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後半第4節「退部」(前編)

薄く朝霧のかかる公園。

春の冷たい空気が、芝の端に白く漂っていた。

野中蓮はランニングの呼吸を整えながら、黙々と歩道のラインを踏み続ける。

隣を走るのは藤井拓真。

いつもなら三人――玲央も一緒のはずだった。


だが、この日は違った。


「……今日も、いないな」

拓真が短く呟いた。

息の上がった声が、白い息と一緒に空に散っていく。


蓮は首を横に振った。

「うん。昨日もだね。『忙しくなった』って」

「言ってたな。けど、アイツがあんなに朝ランを休むなんて珍しい」


小鳥のさえずりと、靴底がアスファルトを叩く音だけが響く。

会話はそれ以上続かなかった。

けれど、沈黙が不思議と居心地悪くはなかった。


ジョギングを終え、二人は公園のベンチ前でクールダウンに入る。

拓真が伸びをしながらカバンのポケットを探る。


「……そうだ。これ、玲央からだって」

「玲央から?」

「県大会に向けた1年の強化メニュー。お前に渡してくれってよ」


手渡された封筒は、汗で少し湿っていた。

蓮は丁寧に開け、中の紙を広げる。

そこには緻密に書かれたトレーニングプランと、走行距離、体調チェック欄――

どれも玲央らしい、几帳面な字だった。


「……細かいな、これ」

拓真が覗き込みながら感心したように笑う。

「しかも、実戦で使える内容ばっかだ。

ったく、こんなことなら直接言えばいいのに」


蓮は小さく笑い、紙を折りたたんだ。

「本当に“忙し”いんだと思うよ。……多分」


どこか遠くを見つめるような声だった。

風が通り抜け、木々の葉がざわめく。

拓真は何も言わず、そっとその場を立った。


「ま、無理すんなよ。県大会、任せたからな」

「うん。……ありがとう」


拓真の背中が遠ざかる。

蓮はベンチに残り、折りたたんだメニューをじっと見つめた。

インクの筆圧が妙に強い。

几帳面なのに、どこか乱れている――迷っている人の字だった。


(……多分、俺たち“オタク側”が知らないところで、何かが始まってる)


思考が冷えた風に揺れる。

遠くのグラウンドから子どもたちの笑い声が聞こえた。

あの頃、自分たちも、ただボールを追うだけでよかった。


蓮は立ち上がり、呼吸を整える。

公園の出口で振り返り、朝日を一度だけ見上げた。


(……この静けさが、もう少しだけ続けばいいのに)


そう心の中で呟きながら、蓮は家路についた。

冷たい朝の風が、まるで彼の背中を優しく押すようだった。


その頃、玲央は生徒会室に呼ばれていた。

押田がコーヒーカップを回し、香りを楽しみながらにやりと笑う。


「東條、君の報告、なかなか的確だな」

「……」

「特にオタクである野中 蓮に関する記録。

提出物の遅延が三回、授業中の居眠りが二回。……十分に『指導』する甲斐がある」


「ありがとうございます」

玲央は機械的に言ったが、拳を握りしめている。


押田が続ける。

「ところで、君は2組の佐藤涼子と交際していたな」

「……それが何か」


「他の参与とSSに確認させたが……佐藤、イケメンクラスにいるとはいえ、趣味嗜好は完全に『オタク側』だそうだな。

絵を描いたり、アニメを見たり……まあ、個人の自由だが。君の将来を考えるとどうかな」


玲央の目が鋭くなる。

「彼女の趣味は彼女の自由です。それに口を出すのは筋違いかと」


「そうか? 君が本気で『選ばれた側』として生きるなら、相応しい相手を選ぶべきだ。

たとえば――副会長の倉原とか」


玲央は立ち上がった。

「……ふざけるな」


押田は動じず、笑みを深める。

「怒るな。ただの提案だ。……だが、考えてみろ。

佐藤(アイツ)の趣味が、将来君の足を引っ張る存在になるかもしれない。それでもいいのか?」


玲央は何も答えられなかった。

押田の言葉が、じわじわと心に染み込んでいく。


「すぐ返答をとは言わない。ただ、賢く考えろ」


玲央は一礼して生徒会室を去った。


扉が閉まる音。

押田は窓の外を眺めながら、小さく呟いた。


「……東條という子は、実に育て甲斐がある。そう思わないか? 山本特別参与」


カーテンの向こうから、静かな足音。

そして、抑揚のない声が響いた。


「はい。その通りだと思います」


山本結衣が姿を現す。

ギャルブロンドに染めた髪に整った顔立ち、乱れない制服、そして――感情の読めない瞳。


押田は満足げに頷く。

「……じきに佐藤というオタクとは決別するだろう。その時は、お前の出番だ。

東條を監視し、指導をしろ。できるか」


「承知致しました……会長」


結衣の声は、やはり平坦だった。

だが――その瞳の奥、ほんの一瞬だけ、何かが揺れたようにも見えた。


押田は気づかない。

窓の外、朝の光が差し込む中、結衣はただ静かに生徒会室を後にした。


通学路の歩道。

朝の空気はすこし湿っていて、信号の青が水面みたいに反射していた。


蓮は、ワイヤレスイヤホンを差しながら、ポケットの中でスマホをいじっていた。

開いていたのは動画アプリ。

けれど、いつもの再生ボタンを押しても、画面はくるくると読み込みを繰り返すばかりだった。


「……パケット、また切れたか」

小さくつぶやき、ため息。

昨日の下校中、スマホゲームのイベント実況動画を観すぎてパケットが枯渇していた。


仕方なく動画再生を諦め、音楽アプリを立ち上げる。

だが、音が鳴るよりも早く、画面上部に見慣れない通知が浮かんだ。


《七星ネットワークへの自動接続が完了しました》


「……あれ、もう学校のWi-Fi拾うのか」

学校まであと数十メートル手前だった。

それなのに、すでに“誰か”が自分の端末を捕まえている。

蓮は眉をひそめながら、画面をスリープにした。


そのときだった。


前方、校門近くでざわめきが起きた。

黒い腕章を巻いたSSの二人が、生徒を一人ずつ脇へ誘導している。

特に声を荒げるでもなく、にこやかに話しかけては学生証を機械にかざす。

まるで検温のような自然さ。

けれど、その生徒たちの顔は、どれも引きつっていた。


「……何やってんだ、あれ」

誰かが囁く。

「“スキャン”だよ。昨日、アプリで何か引っかかったんだろ」


ざわつく列。

蓮はゆっくりと深呼吸し、イヤホンをケースに入れた。

胸の奥で、何かがざらつく。

(――どこまで、見られてるんだ?)


足を前に進めようとしたとき、ポケットのスマホが再び震えた。

通知欄には、七星学園の公式アプリからのメッセージ。


《校内アプリの更新があります》

《生活指導より:保有する全SNSアカウント連携をお願いします》


(……どこまで“連携”する気なんだよ)

心の中で毒づきつつ、校門をくぐる。


その瞬間、スピーカー越しにやわらかな声が飛んできた。

「歩きスマホ、危ないですよー」


顔を上げると、風紀委員の腕章をつけた上級生が立っていた。

笑顔だけど、視線は笑っていない。

蓮は反射的にスマホを下ろし、にへらと笑いながら頭を下げた。

「すみません」


風紀委員は軽く頷いて去っていく。

けれど、蓮の背中には、見えない視線がまだ突き刺さっているようだった。


校舎の壁面に設置された防犯カメラの赤いランプが、

朝日を反射して、一瞬だけ強く光った。


(……なんか、空気が違う)


蓮は小さく呟き、イヤホンをしまった。

静かなBGMが、もうこの学校には似合わなくなっている気がした。


昼休みのチャイムが鳴って、校舎のざわめきが一段落した頃。

蓮は、いつもの校舎裏のベンチに腰を下ろして弁当箱を開いた。

木々の隙間からこぼれる光が、アルミ箔のフタに反射して眩しい。

屋上が封鎖されてから、もう数ヶ月が経ったが。

ここだけはまだ、誰にも見つかっていない。


「やっぱり、居てくれたのね」

顔を上げると、薄桃色の髪留めをつけた少女が立っていた。

ともみだった。


「倉原先輩……また来たんですか」

「“また”はひどいなぁ。お昼、一人で食べるよりはマシでしょ?」


ともみは笑いながら、隣に腰を下ろした。

蓮の弁当箱をちらっと覗きこみ、目を丸くする。

「わっ、すごい。ちゃんと自分で作ってるの?」

「いや、母さんです。俺が作ることも…ありますけど」

「ふふっ、そうなんだ…」


風が吹き抜け、桜の葉がひとひら、弁当のふたに落ちた。

ともみが指先でそれを拾い上げる。

「春だね」

「もうすぐ、終わっちゃいますけど」

「だからこそ、ちゃんと味わなきゃ」


そんな他愛もない会話が、妙に心地よかった。

お互いの弁当を食べる音。

鳥の声と、遠くの生徒たちの声。


やがて、ともみが何かを思いついたように口を開いた。

「ねぇ、野中くん」

「はい?」

「“彼女”は、いないの?」


「……え?」

箸が止まる。

弁当の端っこの卵焼きがぽとりと落ちた。

「な、なんですか急に……」

「だって気になるじゃない。あんなに頑張ってるのに、誰も支えてないのかなって」

「……別に、いませんよ」

「ふうん。ふぅん…そうなんだ…」


ともみはわざとらしく唇を尖らせ、じっと蓮の横顔を見つめた。

無言の圧。

「あの……倉原先輩?」

「……ううん、なんでもない」


小さく笑って、ペットボトルのふたを開ける。

「ごめんごめん、ちょっと意地悪しただけ。真面目な顔するからさ」

「……からかわないでくださいよ」

「だからごめんって」


風がふたたび吹き抜ける。

二人はそれぞれの弁当を食べ続けながら、他愛のない話をしていた。

ともみの前髪が揺れ、淡い光がその横顔を照らした。

その笑顔に、ほんの一瞬だけ、蓮の胸が熱くなる。


(……この人、なんで、こんなに優しいんだ)


