後半第1節「焦燥」
四月。
桜は少しずつ葉桜へと変わるが、朝の校門に吹く風は少しだけ冷たい。
七星学園附属中学校の正門前には、新しいクラス分けの紙を囲むように生徒の人だかりができていた。
「やった!また同じクラスだ!」
「げ、あいつと一緒かよ……」
叫びと溜息が交じり合う。
そのど真ん中で、野中蓮は自分の名前を探していた。
(……2年4組。……あぁ、やっぱり拓真とは別か)
小さくため息が漏れる。
その横で同じ紙を覗き込んだ男子が声を上げた。
「うわー、2組メンツすげぇな。"マーベリック"藤井と東條が一緒とか反則だろ」
振り返ると――いた。
拓真が人混みをかき分け、蓮の方へ笑顔で手を振ってきた。
「野中ー! 俺、2組だって!玲央も一緒だ!」
隣には無駄のない動作で名簿を確認する玲央の姿。
表情は変わらず、ただ事実を確認しているかのような冷徹さ。
拓真「イケメンコンビ爆誕だな。お前も来ればよかったのに」
蓮「…クラス選べるシステムならな」
さりげなく突っ込む蓮。
冗談を飛ばしてみせたが、胸の奥に少しだけ空洞が残った。
蓮(同じ組じゃなくなった。ただそれだけ。……だけど、やけに遠くなった気がする)
拓真は気づかない。
玲央はそもそも目を向けない。
蓮だけがその距離を意識していた。
それぞれの教室に差し掛かろうとしたとき、玲央はふと立ち止まり、蓮に言った。
玲央「教室は別だけど、部活は一緒。……大丈夫だ」
蓮「……ありがと」
拓真「おいおい、珍しく慰めてる」
玲央は淡々と肩をすくめる。
「“冷徹”って外の人が勝手に言ってるだけで、俺はそんなに……」
拓真「はいはい、そういうことにしとくよ」
小さなやり取りだったが、蓮の胸に重くのしかかっていた緊張を少しだけ和らげた。
そして三人は、それぞれ割り当てられた教室へと歩みを進めていった。
始業式を終え、新しい教室。
担任が教卓に立ち、新しい教科書と一緒に
B5サイズのやや厚めな冊子を手にしていた。
「はい、これが“七星生の心構え”だ。二年生は必ず目を通しておけよ。
学校生活の基本が書いてあるからな」
列ごとに配られていく冊子。
表紙にはシンプルに校章と題字だけ。
ページをめくれば、生活指導や学習態度、部活動に関する心得が整然と並んでいた。
(……まぁ、よくある“学校のしおり”だな)
漣は特に違和感もなくページを追っていたが――
《男女交際について》
の項目に目が留まった。
本校における交際は、学業・人格形成に大きな影響を与える可能性があるとされており、
様々な論文や判例(裁判所で出された過去の判決)などにも出ています。
仮に交際を始めたとしても、その関係は必ずしも相手に好意的に受け取られるものではなく、
軽率な行動は「誤解や不信」を生じさせます。
場合によっては学校生活に支障を来たし、指導・処分の対象となることもあります。
よって、交際を望む場合は十分に「責任と覚悟」をもって行動してください。
(……交際は“危険”って……? なんか、すげぇ言い方だな)
蓮は不思議に思い、冊子を読み進めた。
《部活動について》
部活動は学業を第一に考え、無理のない範囲で参加することが望まれます。
過度な熱中や自己主張は集団の和を乱すだけでなく、成績低下の要因となるため控えましょう。
「地道に取り組むこと」で十分に成長は可能です。
《情報発信について》
SNSやインターネットは「誤解や問題の原因となること」が多いため、利用には細心の注意を払いましょう。
匿名での発言や、一方的な情報発信は控え、節度ある利用を心がけてください。
《将来について》
社会の一員として、まずは「人に迷惑をかけないこと」が大切です。
責任を果たし、安定した生活態度を身につけることで、信頼を築いていきましょう。
違和感を感じながらページを閉じ、午前の授業に臨んだ。
昼休み。
廊下や教室は、配布されたばかりの冊子を片手にした生徒たちの話題で持ちきりになっていた。
「なあ見てみろよ。“紳士淑女たるべし”だってさ!めっちゃキザ!」
「お前のと違うの?」
「え、違うの?」
好奇心に駆られた生徒たちが、互いの冊子を見せ合う。
「あれ? うちのは“リスク”とか“処分”とか書いてあるんだけど……」
「は? マジで? なんで?」
蓮のクラスでも、1年の時に仲良かった1組の男子が少し笑いながらページを広げてきた。
「お前のと比べてみろよ。ほら、ここ」
《男女交際について》
本校における交際は、互いを理解し、人格を尊重し合うことを前提とします。
相手への思いやりを忘れず、紳士淑女として節度ある行動を心がけてください。
学校生活の中で健全かつ模範的な関係を築くことは、互いの成長に資するものと考えます。
蓮の冊子には――『交際はリスク』
1組の男子が持っていた冊子には――『交際は、互いを尊重し紳士淑女たるべし』
蓮(……同じ“七星生の心構え”なのに、全然違う……?)
