そんな……急すぎだろ」

「終業式まで普通にいたのに……」


前の席の女子は泣き出し、後ろの男子は机に突っ伏した。

「事情は……家庭の都合だとだけ伝えられている。先生も、これ以上は……」

担任はそれ以上の言葉を飲み込んだ。


蓮は唇を噛み、手を強く握りしめた。

(……また、か。俺たち“オタク側”だけが、次々と消えていく……)


昼休み、廊下でも話題はそのことで持ちきりだった。

「どう考えても普通じゃないよな」

「オタクだから……って噂、やっぱ本当なのかも」

誰もが疑心暗鬼になり、空気は重く沈んでいた。


――そして放課後。


サッカー部のミーティング。

平井先生が深く息をつき、集まった部員たちを見渡した。


「……残念なお知らせだ」

沈痛な声が響く。

「キャプテンの原田が、今日付けで退部し、転校することになった」


一瞬、部室の空気が凍りついた。


「えっ……キャプテンが……?」

「嘘だろ……なんで……」


皆がざわつく中、平井先生は言葉を選びながら続けた。

「詳しい事情は言えない。ただ……本人の意思ではない部分も、大きかったようだ」


沈黙。

拓真は拳を握り締めて天井を見上げ、玲央は俯いて何も言わなかった。


蓮は胸の奥がきしむのを感じた。

(……愛されていた人間でさえ、“消される”のか)


部室の壁にかかる全国制覇の優勝旗が、妙に遠く感じられた。


平井は先生はさらに話を続ける

「そこで、最後の期間は源がキャプテン、サブキャプテンは東條を務めることにした。」

かつてサブキャプテンだった源が立ち上がり壇上に向かった。


「では、新キャプテンとして一言」

平井先生に促され、立ち上がったのは、これまで蓮のことで好き勝手を言っていた三年の一人。


「……俺がキャプテンを務めることになった源だ。まあ、よろしく」

その口ぶりは威厳よりも自己顕示に満ちていた。


ざわ……と空気が動く。

期待よりも不安の色が濃かった。


「方針は単純だ。全国優勝は果たした。あとは“維持”するだけだ。

 そのためには――チームに“雑音”はいらない」


キャプテンはわざと蓮のほうを見た。

その視線に、オタク側の部員数名も縮こまる。


「お前らもわかってるだろ。生徒会から部を守るために一部生徒に“退部勧奨”を受け入れるのが筋だ。

 イケメン側だけで回せば、勝てるんだよ。な?」


沈黙。

拓真が唇を噛んで立ちかけたが、玲央が袖を引いた。


「……先生は」

誰かが恐る恐る口を開く。


「先生も“方針”に従うようにと言われている」

キャプテンの背後で副部長が冷たく補足した。


――チームは一夜にして、勝利よりも“線引き”を優先する場所に変わってしまった。


蓮は何も言わなかった。

ただ黙って俯き、握り締めた手を震わせた。


その帰り道。

玲央は一人、夕焼けに染まる廊下で立ち止まった。

(……このままじゃ、蓮は確実に消される。俺が、どうにかしなきゃ)


ポケットの中で、生徒会が募集していた「特別参与制度」の案内チラシを握りしめる。

本来なら、イケメン以外は通らない――そう噂されていた。

だが、自分なら。自分がそこに入れば、蓮を守れるかもしれない。


玲央は唇を噛み、静かに決意した。


翌日

ミーティング後のグラウンド。

練習前の整列は、どこかぎこちなかった。


「……今日のメニュー、いつもと違うな」

拓真が隣でぼそっと呟く。

蓮も頷く。ウォーミングアップから“選抜組”と“その他”を分けるような動きが、はっきり見えた。


新キャプテンの源の声が響く。

「選抜組は右。その他は左だ」


ほんの数歩の距離が、分断を示す線になった。

右には1年全員と玲央や拓真、そしてイケメン側の3年生。

左には蓮と、2年、3年を合わせた数名のオタク側の部員。


「……マジかよ」

誰かが小さく吐き捨てる。


拓真が一歩前に出て、キャプテンを睨んだ。

「おい、全国獲ったのは“全員”だろ。なんでこんな分け方すんだよ」


キャプテンは鼻で笑った。

「だから言ったろ。雑音はいらない。これからは効率重視だ」


「雑音って……」

蓮は声を失った。

自分だけじゃない。隣にいる後輩や、共に汗を流してきた仲間まで“不要”と切り捨てられている。


拓真が食い下がろうとしたその時、玲央が一歩前に出た。

「……やめろ、拓真」


「玲央……」

拓真が振り返る。


玲央の瞳は鋭かったが、その奥には別の迷いも潜んでいた。

「ここで無駄にぶつかっても意味はない。……今は従うしかない」


キャプテンは満足げに顎を引く。

「そういうことだ。……“マーベリック”と“アイスマン”は理解が早くて助かる」


笑いがいくつか漏れた。

だが、蓮の耳には乾いた音にしか聞こえなかった。


練習が始まると、“左側”の彼らにはボールがほとんど回ってこなかった。

ただ走り、ただ守り、声をかけても反応は薄い。

かつて全国制覇を共に掴んだ仲間たちが、今はまるで別のチームのようだった。


(……なんでだよ。俺たち、あの瞬間は同じ夢を見てたのに……)


