後半第3節「戦力外通告」(前編)
時を遡り、中等サッカー部が準決勝進出を決めた
放課後の高等部棟
普段誰も来ない「資料室」の奥にある「隠し教室」
薄暗い部屋には生徒会副会長の押田と、高等サッカー部の部長の二人が密談する。
二人は声を殺して笑い合う。
その笑い声だけが、眠る少女たちの耳に届いているかどうかは分からなかった。
部長は眠る二人の少女を一瞥し、口元に薄笑いを浮かべた。
「いやぁ……こいつら、まるで“鴨がネギしょって来た”みたいでしたよ。
抵抗どころか、用意されたシナリオに素直に乗っかって……」
押田は机に肘をつき、興味深げに目を細めた。
「ほう…。それで、「上等の初物」を抱え込んで来たってなると、
それなりの「お願い」って事だろ?」
部長は声を潜めた。
「次期生徒会長と高等部サッカー部の“利害”は一致するものです。
――わが校にへばりついてるオタク共を排除する。それだけで、チームも学校も“正しい形”に近づく」
押田は肩をすくめ、軽く笑った。
「正しい、ね…。言葉というものは便利だ。
だが……君も欲しいだろう? 勝利と、栄光と、居場所を」
部長は返事をしなかった。ただ視線を逸らし、机の端に置かれた2種類の錠剤シートをちらりと見た。
押田はしばし考え、口角を吊り上げた。
「……面白い。やっぱり利害が絡むと話は早いな」
押田は眠っている少女たちを見、話しを切り出した。
「どうだ、一緒に“祝杯”を楽しもうじゃないか。
わが学園とお前の部の、今後の未来のために…。」
部長は苦笑しつつ、盃を掲げるような仕草を取る。
「……謹んで、御相伴預かります」
資料室の空気は、いつしか不気味な静けさと艶めいた緊張で満ちていた。
数時間後、「学園内教育支援・管理システム」の仕様が、誰かの手によって知らずに書き換えられていた。
全国制覇から一夜明けた朝。
福岡の宿舎の一室では、蓮、玲央、拓真の3人が、名残惜しそうに荷物を片付けていた。
ベッドの上に散らばったスパイクやタオルをまとめながら、玲央がぽつりとつぶやく。
「……優勝したのはいいけど、なんか寂しいな」
拓真が目を丸くした。
「珍しいな、“冷徹”玲央が寂しがるなんて」
「……バカにしてる?」
「いやいや、褒めてるよ! ゴメンって」
慌てて両手を振る拓真に、玲央は少し不貞腐れた顔を向ける。
その空気を和ませようと、拓真が肩をすくめた。
「ほら、帰る前にシェイク買ってやるよ」
「……いちご」
「はいはい、いちごね。ここを離れる前に買いますとも」
ふたりのやり取りを横で見ていた蓮は、思わず笑みをこぼす。
「この1週間、キツかったけど……本当にいろんなことがあったな」
言葉に込められた思いは、疲労と充実感の入り混じったものだった。
3人はしばし手を止め、昨日の歓喜の瞬間を胸の中で反芻した。
笑い声と少しの沈黙が交互に流れる部屋には、もうすぐ旅立ちの時間が迫っていた。
荷物をまとめ終えた三人は、スーツケースを転がしながら宿舎のロビーへと降りていった。
そこにはすでに仲間たちが集まり、先生やマネージャーが点呼を取っている最中だった。
「忘れ物ないかー! ユニフォームもスパイクも、全部確認しろ!」
平井先生の声が響き、部員たちが「はーい!」と返事をする。
その声に混じって、緊張が解けたような笑い声も聞こえてきた。
拓真は背負ったリュックを軽く叩きながら、蓮に耳打ちした。
「もうちょっとここで遊んで帰りたいな。夜の露店巡りとか…」
「遊びに来たわけじゃないでしょ」玲央が冷静に突っ込む。
「いやいや、俺の中では“勝って祝うまでが遠征”なんだよ」
拓真の冗談に、蓮は思わず肩を揺らしてくすくすと笑った。
玄関の外には、宿舎のスタッフや他校の生徒たちが見送りに立っていた。
「全国制覇おめでとう!」
「お疲れさまー!」
温かい声援に背中を押され、3人は荷物を引きながら玄関を出る。
少し冷たい朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ蓮は、ふと空を見上げた。
(昨日までここで戦ってたんだな……)
思い出がまだ生々しく胸に残っていた。
選手たちは大きな荷物を運転手に預け、リュックや土産袋を抱えながら、次々と観光バスに乗り込む。
優勝したとはいえ、昨日の祝賀会と興奮が重なり、どの顔もまだ少し眠たげだ。
蓮・玲央・拓真の3人も乗り込み、いつものように後方の席に腰を下ろす。
「……静かだな」
玲央が窓の外を眺めて、ぽつりとつぶやく。
「昨日あんだけ騒いだからな。もう燃え尽きたんじゃね?」拓真が笑って肩をすくめた。
「お前だって、声ガラガラだろ」
蓮が茶化すと、拓真は喉を押さえて「うるせぇ」と返し、結局3人で小さく笑い合った。
エンジンがかかり、バスが動き出す。
フロントガラス越しに朝日が差し込み、座席の窓に光の筋が走った。
「……全国制覇か」
蓮はつぶやきながら、少しぼんやりとした顔をした。
「なんだよ、実感わかねーのか?」
拓真が隣で覗き込む。
「うん。嬉しいけど……なんか夢みたいで」
「現実だよ。証拠は残ってる。ほら」
玲央がスマホを取り出し、優勝旗を掲げた写真を見せた。
スクリーンに映る3人の笑顔は、まぎれもなく昨日のものだ。
「……そっか」
蓮はそれを見て、ようやく少しだけ実感が湧いたように頷いた。
バスの前方では、他の部員たちが思い出話に花を咲かせていた。
「俺、あのシーンで足つりそうだった!」
「拓真先輩、ロングパス神すぎっしょ!」
「いや、グースのシュートもヤバかったろ!」
笑いと拍手が入り混じり、まるで試合がまだ続いているかのように熱が残っていた。
玲央はそんな声を耳にしながら、窓の外へと視線を戻す。
「……この先は、もっと厳しいだろうな」
誰に言うでもなく呟いたその言葉に、拓真と蓮は同時にうなずいた。
バスはゆっくりと街を抜け、空港へと向かっていく。
福岡空港・出発ロビー
チェックインを終え、荷物を預けると、平井先生が部員たちを集めた。
「ここから搭乗まで小一時間ある。短い時間だが、自由行動とする。ただし――くれぐれも人に迷惑をかけないこと。いいな?」
「はーい!」
元気な返事とともに、部員たちは一斉に散っていく。お土産売り場へ駆け込む者、フードコートへ直行する者、それぞれの足取りは軽かった。
蓮と拓真と玲央も、土産物店の並ぶエリアへと歩みを進める。
香ばしい明太子せんべいの匂い、カラフルに並んだラーメンセット、観光客向けに整然と積まれた銘菓の箱。
賑やかな光景に、3人は思わず目を奪われた。
その中で、玲央がふと立ち止まり、棚に吊るされた「福岡限定」と書かれたキーホルダーを手に取った。
キャラクターと博多名物を組み合わせた可愛らしいデザインだ。
「……それ、佐藤さんの?」
蓮が横目で尋ねると、玲央は一瞬だけ表情を和らげた。
「ああ。……涼子がくれたデータがなかったら、俺たちは優勝できなかったかもしれないから…」
「そっか……」
玲央の声音は冷徹さを潜め、感謝がそのまま形になっていた。
その様子に、蓮は胸の奥で小さなざわめきを覚えながら、無理に笑顔を作った。
「……そういう蓮はどうなんだ?」
玲央が逆に問い返す。
蓮は少し目を伏せ、商品棚に並んだ家族向けの菓子折りに手を伸ばした。
「……まぁ、今のところは家族の分だけで十分だよ」
笑みを浮かべたものの、その声にはどこか寂しさが滲んでいた。
玲央はその横顔を一瞥し、短く「……そっか」とだけ答えた。
それ以上は言葉を重ねず、それぞれが手にした品をレジに運んでいく。
拓真はそんな二人を後ろから見て、両手いっぱいにラーメンセットを抱えてにやりと笑った。
「お前ら、真剣すぎ。俺は“心の洗濯”だからな!」
「シェイクじゃなくてラーメンかよ……」
蓮と玲央が同時に突っ込み、3人の笑い声がロビーに響いた。
保安検査を抜け、搭乗口へ進んだ七星イレブンだったが、案内表示には「機材トラブルのため、代替機を手配中」と出ていた。
平井先生が渋い顔で部員たちを集める。
「……予定より出発が遅れるそうだ。再び自由行動を許可する。ただし、集合時間を絶対に守れよ」
「はーい!」
先ほどよりも落ち着いた声が返り、再び小グループに分かれて散っていった。
拓真がいち早く売店の看板を見つけ、声を弾ませた。
「おい見ろ! “福岡空港限定・いちごシェイク”だってよ!」
その場で指を突き出す拓真に、蓮も目を丸くした。
「ほんとだ……いちごシェイクなんて珍しいな」
玲央が一歩前に出て、財布を取り出す。
「……俺がおごる」
「えっ?」
蓮と拓真がそろって振り返る。
「いやいやいや……」
「お前におごられるとか、なんか逆に怖いわ!」
ふたりの狼狽を無視して、玲央は短く告げる。
「全国制覇したら、考えると言っただろ。約束は守る」
その言葉に、蓮と拓真は一瞬黙り、次の瞬間には顔を見合わせて吹き出した。
「……あー、あったな、そんな約束!」
「忘れてたわ。よし――ゴチになります!」
注文を済ませて、それぞれ注文した味を手にする。
玲央はいちごシェイクを、表情を崩さずに口へ運んだ。
拓真は迷わずLサイズのバニラを選び、「やっぱ安定だろ!」と言いながら豪快に飲み干す。
そして蓮の手には、オレンジとバニラの2色シェイク。
「……迷った末に、これ」
「お前らしいな」
拓真の突っ込みに、蓮は苦笑で応じた。
3人は搭乗口のベンチに腰を下ろし、甘く冷たいシェイクを味わいながら、ささやかな時間を共有した。