教室のあちこちでざわつきが広がる。
「え、どういうこと? クラスごとに違うの?」
「いや、イケメン側とオタク側って……噂で聞いたことあるぞ」
「知ってる…。先輩の知り合いから聞いたけど、中1の時や転入して最初の半年だけ『お客様扱い期間』ってのがあるらしい。その後は、よほどのことがない限りずっとそのステータスだって」
「うわ、マジかよ……」
「基準は…やっぱ成績とか金とか?」
「それが分かんないんよ…。3組のヤツなんて、成績も顔偏差もいいのに『オタク側』だし…」
廊下で聞いていた拓真は苦笑しながら「基準がガバガバやん」と小声で突っ込む。
玲央だけが冷静に言った。
「……つまり“任意”じゃなく、最初から決められているということか」
小さなざわめきが、大きな違和感へと変わっていった。
一方蓮は、無意識に拳を握りしめていた。
蓮(……同じ学校で、同じ学年なのに。なんで“世界”を分けるんだよ……)
窓の外では、春の風が吹き抜けていた。
だが蓮の胸の中には、ひやりとした影が忍び込んでいた。
新学期最初の放課後。
昇降口はまだざわめきに包まれていた。
上履きをしまい、鞄を手にした蓮が外に出ると、夕陽に染まる校門前で見慣れた姿が目に入った。
制服姿の涼子。
風で肩まで伸びる髪を揺らしながら、誰かを待っているように立っていた。
(……相手は、玲央か)
そう思った直後――階段から拓真と玲央が現れた。
「悪ぃ、待たせた」
拓真が手をひらひら振る。
その横で玲央は無言のまま、涼子の隣に並んだ。
自然に歩き出す三人。
背丈も姿勢も整ったその並びは、周囲の視線を集めずにはいられなかった。
「……見ろよ、あの3人」
「やっぱオーラ違うな」
「付き合ってんの、マジなんだな」
小声で囁く同級生たち。
羨望とも距離感ともつかない空気が漂う。
蓮は鞄の肩紐を握りしめ、視線を逸らした。
(……俺は、4組。“オタク側”)
(同じ学校にいるはずなのに、見ている景色がまるで違う……)
その背を追うでもなく、声をかけるでもなく。
ただ足を速め、反対方向へ歩き出した。
春の風が頬をかすめる。
遠ざかる笑い声は、蓮の耳には届かなかった。
その「違和感」は次第に空気のように溶け込み、三日もすれば、
何もなかったかのように「普段」と変わらない生活に戻っていった。
登校し、学友と会話し、授業を受け、昼食をとり、放課後は部活に励むか、そのまま下校する。
ただ一つ違うのは――「イケメン側」と「オタク側」の間に、見えない壁がすでに
築かれていたことだった。
数日後、まだ薄暗い早朝。
公園のランニングコースに、規則正しい足音が響いていた。
蓮(……眠れなかった。
クラス替えでみんなと離れて、冊子のこともあって……
頭がモヤモヤして、じっとしてられなかった)
息が荒い。けれど止まれない。
昨日までの自分を追い抜くように、
冊子で書かれていたことを忘れようとするために、
ひたすら走った。
坂を登り、コースを2周。
汗が頬を伝い、足はもう重い。
蓮(……強くなりたい。誰かに認められたい。
でも、それ以上に――“置いていかれたくない”んだ)
最後にストレッチで呼吸を整えていたとき。
軽やかな足音が背後から近づいてきた。
「……おはよ。ずいぶん早いじゃん」
拓真だった。
いつもの朝ランより1時間以上も前に現れた蓮に、少し目を丸くする。
蓮「眠れなくてさ」
拓真「……そっか。でも、授業中寝るなよ?