ともみはそれを知ってか知らずか、少し照れくさそうに肩をすくめた。

「……ごちそうさまでした。…また明日、来てもいい?」

「……はい」

「約束、ね」


彼女はベンチから立ち上がり、手を軽く振って校舎の方へ戻っていった。

その背中を見送りながら、蓮は手の中の弁当箸を見つめた。


あの笑顔、覚えておこう。

そんな想いが、心のどこかに静かに沈んでいった。


終礼のチャイムが鳴ると、担任が黒板の前に立った。

教室の空気は、少し疲労と眠気が混ざっている。


「はい、それじゃあ今日の連絡。

まず、部活動調査アンケート――まだ回答してない人は、校内アプリから今日中に送信するように。

あともうひとつ。内部進学希望者はこのあと、305教室で説明があるから、希望する人は忘れずに行くように」


「はーい」と生徒たちが声を揃える。

だが、蓮の心は落ち着かなかった。

“内部進学”という言葉を聞くだけで、胸の奥がざらつく。


教室を出て、廊下を歩く。

夕方の光が窓ガラスを朱く染め、壁に反射して細い光の帯を作っていた。


普段合同授業で使う305教室の前に着くと、入り口にはSSの二人が立っていた。

タブレットとICリーダーを手にして、入室する生徒の学生証をスキャンしている。

そのすぐ脇に、白いシャツの袖をまくった玲央の姿。

冷静な横顔。


(……玲央。特別参与だったのか)


胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。

玲央はSSと短く言葉を交わし、スッと視線だけ蓮に向ける。

だが、何も言わない。

ただ、通り過ぎざまに一瞬だけ頷いた。

――その仕草が、妙に遠く感じられた。


学生証をかざすと、軽い電子音が鳴る。

「入室を確認しました」

画面に促されて、蓮は教室に入った。


中には涼子と拓真の姿があった。

「おー、蓮!」

拓真が手を振る。隣に誰もいなかったので、蓮はその隣に座る。

「拓真は確か……内部進学を目指して七星(ここ)に入ったんだっけ。」

「そ。けどなんかうちらのクラスは“参加義務”みたいになってる」

涼子はノートを開きながら、少し心配そうに微笑んだ。

「最近、変な噂ばっかりだしね……進学でも“あっち側”の人が優先されるとか」

「“あっち側”?」

「……ほら、“特別参与”とか、“選抜候補”とか」

その言葉に、蓮は無意識に視線を入口へ向けた。


タイミングを計ったように、扉が開く。

玲央が入ってきた。

たまたま一緒に歩いたSSの二人のせいか空気が少しだけ引き締まる。


玲央は周囲を見渡し、静かに歩いてきた。

「……ここ、いいか?」

その声に、涼子は一瞬ためらったが、軽く頷いて席を移動した。

蓮の隣の椅子が空く。

拓真がちらっと蓮を見たが、何も言わなかった。

ただ、表情にわずかな複雑さが浮かぶ。


(……また、距離ができたな)


そんな思いが胸を過ぎったところで、前方のスクリーンが少し暗くなった。

マイクの先には高等部の教員が壇上に立つ。


「それでは、内部進学希望者説明会を始めます」


声は落ち着いている。

高等部の教員が、妙に異質に見えた。


「皆さんご存知の通り、本校の高等部には“普通科”と“専科”の二系統があります。

普通科は、これまでの中等課程をそのまま延長した学びの場。

一方、“専科”は、難関大学を志望する生徒向けに、

大学進学塾との連携講座・AI解析による学習支援・早期進学推薦を行っています」


教室の中では、メモを取るペンの音やキーボード音などが規則正しく響く。

説明会とは思えない静かな勉強会のような空気のようだった。


「ただし、専科の選抜は成績だけではありません。

日頃の生活態度、提出物、そして推薦教員の評価。

つまり“真面目さ”と“継続性”です。

高等部でもAIを積極的に活用しておりますが、主に学習等の補助をするだけで

生徒一人ひとりの努力を超えることはありません」


その言葉に、蓮の手がぴくりと止まった。

(……そうだ。少なくとも、そこだけはまだ機械じゃない)


教師は続けた。

「進学希望の多い大学は国公立のみならず、GMARCHのような一流私立や、防衛・税務などの

大学校などの合格実績やノウハウもあります。

ただ重要なのは皆さんの今”の学び方で“進路は大きく変わります。

ここで諦めず、目の前の課題を一つずつ――」


説明は淡々と進む。

涼子が真剣な顔でノートを取っている。

玲央は腕を組んで聞いていた。

拓真は途中で小さくあくびを噛み殺した。


(この空気、なんか懐かしいな……)

蓮はふとそう思った。

サッカーの戦術会議でも、こんなふうに“努力すれば報われる”と信じていた時期があった。

今は、努力の結果さえも“ステータス”ひとつで塗り替えられる時代。

けれどこの先生の声だけは、わずかに人の温度を残していた。


――そして、説明会は質疑応答に入った。


「質問ある方は?」

手を挙げたのは、拓真だった。

「専科のほうって、部活との両立はできますか?」

「基本的には可能です。ただし、時間管理を徹底していただきます。

運動部は練習時間が長いですから……担当教員と相談ですね」

「…ありがとうございます」


拓真は頷き、隣の蓮を見た。

「蓮、お前はどうする?」

「……普通科、かな」

「なんで?」

「“勉強のため”じゃなくて、“居場所"のために残りたい気がするから」

「……そうか」

拓真はその言葉の意味を測りかねたように、少し眉をひそめた。


最後のスライドが閉じ、教師がマイクを置いた。

「それでは、以上で説明会を終了します。

詳細は校内ポータルから確認してください。気をつけて帰るように」


椅子が軋む音とともに、生徒たちが立ち上がる。

玲央と涼子は出口の方へ向かい、拓真と蓮は少し遅れて後を追った。


廊下に出ると、窓からオレンジ色の夕日が差し込んでいる。

人のざわめきが遠ざかる中、拓真がぼそっと言った。


「なぁ、蓮。……もう昔みたいには戻れねぇのかな」

「……どうだろうな。俺たちの“勝った夏”は、たぶん、もう二度と来ない」

「でもさ、それでも“次”を作んなきゃな」


拓真が小さく笑う。

その笑顔を見ながら、蓮はかすかに頷いた。


(……俺にはまだ、やるべきことがある)


遠くでチャイムが鳴った。

放課後の校舎に響くその音は、どこか寂しく、それでも前へ進めと背中を押していた。


西の空が赤く染まり始めるころ、七星学園中等部のグラウンドにはボールの音が響いていた。

試合用のコートの片隅。

野中蓮は、1年生の数人を相手にパス練習を見ていた。


「ストップのあと、もう半歩前で受けて。腰を落とせ。……そう、いい感じ」

声は落ち着いている。怒鳴りもしないし、余計な説明もない。

それでも、彼の指導には不思議な説得力があった。


「蓮先輩! これでいいっすか!」

「うん、悪くない。でもパスが来た時に“先の動き”を考えて」

「先の…ですか…?」

「ボールを止めるときには、もう次の味方を探してる。

足元だけ見てると、世界が狭くなるから」

1年生の後輩が「わかりました!」と声を上げる。


周囲では、そんなやり取りがあちこちで交わされていた。

サッカーを“楽しむ空気”――それを蓮が再び呼び戻していた。

彼の存在を知らない見学者が見れば、それは普通のコーチのように見えたかもしれない。

だが、この練習メニューの基礎はすべて――玲央から渡された紙切れ一枚に書かれていた。


“1年を頼む”


その文字を、蓮は何度も読み返した。

玲央が何を思って書いたのかはわからない。

けれど、その言葉が蓮の“心のエンジン”をもう一度動かしたのは確かだった。


グラウンドの端、副キャプテンの拓真が腕を組んで見ていた。

「……サマになってるじゃないか」

小さくつぶやくと、すぐ後ろでマネージャーが頷いた。

「ですよね。1年の子たち、最近ほんとに変わりました」

「だろ?」

拓真は苦笑した。

「アイツ、教えるのは上手いからな。自分のことになると、途端に下手になるけど」


蓮はグラウンドの中央で、1年生の一人とボールを蹴り合っている。

パスを受けて、トラップ。

地面を蹴るたび、夕陽に反射した汗が金色に光った。


(……あの頃の俺たちも、こうだったな)