窓の外には、滑走路に並ぶ飛行機のシルエット。
彼らの笑顔は、全国制覇の余韻と未来への期待をそのまま映していた。
ひと息ついていると、背後から声がかかった。
「お、拓真じゃん」
振り返ると、千束大学附属中の柿崎と七瀬が立っていた。
見慣れた顔ぶれに、拓真が思わず笑みを浮かべる。
「柿崎! ってことは……お前らも同じ便か?」
「本来なら一本あとだったんだが…どうやら一緒になりそうだな」
柿崎が肩をすくめる。
拓真はすぐに昔を思い出したようににやっとした。
「そういえばお前、乗り物好きだったよな。飛行機の型番とか言ってさ」
「……まあな」
柿崎が小さく笑うと、横の七瀬が咳払いする。
「こいつ、さっきラウンジ使おうとして先生にバレて、思いっきりボコられたんだぞ」
「はぁ!? うらやま!」
拓真は大げさに叫んで椅子から半分立ち上がる。
「俺なんかラウンジの“ラ”の字も見てねぇぞ!」
「……そういう問題じゃない」
玲央が呆れたように眉をひそめ、蓮は吹き出しそうになりながらシェイクのストローを咥え直した。
七瀬はそんな空気を受け流すように、蓮たちに向き直った。
「……ともかく、優勝おめでとう」
玲央がほんの少しだけ目を伏せ、短く答える。
「……ありがとう」
「変わらないな。照れてるときの仕草」
七瀬がからかうように目を細めると、拓真がすかさず茶々を入れた。
「だろ? 玲央の“耳真っ赤スイッチ”は健在だ」
「うるさい」
玲央が即座に切り捨てるが、耳の先が赤いのは隠しようがない。
柿崎が苦笑しながら蓮の方を見る。
「君が拓真が言ってた「秘密兵器」“グース”か。拓真と玲央に混じって、よくやったな」
「え、あ、いや……俺なんかまだ」
蓮は慌てて手を振るが、七瀬が優しい目で続けた。
「いや、あの一撃は本物だったよ。決勝のとき見てて鳥肌立った」
「……ありがとう」
蓮は頬を掻きながら、照れ隠しのように笑った。
ほんの数分の立ち話だったが、そこには敵味方を越えた選手同士の敬意が流れていた。
甘いシェイクの残り香と、滑走路を行き交うジェット音が、その瞬間を包み込む。
談笑が一段落したところで、拓真がニヤリと玲央の横顔を見やった。
「そういや玲央、お前“彼女持ち”になっても全然変わんねーな」
「……は?」
玲央の眉がぴくりと動く。
拓真はわざとらしく両手を広げてみせた。
「普通、彼女できたらさぁ、もっとこう……デレっとするもんじゃね? なのに“アイスマン”のまんま。
耳真っ赤スイッチしか反応してねーじゃん」
「うるさい」
玲央が一刀両断するように言い捨てる。だが耳は、やはり赤い。
柿崎と七瀬は顔を見合わせ、吹き出した。
「変わらねぇな、ほんと」
七瀬はストローを咥えながら、わざとらしく肩をすくめる。
「俺なんか小4から彼女一筋でさ。もう“家族公認”ってやつ? 玲央も見習えよ」
「……いや、それはすごすぎだろ」
拓真が目を丸くする。
「マジで? 小4からって、どうやってんの?」
「どうやってんの、って……普通にだよ。気づいたら隣にいる、みたいな」
七瀬が淡々と答えると、蓮は「すげぇ……」と呟いて本気で感心していた。
「だろ? 玲央、お前も耳赤くしてる場合じゃねーぞ」
「いいから黙れ」
玲央はストローを咥えたまま冷たく突っぱねたが、その声色には微妙な照れが滲んでいた。
拓真は大げさに笑い、蓮もつられて笑う。
ほんのひととき、全国のライバルも、仲間も、垣根のない同世代の少年たちに戻っていた。
福岡を飛び立った機内。
三人並んだ座席では、拓真がシートを倒して「ふわぁ」と欠伸をし、玲央はイヤホンを耳に差して目を閉じていた。
蓮は窓の外に流れる雲をじっと眺めている。
「……本当に、帰るんだな」
ぽつりと呟いた声は、エンジン音にかき消されるように小さかった。
隣の拓真は半分寝ぼけながら「んー……また走ればいいさ……」と曖昧に返す。
玲央は目を閉じたまま「……次はもっと厳しいぞ」と低く言い残し、それ以上は口を閉ざした。
やがて機体は羽田空港に着陸し、拍手がちらほらと機内に響く。
CAのアナウンスが優しく告げた。
「皆さま、羽田空港に到着いたしました」
三人はシートベルトを外し、荷物を取って通路へ。
出口に向かう途中、柿崎と目が合う。
言葉は交わさず、ただ軽く顎を引いてアイコンタクト。
それだけで十分だった。
ターンテーブルで荷物を受け取り、出口付近の空きスペースにサッカー部が揃う。
最後に平井先生が、声を張った。
「ここで解散だ。だが――忘れるな。優勝は通過点にすぎない。
お前たちが手にしたものは、勝利だけじゃない。“仲間”もだ。これから先、それを支えにしろ」
短いが、力のこもった言葉に全員が黙って頷いた。
自動ドアが開き、到着ロビーに出ると、一気にざわめきと歓声が押し寄せる。
「れーんー!」
「こっちだ!」
蓮は声のする方に目を向けた。
そこには両親が手を振って待っていた。
母の目にはすでに涙が浮かんでいて、父は誇らしげに腕を組んでいる。
拓真も玲央も、それぞれの家族のもとへ駆け寄る。
仲間たちも次々と笑顔で抱き合い、再会を喜び合っていた。
蓮は荷物を引きずりながら歩み寄り、母に呼び止められた。
「蓮……よく頑張ったね」
「……ただいま」
その瞬間、胸の奥に溜めていたものがほどけ、笑顔とともに涙が頬を伝った。
羽田から帰宅したその夜。
野中家のダイニングには、母が用意した料理がずらりと並んでいた。
唐揚げにハンバーグ、刺身の盛り合わせ、そして父が張り切って買ってきたケーキまで。
「全国制覇、おめでとう!」
母の声に、蓮は顔を赤らめて「いただきます」と小さく頭を下げた。
父はビール片手に上機嫌だ。
「まさか、うちの息子が日本一だなんてなぁ! 蓮、写真撮っとけ写真!」
「いや父さん、食べる前に撮ってよ……」
「いいから笑えー!」
ぱしゃりと撮られた蓮の顔は、照れ隠しで微妙にひきつっていた。
「ほんとに頑張ったね」
母がしみじみ言葉を添えると、蓮は少し俯いて答えた。
「……うん。でも、俺だけじゃなくて、みんながいたから」
「そういうところ、あんたらしいね」
母は優しく笑い、テーブルにケーキを置いた。
クリームの甘い匂いが広がる中、父が「次は世界だな!」と冗談を飛ばし、
母が「食べてからにしなさい!」と突っ込む。
そのやりとりに、蓮は自然と声を出して笑っていた。
週明けの朝、七星学園の講堂は全校生徒で埋め尽くされていた。
壇上には優勝旗とトロフィー、そして全国制覇を成し遂げた中等部サッカー部の姿が並ぶ。
「――それでは、改めて紹介します!」
マイクを握った平井先生の声が、講堂いっぱいに響いた。
「まずは、守備と連携でチームを支えた“アイスマン”――東條!」
大きな拍手と歓声が飛ぶ。玲央は一礼し、涼しい顔で立っていた。
「続いて、鋭い攻撃で突破口を開いた“マーベリック”――藤井!」
再び拍手が広がる。拓真は少し照れたように頭をかき、場を和ませた。
「そして……全国の舞台で勝利を決めた、“グース”――野中!」
講堂に拍手が響いた。だが、その音はどこか薄い。
数日前まで飛び交っていた罵声やFワード、中指を立てるような露骨な敵意は消えていた。
――教師からの指摘もあったのだろう。
けれど、そこに温かさはなかった。
「一応」讃えておこう、そんな空気がはっきりと漂っていた。
壇上に立つ蓮は、それを痛いほど肌で感じていた。
拍手が遠く、音が霞む。
(……まだ、俺は“壁”の向こう側にいるんだ)
隣で拓真がちらりと蓮を見やり、心の中で「嘘だろ……」と呟く。
玲央も表情を引き締め、一段と鋭い目で観客席を見渡していた。
平井先生はその空気を察しながらも、あえて話を進める。
「七星学園の誇りとして、これからも彼らを応援してくれ!」
講堂いっぱいに響いた拍手の中――
“差”は確かに存在していた。
集会を終えて戻った教室。
扉を開けると、いつもよりざわついた空気が待っていた。
「野中くん!」
「おめでとう!」
「ネットのライブで見たよ! すげー!」
一斉に浴びせられる祝福の声。
蓮は一瞬きょとんと立ち尽くしたが、すぐに顔が熱くなるのを感じた。
(……さっきの集会と、全然違う……)
クラス委員長が前に出てきて、真っ直ぐ蓮を見つめる。
「……全国大会、すごかったよ。俺、ほんと感動したんだ。七星から“全国制覇”が出るなんて思ってなかった。ありがとう」
蓮は言葉に詰まり、口を開こうとしても声が震えた。
「……俺なんか……まだまだで……でも……ありがとう……本当に……みんなの……おかげで」
ぼろりと涙がこぼれ、頬を伝って落ちていく。
それを見たクラスの女子が、ぱっと手を挙げた。
「ねえ! せっかくだから、みんなで写真撮ろうよ!」
「いいね!」
「撮ろう撮ろう!」
自然と全員が立ち上がり、机や椅子をどかしてスペースを作る。
そこへタイミングよく、トロフィーと優勝旗を抱えた玲央と拓真が入ってきた。
「おー、いい雰囲気だな」拓真がにやりと笑う。
「センターはもちろん、野中だな」玲央が短く言い、トロフィーを蓮に手渡した。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
蓮は慌てながらも、両手で大切そうにトロフィーを抱える。
そして――クラス全員が集まって、一枚目のシャッターが切られた。
カメラを構えていたのは玲央と拓真。