玲央と一緒に突撃するからな」
蓮「あはは、頑張るよ」
軽く笑い返し、蓮はリュックを背負い直して家の方へ軽く走っていった。
その背を見送りながら、拓真はわずかに眉をひそめる。
(……なんか、無理してないか?)
そう思ったが、深くは追わずに呼吸を整え、いつものランニングを始めた。
始業のチャイムが鳴り、二年四組の教室。
担任が手に束ねた書類を持って入ってきた。
「はい、おはよう。今日は配布物が一つあるぞ」
配られたのは「部活動変更届」と題された用紙だった。
学籍番号と名前のほかに大きく三つの項目が並んでいる。
退部(もしく退部済み)
転部(転部先を記入)
継続
担任「今の部活がきついとか、他に挑戦したい部活があるなら遠慮なく書いてくれていい。
強制はしないからな」
教室にざわめきが広がる。
「えー、そんなのあるんだ」
「今から別の部行くとかアリなの?」
蓮はペンを持ったまま、しばらく欄を見つめた。
(……不思議だな。
別に退部したいわけでも、他の部に行きたいわけでもない。
俺にとっては“続ける”のが普通だと思ってたけど……)
結局、迷うことなく「継続」に丸をつけた。
そのまま前に出て、先生の机に提出する。
「はい、受け取った。ありがとう」
淡々とした担任の声。
蓮は席に戻りながら、ふと隣のクラスのことを思い出した。
(……そういえば、拓真や玲央のクラスにはこういう紙は配られてないんだよな。
“自己申告”で、辞めたいやつだけ言えばいいって話だったはず。
なんで俺たちは“全員提出”なんだろう……)
胸に小さな違和感を抱えたまま、午前の授業に臨むことになった。
午後のグラウンド。
春の日差しはやわらかいが、走り続ける部員たちの汗は容赦なく滴り落ちていた。
ドリブル練習、パス回し、フォーメーションの確認。
いつものメニュー。けれど、蓮の動きはどこかぎこちなかった。
(……もっと速く。もっと正確に……!)
パスを受けても、ワンタッチがわずかに強い。
切り返しも雑になり、相手に読まれかける。
普段なら通せる場面で、ボールを奪われることが増えていた。
「野中、落ち着け!」
先輩の声が飛ぶ。
「はいっ……!」
返事をするも、胸の鼓動は収まらない。
(……追いつかなきゃ。拓真や玲央に、置いていかれる……)
数十分後、笛が鳴り休憩に入る。
水筒を手にした蓮が息を整えていると、その隣に影が落ちた。
「……このままだとケガになる」
振り返れば玲央。
汗ひとつかいていないかのように整った姿勢で立っていた。
その目は冷たいわけではなく、むしろよく見ている証だった。
「焦らなくていい」
短い言葉に、蓮の胸がチクリと痛む。
「……そうだね。ごめん」
苦笑いを浮かべながら水を飲む。
だが心の奥底では、図星を突かれた気がしていた。
玲央はじっと蓮を見つめていた。
何かを察したように、口を開きかける。
「お前、もしかして……」
その瞬間、再び笛が鳴った。
「はい休憩終わりー!もう一回、パス回し入るぞ!」
先輩の声が飛び、部員たちが一斉に立ち上がる。
蓮「……行かなきゃ」
玲央「……ああ」
二人の間に残ったのは、中途半端に切られた会話だけだった。
蓮は再び列に加わり、ボールを追いかけ始める。
焦燥は消えないまま、夕陽がグラウンドを赤く染めていった。
合同練習を控えた週の早朝。
いつもの集合時間よりもさらに早く、蓮は一人でコースを駆けていた。
(……もう少し、もう少し走れば。
昨日よりも長く、昨日よりも速く――)
自分で作ったメニューをノートに書き写し、それをなぞるように反復する。
スプリント、坂道ダッシュ、そしてドリブルの基礎。