蓮は胸の奥がじわりと熱くなるのを感じながら、黙々と走り続けた。

隣で同じように走る2年の鈴木が、小さくつぶやいた。

「……俺たち、どうなるんですかね」


蓮は一瞬言葉を詰まらせたが、それでも笑みを作って返した。

「……大丈夫だよ。走ってる限り、サッカーは裏切らない」


その言葉がどこまで届いたのかは、誰にもわからなかった。


休日の午後。

駅前のショッピングモールを歩き回った二人は、映画を観て雑貨屋で映画のコラボしたアクセサリーを

涼子に渡した後、人混みに疲れて近くのカフェに入った。

窓際の席に腰を下ろし、注文したラテとフラペチーノが届く。


「はぁ……やっぱり、ここ落ち着くね」

涼子はフラペチーノをひと口飲んで、頬を緩めた。

「人多すぎて、歩くだけでぐったりだよ」


玲央はラテに口をつけたが、その表情は冴えない。

窓の外をぼんやり眺めていた。


「……玲央くん?」

涼子が不安そうに覗き込む。

「さっきから元気ない。……何かあったの?」


玲央はしばらく黙っていたが、やがて低い声で切り出した。

「……俺、“特別参与制度”に応募する」


涼子の手が止まった。

ストローを持つ指が震え、氷が小さく鳴る。

「……な、何言ってるの」


玲央はカップを置き、両手を組んだ。

「部が割れてる。拓真と蓮、そして俺……三年や上からの圧力もあって、まとまりがなくなってる。

 俺が内側に入れば、少なくとも“蓮を守る”ことはできるはずだ」


「守るって……そんな制度、“オタク排除”のための仕組みでしょ!?

あんたが入ったら、同じ側に立つことになるんだよ!」

涼子の声が思わず上ずる。

周りの客がちらりと視線を向けたが、彼女は構わず続けた。

「そんなの……そんなの、玲央くんまで失うことになる!」


玲央は苦しげに眉を寄せ、それでも真っ直ぐ涼子を見た。

「……失いたくないからだ」


「え……?」


「蓮を。……そして、お前を」

玲央の声は震えていた。

「このままじゃ、全部なくなる。だから俺が行く。……俺が、汚れる」


涼子は胸が締めつけられるようだった。

(玲央くんは、ほんとに……馬鹿だよ)


それでも彼の覚悟が伝わってしまう。

止めたいのに、止められない。

涙がにじむ視界で、必死に絞り出した。


「……じゃあ、約束して」


玲央は目を瞬いた。

「約束?」


「絶対に……“自分まで失わない”って。

 あたし、それだけは嫌だから」


カフェのざわめきの中で、彼女の声は震えながらも強く響いた。


玲央はしばらく目を伏せ、ラテのカップを強く握った。

やがて、小さく息を吐き出し、短く頷いた。

「……約束する」


涼子は笑おうとしたが、うまくできなかった。

目の奥に熱がこもり、必死に瞬きを繰り返した。


カップの氷がまた小さく鳴る。

その音が、彼女の張り詰めた胸にやけに響いた。


夕暮れ。

駅で玲央と別れ、手を振ったあと。

涼子は振り返らずに電車に乗り込んだ。


窓に映る自分の顔は、笑っているようで、どこか歪んでいた。

(……あたし、強がってただけだ)


家に帰ると、両親は仕事で不在で、妹は友達の家にまだ遊んでいるとのこと。

「ただいま」と声をかける必要もなく、玄関の灯りが虚しく点る。


着替える気にもならず、ベッドに倒れ込んだ。

枕に顔を埋めた瞬間、堰を切ったように涙が溢れた。


「……バカ……バカだよ、玲央くん……」

声が震える。


思い出すのは、カフェで見た彼の顔。

あんなに苦しそうに、それでも決意を語った彼。

(止めたかったのに……止められなかった)


拳を握りしめる。

「……どうして、あたしじゃダメなんだろう」


胸の奥に、ずっと芽生え始めていた不安。

その隣に立つのが自分じゃなくなるかもしれない、という恐怖。


「守る」って言葉の中に――あたしは入ってたのかな。

それとも……蓮くんのこと、考えてたの?