拓真はふと、全国大会の決勝戦を思い出した。

“マーベリックとグース”――観客席から呼ばれた二つ名。

けれど、今のグラウンドに“グース”がいないことが、ほんの少し寂しかった。


「お疲れさまでしたー!」

1年たちが整列し、礼をする。

蓮は笑って見据えた。

「はい、また明日。ストレッチ忘れないでください」

「「はいっ!」」


彼らの声が、グラウンドの空へ溶けていく。

その姿を見送りながら、拓真が歩み寄った。


「……人気者だな」

「たまたまだよ。玲央からのメニューのおかげだし」

「素直に受け取れよ。ちゃんと“教える側”になれてる」

拓真は軽く肩を叩く。

「でもな、蓮。……無理すんなよ」


「……ありがと」

蓮は短く答え、夕焼けに照らされたグラウンドを見渡した。

あの日、全国を制した舞台の記憶が一瞬だけよみがえる。

歓声、汗、涙――それがまるで夢のように遠い。


(けど、こいつらが“次”を掴めるなら……)


そう思えた瞬間、少しだけ、心の奥が温かくなった。



週末、駅前のカフェ。

涼子は玲央と向かい合って座っていた。

久しぶりのデートというのに、どこか冷たい。

それを証明したかのように注文したフラペチーノは半分も減っておらず、

玲央はスマホに俯いている。


「……玲央くん、特別参与の仕事は順調?」

「ああ…」

「根を詰めているようだけど、大丈夫?」

「ああ…」

「…昨日の夕食は何だった?」

「ああ…」

玲央は完全に聞いていない。生徒会とサッカーの試合のことで頭が一杯だった。


「……玲央くん、お願い。目を覚まして」

涼子の声は震えていた。


「…ああ、ごめん。話って何だっけ」

玲央がようやく顔を上げる。


「最近、ちょっと変だよ。既読無視が多くなったし、電話かけたら、キレられたし

…なんか嫌なこと言われた?」

「いや…そんな事はない…多分」


涼子は少し間を置いて、意を決したように続けた。

「……ねえ、玲央くん」

「何だ」

「蓮くんのこと、最近すごく冷たくしてるよね。練習でも、廊下で会っても」


玲央の表情が、わずかに強張る。

「……野中のことか」

「うん。あんなに仲良かったのに。この前、拓真くんも心配してたよ」


玲央は視線を逸らした。

「あれは指導だ。甘やかしても成長しない」


涼子は目を見開いた。

「指導……?」

その言葉遣い、その言い回し――前の玲央なら言わないことに涼子は違和感を感じた。

「だって、前の玲央くんなら……」


涼子は必死に言葉を探す。

「前の玲央くんなら、『焦るな』とか『一緒に頑張ろう』とか、そういう風に言ってたじゃん」

「……時には厳しさも必要だ」


玲央の声が低くなる。

「それが本当の友情だろ」


涼子の胸が痛んだ。

友情――その言葉を、こんな冷たい声で言う玲央を、涼子は知らない。

「玲央くん……」


涼子は震える声で続ける。

「玲央くんは……全国制覇した時、蓮くんと笑ってたじゃん。

あの時、絶対に楽しかったはずだよ。それを忘れちゃったの?」


玲央の拳が、テーブルの下で握られる。

「……あの時とは違う」

「何が違うの?」

「俺は……もっと上を目指さなきゃいけない」


玲央の声がさらに低くなる。

「そのためには……効率を考えないと」

「効率……?本当にどうしちゃったの…?」


沈黙。

やがて、玲央は無表情でラテのカップを置いた。


「……もういい」

「え……?」

「俺は正しいことをしている。君には理解できないかもしれないが」

「正しいって……誰かを追い詰めることが?」

語気を強めた玲央が立ち上がる。


「追い詰めてなんかいない! 事実を突きつけているだけだ!」

周囲の客が、ちらりとこちらを見る。

涼子の目から、涙がこぼれた。


「もう……わかんない。玲央くんが、何考えてるのか……」

玲央の表情が、一瞬だけ揺れた。


だがすぐに、冷たい仮面が戻る。

「……そうか」

立ち上がり、玲央はカフェを出た。

涼子は椅子に座ったまま、崩れ落ちるように泣いた。

周囲の視線も気にせず、ただ涙を流し続けた。


数時間後、涼子のスマホに玲央からのLINEメッセージが届いた。

《キツく言ってゴメン。今度、ちゃんと埋め合わせするから》

《県大会の予選相手がキツい上、使えるメンバーがかなり限られてさ…》


涼子はまだ彼が生徒会の「コマ」になっていない事に安堵していた。

《あたしもごめんね。県大会、頑張ってね》

《時間あったら応援、行くから》


県大会予選2回目

ロッカールームの中には、汗と芝の匂いが漂っていた。

ユニフォームを着た部員たちは、作戦ボードをを前にして囲んでいる。

壁際のホワイトボードには、相手チームのフォーメーションと特徴がぎっしりと書き込まれていた。


「――それじゃ、いくぞ」

玲央がボードの前に立つ。

端正な顔立ちに似合わず、声はよく通った。


「相手のFWはスピードが武器。だけど守備の戻りは遅い。

だから、奪ったら縦一本で裏を取る。拓真、最初の15分は流れを見て任せる」

「了解」


玲央は手にしていたペンを軽く回した。

「中盤はコンパクトに。ボールを回されても焦るな。

耐えて、耐えて、一発で流れを変える」


部員たちの表情が引き締まる。

蓮は少し離れた位置から、その様子を見つめていた。

ホワイトボードの光が、彼の瞳に反射して淡く揺れる。


「――以上だ。各自、アップ開始」


玲央の号令で輪が崩れ、部員たちは一斉に動き出した。

スパイクの音、ジャージの擦れる音、緊張と高揚が混じった独特の空気。

そんな中、蓮は一人ベンチの隅に腰を下ろしていた。

着ているのは部のジャージ。下には制服のズボン。

控えとはいえ、彼の存在感は限りなく薄い。


(……まさか、ここまで来て自分がベンチにも入れないとはな)

自嘲気味に笑いながらも、心の奥にちくりとした痛みが残る。


「……蓮」


声をかけられて顔を上げると、玲央が立っていた。

真っすぐな目。感情を読ませない口調。


「なんで、制服なんだ」

「えっ……自分、戦力外なんじゃ……」


言葉が途切れる。 

玲央は眉ひとつ動かさず、ゆっくりと答えた。


「バックアップとして、準備しておいてほしい」

「え……?」

「怪我人が出たら、お前しかいない」

短い言葉。だが、それは信頼の証のようにも聞こえた。


隣でストレッチをしていた拓真が、にやりと笑った。

「玲央は素直じゃねーな」

「は?」

「いやいや、そういう“遠回しのありがとう”だろ?」

玲央は露骨に顔をそむけた。

「……勝手に解釈するな」


そのやりとりを見ながら、蓮は少しだけ肩の力を抜いた。

「じゃあ、突っ立ってないで準備しろよ。

ジャージの下、ユニフォーム着とけ」

拓真が笑いながら言う。

「……わかった」


蓮は静かに立ち上がり、ロッカーからユニフォームを取り出した。

生地の感触が懐かしい。

袖を通した瞬間、胸の奥が少し熱くなる。


まだ、自分の居場所はここにある。


外から聞こえる応援のざわめきが、次第に大きくなる。

その音に背中を押されるように、蓮は深く息を吸い込んだ。


「……行こうか」

玲央が先に出口へ向かう。

その背中を、拓真と蓮が追った。


扉を開けた先、まばゆい光と歓声が彼らを包み込む。

新しい戦いが、また始まろうとしていた。


笛の音が鳴り響いた。

ピッチの芝が夕陽に光り、両チームの選手が一斉に駆け出す。

観客席のざわめきが波のように押し寄せ、七星のベンチには緊張が漂っていた。


「立ち上がり、悪くない!」

拓真の声が響く。

しかし、相手のプレスは早く、ボールがつながらない。

ロングパスは読まれ、ショートパスはカットされ、七星の中盤が崩されていく。


「やべっ、裏取られた!」

キーパーが飛び出すも一歩遅れ――

相手FWが落ち着いてシュートを決めた。


観客席がどよめく。

ベンチで見ていた蓮の拳が、ぎゅっと握りしめられた。

(悪くない動き……でも、連携が噛み合ってない)


前半20分、七星のパスが味方に合わず、二度目のカウンターを浴びる。

キーパーの好セーブでなんとか防いだが、流れは完全に相手ペースだった。


拓真が叫ぶ。

「ライン上げろ! 玲央、右サイド詰めろ!」

玲央は頷きながらも、歯を食いしばる。

(悪いのは戦術じゃない。……噛み合ってねぇだけだ)