汗はすでに制服のシャツを濡らし、息も荒い。
(……合同練習で、足を引っ張るわけにはいかないんだ)
ストレッチを終えて帰ろうとしたとき。
公園の南側に見慣れたシルエットが現れた。
「……おはよ」
拓真だった。
まだ準備体操もしていない彼は、息を切らす蓮を見て少し眉をひそめる。
「……無理してないか?」
不意に投げかけられた問いに、蓮は肩で息をしながら小さく笑った。
「練習試合で……足手まといになりたくないだけだから」
拓真はしばし黙り、蓮の表情を見つめる。
本心を言い切れていないことを察していた。
「……だといいけどな。
何かあったら、俺とか玲央にちゃんと話せよ」
蓮は少し驚き、そしてふっと笑顔を見せた。
「……ありがと。また学校で」
そう言ってリュックを背負い直し、帰路についた。
「ああ」
拓真は短く返事をし、その背中を目で追った。
足取りは軽やかに見えたが、無理に整えているだけにも感じられた。
(……やっぱり、ちょっと危なっかしいな)
拓真の胸には、拭いきれない心配が残っていた。
週末の午後。
七星中のグラウンドは、普段よりもにぎやかだった。
同地区の強豪校と合同練習が行われる日。
スタンドには保護者や下級生の姿もちらほらとあり、普段より視線が多い。
「……緊張するな」
隣でジャージを整えながら、同級生が小さく呟く。
蓮は喉の奥が渇くのを感じながら、深くうなずいた。
(……負けられない。いや、それより……足を引っ張っちゃダメだ)
いつも以上に呼吸が浅い。
アップでのステップも、つい強く踏み込んでしまう。
「野中、落ち着けよ。始まる前にガス欠すんな」
拓真が声をかけてくる。
普段なら冗談混じりに返すところだが、蓮はただ「わかってる」と短く返しただけだった。
その少し離れた場所で、玲央がボールをリフティングしていた。
一定のリズムを崩さず、淡々と蹴り上げては受ける。
視線は鋭く、既に試合を読んでいるようだった。
「……今日は相手に合わせない。自分たちのリズムを通す」
誰に言うでもなくつぶやいた玲央の声が、風に流れた。
ウォーミングアップが終わり、いよいよ練習試合が始まる。
形式は前後半25分。
七星中は1年・2年を混ぜた編成、相手は2年中心。
「よし! 気合入れろ!」
平井先生の掛け声に部員たちが輪を組む。
拓真「今日は見せてやろうぜ。俺たちのパスを」
蓮「……うん!」
玲央「相手は走力が強い。奪ってからが勝負だ」
ホイッスルが鳴る。
ボールが蹴り出され、合同練習試合の幕が上がった。
試合開始のホイッスル。
ボールは七星中のキックオフから動き出した。
序盤、拓真は冷静にボールをさばき、相手のプレスをするりとかわす。
玲央も的確に位置取りし、パスカットで流れを掴もうとする。
一方で――蓮の足は、思うように動かなかった。
(……重い。なんで、こんなに……)
ドリブルで前へ運ぼうとしても、タッチがわずかに大きくなる。
追いかける気持ちに体がついてこない。
昨日も今日も睡眠は浅く、走り込み過ぎた脚はもう悲鳴を上げていた。
「野中、マークずれてるぞ!」
先輩の声が飛ぶ。
「っ、はい!」
慌ててポジションを修正するが、呼吸はすでに乱れている。
拓真がすぐ近くでボールを奪い返し、短く声をかけた。
「無理すんな! シンプルに落とせ!」
「わかってる!」
答えながらも、蓮のパスはわずかにずれた。
拓真がなんとかトラップで収めたが、相手DFがすぐ寄せてくる。
玲央がカバーに入り、冷静に処理する。
「……テンポが合ってない。落ち着け」
蓮はうなずいたが、胸の鼓動は速まるばかりだった。
(……落ち着けって言われても、落ち着けない……!