「はいチーズ!」
明るい笑顔が画面いっぱいに収まる。
「次は俺らも入るぞ」
拓真が笑いながら玲央の肩を叩く。
「先生、シャッターお願いします」
担任がカメラを構え、もう一度全員がポーズを取る。
今度は蓮の隣に玲央と拓真が並び――教室の空気は、かつてないほど温かかった。
カシャリ、とシャッター音が響いた瞬間。
蓮は涙の跡を残したまま、心の底から笑っていた。
授業が終わり、放課後。
教室の余韻を残したまま、蓮は練習着に着替えて部室へ向かった。
ドアを開けると、中はいつもと違う張り詰めた空気が漂っていた。
そこには、高等部2年の生徒会副会長・押田 司と、中等部3年で総務の倉原 ともみ
さらに高等部サッカー部の部長と副部長が揃っていた。
平井先生も同席し、いつも以上に背筋を伸ばしている。
「七星中サッカー部、全国制覇おめでとう!」
高等部の部長が先陣を切って声を上げる。
低く響く声に、中等部のメンバーたちは思わず姿勢を正した。
「お前たちが勝ち取った栄光は、七星全体の誇りだ。よくやった」
副部長も続けて言葉を重ねる。
「君たちの活躍は、高等部にとっても大きな刺激になった。後輩として、胸を張ってほしい」
言葉はどこか形式的だが、声色は明るく、拍手も起こった。
拓真は「ありがとうございます!」と笑顔で答え、玲央も静かに頷いた。
そのあと、副会長の押田が一歩前に出た。
「……東條、藤井」
名前を呼ばれた二人に、押田はにこやかに手を差し伸べた。
「君たちの名前はすでに学園中に響き渡っている。“マーベリック”と“アイスマン”。七星の顔として、これからも誇りを背負ってくれたまえ」
玲央は短く「光栄です」と答え、拓真は「任せてください!」と胸を叩く。
だがその直後――蓮にも目を向けた押田の笑顔は、ほんの一瞬で色を失った。
「……野中も、まあ、よくやった」
投げるような短い言葉。
声色は平坦で、目はすでに逸らされていた。
蓮は一礼し、口を開きかけたが、言葉は喉の奥に引っ込んだ。
(……やっぱり、俺は……)
胸の奥に小さな冷たい針が刺さるような感覚。
押田はすぐに倉原へ目をやり、何事もなかったかのように話を続ける。
「倉原も一緒に中等部を見守っていたからな。これからも“正しい規律”のために尽くしてくれるだろう」
倉原は柔らかく笑い、「はい、副会長」と頷いた。
全体は祝賀の空気に包まれている。
高等部の先輩たちは誇らしげで、先生も嬉しそうに頷いていた。
けれど――
蓮の胸には、言葉にできない違和感が静かに広がっていった。
全国制覇から数日。
校舎にはまだ横断幕が掲げられていたが、日常は容赦なく戻ってきていた。
生徒たちは定期テストや提出物に追われ、勝利の余韻などすっかり薄れている。
2年4組の教室も同じだった。
「昨日の課題、マジで終わんなかった」
「次の小テスト、赤点確定だろ」
「そういやお前、部活どうすんの?」
雑多な声が飛び交う中、蓮は黙って席につき、カバンを机に掛けた。
やがて担任が入ってきて、黒板の前に立つ。
「……はい、静かに。出欠をとるぞ」
名前を呼ばれる声が教室に響き、返事が順に続いていく。
出席簿を閉じた担任は、一息ついて封筒を取り出した。
「さて――生徒会からの配布物だ。全員に渡るから、必ず確認して提出するように」
ざわ、と教室の空気が揺れる。
配られてきた紙の束が一枚ずつ流れ、机に配られていった。
クラスメイトたちは何気なく手に取り、ざっと目を通してため息をつく。
「……またかよ」
「うちのクラスも対象なんだな」
「でも、提出しないと面倒だしな」
小声で交わされる不満も、やがて“仕方ない”という空気に飲み込まれていく。
蓮の机にも、一枚の紙が渡された。
表題には太字で――
「部活動変更届」
手に取った瞬間、心臓が強く脈打つ。
(……結局、こうなるのか)
書類の項目は、無機質に並んでいた。
【退部(もしくは退部済み)】
【転部】
【継続】
蓮は一瞬だけペンを握る手を止めた。
脳裏に浮かぶのは、優勝旗を掲げたあの日の歓声。
拓真の笑顔、玲央の静かな頷き。
だが次の瞬間、それをかき消すように講堂での冷たい拍手がよみがえる。
「……」
深く息を吐き、迷いを押し殺して丸をつけた。
【継続】
机の上に置いたまま、じっと紙を見つめる。
(俺が続けたいってだけで……許されるのか?)
教室の外から差し込む朝の光は明るかったが、蓮にはどこか遠くの出来事のように見えた。
午前を終えるチャイムが鳴ると同時に、拓真と玲央が蓮を呼びにきた。
「行くぞ、腹減った!」
「……ああ」
3人は並んで教室を出て、食堂へと向かう。
昼休みの食堂はすでに生徒でごった返していた。
トレイを持った生徒たちが列を作り、談笑や椅子を引く音があちこちに響いている。
扉をくぐった瞬間――
「お、マーベリックだ!」
「アイスマンもいる!」
周囲の生徒たちがざわめき、あっという間に拓真と玲央の腕を引っ張った。
「こっちこっち! 席、空けてあるから!」
「二人ともこっち来て!」
強引に導かれ、拓真と玲央は“特等席”のように中央のテーブルへ座らされてしまった。
本人たちは苦笑いしながらも、断る余地はなかった。
一歩後ろに残った蓮は、その光景を見て立ち尽くす。
(……仕方ない、か)
彼は列に並び、食券を手にして窓口へ。
そのとき――奥から厨房のおばちゃんがひょいと顔を出し、蓮に手招きをした。
「野中くん、ちょっとおいで」
「え……あ、はい」
恐る恐る近づくと、おばちゃんは笑顔で差し出した。
「今日は特別サービスだよ。頑張ったんだろ? 好きなの選んでいいよ」
「えっ、いや……でも」
蓮は思わず遠慮する。だが、後ろから別のおじさん職員が背中を押した。
「もらっとけ! うちの食堂も、全国制覇にあやからせてもらうんだから」
「そ、そうですか……ありがとうございます」
差し出されたのは、揚げたての唐揚げ定食に、色鮮やかなサラダ、そしてデザートのプリンまで。
豪華すぎるトレイに、蓮は思わず「……すごい」と呟いた。
トレイを抱え、周囲の視線を少し気にしながらも歩き出す。
“イケメン席”と呼ばれる中央の賑わいから外れた、隅のテーブルへ腰を下ろした。
窓際の席に一人。
蓮は箸を取り、唐揚げを口に運ぶ。
衣の香ばしさと温かさが広がり、胸の奥が少しだけほぐれた。
視線を上げると、遠くの中央席では拓真が笑いながら肩を叩かれ、玲央がいつもの無表情で談笑に応じている。
(……あっちと、こっち。壁は、やっぱりあるんだな)
そう思いながらも、蓮は静かに笑った。
(でも……この唐揚げ、うまい)
ひとりの昼食は、静かで、そして少しだけ温かかった。
トレイを返却し、蓮はひとり食堂を後にした。
廊下に出ると、さっきまでの喧騒が嘘のように静かだ。
満腹とほんの少しの温もりが心に残り、蓮はかすかに笑みを浮かべた。
「……唐揚げ、美味かったな」
ぽつりと呟きながら、教室へ向かう。
そのとき――ポケットのスマホが震えた。
画面を開くと、校内メッセージアプリに新着通知。
送り主は「生徒会 倉原」。
(……倉原先輩?)
眉をひそめながら、タップする。
倉原
《お話がありますので、放課後、311教室に来てください》
「……311教室?」
思わず声が漏れる。
記憶をたどる。
311は、確か使われていない空き教室のはずだった。
掃除用具や古い机が置かれていて、人の出入りはほとんどない。
(なんで、わざわざあそこなんだ……?)
胸に小さなざわめきが生まれる。
スマホをポケットに戻しながら、蓮は歩を進めた。
やがて教室に戻ると、すでにクラスメイトが午後の授業の準備をしていた。
蓮も何もなかったように席に着き、教科書を広げる。
ただ心の片隅には――「311教室」の文字が、じっと居座り続けていた。
放課後。
人の気配が消えかけた廊下を歩き、蓮は半信半疑のまま311教室の前に立った。
ノブに手をかけると、静まり返った教室の中には、ひとりだけ人影があった。
生徒会バッジをつけた少女――倉原ともみ。
彼女は窓際に立っていて、差し込む夕日を背に、どこか儚げに見えた。
「……野中くん。来てくれてありがとう」
彼女は深く一礼した。
「えっと……話って」
蓮は戸惑いながら問い返す。
ともみは小さく息を整えると、まず柔らかく微笑んだ。
「その前に――全国優勝、おめでとう。立派だったわ」
「……ありがとうございます」
思わず背筋を伸ばす蓮。
「試合、全部見ました。あなたは派手じゃなかったけど……必死に走って、繋いで。
その姿が、周りを安心させていた。チームの“バランサー”だったのよ」
「俺が……バランサー?」
「ええ。あなたがいたから、あの優勝があった。私はそう思ってる」
その言葉に、蓮の胸にじんわりと温かさが広がる。
けれど――次の瞬間、ともみの瞳は真剣な光に変わった。
「だからこそ、言わなきゃいけないことがある」
「……」
彼女は机の上に置かれた『七星生の心構え』を指先で叩いた。
コツン、と乾いた音が教室に響く。
「野中蓮くん。あなたには……サッカー部を“退部”してほしい」
蓮の表情が固まる。
夕焼けの光が教室を赤く染め、時計の針の音だけがやけに大きく響いた。
「……どうして、俺なんですか」
蓮は声を震わせて問い返す。
ともみはわずかに視線を伏せ、そして静かに答えた。
「私はね、中学2年の夏……演劇部で同じことを言われたの。“戦力外”だって。