そのまま前半終了の笛が鳴った。

スコアは0対1。

七星の選手たちは重い足取りでベンチへ戻っていく。


控室。

空気は重く、汗と焦りが混じった匂いが立ち込めていた。

全員が黙り込み、スパイクの音だけが響く。


そんな中で、玲央が静かに立ち上がった。

「……聞いてくれ」


誰もが顔を上げる。

玲央の視線が、真っ直ぐチームを貫いた。


「相手の中盤は確かに強い。

けど、裏を返せば“前にしか出てこない”タイプだ。

つまり――背中ががら空きだ」


ホワイトボードに素早くラインを引く。

「ここだ。後半はここのスペースを狙う。

FW二人はもう少し引いて、サイドに振れ。

そして……」

玲央の視線が、ベンチの蓮に向く。


「――野中、見てただろ」

「え?」

「相手DFの動き。どう見る?」


突然の指名に、蓮は一瞬戸惑ったが、すぐに冷静さを取り戻した。

「……右サイドの4番。ラインを上げる時に、必ず一歩遅れてます。

そこからスペースが空くので、サイドチェンジすれば抜けます」


 玲央は小さく頷いた。

「そうだ。その“間”を狙う。

拓真、後半の15分まで我慢して、野中を入れる」


「おう、了解」

拓真は笑いながら頷く。

「ほらな、やっぱり出番あったじゃねぇか」

蓮は少し驚きながらも、目を見開いた。

「……でも俺は、バックアップで――」

「“バックアップ”は、“動ける控え”のことだ」

玲央は短く言い切った。


拓真がその横で口笛を吹く。

「お前、ほんとツンデレすぎんだよ」

「…うっさい」


だが、確かに空気が少し和らいだ。

沈んでいた1年たちの顔にも、希望の色が戻っている。

蓮は深く息を吸い、手にしていたボトルを置いた。


(……やるしかない)


ホイッスルが再び鳴り響く。

後半の幕が上がった。

蓮はジャージを脱ぎ、ピッチの端でアップを始める。


その瞳には、確かに光が戻っていた。


玲央の号令とともに、七星の布陣が変わった。

中盤の配置を一列下げ、前線を左右に広げる。

拓真が前へ走り込み、1年生の南が鋭いクロスを上げた。

そのボールが、相手DFの足に当たってゴールへと転がり込む。


――同点。


スタンドがどよめき、ベンチの空気が一気に熱を帯びた。

蓮も立ち上がり、思わず拍手を送る。

「ナイスだ、南!」


ベンチから見つめるその瞳には、悔しさと誇らしさが入り混じっていた。

後半残り10分。

拓真のミドルがゴールポストを叩き、そのこぼれ球を後藤が押し込む。

2対1。逆転。


ピッチの上で抱き合う選手たち。

スタンドでは歓声が響き、監督が拳を突き上げる。


試合終了の笛。

七星は、準決勝進出を決めた。


だが、その瞬間――蓮の胸の奥には、静かな風だけが吹いていた。

蓮は…呼ばれずに試合が終わった


勝った。

けれど、そこに自分の足跡はない。

あのピッチで感じた芝の匂いも、歓声も、いまは遠い。


拓真が駆け寄ってくる。

「やったな、蓮!」

「……ああ」

笑顔を返そうとしたが、頬がこわばった。


玲央が少し遅れてやって来た。

汗を拭いながら、淡々と告げる。

「準決勝の相手、去年のベスト4だ。次も気を抜くな」

「了解」

部員たちが声を揃える中、玲央の目がふと蓮に向いた。


その一瞬の視線に――ほんのわずかな「迷い」があった。

(出してやりたかった。けど……)

だが、それは言葉にならず、空気に溶けていく。


その夜の近くの公園。

灯りの消えかけた時間、蓮は静かに自販機の前に立っていた。


缶コーヒーを取り出すと、反射した自分の顔がそこに映った。

疲れたような目。どこか遠い視線。

(俺がいなくても、勝てるんだな……)


そのとき、背後から声がした。

「……見てたぞ」

振り向くと、玲央が立っていた。ジャージ姿のまま、手に水のペットボトル。


「お前の“コーチング”が効いてる。1年の動き、格段に良くなった」

「……ありがと。でも、俺は何もしてないよ」

「違うな」

玲央の声が低く響く。

「お前の“眼”がチームを動かしたんだ。

……あとは、自分を許せるかどうかだ」


蓮は返事をしなかった。

缶コーヒーのプルタブを引き、かすかに笑った。


「……苦いな」

「そういうもんだ」


蓮がうっかり買ったブラックの短いやり取りのあと、玲央は背を向けて歩き出した。

廊下の先で振り返る。

「準決勝、観てろよ。――俺たち、もう一度“全国”行く」


その言葉に、蓮はただ頷くことしかできなかった。

温くなったコーヒーの缶を握りしめながら、

胸の奥で小さく呟いた。


(……俺も、もう一度、あの芝に立てるだろうか)


週明けの教室は、いつになく明るかった。

窓際では男子たちが昨日の試合を熱く語り、女子たちはスマホを見せ合っている。


「七星、やっぱ強ぇよな!」

「拓真くん、後半すごかったー!」

「玲央先輩もめっちゃ冷静だったよね!」


その中心に、蓮の名前はなかった。


蓮は静かに教室に入り、自分の席へ向かう。

机の上にはまだ昨日の新聞のスクリーンショット――

《七星学園、逆転勝利! 準決勝へ》の見出しが見えた。

写真には玲央と拓真、そして歓喜する1年の姿。

その中に、蓮の姿はどこにもない。


椅子を引いて腰を下ろした瞬間、

前の席の男子が小声でつぶやくのが聞こえた。


「なぁ……聞いたか?」

「なに?」

「野中ってさ、試合出たいから先生に媚びたんだって。

でも顧問が『信頼できない』って断ったらしい」


「マジ?」

「いや、知らんけど。高等部の先輩から聞いた」

「やっぱアイツ、全国の時も“裏口”で出てたって話あるしな」


乾いた笑い声が小さく広がる。

蓮は手を止めた。

言葉が喉の奥で渦を巻き、消えていく。


(……何も、言ってもムダだ)


視線を下げたまま、筆箱を開く。

ペンのキャップを外す音が、やけに大きく聞こえた。

机の隅、黒ずんだ跡に光が差し込む。

それはまるで、誰かの心を焼いた痕のように見えた。


(俺は、あのピッチに立っていない。

それでも、嫉妬と憶測だけが独り歩きしていく)


背後で笑う声、遠くで窓を開ける音。

教室の空気は、晴れているはずなのに息苦しい。


その時、ドアが開いた。


「席につけー」

担任の声が響き、空気が少しだけ締まる。

生徒たちは慌ただしく席に戻り、蓮も静かに姿勢を正した。


「まずは昨日のサッカーの試合、みんな本当によく頑張ったな。

応援してた生徒も含めて、誇らしい結果だ」


担任の笑顔に拍手が起きる。

けれど蓮は、手を叩かなかった。

指先が机の上で止まり、ただ静かに視線を落とす。


「……それと、今日から準決勝に向けた応援体制の調整をする。

サッカー部以外の生徒も協力するように」


また拍手。

明るい声。

だけど、蓮の耳には遠く霞んで聞こえた。


(“応援”か……俺は、もう応援する側なのか)


朝のホームルームが終わる鐘が鳴った。

クラスメイトたちは笑顔で立ち上がり、次の授業の準備を始める。

蓮はその喧騒の中で、ひとり静かに息を吐いた。


机の上には、朝焼けの光が細く差し込んでいた。

それはどこかで見た、「最後の栄光」の残り火のようだった。


昼休み。

チャイムが鳴ると同時に、スピーカーから明るい音楽が流れた。

「――全校生徒の皆さんにお知らせします」

生徒会の放送特有の、穏やかで抑揚のない声。

それは、押田会長のものだった。


『先日お伝えした“高等部との共同活動”についてですが、

本日より正式に実施します。

これは、七星全体の部活動の質を高め、

上下関係をより健全な形で築くための取り組みです。』


廊下からは歓声やざわめきが起こった。

「うわ、マジかよ! 高等部と一緒ってスゲー!」

「やったー、うちの部、参加できるかな?」


その熱気の中で、蓮は教科書を静かに片付けた。

(……“質の向上”、ね)


窓際で光るスピーカーが、無機質な声で続けた。

『また、部活動の指導体制強化のため、

選抜された高等部顧問および生徒会より、

指導・監査を行います。

皆さんのご協力をお願いします。』


その言葉の裏にあるものを、蓮はすぐに理解した。

(“監査”=追い出し。つまり、俺たちのことだ)


ため息を押し殺し、教室を出た。

少しでも静かな場所を探して、廊下を歩く。

――その途中、背後から声がした。


「蓮」


振り返ると、涼子が立っていた。

白いカーディガンの裾を揺らしながら、手に包んだ小さな包みを差し出す。

「これ、玲央くんから」

「玲央から?」

「“このメニューを作って野中に渡せ”って。……中身は、私が作ったお弁当」


「えっ?」

「言われたの。“これを食べさせてやってくれ”って」

涼子は困ったように笑いながら、蓮の手にそれを握らせた。

「……玲央のヤツ、料理を彼女に頼んでおいて何考えてんだか」

「多分ね、気にしてるんだよ。あなたのこと」

「……俺の?」

「そう。拓真くんには言ってないけど、

玲央くん、本当は――」


その言葉は途中で途切れた。

行き交う生徒達の中に何かを察したのか、お弁当を押し付け、涼子は一歩下がった。

「とにかく、ちゃんと食べて」

「……う、うん」


涼子は顔を赤ながら微笑み、軽く会釈をして去っていった。

蓮は手にした包みを見つめたまま、

(……なんで、あいつまで俺に気を遣うんだよ)