ここで失敗したら、本当に“足手まとい”になるんだ……!)
前半15分。
相手に左サイドを突破され、ゴール前へクロスを入れられる。
クリアが中途半端になり、押し込まれて失点。
「っくそ……!」
悔しさよりも、蓮の心に広がったのは焦燥だった。
(……やっぱり俺のせいで……!)
肩で息をしながら、汗に濡れた前髪をかき上げる。
体は思うように動かず、焦りばかりが胸を焼いていた
前半終了まで、残り5分。
蓮は必死に前へ走り続けていた。
(……あと少し……せめて前半は……!)
拓真からのショートパスを受けた瞬間、視界がぐらりと揺れた。
タッチが大きくなり、足がもつれる。
「野中!」
拓真の声が飛んだが――次の瞬間、蓮はピッチに倒れ込んでいた。
派手に倒れたこともあったため、試合は一時中断した。
地面に頬をつけたまま、体が動かない。
呼吸が荒く、胸が焼けるように熱い。
耳鳴りがして、周囲の声も遠くに感じられた。
「酸欠か? いや、違う……オーバーワークだ」
駆け寄った玲央が冷静に声を放つ。
素早く蓮の背を支え、タオルで額の汗を拭き取る。
「無理に起き上がるな。横になれ」
落ち着いた低い声が耳に響き、蓮はそのまま意識を手放した。
気づけば、保健室のベッドの上。
天井の白いLEDライトがぼやけて見える。
カーテンの外から聞こえるのは、遠くの歓声と笛の音だった。
(……試合……俺は……)
看護教員が心配そうに覗き込み、冷たいタオルを額に置いてくれる。
「大丈夫。熱もあるし、相当疲れてるね。今日は安静にしなさい」
その言葉に、蓮は小さくうなずいた。
やがて夕方、拓真と玲央が蓮の荷物を持って保健室に入ってきた。
拓真「調子はどうだ?」
蓮「少し良くなったよ……試合の結果は?」
玲央「1-1の引き分けだった。……だが、もしお前がいたら勝ててた」
蓮「……ごめん」
シーツを握る蓮の手が震える。
それを見ていた玲央が、ふと声を落とした。
玲央「お前、“七星生の心構え”を気にしてただろう」
拓真「えっ?」
蓮「……どうして、それを」
玲央「顔に出てた。リズムにもな。わかりやすいくらいに」
図星すぎて、蓮は顔をそらした。
玲央「気にするな、とは言わない。だが、あれは“規則集”だ。
校内での秩序づけにすぎない。破ったところで、刑務所に行かされるわけじゃない」
蓮「……それは、そうだけど」
優柔不断な返しに、玲央は短く息を吐いた。
そして、ほんの一拍置いてから――
玲央「……全国制覇だ」
蓮・拓真「……は?」
玲央「全国制覇。それくらいの目標を口にしてなきゃ、この違和感には飲まれる。
途中で抜けたければ抜けてもいい。負けたら笑えばいい。
でも――もし果たしたら、そのときは……」
言葉が途切れた。
玲央自身、自分の発言を思い返して急に照れが込み上げる。
玲央「……考える」
沈黙の後、拓真と蓮が同時に吹き出した。
蓮「なにそれ!」
拓真「玲央らしくねー!」
つられて、玲央も口元を緩めた。
笑い声が保健室に弾む。
蓮は思った。
(……あんな冊子に縛られてたのが、バカみたいだ)
薄明の公園。
いつもより1時間早く到着した蓮は、坂道の入口で立ち止まった。
そこに――既に二人の姿があった。
拓真と玲央。
肩慣らしをしながら、黙って蓮を待っていた。
「……おはようございます」
蓮が少し気まずそうに声をかける。
「おはよう」
拓真が短く返す。
数秒の沈黙。
蓮が口を開こうとしたとき――
「“ペナルティー”だ」