涙が頬を濡らし、枕を湿らせていく。

涼子は何度も瞬きをしても、涙が止まらなかった。


やがて、疲れ果てたように涙が途切れる。

暗い部屋の中で、涼子は小さく呟いた。


「……お願い。玲央くん……自分を失わないで」


その祈りは、夜の静けさに溶けて消えていった。


翌朝の下駄箱前。

窓から差し込む光はいつもと同じなのに、空気は少し違って感じた。


玲央と目が合った瞬間、涼子はすぐに気づいた。

――目の奥に、冷たい膜が張っている。


「おはよ、玲央くん」

声をかけると、彼は小さく頷くだけだった。


(……やっぱり)

昨日の約束を思い出す。

「絶対に自分を失わない」って言ったはずなのに。

それでも、彼の横顔はもう“生徒”というより“誰かの代弁者”に近づいていた。


休み時間。

いつもなら談笑に混じる彼が、今日は教室の隅で資料を読んでいた。

分厚い紙束――「特別参与制度」の応募要項。


涼子は勇気を出して近づいた。

「……読むの、もうやめたら?」

笑顔を作ろうとしたが、声は掠れていた。


玲央は手を止め、少しだけ彼女を見た。

「……もう決めたから」


短い言葉だった。

だけど、その響きが涼子の胸を鋭く突き刺した。


(決めた……そう言う顔だ)

もう、何を言っても彼は動かない。

昨日、最後に祈った願いが、すでに形を失い始めている。


涼子は俯き、唇を噛んだ。

「……そっか」


その瞬間、彼女の中に決意が芽生える。

(……だったら、あたしは見届けるしかない。

 でも……絶対に、ひとりにはさせないから)


教室のざわめきの中、二人の間に沈黙が落ちた。

だけどその沈黙は、確かに「揺れ動く始まり」の音を孕んでいた。


放課後。

夕暮れの光が差し込む生徒会室前の廊下は、ひんやりとした空気に包まれていた。


玲央は一枚の紙を握りしめていた。

「特別参与制度 申込書」――白地の文字が、やけに重く見える。


(……ここから先は、もう戻れない)


深呼吸を一つ。

扉をノックし、中へ入る。

そこには副会長の倉原ともみと、押田会長が座っていた。


「東條くん」

倉原が小さく微笑む。

「……来たのね」


玲央は言葉少なに頷き、申込書を机の上に置いた。

押田はそれを手に取り、冷ややかに目を通す。

「いやはや……“全国制覇の功労者”が自ら来るとはな」


その声音は、誉め言葉なのか、皮肉なのか。

玲央は揺るがず、ただまっすぐに立っていた。


「……ありがとうございます、この学園のさらなる繁栄のために

粉骨砕身、尽くしていきます。」


押田の口元がわずかに歪む。

「いいだろう。歓迎するよ、“参与”としてな」


倉原は玲央の学生証を受け取り、特別参与としての権限を付与する操作を始める。

その横で、複雑な目をしていた。

同じ“オタク側”としての警告を飲み込んだまま、ただ静かに操作を続けた。


玲央は付与された学生証を受け取った後一礼し、扉を出る。

夕陽に照らされた廊下を歩きながら、拳を握りしめた。

(これで、蓮を守れるはずだ。……たとえ、自分が何を失おうとも)


――その光景を、少し離れた場所から涼子が見ていた。

隠れるように柱の陰に立ち、手をぎゅっと握りしめる。


(……本当に、出しちゃったんだね)


胸の奥が痛む。

止められなかった自分を責める気持ちと、彼を支えたい気持ちが交錯する。


涼子は小さく息を吐いた。

(……あたしだけは、絶対に離れない)


夕暮れの校舎に、彼女の決意は静かに溶けていった。


「……れお」

声に出すこともできず、唇を噛む。


その頃、蓮と拓真は昇降口で靴を履き替えていた。

「おーい、早くしろよ」

拓真が笑いながら声をかけ、蓮は肩をすくめて答える。

「はいはい……腹減ったし、帰ろう」


二人は何も知らない。

玲央が自分たちとは別の道を踏み出したことも――

その選択が、やがて三人を引き裂く火種になることも。


校舎の窓から差し込む夕陽は赤く、長い影を落としていた。

その影が交わることなく、三方向に伸びていく。


涼子は胸に手を当て、静かに誓う。

(……どんな結末になっても、私は見届ける。蓮も、玲央も――絶対に)


こうして七星学園の「全国制覇」の余韻は幕を閉じ、

新しい段階――“戦力外通告”の時代が、幕を開けようとしていた。

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