と、小さく呟いた。



校舎裏。

風が強く吹き抜け、ベンチの上の木の葉が舞った。

蓮はベンチに腰を下ろし、包みを開けた。

卵焼き、焼き鮭、少し形の崩れたおにぎり。

どれも、どこか懐かしい味がした。


(玲央……そして、涼子。

 あの二人は、俺に“立ち上がれ”って言いたいんだろうか)


そんな思いが胸をよぎった瞬間――

風の向こうから、ゆっくりとした足音が近づいてきた。


「――こんにちは」


蓮が顔を上げると、

そこにはともみが立っていた。

いつもの落ち着いた笑みを浮かべながら、

手に自分の弁当箱を持っている。


「野中くん、ここが定位置になっちゃったの?」

「え……まぁ、そんな感じです」

「ふふ。じゃあ、今日も“同席”させてもらおうかな」


ともみは何のためらいもなく隣に腰を下ろし、

弁当のふたを開けた。

「ねえ、さっきの放送。どう思う?」

「……ああ。まぁ、分かってました。

 いずれ、こうなるって」


「そう」

ともみは少し目を伏せ、風に髪を揺らした。

「でもね…

“共同活動”って言葉の裏にも、人の意思があるの。

誰かが望んだからこそ、ああいう放送になった」


「……誰かが」

「そう。

でも、“誰か”がそれを止めようとしてるのも、確かよ」


ともみは意味深に微笑んで、蓮の弁当に視線を移した。

「美味しそう。もしかして――」

「玲央から、です」

「……あら。

じゃあ、私のも少し交換しない?」


そのやわらかな笑みの奥に、

“彼女なりの覚悟”が滲んでいた。

蓮は戸惑いながらも、小さく頷いた。


そして、二人の弁当箱の間を風が通り抜けていった。

その風はどこか、

これから訪れる“嵐の前触れ”のように、冷たかった。


夕陽が傾き始めたグラウンド。

1年たちの掛け声が響く中、蓮は笛を首に下げて立っていた。


「中野、もう少し中へ寄れ! 相澤、カバー遅れてるぞ!」

声を張りながら、走る姿を目で追う。

玲央から渡されたメニュー通り、今日も基礎中心の練習。

穏やかで、いい空気が流れていた。


そこへ。


ギィッと金属音を立てて、グラウンドのフェンスが開いた。

入ってきたのは、見慣れないジャージ姿の一団。

持っている部活用バッグには金色の刺繍に筆記体で「七星高等部サッカー」とある。


先頭の男がボールを片手に笑った。

「こんにちはー。共同活動の一環として

今日から二週間、この俺たちが“指導”に入るから」


1年たちは動きを止め、ざわめきが広がる。

「え、指導って……?」

「ブリーフィングの時には聞いてないよ……」


蓮が一歩前に出る。

「それは……どういう意味ですか?」


高等部の部長がにやりと笑う。

「“生徒会長”と“アイスマン”からの直々の指示だよ。

あんたら、全国行くんだって? すごいじゃん。

だから俺たちが、「本物」のサッカーを教えてやる」


蓮の胸の奥に冷たいものが走った。

(押田会長……玲央……)

反論したい。だが、立場的に逆らえばSSが動く。

「……わかりました。お手柔らかにお願いします」

そう言うのが、精一杯だった。


次の瞬間、空気が変わった。


高等部のボール回しは、まるで見せつけるように速い。

だがパスがわざと1年の膝をかすめ、スパイクの裏で足を踏む。

相澤が倒れ込んだ。

「痛っ……!」


「何してるんですか!」

蓮が駆け寄ると、部長が肩をすくめて笑う。

「練習だろ? 怪我するのも実力のうち」


さらに別の1年のボールを奪う際、肘が顔面をかすめた。

「うわっ!」

鼻血を押さえる1年。

高等部の部員が冷笑する。

「“オタク”に指導してもらってるから、怪我すんだよ」


蓮の中で、何かが切れた。

「やめてください!!」

声がグラウンドに響く。

空気が止まる。


高等部部長は、ゆっくりと振り向いた。

「……あ?」

その目は、氷のように冷たかった。

「あらあら、“オタク”が吠えてるよー」

笑い声が広がる。

取り囲むように立つ高等部員たち。


「怖いの? 怖いならおうちに帰れば?」

「おう、全国優勝の“偉大なるコーチ様”にお手本を見たいのだけどなー」


どこまでも苔をするような発言をする高等部生徒たち

その言葉に、1年たちの顔が強張る。

蓮は拳を握った。

でも――振るうことはできなかった。


(殴ったら、全部終わる。

こいつらじゃなく、俺が“処分”される)


高等部の部員がゆっくりと笛を吹き、嘲笑うかのように語る。

「今日の練習は、お話にならないから終わりでーすw。お疲れでしたぁー」


1年たちは戸惑いながらも、道具を集めのために動き始めた。

高等部の部長が、唇の端を上げる。

「おいおい、素直に終わらせてるよ」

「今回の1年、根性までナヨってて草」

「まじそれな」


言い返さず、蓮は俯いたまま立っていた。


「中野くん、みんなにマーカを早めに片づけるよういっておいて…。

先輩たちのところに行ってくる。」


そういって、蓮は高等部がいる方向に近づいた。


「俺と、勝負してください」


その声に、グラウンドの空気が一変した。

静寂。

そして、爆発的な笑い声。


「ははっ、言ったぞ! “オタク”が勝負だって!」

「聞いたかお前ら!?」

部長は口角を吊り上げ、ボールを軽く弾ませた。

「いいだろう。13対1。受けてやるよ」


「そ、それじゃ不公平です!」

たまたま居合わせた1年が叫ぶ。


だが、蓮は振り返って小さく微笑んだ。

「大丈夫。俺は、逃げないから」


その表情に、1年たちは言葉を失った。

誰も、あの目の奥に宿った“光”を知らない。

それはかつて、拓真と地区大会を勝ち抜いたときの――あの瞳だった。


高等部員の一人が、蓮の足元を見てニヤニヤする。

「……更衣室に置いてきた」

「じゃあ――これ、使えよ」


蓮が差し出されたスパイクに手を伸ばそうとした瞬間、

高等部員がそれを軽く放り投げた。

スパイクは宙を描いて、フェンスの外へ転がっていく。


「あれれー? 飛んでっちゃった」

笑い声が響く。

「何をするんですか!」

1年が詰め寄る。


「いいんだ」

蓮は静かに手を上げて制した。

「スニーカーで、やるよ」


その言葉に、場の空気が再び変わる。

高等部部長が笛を鳴らした。

「――試合開始!」


試合が始まる。

開始直後から、異様な空気だった。

タックルは肩ではなく膝。

スライディングはボールではなく足首を狙う。

審判もいない。止める声もない。


「っ……!」

蓮はスニーカーのまま、体勢を崩しながらもボールを追う。

足裏が滑り、砂埃が舞い上がる。

「まだだ……!」


 だが背後から肘が入り、身体が地面に叩きつけられた。

 視界が一瞬、白く飛ぶ。

「よくも親善で恥をかかせたな!そのお返しだっ!」

「オタクのくせに調子乗るな!」

スパイクの爪先が腹を蹴った。


どこかで誰かが悲鳴を上げた。

1年たちが止めに入ろうとするが、近づけば殴られる。

高等部の笑い声が響く。

「どうした、“全国オタク”!」

「立てよ! 根性見せてみろ!」


蓮は膝をついたまま、血で染まった頬を拭った。

息が荒い。

だが、立ち上がった。


「……まだ、終わってません」


それでも、再び殴りつけられる。

蹴りが飛ぶ。

砂が血を吸って赤く滲む。


ボールはどこかに転がり、

もはやサッカー部の練習風景ではなく、ただの暴行だった。


蓮は顔面に拳を受け、地面に崩れ落ちる。

視界が赤に染まり、頬を伝う血が砂に落ちる。

それでも、立ち上がろうとした。


(俺が倒れたら、また誰かが殴られる……)

ふらつきながらも、ボールに向かって歩き出す。


だが――。

次の瞬間、太い声が響き渡った。


「――そこまでだ!!」


見回りをしていたSS二人が、全力で駆け込んできた。

警笛が鳴り響く。

「プレーを中断! 全員その場で止まれ!」


高等部部員たちは一瞬動きを止め、

部長が舌打ちした。

「チッ……ちょうどいいとこだったのによ」


フェンスの外、グラウンドの入り口から

会長と副会長が後から来ていた。


押田は冷たく辺りを見回した。


「……なんだ、この有様は」

高等部部長が言い訳を始める。

「いえ、これはあくまでオタク部員に対する“実地指導”でして――」


「指導?」

押田の声が低く響く。

「これは“指導”ではない。“制裁”だ。

君たちは七星の誇りを何だと思っている」


その言葉に誰も反論できなかった。

押田は続けた。

「私は、“理不尽”を教え込むのは構わない。

だが暴力というものは、決して教育ではない!」


その視線が高等部員を貫いた。

誰も声を出せない。


押田はゆっくりと蓮のもとへ歩き、

所々腫れ、血の滲む頬を一瞥すると、静かに背を向けた。

「高等サッカー部の処遇は後日発表する。それまでは

中等サッカー部との共同活動は中止だ。

……副会長、“彼”を頼む」


ともみはすぐに蓮のもとへ駆け寄る。

「野中くん!「大丈夫?」

「……すみません」

けがの具合をみて、もはや声にならなかった。


1年たちやほかの部員がが慌てて駆け寄るが、応援に来たSSに阻止される。

 