大好きだった舞台から、何の前触れもなく追い出された」
蓮の目が大きくなる。
「悔しいとか、悲しいとか、そういう感情も通り越して……ただ空っぽになったの。
あのとき、“誰かが止めてくれていれば”って、今でも思う。
だから――私は、あなたに同じ思いをしてほしくない」
彼女の声は、必死に抑えてもなお震えていた。
「でも、俺は……サッカーが……」
蓮は言葉を詰まらせ、唇を噛む。
「わかってる。あなたにとって大切なものだって」
ともみは力なく微笑んだ。
「だけど、この学園はほかの公立と違って理不尽よ。優勝したって、今いる“ステータス”で決めつけてくる。
全国制覇は、あなたが誇っていい証。でも――それを“盾”にしてまで戦い続ける必要はないの」
「……」
「もし望むなら、あかねヶ丘にだって道を作れる。転校して、新しい場所でやり直せば……
もっと自由にサッカーができるかもしれない」
彼女の声は優しかった。けれど同時に、それは“諦めの提案”でもあった。
蓮は深く俯き、長い沈黙の末に言った。
「……考えさせてください」
ともみはその答えに小さく頷き、ふっと肩の力を抜いた。
「……ごめんね、急にこんなことを言って」
蓮が教室を後にすると、残されたともみは窓際に立ち尽くした。
赤く沈む夕日が、彼女の横顔を切なく照らす。
(……あの子の目。
私と同じ、“虚無”の色をしていた)
教室の扉を静かに閉めた瞬間、蓮は廊下の冷たい空気に肩を震わせた。
(……退部、か)
倉原の言葉は、優しい響きと一緒に、胸に深く突き刺さっていた。
全国優勝の余韻が、まるで幻だったみたいに遠のいていく。
「俺は……ほんとに、邪魔なのか?」
小さく漏らした声は、誰にも届かない。
下を向いたまま歩く蓮の耳に、教室から聞こえる授業のざわめきがやけに遠く感じられた。
足取りは重く、出口に近づくほどに胸の奥のざわめきは大きくなっていく。
――応援してくれた仲間の声。
――歓声に包まれたあの決勝戦。
それらが「幻」と「現実」の間で揺らぎ、蓮はただ唇を噛み締めるしかなかった。
まだ陽が低い公園。三人の足音が一定のリズムを刻みながら続いていた。
蓮は無理に呼吸を整え、表情を崩さないように前を見据えている。
拓真は横目でちらりと見ると、眉を寄せた。
(フォームが硬い……蓮、らしくねぇな)
やがて予定の距離を走り切り、三人は広場の端でクールダウンのストレッチに移る。
腕を回す拓真が、不意に口を開いた。
「……なぁ、蓮。悩み事でもあるのか?」
蓮は少し遅れて顔を上げ、ぎこちなく笑った。
「いや、そんなことは……」
その瞬間、玲央が冷静に言葉を差し込んだ。
「説得力ないな。それで練習試合の時に倒れかけたろ」
「うっ……」
図星を突かれた蓮は言葉を失う。視線が泳ぎ、靴紐を直すふりをして俯いた。
拓真は深いため息をつき、柔らかい声をかける。
「隠すのは勝手だけどよ、俺らチームだろ。お前のこと、見りゃ分かるんだよ」
玲央も腕を組みながら頷いた。
「言え。俺たちに」
逃げ場のない二人の視線に、蓮はしばし沈黙した。
やがて、唇を震わせながら絞り出す。
「……実は――昨日、生徒会の倉原さんに呼ばれて……“退部しろ”って言われたんだ」
空気が一瞬、凍りついた。
拓真と玲央の目が大きく見開かれる。
「……はぁ!? 何それ、ふざけんな!」
拓真はタオルを地面に投げつけるように放り、思わず声を荒げた。
「全国優勝したの、誰のおかげだと思ってんだ! “グース”がいたから勝てたんだろうが!」
蓮は慌てて手を振る。
「しっ、声がでかい! 聞かれたら――」
「聞かれて困るのはアイツらの方だ!」
拓真の瞳は怒りに燃えていた。
「お前が退部? 冗談じゃねぇ! 俺が許さねぇ!」
一方で玲央は、眉間に皺を寄せたまま静かに考え込んでいた。
「……倉原、か。彼女が勝手に言うとは思えない。
その裏に、必ず“上”がいる」
蓮は小さく頷く。
「……やっぱり、そうだよな」
「生徒会……もしくは、高等部サッカー部か」
玲央の声は低く鋭い。
「“オタク”であるお前を、このまま表舞台に立たせたくないんだろう。
全国優勝で一番困るのは、“彼ら”だからな」
拓真が舌打ちした。
「チッ……くだらねぇプライドのために、蓮を潰そうってのかよ」
蓮は視線を落とし、ぎゅっと拳を握る。
「……正直、怖い。俺が辞めれば、全部丸く収まるんじゃないかって……」
玲央がその言葉を切り捨てた。
「逃げたら、あの時と同じだ」
「……!」
蓮は息を呑む。玲央の瞳は鋭いが、そこには確かな信頼が宿っていた。
拓真も力強く言った。
「俺たちは“マーベリック”と“グース”だろ?
お前がいなくなったら、片翼をもがれるも同然なんだよ!」
「拓真……玲央……」
二人の言葉が、蓮の胸に熱を灯していく。
それでも、倉原の真剣な表情が頭に浮かんで、すぐには答えを出せなかった。
教室に足を踏み入れた瞬間、蓮は肌で空気の違和感を感じ取った。
ざわめきが止まり、代わりに鋭い視線が一斉に突き刺さる。
「……?」
席に向かおうとしたそのとき、男子の一人がにやにやと近づいてきた。
「おい蓮、聞いたぞ。空き教室で三年の先輩と“いいこと”してたってな?」
「……は?」
言葉の意味が理解できず、思わず立ち止まる。
「しかも嫌がってたらしいじゃん。無理やりだって」
別の男子が面白がるように声をかける。
「……なっ……そんなの、してない!」
蓮は声を震わせながら否定する。
だが、否定の声がかえって教室に波紋を広げた。
数人の女子が机を寄せ合い、ひそひそと囁く。
「必死に否定してるのが逆に怪しいよね」
「顔ははっきり映ってないけど、影が似てるって」
「うちのクラスであんなことする奴、他にいないし」
言葉は直接ぶつけてはこない。けれど、背中越しに伝わる冷たい視線。
さっきまで普通に笑っていた友人も、今は距離を置くように机をずらしている。
「ちょっと、マジで? あの野中が?」
「やっぱ“全国優勝”って浮かれてたんじゃね」
「チームの顔が汚れるって」
小さな声が積み重なり、蓮を取り囲む。
空気はひそひそ声で満たされ、まるで自分だけが異物になったようだった。
「俺は……何もしてない!」
もう一度叫んだが、その声は空しく教室の壁に吸い込まれていく。
机の下で握った拳に汗が滲む。
誰一人、目を合わせてはくれない。
(なんで……俺はただ、話をしただけなのに……)
その瞬間、蓮の胸に重く沈んだのは――「濡れ衣」という言葉だった。
昼休みのチャイムが鳴る。
拓真と玲央は、蓮のクラスへ顔を出した。
「おーい、蓮! 一緒に――」
声をかけようとした瞬間、数人のクラスメイトが割って入る。
「マーベリック先輩! アイスマン先輩! 食堂こっちですよ! 席とってあります!」
半ば強引に腕を引っ張られ、二人はそのまま連れていかれてしまった。
「お、おい……!」と拓真が振り返るが、もうどうにもならない。
蓮はただ手を振って「気にすんな」と笑って見せた。
……笑顔の裏で、心臓が冷えていく。
「一緒に来いよ」と言われる空気ではなかった。
蓮は食券機の前に立ち、迷った末に唐揚げ弁当を買った。
「いつものでいい?」と声をかけてきた売店のおばちゃんに、思わず「はい」と返す。
差し出された弁当には、気持ちばかりのサービスでコロッケが一つ多く入っていた。
「頑張ってるんだろ? 応援してるよ」
その言葉に蓮は一瞬だけ救われ、頭を下げる。
弁当を抱え、足は自然と屋上へ向かっていた。
風の吹き抜ける屋上でひとり腰を下ろし、遠くの食堂のざわめきを聞きながら箸を動かす。
唐揚げの温かさが胸にしみる――だが、食堂の笑い声との距離が、どうしようもなく切なかった。
昼休み。
人であふれる廊下を避けるように、蓮は唐揚げ弁当を抱えて屋上の扉を押し開けた。
風が一気に吹き込んでくる。
冬が近づく空気が、頬を切るように冷たい。
ベンチに腰を下ろし、弁当のフタを開ける。
湯気の立つ唐揚げに箸を伸ばし、ひと口。
……温かさはちゃんとあるのに、味はどこか遠かった。
(……倉原さんの言葉。忘れられない)
「全国制覇は、あなたが誇っていい証。でも――それを“盾”にしてまで戦い続ける必要はないの」
「転校して、新しい場所でやり直せば……もっと自由にサッカーができるかもしれない」
彼女の真剣な瞳と震える声が頭から離れなかった。
唐揚げをもうひとつ口に入れる。
衣のカリッとした音が、やけに大きく響く。
でも、飲み込むたびに胸の奥が重く沈んでいく。
(もし辞めれば……噂も、冷たい視線も、全部消えるかもしれない)
(でも……辞めたら、俺は何になる? “全国優勝したグース”も、“拓真の相棒”も……ただの野中蓮に戻るだけだ)
食べ終えた弁当箱を見つめ、蓮は大きく息を吐いた。
青空は広がっているのに、胸の中はどんよりと曇っている。
「……俺は、どうしたらいいんだ」
風にさらわれた小さなつぶやきは、誰の耳にも届かない。
遠く、食堂のざわめきがかすかに聞こえてくる。
仲間と笑い合う声。祝福される声。
その輪の中に、自分はいなかった。
チャイムが鳴り、帰りのホームルームが終わった。
「野中。一緒に来てくれ」
短い言葉に、教室の空気がピリッと張り詰めた。
椅子のきしむ音とともに、クラス全体の視線が一斉に蓮へと集まる。
(……またか)
立ち上がった瞬間、耳に届くのは小さなざわめき。
「やっぱ「あの問題」じゃね?」
「生活指導って……」
「全国優勝したくせに」