拓真が笑いを含んだ声で言った。
玲央「今日は軽めに行くぞ」
「……まじかよ」
蓮は思わず顔をしかめる。
「どの口が言うんだ。無茶するなって言っただろ?」
苦笑する拓真。
その横で玲央は黙ってストレッチを続けているが、表情はわずかに緩んでいた。
「……はい」
蓮は観念したように返事をし、三人並んで走り出す。
ペースはゆるやか。
呼吸を合わせるように、淡々と足音が重なる。
いつもより軽いメニュー。
けれど、その時間はいつも以上に温かかった。
放課後の昇降口。
部活を終えた蓮は、汗を拭いながら靴を履き替えていた。
今日の練習は軽めだったはずなのに、心地よい疲れが体に残っている。
(……拓真と玲央、やっぱすげぇな。
でも、俺も――少しは、変われてるのかもしれない)
そんなことを考えていた時。
「……野中くん?」
声をかけてきたのは、同じ学年の佐藤涼子だった。
三つ編みをほどいた髪が夕陽に照らされ、柔らかく揺れている。
「……ああ、佐藤さん」
不意を突かれ、少しぎこちなく返す蓮。
「大丈夫? この前、保健室に運ばれたって聞いたから」
心配そうに覗き込む涼子。
「ああ……ちょっと無理しすぎただけ。もう平気」
そう答えるが、どこか照れくさく目を逸らす。
「無理しすぎ、か……」
涼子は少し笑った。
「でも、がんばる人って、見てるとわかるんだよね。
授業中でも、練習でも。……野中くん、前よりずっと真剣な顔してる」
蓮は返す言葉に詰まり、靴紐を結ぶ手を止めた。
「……そう、見える?」
「うん。……だから、ちょっと羨ましい」
ふっと笑みを浮かべた涼子は、視線を逸らして校門の方を見やった。
「わたしも、もっと“頑張ってる自分”を見せたいなって思うんだ」
その横顔を見て、蓮は胸の奥が不思議に熱くなるのを感じた。
何かを返そうとしたが、言葉は喉で詰まったままだった。
「じゃあ、またね」
涼子は軽く手を振り、夕暮れの校庭を歩き去っていった。
蓮はしばらくその背中を目で追い、やがて息を吐く。
(……“羨ましい”って言われたの、初めてだ)
鞄を肩にかけると、心の中で小さな決意が芽生えていた。
(次は、もっと胸張って“走った”って言えるようにしよう)
夕陽は傾き、グラウンドには明日の試合に備えるボールの音が響いていた。
無理をして倒れたこと。
仲間に支えられたこと。
そして、何気ない会話から芽生えた小さな思い。
二年の春――野中蓮は、痛みと迷いの中で確かに一歩を踏み出した。
拓真は笑いながら隣に立ち、玲央は冷徹な視線で支え、
そして涼子の心には“羨望”という片思いの種が宿る。
まだ答えの出ない未来。
だが、少年たちは走り続ける。
やがて訪れる「嵐」に向かって。
描かれなかった拓真と玲央、そして涼子たちのクラスに配布されている「七星生の心構え」の一部は、
以下のとおりである。
≪部活動について≫
部活動は、仲間と協力し合いながら自分を表現する大切な場です。
仲間との切磋琢磨を通して得られる経験は、将来に必ず役立ちます。
失敗を恐れず、全力で取り組む姿勢を大切にしてください。
≪情報発信について≫
SNSやインターネットでの発信は、責任を持った上で健全に活用してください。
あなた自身の考えや活動を表現することは、周囲に良い影響を与えることにつながります。
≪将来の姿について≫
学校生活を通じて得た信頼や友情は、皆さんをリーダーへと導きます。
周囲に模範を示し、人から頼られる存在になることを目指しましょう。