血のついたシャツに触れ、ともみ目を見開く。

「保健室へ……今すぐ!」

彼女の掛け声で、SSが担架を持って走り込む。


蓮はぼんやりと空を見上げた。

夕陽が眩しく、世界が滲む。


(ああ……俺、また……誰も守れなかったな)


意識が遠のく寸前、

ともみの声だけが耳に届いた。


「……もう、これ以上頑張らなくていいから」


保健室の白い天井。

鼻に残る消毒液の匂い。

カーテンの向こうで、誰かのすすり泣く声がした。


蓮がゆっくりと目を開けると、

白いカーテンの隙間から、差し込む夕陽が揺れていた。


ベッドの横には、拓真と玲央、そしてともみ。

二人とも、言葉を失って立ち尽くしていた。

足元の包帯。腕の擦過傷とアザ。

そして頬に貼られた絆創膏――。


玲央が視線を落とす。

「……ひどいな」

拓真も息を飲む。

「1年たちも、やられてる。けど……蓮のほうが、ずっと」


蓮はかすかに笑った。

「……見苦しいところを、見せてしまった」


その声に、ともみが顔を上げた。

彼女は保健室の隅で、氷嚢を握りしめていた。

「今、平井先生が……蓮くんのご両親に説明してる。

もう少しで来ると思う」


「そう、ですか……」

蓮は天井を見つめたまま、かすかに目を閉じた。

「……こんなことで、迷惑かけたくなかったのに」


その一言に、三人とも黙り込む。

空調の音だけが、淡々と響く。

玲央は、机の上の包帯をじっと見つめた。

拓真は、蓮の指が震えているのを見て、拳を握りしめる。

ともみは、何も言えなかった。


しばらくして、扉が開いた。


「……失礼します」

入ってきたのは、蓮の父と母。

その後ろには平井先生の姿。


母親は思わず口元を押さえた。

「……れん……」

蓮は、ゆっくりと顔を逸らした。

見られたくなかった。

この惨めな自分を。


玲央は我慢できず深く頭を下げた。

「申し訳ございませんでした!

監督義務を怠った俺の責任です」


拓真もすぐに続く。

「……俺も同じです。止められたはずなのに」

ともみは静かに頭を下げた。


父は二人をしばらく見つめ、

静かに首を横に振った。


「3人とも、顔を上げてくれ…事情は、大体理解しています。

君たちは悪くはない。……これは、“上”の問題だ」


その声は穏やかだったが、どこか冷たく響いた。

ともみの胸に痛みが走る。

(“上”の問題――それが、私たち生徒会だ……)

ともみはまた静かに頭を下げた。


蓮の両親と平井先生が軽く会話をし会釈する。


「今日はもう帰りましょう。病院にも寄らないとね…」

母が、そっと蓮の肩を支える。

蓮は力なく頷いた。


立ち上がるその背中は、

まるで“影”のように細く見えた。


扉の前で、父がもう一度振り返る。

「……ちゃんと謝れるのは、立派な事だ

蓮を守ってくれて、ありがとう。

あとは、こっちに任せてくれ」


そう言い残し、蓮とその家族は保健室を後にした。


残された三人は、何も言えなかった。

夕陽がカーテン越しに差し込み、

血の跡をかすかに照らしていた。


ともみがぽつりと呟く。

「……あの子、きっともう――」


玲央が目を閉じた。

「……最悪、“サッカー”のことは、話せなくなるかもしれないな」


沈黙が、また保健室を包み込む。

冷たい風が少しだけ吹き抜け、

どこかで時計の針が小さく、時を刻んだ。



正午に近い、遅い朝。

薄いカーテンの隙間から、初夏の光が部屋に差し込んでいた。


ベッドの上、スマートフォンが震える。

画面には「七星学園ポータル」からの通知。

蓮は通知をタップし、すぐに起動した。


《連絡事項:

野中蓮くんは、怪我の完治後、事前に担任へ連絡してから登校してください。》


淡々とした文面。

まるで事故報告のような冷たさだった。


蓮はそれをしばらく眺めてから、

小さく息を吐き、端末を伏せた。


「……“完治”って、何をもって言うんだろうな」


独り言は、部屋の中に吸い込まれていく。


アプリのなかに、学内ニュースが目に入る。

《共同活動制度、本格始動 ―高等部との連携で成績・技術向上を期待―》

その記事をタップすると、笑顔で並ぶ野球部と吹奏楽部の集合写真。

そして、その成果を示す内容だった。


どこにも“中等部サッカー部”の姿はなかった。


蓮は苦笑した。

「……功を奏した、ね」


画面を閉じ、無言で天井を見上げる。

静かすぎる部屋。

鳥の声と、隣家の子どもの笑い声だけが遠くに聞こえていた。


夜。

夕食を終え、リビングにはテレビの明かりだけが灯っていた。

蓮は湯飲みを両手で包みながら、ぼんやりとニュースを眺めていた。


父が静かに声をかける。

「……蓮」


「ん?」


「お前、いじめられてないか」


蓮の手が止まる。

数秒の沈黙。

そして、かすかに首を横に振った。


「……そんなこと、ないよ」


その声は弱く、

けれど、はっきりと“嘘”の色を帯びていた。


父はしばらく黙ったあと、

ゆっくりと立ち上がり、机の上に何かを置いた。


「ちょっと前にな。千束大附属高校の先生がうちに来て、

“少し早いけど”って言ってこれを置いていったんだ」


白い封筒の中には見覚えのある校章。


蓮は、そっとそれに手を伸ばした。

紙の重みが、やけに現実的に感じられた。


中身には推薦に関する書類一式が揃っていた。

「……推薦、ですか」

「ああ。お前が希望すれば、俺たちは止めない。

ただ――人の道を外れるようなことだけは、するな。

それ以外なら、俺たちはお前を信じるし、支える」


父の声は淡々としていた。

でも、その中には、確かな“祈り”があった。


蓮は唇を噛みしめ、俯いたまま小さく頷いた。

「ありがとうございます……。

約束するよ。……でも、もう少しだけ、待ってほしい」


父はそれ以上何も言わず、頷いて席を立つ。

残された湯飲みの湯気が、ゆらりと揺れた。


部屋の時計が22時を告げる。

蓮は床の上でゆっくりと目を閉じた。


(もう少しだけ……。

俺に、何ができるか考えさせてください――)


数日後の朝。

窓の外は、まるで何もなかったように青空だった。


「……行ってきます」

蓮が玄関で小さく頭を下げると、母は心配そうに頷いた。

「無理はしないでね。先生には連絡してあるから」


その言葉に短く返事をして、玄関を出た。

制服の襟に指を通すと、傷跡が少し痛む。

それでも、歩かなければ――。


登校してからの教室は、あまりにも静かだった。


「……おはようございます」

扉を開けた瞬間、

話していた生徒たちの声が一瞬だけ止まる。

「タフだね…」

「高校の先輩とやりあったらしいよ…」

「え?停学ものじゃない?」


(……やっぱり、そうなるか)


蓮は何も言わず、自分の席に向かった。

誰も目を合わせない。

チラリと視線を寄越す者はいても、

すぐにノートやスマホへと視線を戻していった。


机の上の教科書を机の中に入れながら、

蓮は小さく息を吐いた。


やがて担任が入ってきて、いつものようにホームルームが始まる。

まるで昨日と何も変わらない日常。

だが、蓮にとっては、

その「何も変わらない」が、蓮にとって一番残酷だった。


午前の授業が終わり、昼休み。

蓮は教室を出て、静かな校舎裏へ向かった。

この場所が今の彼の“避難所”だった。


ベンチに腰を下ろし、

ぼんやりと空を見上げる。

遠くで部活の掛け声が響いている。


(……俺だけ、止まってるみたいだ)