直接ぶつけられるわけじゃない。
けれど、背中を突き刺すような冷たい視線は、無視できないほど重かった。
担任は何も言わず、ただ前を歩く。
蓮はその背中を追いながら、教室を後にした。
廊下の空気はやけに冷たく感じる。
足音がコツコツと響き、遠ざかるにつれて教室のざわめきが背後で渦を巻いた。
向かう先は生活指導室。
蓮の胸の奥に、重い石がひとつ落ちたような感覚が広がっていく。
(……何を言われるんだ。俺は……何もしてないのに)
扉を開けると、独特の重たい空気が流れ込んできた。
いつもなら指導や説教を受ける生徒のざわつきがある部屋だが、そのときは妙に静かだった。
机の向こうには生活指導の先生が一人。
腕を組み、蓮が入ってくるのを待ち構えていた。
横には担任も立っており、表情は硬い。
「……座れ」
短く低い声。
蓮は緊張で固まった背中を伸ばし、指定された椅子に腰を下ろした。
先生はしばし蓮を見据え、言葉を選ぶようにして口を開いた。
「単刀直入に言う。――昨日、お前、三年の女子生徒と“問題行為”をしたという報告が入っている」
「……え?」
思わず声が裏返る。
耳を疑った。
「し、してません! 僕はそんなこと――」
必死に否定する蓮に、先生は机の上のタブレットを指でトントンと叩いた。
「……だがな、こういう映像が出ている」
画面に映し出されたのは、見覚えのある教室の一角。
制服姿の男女が、絡み合うように押し倒されているシルエット。
角度は不自然に固定され、顔は鮮明ではない。
だが――「野中蓮」に見えるように細工された影だった。
血の気が引くのを感じた。
「……これは、違います」
蓮は震える声で、しかしはっきり言った。
「僕じゃありません。昨日は……部活のあと、駅前の書店で参考書を買って、そのまま家に帰りました。
時間も……19時前には着いてました」
先生の目が細められる。
蓮は必死に言葉を繋げた。
「映像の右下に……時刻が映ってます。19時42分。僕、その時間はもう家にいました。証人は家族です」
担任が画面を覗き込み、眉を動かす。
確かに、システムが自動で打刻したタイムスタンプがあった。
それは簡単には改ざんできない。
生活指導の先生はしばし無言で画面を見つめ、それから大きく息を吐いた。
「……なるほど。そういうことか。疑ってすまなかったな」
タブレットを閉じる音が、妙に重く響く。
「だが、野中。この映像が「なぜか」校内に出回っているのは事実だ」
先生の視線が鋭く突き刺さる。
「教師として、最善を尽くすつもりだが、どうしても限界がある。心細いが、とにかく冷静でいろ。
反応すればするほど、相手の思うツボになる。」
「……はい」
小さく、蓮は答えた。
「…失礼しました」
生活指導室を後にした蓮は、胸の奥がずっしりと重く沈んでいた。
潔白は証明できた。先生にも一応、理解はしてもらえた。
――けれど。噂という影は、すでに勝手に歩き出していた。
夕方、グラウンド。
全国制覇の余韻がまだ残る中、部員たちの声は弾んでいたはずなのに――
蓮が姿を現した瞬間、空気がすっと引いた。
「……よろしくお願いします」
蓮が声をかけても、返事はわずかに返るだけ。
ボールは彼を避けるように回り、パスも掛け声も滅多に飛んでこない。
(……やっぱり、そうなるよな)
心の奥に冷たいものが広がっていく。
勝ったはずなのに。あれほど一緒に喜んだのに。
今はただ、透明な壁に囲まれているようだった。
部室の中も同じだった。
蓮がロッカーを開けると、一瞬ざわついた空気が走る。
背中にひそひそ声がまとわりついた。
「……やっぱ怪しいよな」
「先生は庇ったらしいけどさ」
「動画、見た? あれ野中じゃね?」
低い囁きが、胸に突き刺さる。
必死にスパイクを履き替えながらも、耳は勝手に拾ってしまう。
そのとき、ひとりの三年がわざとらしく笑った。
「全国優勝したんだから、もう野中いなくてもいいんじゃねぇ?」
「そうそう。東條と藤井さえいりゃ十分だろ」
どっと笑いが起きる。
笑いながらも目は決して蓮に向けられない。
まるでそこに「いない」かのように扱われる。
拳を握りしめ、言葉を飲み込むしかなかった。
(俺……勝ったのに。仲間だったはずなのに……どうして)
そのときだった。
「――全員、集まれ」
鋭い声が部室を裂いた。
平井先生が部員を見渡し、真っ直ぐに歩み出てくる。
「お前たち、勘違いするな。全国制覇は“全員”で勝ち取ったものだ」
沈黙の中、先生は一人ひとりを見渡す。
「くだらん噂に流されて、仲間を外す気か? 俺は知っている。野中は誇りを持って戦った。最後までな」
平井先生の低く響く声に、部室の空気が張り詰めた。
しかし、一人の三年生が唇を歪めて言い返した。
「……でも先生、実際に動画は流れてるんですよ。野中がやったかどうかなんて、俺らには分からないじゃないですか」
周囲がざわつく。
「そうだ、俺らが疑うのも仕方ねぇだろ」
「チームの名誉だってあるんだ」
不満をぶつけるような声がいくつも重なる。
蓮は俯いたまま、スパイクの先端を立てて叩く。
先生は一歩前に出て、鋭い視線を向けた。
「……お前ら、勝手に“真実”を作るな」
その一言に、ざわめきは止まった。
「動画がどう見えようが、証拠にもならん。噂話を事実のように語り、仲間を追い出すことが、そんなに誇らしいのか?」
「……」
三年生は何も言い返せず、拳を握りしめたまま黙り込む。
先生はさらに続ける。
「いいか。全国で優勝したのは、玲央でも拓真でもない。もちろんお前たち三年だけでもない。
“全員”で掴んだんだ。野中はその一員だ。
それを否定するなら、お前らは自分たちの勝利まで汚すことになるぞ」
沈黙。
重苦しい空気が流れる中、拓真が拳を握りしめて一歩前に出た。
「……そうだ。野中がいなきゃ、俺たち勝てなかった」
玲央も視線を上げて短く言った。
「……あいつは、俺らの“グース”だ」
三年生たちは目を逸らし、渋々黙り込む。
だが空気の刺々しさは消えきらず、部室に残り続けた。
蓮は黙ってその様子を見つめながら、胸の奥で呟いた。
(……ありがとうございます、先生。でも……俺の立場は、もう簡単には戻らない)
翌朝、教室に足を踏み入れた蓮は、すぐに空気の違いを感じ取った。
机に物が隠されているわけでも、誰かがあからさまに罵声を浴びせるわけでもない。
けれど――。
次の朝の教室
「……」
クラスの空気が、わずかに引いていた。
近くで笑い合っていた数人の生徒が、蓮の視線に気づいた瞬間、ふいに声を潜める。
会話が途切れ、また別の話題へすり替わる。
席に着いても、後ろから声をかけてくる者はいない。
提出物を取りに来た委員ですら、必要最低限の言葉だけを投げかけて、すぐに去っていった。
(……やっぱり、噂が回ってるのか)
心の奥に冷たいものが広がっていく。
昨日の部室の重苦しさが、そのまま教室にも滲み出してきていた。
昼休み。
拓真と玲央は、別のクラスから呼ばれてそのまま一緒に食堂へ行ったらしく、蓮は一人で弁当を手にした。
教室の片隅で広げようとしたが、数人のグループがあえて近くの机を避けるようにして席を移すのが目に入った。
(……俺と一緒にいるのが、嫌なんだな)
弁当の味は分からなかった。
口に運んでも、砂を噛んでいるような感覚だけが残る。
放課後。
グラウンドに立つと、さらに分かりやすかった。
声を掛け合う輪の中に、蓮の名前だけが呼ばれない。
ボールが回ってきても、誰かが別の方向へ蹴り出す。
仕方なく拾いに行っても、誰も「ナイス」とは言わない。
ただ、拓真だけが遠くから声を張った。
「ナイスカット!」
玲央も一度だけ、短く「……悪くない」と呟いた。
その声に、一瞬だけ胸が温かくなる。
だが、それはすぐに周囲の冷たい視線にかき消されていった。
(……俺は、ここにいていいのか?)
グラウンドに伸びた自分の影を見つめながら、蓮は深く息を吐いた。
全国優勝という“栄光”が、今では皮肉のように重くのしかかっていた。
玄関の扉を開けると、ふわりと味噌汁の香りが漂ってきた。
蓮は靴を脱ぎながら「ただいま」と声をかける。
「おかえりー!」
すぐに母の明るい声が返ってきた。
父もリビングから顔を出す。
「おう、今日もお疲れさん」
食卓には、唐揚げとサラダ、そして湯気の立つ味噌汁が並んでいた。
母が笑顔で言う。
「今日はね、全国優勝のお祝いの続き!
ちょっと豪華にしたの」
「……ありがとう」
自然と声が小さくなる。
学校で押し黙っていた時間が、喉にまだ残っていた。
父が唐揚げを箸で持ち上げ、にやりと笑う。
「優勝ストライカーの栄養源だな」
「……俺、ストライカーじゃないけど」
「分かってるよ。けど、お前の走りがあったから勝てたんだろ?」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
母も頷いた。
「そうよ。お父さんも私も、ちゃんと分かってるからね」
蓮は一瞬、目を伏せた。
学校では誰も信じてくれない。けれど、この家だけは違う。
ほんの少しの救いが、胸を支えてくれた。
食事の後、父が不意に言った。
「なぁ蓮。優勝の写真、新聞に載ってたぞ」
渡されたタブレットを見ると、新聞電子版に大きく写る玲央と拓真、そしてその後ろに映る自分の姿があった。
「……俺、小さいな」
「何言ってんだ。ちゃんと映ってるじゃないか」
母がやさしく笑う。
「これから先も、こうやって残っていくんだよ。蓮が頑張った証拠として」
蓮は無言でタブレットの写真を拡大して、見つめた。
喉が少しだけ詰まりながらも、胸の中に温かなものが広がっていった。
食卓を片付けたあと、父が麦茶の入ったコップを片手にリビングのソファに腰を下ろした。
蓮も隣に座る。テレビはついていたが、音量はほとんど聞こえないほど小さい。
父はタブレットの電源を落とし、ぽつりと切り出した。
「なぁ、蓮。……学校で何かあったか?」
蓮は少し驚いたように顔を上げた。
「……なんで?」
「今日の帰りの顔を見れば分かる。母さんは気づいてないふりしてたけどな」
蓮は唇を噛む。
「……別に、大したことじゃないよ」
「嘘つけ」
父の声は柔らかいが、核心を突いていた。
しばしの沈黙。
蓮は膝の上で手を握りしめ、やっとの思いで言葉を吐き出した。
「……なんかさ。俺が全国で活躍したのに、“いなくてもよかった”みたいな空気があって……」
父は目を細め、息を吐いた。
「なるほどな。……昔からそういうやつはいたよ。俺の若い頃もな」
「……父さんも?」
父は笑って、麦茶を一口。
「俺だって昔、オタク扱いされてた。ガンプラ作ってるってだけで、“ダサい”だの“キモい”だの言われてな」
蓮は驚いたように父を見た。
「えっ……初めて聞いた」
「まぁ、母さんに会ってからは気にならなくなったけどな」
父の口元に浮かぶ笑みは、どこか誇らしげだった。
「だから言える。蓮、お前はお前だ。他人の声で自分の価値を測るな」
蓮は胸の奥に温かいものが広がるのを感じた。
けれど同時に、学校で浴びた冷たい視線が頭をよぎる。
「……分かってる。でも、やっぱり怖いんだ」
父は蓮の肩を軽く叩いた。
「怖がっていい。悩んでいい。けど――逃げるな。お前は全国のピッチで戦ったんだ。その証拠は、誰にも消せない」
蓮の視界がじんわりと滲んだ。
「……うん」
その夜、蓮は布団に入っても、父の言葉を何度も思い返していた。
“逃げるな”――その一言が、翌日の彼の背中を押すことになる。
まだ陽が昇りきらない、薄明の空気。
蓮、拓真、玲央の3人は、毎朝の恒例であるランニングを始めていた。
靴が土を叩くリズム。
息が白く曇る。
だが――拓真はすぐに違和感を覚えた。
「……おい、蓮。フォーム、まだ変じゃね?」
横から覗き込むように声をかける。
「えっ……?」
蓮は動揺を隠そうと、少し笑みを浮かべた。
「大丈夫だって。ただ、ちょっと寝不足なだけ」
玲央もちらりと横目で見やる。
「……説得力ないな。昨日だって、授業中にふらついてただろ」
図星を突かれ、蓮は一瞬言葉を詰まらせた。
ランを終え、クールダウンのストレッチに入る。
拓真が腕を組んで、真剣な顔で切り込む。
「蓮。……悩み事だろ」
「いや、本当に……そんな大したことじゃ」
蓮は目を逸らし、足首を伸ばすふりで誤魔化す。
しかし、玲央が低い声で重ねた。
「俺たちに隠してどうする。チームで一緒に走ってきたのに」
蓮の胸に、昨夜の父の言葉が甦る。
――逃げるな。
逃げたくない。でも、言えば二人に迷惑がかかる。
葛藤で胸が締め付けられる。
やがて蓮は、長く息を吐いて口を開いた。
「……噂、聞いてるよな」
拓真と玲央が表情を引き締める。
「やっぱ、それか」
蓮は声を震わせながら続ける。
「空き教室で三年の先輩と……って。俺じゃないのに、証拠みたいな映像まで出されて……。
先生には潔白を証明できたけど、クラスや部室じゃ……誰も信じてくれない」
拓真は拳を握りしめた。
「ふざけんな……! 誰がそんなデタラメ流してんだよ!」
玲央は目を閉じ、しばし沈黙。
だが次に言葉を発した時は、氷のように冷たい声だった。
「……つまり、蓮を狙った仕組まれた罠だな」
「……」
蓮は頷いた。
拓真が蓮の肩をがしっと掴む。
「蓮。お前は悪くねぇ! 俺らは信じてる。なぁ、玲央!」
玲央も短く、しかしはっきりと言った。
「……グースは俺たちの仲間だ」
蓮の目が潤む。
「……ありがとう。でも、俺……」
言葉を詰まらせる蓮の背中を、拓真が軽く叩いた。
「悩むなら、俺たちと一緒に悩め。お前だけに背負わせねぇから」
朝焼けが、グラウンドに差し込む。
その光の中で、3人は再び走り出した。
重くのしかかる現実に押し潰されそうになりながらも――互いを支えるように。
時が過ぎ、11月
壇上には、新しく選ばれた生徒会役員たちが並んでいた。
中央に立つのは――会長になった押田 司。
その横に副会長の倉原 ともみ。その背後を固めるのは、ほぼ全員「押田派」の面々だった。
押田は胸を張り、堂々と声を張り上げる。
「諸君。選挙期間中に約束したとおり――
『特別参与制度』を導入する。これは各クラス、部活動が参与として参加することにより
学園全体の質を向上するための制度だ。」
体育館がざわついた。
“参与”という言葉に、生徒たちは一瞬きらめいた視線を向ける。
「選考はある。希望者は誰でも申し込めるが……」
押田は言葉を区切り、意味ありげに笑った。
「合格できるかどうかは――君たち次第だ」
その一言に、体育館の空気が変わる。
(どうせ“イケメン側”しか受からない……)
そんな囁きがオタク側の生徒たちから漏れ始めた。
壇上で一歩引いた位置に立つ倉原は、俯きながらも表情を固めていた。
(……また、切り捨てられる人間が出る……)
押田はすかさず話題を切り替える。
「そしてもうひとつ。来週からシステム更新が入る。
来週行われる風紀委員による持ち物検査のあと――学生証をICカードリーダーにかざして登校すること」
静まり返る体育館。
生徒たちは一瞬理解できずに顔を見合わせる。
「安心してくれ。これは安全と秩序を守るための処置だ」
押田は涼しい顔で言い切った。
だが、その“更新”の本質を知る者は、ほとんどいない。
――これこそが、“オタク迫害政策”の第一段階だった。
蓮はその場で背中が凍るような感覚を覚えた。
耳に入る拍手のリズムは、なぜかぎこちなく、冷たい。
心臓の奥に嫌な予感が広がっていく。
(……これから、何が始まるんだ)
数日後・学食
昼休み、食堂に向かう生徒の列は、いつもよりもさらに長く、そして騒がしかった。
入り口に新しく設置されたゲートが――次々と「エラー」を吐き出していたからだ。
「……なんで? 昨日までは普通に入れたのに!」
「カードが赤点灯……? これじゃ中に入れないじゃん!」
困惑する声、苛立つ声が、食堂前に渦巻いていた。
その顔ぶれは――例外なく「オタク側」の生徒たちだった。
「システムの不具合です。ただちに復旧します」
そうアナウンスする風紀委員の声は冷静だったが、現場の混乱を収めるには程遠い。
結局、急遽設けられた「お弁当コーナー」に人が殺到し、ごった返す列が伸びていく。
カレーや焼きそばパンなどを手にした生徒が、不満そうに溜息をついた。
「なんだよこれ……。俺たちだけ、ハズレ扱いかよ」
「システムの不具合? 笑わせんなって」
誰もが薄々感じていた。
――これは“偶然の不具合”ではなかった。
一方、蓮は最初から食堂には向かわず、校舎の屋上に足を運んでいた。
カバンから取り出した弁当を開き、風に吹かれながらひとりで箸を進める。
(……やっぱりな。こうなる気がしてた)
下から響いてくるざわめきと怒号。
蓮は胸の奥で、倉原とのやりとりを思い出していた。
――「優勝したって、今いる“ステータス”で決めつけてくる。」
(……でも、俺はまだ、ここで踏ん張るしかないんだ)
空を仰ぎ、蓮はひとり小さく息を吐いた。
黒板の前で担任が紙を掲げた。
「特別参与制度の選考結果が出た。掲示板にも出すが、各クラスにも回ってくるからな」
ざわつく教室。
数名の生徒が立ち上がり、結果を見に行く。
「……ダメだった」
「俺も……全滅かよ」
がっくり肩を落とす声が、あちこちから漏れる。
イケメン側に属する生徒たちでさえ、受からなかったらしい。
一方で、蓮は席に座ったまま静かにプリントを眺めるだけだった。
(……最初から、応募してない。どうせ落ちるに決まってるし)
淡々とした心境。
だが周囲の落胆とは正反対の態度が、かえって浮き彫りになる。
「おい、野中。お前……申し込んでなかったのか?」
クラスの一人が半ば呆れ顔で尋ねる。
「うん。最初から、そういうのは……」
言葉を濁す蓮に、別の生徒が苦笑する。
「なるほどな。野中らしいっちゃらしい」
一瞬だけ笑いが起きたが、それはすぐに消えた。
教室の空気は重く、誰もが「自分は選ばれなかった」という事実を噛みしめていた。
蓮はノートを閉じ、カバンにしまう。
(……俺だけ“ダメージなし”なんて、皮肉だな)
そんなことを考えながら、静かに席を立った。
別の日
昼休みのチャイムが鳴り、蓮はいつものように図書室へ足を運んだ。
全国大会の影響と重なった部分もあり、次の授業のための参考資料を探しておこうと思ったのだ。
入口には、見慣れた認証ゲート。
学生証をかざすと――
《入室制限中》
液晶画面に赤い文字が表示され、ゲートは固く閉ざされたままだった。
「え……?」
思わず蓮は声を漏らす。
後ろからやって来た別の生徒――イケメン側クラスの二年が、同じように学生証をかざす。
《ようこそ》
軽やかな音と共に、ゲートは即座に開いた。
蓮は思わず立ち尽くす。
(……俺は予約システムでも“定員オーバー”で入れないのに、なんで……?)