手にした弁当の箸は、なかなか進まなかった。


そのときだった。

「……やっぱり、ここにいた」


振り返ると、ともみが立っていた。

白いブラウスの袖を風が揺らしている。


「ケガ、大丈夫?」


蓮は少し驚いた顔をして、すぐに笑った。

「ありがとうございます。なんとか……もう痛みはほとんどないです」


ともみは彼の隣に腰を下ろした。

風がふわりと二人の間を通り抜ける。


「……よかった」

「ご心配おかけしました」

「ううん。あんなの、あってはならないものだからね…。あのあと、相応の処分を下したよ。

でも――“あの人たち”は許さなかったんでしょうね…「中等部が再び全国を取るかも」ってことに」


その言葉に、蓮はほんの一瞬だけ表情を曇らせた。

ともみはすぐに話題を変える。


「ねぇ、最近の1年生たち、頑張ってるって聞いたよ」

「ええ。玲央が立てたメニューを少し変えて、基礎からやってるんです。

……みんな素直で、吸収が早いです」


「蓮くんが“教える側”になるなんて、なんか不思議」

「俺もですよ。昔は、教えてもらうばかりだったのに」


互いに、少しだけ笑った。

それだけで、ほんの少し空気が軽くなる。


昼のチャイムが鳴る。

ともみは立ち上がり、制服のスカートを軽く整えた。


「じゃあ、また明日」

「え?」


ともみは振り返って、にっこりと笑った。

「あなたがここにいる限り、“また明日”って言えるでしょ?」


蓮は目を瞬かせ、

それから、少しだけ照れくさそうに笑った。

「……はい。また明日」


 ともみが去っていく。

 残されたベンチに、生暖かい風が吹き抜けた。


蓮は空を見上げる。

 (……まだ、終わってない。

俺はまだ、“明日”って言える)


そう呟いて、食べかけた弁当のフタをそっと閉じた。



放課後のグラウンド。

夕陽が長い影を落とし、ボールの弾む音だけが静かに響いていた。


久しぶりの集合に、空気はどこかぎこちない。

高等部との一件以来、部内には沈黙が根付いていた。

それでも、誰も口にはしない。

ただ淡々と、スパイクの音と掛け声を鳴らすだけ。


練習後の部室

「三日後、準決勝。相手は千代田第一中。

守備は固いが、突破できない相手じゃない」

玲央の声は落ち着いていた。

けれど、どこか張り詰めたようでもあった。


隣で拓真がボードを指し示す。

「前半の20分、相手は両サイドの守備が甘くなる。

こっちのウイングを中心に展開すれば点は取れる。

だけど、それには“精度”が必要だ」


彼の視線が、ふと蓮を捉えた。

「……グース、引き続きお前が1年の調整を頼む。

全体のパス回し、試合前までにもう一段上げとけ」


蓮は一瞬だけ目を見開き、すぐに頷いた。

「了解です」


その短い言葉に、空気が少しだけ動いた。

沈黙を破るように、1年たちが頷く。

彼らの視線は、どこか誇らしげでもあった。


玲央は一瞬、目を伏せた。

そして、ボードの端に書かれたラインを見つめる。


「……もう一つ。

今回の試合、地元とはいえ、メディアが来る。

勝てば県大会優勝の座が見えてくる。

“七星”の名を掲げるからには、外聞を損なうな」


その言葉に、空気が一段と重くなる。

誰もがそれを「圧」として感じた。


(外聞、ね……)

蓮は心の中で小さく呟いた。

全国を勝ち取った時とは違う、

何か大きな“歯車”が動いているのを感じる。


拓真が締めに声を上げる。

「……よし、解散。明日は軽めの調整にするぞ」


部員たちは一斉に散っていった。

蓮は残った1年たちと短く話し合い、

グラウンドの片隅でボールを拾い上げた。


そのとき、背後から声がした。

「……お前、まだやる気あるんだな」


振り返ると玲央が立っていた。

蓮は一瞬、言葉を探してから笑った。

「やめろって言われても、体が覚えてるんで」


玲央は一瞬、何かを言いかけて――やめた。

「……そうか」


わずかな沈黙のあと、

彼は何かを言い残すように短く告げた。


「……明日、少し話せるか」

「…はい」


玲央はそれだけ言って去っていった。


蓮はしばらくその背中を見つめ、

小さく息を吐いた。


(……“話せるか”、か。

もう俺たちは、あの頃の“マーベリックとグースとアイスマン”じゃないのかもしれない)


空はすでに橙から群青へと変わっていた。

蓮はボールを抱え、ゆっくりと歩き出した。


翌日の放課後。

空が赤く染まり、グラウンドには長い影が落ちていた。

部員たちはすでに帰り、残っているのは蓮と玲央だけだった。


風が吹き抜け、ネットがかすかに鳴る。

蓮はボールを転がしながら、沈黙の中で彼を待っていた。


やがて、部室棟の方から足音。

「……来たか」

玲央の声は、夕陽に溶けるように低く響いた。


「昨日の話ですか?」

蓮が尋ねると、玲央は頷き、ゆっくりと前に出た。


「……お前には、話しておきたいことがある」

「……」


玲央はポケットから一枚の書類を取り出した。

「これ、見たことあるか?」


それは、生徒会が先日配布した『部活動運営方針』。

上に生徒会長の印章が押されていた。


「……見ました。でも、正直あまり実感はなくて」

「“共同活動”の名の下に、どの部も整理が始まってる。

オタク側の部員を削って、顔と体型のいい奴だけ残す――。

それが“新しい七星”らしい」


玲央の声には、皮肉が滲んでいた。


蓮は沈黙した。

それは、もう彼自身も気づいていたことだった。


「……俺たちの代は、それを“守る”立場なんだとさ。

押田会長に言われた。『お前は象徴になれ』って」


「象徴……?」


玲央はわずかに笑った。

それは、諦めとも自嘲ともつかない笑みだった。


「なぁ蓮。俺たちが全国優勝したとき、覚えてるか?」

「……覚えてる。あのゴール、今でも忘れられない」


「だろ。

あの瞬間、俺たちは“対等”だった。

でも今は――どっちが上か、下か。

そんなことばかりが話題になる」


蓮は拳を握った。

「……違う。サッカーは、そんなものじゃない。

みんなでやるものです。誰が上とか、下とかじゃ――」


「そう言えるのは、“まだ外”にいるからだ」

玲央の声が、少し強くなった。

「お前は“地位協定”の外側だ。

俺はもう、内側にいる」


沈黙が落ちた。

風が二人の間を抜ける。


「……俺は、正直お前を羨ましいと思ってる」

玲央はそう呟いた。

「純粋にボールを追って、真っすぐでいられる。

でも、それじゃ――この世界では、生き残れない」


蓮は何か言いかけたが、言葉にならなかった。

玲央はボールを一度蹴り上げ、夕陽に目を細めた。


「……もうすぐ、部の方針が変わる。

お前が教えてる1年は、県の決勝後をもって

俺が責任をもって預かる」


「……えっ?」


「…悪いな。これが押田会長と交わした“決定事項”だ。

グース抜きの俺たちの世代で、“七星”を正しく見せるための」


ボールがゆっくりと転がって、蓮の足元で止まる。

沈黙の中、玲央そっとボールを拾い上げ、は背を向けた。


「……俺は、お前を責めたり切るためにここにいるわけじゃない。

ただ――“お前を守れなかった”だけだ。

…ここから先は俺を軽蔑しても、恨んでもいい。…すまない。」


その言葉が、どんな意味を持つのか。

蓮には、まだわからなかった。


「……はい」

絞り出すように、ただそれだけを返した。


玲央は何も言わず、ゆっくりと歩き去った。

残された蓮の影が、長く伸びる。


空は、もう夜の色を帯び始めていた。


蓮の元を去ったあと、夕暮れのグラウンドは再び静寂を取り戻した。

その沈黙を破るように、金属フェンスの向こうから誰かの足音が近づく。


「……やっぱり、ここにいたか」


声の主は――藤井拓真。

彼はジャージのまま、額の汗をぬぐいながら歩み寄ってきた。


玲央は背中を向けたまま、答えない。

拓真の目は怒りで燃えていた。


「聞こえてたぞ、さっきの話。

“決定事項”だと? お前があいつを外すって?」


玲央は短く息を吐き、

ようやく振り返る。


「……拓真、お前には関係ない話だ」

「関係なくねぇよ!」


怒鳴り声がグラウンドに響いた。

「俺たちは、三人でここまで来たんだ!

“マーベリック”も“グース”も、お前も――

全部一緒だったろうが!」


玲央は唇を噛み、拳を握った。

だが、顔はどこか沈んでいる。


「……わかってる。けどな、もうあの頃のままじゃいられないんだ」

「は?」


「上が変われば、下も従う。

会長の方針に逆らえば、部が潰される。

“七星”の看板は、「しがらみ」が多すぎて

もう個人の理想で守れるもんじゃない」


「そんなもん知るかよ!」

拓真は一歩、前に踏み出した。

「部を守る?それで“友”を切るのか?

あいつがどれだけ必死で1年見てきたか、知らねぇだろ!」


玲央の目が揺れる。

だが、次の瞬間にはその感情を押し殺すように低く言った。


「知ってる。全部、わかってる。

でも俺が動けば、“あいつ”がもっと狙われる。

……それでも、お前は止めるのか?」


沈黙。

拓真は拳を握り、

夕陽に照らされた影が長く伸びていく。


「……結局、お前は“上”に飲まれたんだな」

その声は怒りよりも、哀しみに近かった。


「佐藤さんから聞いた。

お前が“特別参与”に入ったのは、

蓮を守るはずが、“上”に従うためにすり替わったって」


玲央の肩がわずかに震えた。

「……すまない。でも、それしか方法が――」


「“でも”じゃねぇだろ!」

拓真は玲央に詰め寄り、胸ぐらをつかんだ。


「言い訳なんか聞きたくねぇ。

お前は“選んだ”んだよ、玲央。

“あいつ”を!蓮を!!切り捨てる道をな!!!