その直後、彼の後ろに並んでいた同じ「オタク側」のクラスメイトが、困惑した顔で蓮に言う。
「……またかよ。ここ最近ずっとこうだよな」
「うん……“定員超え”って表示だけど、実際は――」
二人の間に流れる、言葉にしづらい確信。
そこへ通りかかった別の生徒が、皮肉混じりに囁いた。
「野中、お前も“図書室フィルター”に引っかかったか」
その響きに、蓮は唇を噛んだ。
学食の“ゲート”に続いて、今度は“知の場”まで。
見えない壁は着実に広がっている。
(……これが、“迫害政策”の第2段ってわけか)
蓮は踵を返し、足を屋上へと向けた。
図書室に入れなくても、持ってきた本で時間は潰せる。
だが胸の奥に広がった冷たい空洞は、読書で埋められるものではなかった。
数日後・昼休み ― 屋上
風の強い昼。
学食のざわめきを避けて、蓮・拓真・玲央・涼子の4人は屋上に腰を下ろしていた。
校舎の影に身を寄せ、弁当を広げる。
「やっぱ、静かでいいな」
拓真が大きく伸びをしながら笑う。
「学食だと、席取り合戦だし。食べる前に消耗するわ」
玲央は頷きつつ、ふと隣の蓮に視線を向けた。
「……蓮。そういえば最近、学食行ってないな」
蓮は箸を止め、苦笑いを浮かべた。
「“行かない”んじゃなくて……“行けない”んだ」
「?」
玲央が眉を寄せる。
「この前、試しにゲートで学生証かざしてみたんだ。……そしたら、はじかれた」
蓮の言葉に、拓真と涼子も思わず顔を上げる。
「はじかれた……って、マジかよ」
拓真が拳を握りしめる。
蓮は静かに続けた。
「今は……図書室とメディア室も、同じ。理由は“定員オーバー”って表示されるけど、イケメン側は普通に通ってるみたいだ」
短い沈黙が流れる。
涼子が小さく呟いた。
「……そうなんだ……。大変ね……」
「首尾よく行けたところもあるけど、これ以上は……どうなるかわからない」
蓮は弁当箱の端を見つめながら言った。
風に髪が揺れ、声はどこかかすれていた。
玲央は唇を噛み、涼子の言葉を継ぐように低く呟く。
「システムの“仕様”だって言えば、それで終わりか……」
拓真は拳を握り直し、食べかけの唐揚げを机に置いた。
「ふざけんなよ……。オタクとかイケメンとか関係ねぇだろ。飯も本も、誰だって必要じゃん」
その言葉に、蓮はわずかに笑った。
「ありがと。でも……気持ちだけで十分だよ。今は、まだ」
涼子は蓮の横顔を見つめた。
(……“まだ”。その言い方が一番怖いのよ、蓮)
屋上の空気は爽やかだったが、4人の胸の奥にはそれぞれ違う重さが残っていた。
風が強く、昼休み終了の予鈴が近づいていた。
弁当の空き箱を片付けながら、拓真がふと思い出したように口を開く。
「……あ、そうだ。今日、昼休み後に1組と2組だけ講堂に集合って、言ってなかったっけ?」
「えっ?」
涼子が目を丸くする。
「そういえば、朝のホームルームで先生が言ってたわ!」
蓮は首を傾げた。
「講堂? 俺、聞いてないけど……」
玲央が箸を止め、冷静な声で補足した。
「“七星生の心構え”を持参、って話だ。……イケメンクラスなら、必須だってな」
その瞬間、昼休み終了のチャイムが鳴り響いた。
「うわ、ヤベ!」
拓真が慌てて弁当箱を抱え込む。
「走るわよ、拓真!」
涼子が立ち上がり、髪を揺らしながら急いで片付ける。
「……じゃあな、蓮」
玲央も短く告げ、二人に続く。
「お、おう……」
蓮は取り残された。
屋上に吹き込む風が一層冷たく感じられる。
広くなった空間の中で、蓮は小さく呟いた。
「……心構え、か」
彼のクラスでは、このあと普通に数学と理科。
けれど――あの3人がこれから受けるのは、「思想教育」という名の“特別授業”。
(……俺と、あの三人の間には、もう見えない境界線が引かれてるんだな)
蓮は少しだけ拳を握りしめたが、それを解いて教室へと向かった。
昼休みが終わると同時に、拓真、玲央、そして涼子が属する「イケメンクラス」と生徒会役員たちは講堂に集められた。
壇上の横には理事長である県知事と校長、教頭、さらに数名の教師。壇上には国旗・校旗が掲げられている。
ざわつく生徒たちの前に、壇上には重厚なスーツに身を包んだ四人の男たちが座っている。
いずれも七星学園OBであり、今や国の中枢にいる人物たちだった。
校長がマイクを握る。
「諸君。これから行われるのは“七星特別講義”。
君たちが将来、この国を導くに相応しい存在であることを自覚してもらうための時間です。
「授業の一環」ですので、しっかりと聞いてください。」
空気がぴんと張り詰める。
壇上の中央に立った保守系与党の副総裁は、ゆっくりと聴衆を見渡した。
その眼差しは鋭く、まるで一人ひとりの心を見透かすかのようだ。
マイクに口を近づけると、低く、しかしよく通る声が講堂に響いた。
「こんにちわ」
副総裁があいさつすると生徒がこんにちわと返す。
自己紹介とユーモアなエピソードをそこそこに、真剣な顔で語り始めた。
「それで諸君。よく覚えておきなさい。
この国は今、重大な岐路に立っている。少子化、経済停滞、そして価値観の多様化。
一見“自由”のように聞こえるが、それは無秩序であり、国を弱体化させる毒であります。」
ざわ、と生徒たちの胸に重苦しい波が走る。
「秩序を保つために必要なのは何か。
――選別だ。
能力ある者が能力を発揮し、無能な者は無能として生きる。
この当たり前の理屈を、今の大人たちは口にすることを恐れている。
だが七星は違う。七星は勇気を持って、この 理を制度化した。
それこそが“七星生の心構え”だ。」
押田は深く頷き、目を輝かせながらメモを取っている。
一方で、玲央は眉間に皺を寄せ、拓真は無言で拳を握った。
副総裁はさらに熱を帯びる。
「勘違いしてはならない。
我々が“オタク側”を否定するのは、彼らが趣味を持つからではない。
“社会を導く適性が欠けている”からだ。
彼らは従順であるべきであり、諸君はその上に立ち、導き、管理する責務を負っている!」
声を荒げたわけではない。だが一語一語が鉄槌のように重く響いた。
「優しさや平等という幻想に惑わされてはなりません。
優しさは社会を腐らせ、平等は能力を埋没させる。
君たちは選ばれた存在だ。七星で育ち、この教えを胸に刻んだ者こそ、未来の国を動かす者となるでしょう!」
大きな拍手が起こり、一部の生徒は陶酔したように頷いていた。
しかし、拍手をしながらも涼子の指先は震えていた。
(こんな話……本当に正しいの? “みんなで”勝ち取った全国制覇を、今この人は全否定しているように聞こえる……)
玲央は口を固く結び、目を細める。
(……能力だけがすべて、か。なら、事故に遭ったあの子は“無能”だったから見捨てられたのか?
俺は、あのとき何もできなかった大人と同じになりたくない……)
拓真は顔を俯かせ、膝の上で拳を震わせる。
(……くだらねえ。強いやつが弱いやつを守るんじゃなくて、ただ踏みにじるってことか?
でも、ここで反発すれば……俺たちまで排除されちまう……)
押田だけが――満足げに笑みを浮かべていた。
(ああ、やはり俺は“選ばれた者”だ。副総裁が言うなら間違いない。オタクは劣等、我々は勝者だ……!)
副総裁は拳を挙げて結んだ。
「君たちに託された使命はひとつ――。
“勝ち続けること”。それが、この国を救う唯一の道である!」
再び拍手が鳴り響き、幾人かは万歳をする人もいた。
副総裁の後を引き継ぐように、幹事長が壇上に立った。
がっしりとした体格に、響き渡る低音の声。彼が一言発するだけで、講堂全体の空気がさらに重くなる。
「諸君。人生は、勝者か敗者か――その二つしかないことは、ご存じでしょう。」
その直截的な言葉に、生徒たちは息をのむ。
幹事長は歩みを止めず、壇上をゆっくりと行き来しながら続けた。
「勝者は資源を手に入れ、敗者は切り捨てられる。
それは社会も、国家も、極めつけは戦場にいても同じである。
“敗者にも価値がある”などという寝言を信じているから、この80年、国は弱り切った。
だからこそ七星学園が率先して、勝者を育てるのだ」
強い調子で吐き捨てると、イケメン側の生徒たちから賛同のざわめきが広がった。
「……勝つこと、それ自体が正義だ」
幹事長の声はますます熱を帯びる。
「仲間を守るため」? そんなものは言い訳に過ぎん!
守りたいなら、まず勝て! 勝てば守れる。勝てなければ、守る資格すらない!」
強烈なフレーズに、生徒たちの心が揺さぶられる。
「その通りだ」「俺たちは勝つ!」と声を上げる者すら出始めた。
――しかし。
玲央は表情を曇らせた。
(勝てば守れる……? それは理屈の上では正しいかもしれない。
でも、俺が知ってる“勝利”は……仲間と支え合った末に掴んだものだ。
一人で勝つんじゃない。“全員”で、だろ……?)
拓真は一瞬だけ玲央の横顔を盗み見て、眉をひそめた。
(玲央……何か考えてやがるな。
俺だって納得いかねぇよ。“勝ったやつだけが正義”なんて……クソみてぇだ)
涼子は表情を消していたが、机の上に置いた手は固く握られていた。
(野中くん……もしここにいたら、どんな顔をするだろう。)
押田は一方で満足げに頷き、幹事長の言葉を一字一句逃すまいと記録していた。
幹事長は最後に、指を天井に突き上げるように掲げて叫んだ。
「敗者になるな! 勝者であれ! それこそが、この学園の存在意義だ!」
会場を揺らす拍手と歓声。
しかし、その熱狂の中で――玲央の胸の奥には、小さな亀裂が刻まれ始めていた。
拍手が収まり切らぬうちに、文部科学大臣が静かに立ち上がった。
スーツの襟を正し、細い眼鏡の奥から冷静な視線を投げかける。
声は副総裁や幹事長ほど荒々しくはなかった。だが、その一語一語は氷のように冷たく、重く響いた。
「諸君。いま七星学園が導入している“教室システム”は知っているな。
出席、授業、学習記録、生活態度――あらゆるものを管理する仕組みだ」
生徒たちが一斉に頷く。端末での出欠確認や提出物の自動判定は、すでに日常の風景となっていた。
大臣は続ける。
「この仕組みは、単なる校内システムにとどまらない。
すでに文科省、いや政府と各省庁、そして主要教育メーカが中心となって、全国規模の教育インフラへと拡張しつつある。
君たちは最前線の被験者であり、未来の“標準”を先取りする存在なのだ」
一瞬ざわつく会場。だが大臣は微笑を崩さず、さらに声を強めた。
「なぜ、この国がそこまで“教育安全保障”に力を入れるのか。
理由は単純だ――周辺国の脅威である。
諸君もニュースで耳にしているだろう。隣国では、乳幼児教育の段階から“国家に忠実な人材”を徹底的に育てている。
我が国が「民主主義」と「多様性」を言い訳に、このまま弛んだ“自由教育”の名の下に緩んだままでいれば、
そう遠くない将来、競争に敗れるのは目に見えている。」
重苦しい言葉に、生徒たちの背筋が伸びる。
「だからこそ、七星の“教室システム”は礎だ。
単なる監視ではない。国家の未来を守るための“選別”だ。
君たちが模範となり、社会に出たときにはこう言われるだろう。
――『七星出身者は信頼できる』『七星生こそが、この国と社会を支える柱だ』と」
押田はその言葉を聞いて、満足げにうなずいた。
(やはり……この仕組みを使いこなす俺が、勝者に選ばれる。間違いない)
一方、玲央は唇をかみ、冊子を見下ろしていた。
(……“選別”。“信頼”。そう言えば聞こえはいい。けど、結局は切り捨てる理由づけじゃないのか。
俺たちが全国で戦ったとき……蓮がいたから勝てたのに。あいつは、こういう連中にとっては“切り捨て対象”ってことか?)
拓真は膝の上で拳を握りしめた。
(……クソが。“教育安全保障”? 聞こえはご立派だが、やってることはただの差別じゃねぇか。
それに――思想そのものが違う「隣国」のことなんざ持ち出して、自分たちの正当化かよ)
涼子は周囲に合わせて拍手をしたが、目は伏せられたままだった。
(“国家のために”……そう言えば全部正しいように聞こえる。でも、誰かを犠牲にして築く未来なんて、ほんとうに幸せなの?)
文科大臣は結びに、声をさらに落ち着けた。
「諸君。これは誇りだ。
七星で学ぶことは、この国の未来を守ることと同義だ。
自らの選ばれた立場を自覚し、誇りを持て」
その言葉に、講堂の空気は熱気と冷気が入り混じった複雑な色を帯びていった
最後に壇上に立った防衛大臣は、白髪交じりの短髪をきっちり整え、背筋をまっすぐに伸ばしていた。
制服を脱いで久しいはずだが、その立ち姿には「現場で鍛えられた者」特有の緊張感が漂っていた。
「……私はかつてこの学園を卒業して横須賀のアカデミー、そして幾多の経験を経て、統合幕僚長を務めておりました。
三つの隊を束ね、災害派遣から防衛出動まで、国家の安全保障を背負う立場にあった者です」
低く、よく通る声が講堂に響く。
生徒たちは静まり返り、彼の言葉を吸い込むように聞いていた。
「今日ここで、諸君に伝えたいのは――国家を支える人材に求められる資質です。
それは体力でも、学力でも、家柄でもない。
“責任を背負い、最後まで逃げない力” です」
生徒たちの目が真剣になる。
玲央の指先が、無意識に膝の上で握りしめられた。
防衛大臣は続ける。
「戦後、我が国は連合国の下で平和の恩恵を長年享受してきました。だが時代が進むにつれて、周辺情勢は甘くない。
隣国は軍拡を進め、情報戦を仕掛け、我が国の教育や情報インフラにまで干渉しようとしている。
……だからこそ、この七星学園が導入した教育システムは、“教育安全保障”の最前線なのです」
背後のスクリーンに映し出されたのは、学園で使われている電子教科書や出欠・成績管理の画面。
生徒たちの一部は息を呑む。
「諸君の出席や成績、日々の行動がデータとして蓄積され、国家の教育基盤の一部となる。
これは単なる管理ではない。未来を守る盾であり、世界に先んじる剣だ。
この枠組みを正しく理解し、使いこなせる者こそ――国家の中枢を担うにふさわしい」
熱を帯びた声。
講堂の空気が一段階、張り詰める。
「我々は諸君を、ただの“生徒”とは見ていない。
将来、国を動かす者、社会を導く者として育てているのです。
ゆえに――責任ある者にふさわしくない行動を取る者は、自然と振るい落とされる。
それは冷酷ではなく、国家に必要な選別なのです」
防衛大臣の言葉が終盤に差しかかるころ、玲央はまっすぐ前を見据えていた。
普段の冷徹な表情はそのままだが、瞳の奥には普段見せない色が浮かび始めている。
「責任を背負い、最後まで逃げない力――」
そのフレーズが、玲央の心に深く突き刺さった。
(……俺は。全国で勝った。でも、あれは拓真や蓮がいてこそだった。
俺ひとりで背負えたわけじゃない。
もし……もし本当に一人で責任を背負えるなら――俺はもっと強くなれるのか?)
講堂の空気が熱を帯びる。
大臣はさらに声を強めた。
「振るい落とされる者を、我々は救わない。
国家を担う責任を果たせぬ者に、居場所はない。
だが――その覚悟を持つ者には、必ず未来が開ける!」
(振るい落とされる者……)
玲央の胸に、言葉にならない重みがのしかかる。
――その瞬間、脳裏に浮かんだのは蓮の姿だった。
オタク側に分類され、陰口を叩かれ、それでも歯を食いしばって走り続ける蓮。
(あいつは……“グース”だ。俺の隣で、俺の背中を支えてくれた。
けど――国家が言う“責任を果たせぬ者”に、あいつは見られているのかもしれない)
気づけば玲央は、拳を強く握りしめていた。
隣の拓真が一瞬、彼を横目で見た。
「玲央……お前、珍しく震えてるぞ」
小声でそう囁かれ、玲央ははっとして手を開いた。
一拍置いて、大臣は生徒たちを鋭く見渡した。
その眼光は、まるで戦場で部隊を見据える指揮官のようだった。
「諸君。誇りを持ちなさい。
そして、己が責任から逃げない強さを持ちなさい。
国家も社会も、それを望んでいるのです」
演説が終わると同時に、講堂には割れんばかりの拍手が響いた。
その中で、玲央だけは――胸の奥で何かがざわつくのを感じていた
壇上に立ったのは、県知事であり七星学園の理事長も務める人物だった。
普段はテレビや新聞でしか見ない存在が目の前に立ち、講堂の空気は一気に張り詰める。
「……諸君」
知事は低い声で語り始めた。
「私は教育行政の長として、この七星を“未来の県を担う若者の砦”と位置づけている。
そして諸君は、その中心を担う存在だ」
イケメンクラスの生徒たちは息を呑み、真剣に聞き入る。
「ここで学んだことは、やがて社会の礎となる。
優れた者は上に立ち、そうでない者は下支えを担う。
それは残酷な現実に見えるかもしれない。だが――この県が、そしてこの国が生き延びるためには、秩序を守り続けねばならない」
玲央は小さく拳を握る。
(秩序……そのために、蓮は切り捨てられるのか……?)
知事はさらに力を込める。
「諸君が努力し続ければ、未来は必ず報われる。
怠る者は“ノイズ”として淘汰される。
だが、己を磨き続ける限り――この県、この国の未来は諸君の手の中にある!」
――拍手。
政治家OBたちが先に叩き、それに教師、生徒たちも続いていく。
講堂全体が熱狂に包まれる中、玲央の胸だけはざわついていた。
(……蓮を救うには、俺が上に立つしかない。
でも、それは……“奴ら”の思惑通りなのか?)
講堂を出た瞬間、冷たい冬の風が頬を撫でた。
熱に浮かされたような拍手と歓声がまだ耳に残っている。
「……すげぇ熱量だったな」
拓真が腕を組み、吐く息を白くしてつぶやいた。
「……ああ」
玲央は短く答えた。声は冷静に見えて、奥には微かなざわつきが混じっている。
涼子が二人の横に並ぶ。
「……どう、思った?」
彼女の問いかけは、玲央に向けられていた。
「……俺たちに求められてるのは、上に立つことだってことだ」
玲央はうつむき、拳を握る。
「そのためなら、弱い奴は切り捨てろってことか……」
拓真が足を止めて、玲央の顔を覗き込む。
「おいおい、らしくねーな。玲央が真に受けてどうする」
「……でも、俺は思ったんだ。
もし俺が上に立てば、蓮を守れるかもしれない」
玲央の言葉に、二人は沈黙した。
涼子は小さく息をのむ。
(……その考え方、危ない。けど……彼の目は本気だ)
拓真が頭を掻きながら言う。
「まぁ……やる気になったなら、それはそれでいいんじゃねーか? でも、間違った方向に突っ走んなよ」
玲央は返事をせず、前を向いたまま歩き出す。
彼の背中を見ながら、涼子は胸に小さな不安を抱えていた。
講堂を出た時のざわつきはすでに消え、校舎は闇に沈んでいた。
街灯の光に照らされながら歩く玲央の頭の中には、演壇に立ったOBたちの言葉が何度も反響していた。
――“選ばれし者だけが未来を築く”
――“弱者は支えられるのではなく、淘汰される”
その言葉に正面から反発する気持ちと、妙に納得してしまう部分が、心の中でせめぎ合っている。
(……馬鹿げてる。だけど、あの空気の前では、否定する声すら掻き消される)
ふと脳裏に浮かんだのは、全国制覇の舞台で共に戦った蓮の姿だった。
必死にボールを追い、仲間を繋いで――「グース」として支えてくれた、あの日の背中。
(淘汰? 冗談じゃない。蓮は、俺たちに絶対必要だ)
玲央は拳を握りしめた。
(なら俺が“上”に行くしかない。
俺が権力を持てば、この歪んだ仕組みの中でも……蓮を守れる)
決意は強い。だが、その道筋はあまりにも危うい。
“力を持つことで救う”という発想は、いつしか“利用してでも救う”へ、そして“利用するうちに自分も染まる”危険を孕んでいた。
夜風が頬を撫でる。
玲央は立ち止まり、暗い校舎を振り返る。
「……待ってろよ、蓮」
呟きは夜に溶けた。
だがその背中には――すでに「守る」と「染まる」の境界線を踏み外しつつある、不安な影が落ちていた。
高等部棟
放課後の生徒会室。
壁際の時計の秒針だけがやけに響く中、倉原ともみは書類を整え、黙々と作業をしていた。
ドアが開く。
「よぉ、倉原」
入ってきたのは会長――いや、今や学園内の実質的な権力を握る押田だった。
「……お疲れさまです」
倉原は立ち上がり、一礼する。表情には微笑みを浮かべているが、その奥には緊張が隠せない。
「噂は聞いたか?“グース”野中のこと」
「……はい」
「便利だよな。ちょっと仕掛ければ、勝手に孤立してくれる」
押田の笑みは冷ややかだった。
倉原は口をつぐむ。視線を下げ、資料に目を落とす。
(……この空気、もう嫌。けれど、逆らえば私も――)
「お前の仕事は簡単だ」押田が言葉を続ける。
「“記録”を残すこと。システムの権限を持つお前が操作すれば、それだけで“真実”になる」
「……っ」
ともみは息を呑む。
彼女が保持するアカウント――本来は“教育支援”のためのもの。だが押田の命じるまま動けば
それはただの“迫害の道具”に変わってしまう。
押田は椅子に深く座り、薄笑いを浮かべた。
「なぁ倉原。お前も分かってるだろう。ここで俺に逆らえば――お前が次の“噂”の標的になる」
沈黙。
時計の針の音が一層大きく響く。
倉原は唇を噛み、ただ小さく答えた。
「……分かりました」
押田の笑みが深まる。
「いい子だ。そうやって従ってれば……俺が“可愛がってやる”から」
ともみの肩がわずかに震えながら座っている押田に近づく。
――その震えは恐怖と悔しさか、それ以外の感情か。
誰にも分からないまま、生徒会室の扉は再び閉ざされ、二人だけの世界が始まり
やがて静寂が戻る。
押田は制服を着替え、書類を軽く整えた後、立ち上がった。
「……次も頼むぞ。君にしかできない役割だ」
それだけ残して、背を向けて去っていく。
足音が遠ざかり、完全に消えた瞬間――
倉原は、深く息を吐き出した。
頬がほんのり赤く火照り、肩に残る圧の感触を指先でなぞる。
上体を起こし、押田が残したピルを口に入れ、持っていたペットボトルの
お茶と共に一気に飲み込んだ。
(利用されてる……わかってるのに……どうして、こんなに……)
彼女がゆっくりと帰りの支度をしている時、
胸の奥を満たしていくのは、羞恥でも屈辱でもなく――
奇妙な快楽だった。
理性では抗えない、心の奥で疼く甘い感覚。
彼女は小さく笑みを浮かべ、震える手で髪を整える。
(……私は、まだ“役割”を果たせる)
そう思った瞬間、倉原の瞳には微かな光が宿っていた。
後編へ続く