やってることが、蓮をフルボッコにした高校の先輩(クズ)共と変わらないんだよ!」


玲央は俯いたまま、何も言い返せなかった。

ただ、夕陽の中で、

影だけが二人の間に横たわっていた。


「……もういいよ。

あいつのことは、俺が守る。

お前は、自分の“正義”でも信じてろ」


拓真は玲央を突き放し、背を向けて歩き出した。

玲央はその背中を見送ることもできず、

ただ拳を握りしめたまま、呟いた。


「……守りたかったのは、同じなのに」


風が止み、遠くでカラスが鳴いた。

その声が、やけに胸に響いた。


翌朝。

生徒会室の扉が、静かに開いた。


中には押田会長、倉原副会長、そして書記の数名がいた。

部屋の空気は冷たく、まるでそこだけ季節が違うようだった。


「――来たか。東條」

押田が振り向きもせずに言う。


玲央は一礼し、書類を差し出した。

「中等サッカー部所属・野中蓮。

一時的なコーチ権限の解除申請書です」


倉原が眉を動かした。

押田は手を伸ばし、書類に目を通す。


「理由は?」

「体調不良および、指導方針の乖離によるチーム統率の乱れ。

正式なコーチとしての役割を一旦休止し、

復帰については顧問及び主将判断としました。――」


玲央の声は震えていなかった。

それが逆に、どこか機械的に響いた。


「……ふむ。整った書き方だな」

押田は満足げに頷く。

「『理由』がどうあれ、“秩序”を保つ判断だ。

君には期待しているよ、“象徴”としての働きを」


玲央は何も言わず、一礼した。


その時、倉原が口を開く。

「……東條くん。彼を“指導者”として外すことで、

残る1年生たちへの影響は?」


「……問題ありません。

僕が直接指導に入ります」


倉原はほんの少しだけ、目を伏せた。

その表情を、押田は見逃さなかった。


「副会長、余計な感傷は不要だ」

「……失礼しました」


押田はサインを入れ、朱印を押す。

その音が、やけに重く響いた。


「これで決まりだ。

本日付で、野中蓮は“指導停止”扱いとする」


朱印の赤が紙に滲み、

その色はまるで血のように見えた。


玲央はその光景を、無言で見つめた。

自分の手が、わずかに震えていることにも気づかないまま。


同日・放課後

夕陽が差し込む校門前。

拓真はフェンスに背を預け、スマホを見つめていた。

画面には、さっき流れた“部内告知”の通知。


> 【中等サッカー部:指導者交代のお知らせ】

> 野中 蓮 コーチ権限一時停止

> 復帰未定


その文字を見た瞬間、彼の拳が震えた。


「……マジかよ」


後ろから声がした。

「――見たのね」


振り返ると、そこには佐藤涼子が立っていた。

いつもの軽い笑みはなく、目元に影があった。


「どうして……こうなるんだろうね」

涼子は小さく呟いた。


拓真は唇を噛む。

「玲央が出した。

“あいつを守るため”だって言うけど……そんなの、言い訳だ」


「守るため、ね……」

涼子はフェンスを見つめた。

「蓮、きっとまた一人で抱えちゃうんだろうな」


「……見てらんねぇよ」

拓真は吐き捨てるように言った。

「玲央も、押田会長も。

“上”ばかり見て、下の仲間を見てねぇ」


涼子は小さく首を振った。

「……でも、蓮を完全に“消す”ことはできない。

これまで見てきたけどあの子、そういう人じゃない。

静かに見えて、ちゃんと“心”がある」


拓真が彼女を見る。

涼子の瞳は、まっすぐだった。


「だから、わたし……行く」

「え?」


「直接、話すよ。

蓮がどんな顔してるか、この目で見たいの。

……たとえ、“彼の隣”に戻れなくても」


その言葉に、拓真は言葉を失った。

そして、わずかに笑う。


「……そういうとこ、玲央とは正反対だな」

「それは、どうも」


涼子は小さく笑い返した。

だがその笑みの奥には、切ない覚悟が宿っていた。


夕陽が沈み、二人の影が長く伸びていた。



放課後。

薄橙の光が差し込む校舎裏。

誰もいない場所に、初夏の風が、さわ、と木々を揺らしている。


蓮は一人、ベンチに腰を下ろしていた。

風の音が、どこか遠い世界のもののように聞こえていた。


(……もう、俺にできることはないのかな)


そんな呟きを飲み込んだその時――

「……やっぱり、ここにいた」


静かな声がした。


振り返ると、そこに立っていたのは――佐藤涼子だった。

彼女はいつもの笑みではなく、どこか照れたような顔で立っていた。


「ちょっと、探したんだよ。

SSが見回ってたから、今のタイミングしかないと思って」


「……どうして、わざわざ」


「うん。どうして、だろうね」

そう言って、涼子は小さく笑った。

制服のポケットから、何かを取り出す。


――小さな、ゲーセンで取ったキーホルダー。

ピンク色のイルカが笑っているかのように、ついていた小さな鈴が鳴っていた。


「覚えてる? 中1の県予選前。

ゲーセンでわたし、これ全然取れなくて、

蓮くんが“もう一回だけ”って挑戦してくれた時の」


「……覚えてるよ」

蓮の声が少し震える。

「取れた瞬間、めっちゃ喜んでた」


「うん。

……あの時の笑顔、今でも忘れられないの」


涼子の瞳が、真っ直ぐ蓮を見つめた。


「だからね、どうしても伝えたくて来たの。

“ありがとう”って。

あの時のあなたに、今のわたしが支えられてる」


蓮は視線を落とした。

胸の奥に、ずっと凍りついていた何かが、少しだけ溶ける感覚があった。


「……玲央は、最近ね」

涼子が言葉を続けた。

「高校の先輩と……“いい感じ”なんだって」


「……そう、なんだ」


蓮の声は穏やかだった。

そこに嫉妬も驚きもなく、ただ“理解”があった。


「でもね、それでいいと思う。

人ってさ、いろんな“形”で変わっていくから。

玲央も、わたしたちも、たぶん……」


少し言葉を濁し、彼女は息を吐いた。

「――蓮だけが、変わらないでほしいの」


蓮は顔を上げた。

夕陽の中で、涼子の瞳はまっすぐで、揺れていなかった。


「……ありがとう。少し、気持ちが楽になったよ」


「よかった」

涼子は安堵の笑みを浮かべた。

そしてスマホを取り出し、画面を差し出す。


「ねぇ、連絡先……交換しよ?」


蓮は少し戸惑いながらも、頷いた。

ピッ、と端末が光る。

画面に“佐藤涼子”という名前が表示される。


それは、家族以外で初めて登録された“女性”の名前だった。


「……何かあったら、いつでも言ってね。

どんな小さなことでも、わたし、聞くから」


「……うん」


涼子は微笑み、手を振った。

「じゃ、またね」


そう言って、彼女は駆け出した。

風がスカートを揺らし、光が髪に反射する。


その頬は、夕陽よりも少しだけ赤かった。


蓮は手元のスマホを見つめ、

ほんの少しだけ、笑った。


(……ありがとう。俺、もう少しだけ頑張ってみるよ)


空には、夕暮れの橙が淡く滲んでいた。


翌日の放課後。

日が傾き始めた屋上には、初夏の風が吹いていた。

風が金網を鳴らし、まだ少し湿った空気を運んでくる。

涼子はフェンスに背を預け、手すりに触れた。

この場所に来るのは久しぶりだった。


閉鎖時間が近いと聞いて、なんとなく足が向いたのだ。

――そんな時だった。

「……ここにいたのか」

聞き慣れた声。


振り向くと、東條玲央が立っていた。

ネクタイを少し緩め、目の奥に疲れを宿している。

「玲央……」

「涼子…お前、昨日――野中と会ってただろ」


涼子は息を呑んだ。

だがすぐに、静かに頷いた。

「うん。話したよ」

玲央の目が細くなる。

「どういうつもりだ」

「どういうつもりって……ただ、心配だっただけ」

「心配? あいつはもう部に関係ない。

お前まで巻き込まれる必要はない」

玲央の声には、明らかな苛立ちが混じっていた。

風が二人の間を切り裂くように吹く。

涼子はしばらく黙っていた。


そして、ぽつりと口を開いた。

「玲央くん……変わったね」

「何がだ」

「前はもっと、人の痛みに敏感だった。

勝ち負けや肩書きなんて関係なくて……

『仲間を守る』って、真っ直ぐ言えてたのに」

玲央はわずかに顔を歪めた。

「……守るために、俺は"上"にいるんだよ」

「違うよ。

あなたは"上"に立つことで、

"見下ろす"ようになってるだけ」

涼子の言葉は静かだった。

でも、その静けさが玲央の胸を刺した。

「……お前、あいつに何を言われた」

「何も。

ただ、あの子、まだ優しかった。

誰かに傷つけられても、人を恨まない顔をしてた」


玲央の拳が震える。

「……だから、何だ」

「わたし、蓮を好きになったわけじゃない。

でも、あの子の"まっすぐさ"だけは、

付き合いたてのあの頃のあなたと同じに見えたの」


玲央の目が一瞬、大きく見開かれる。

「……それ、俺に言ってどうなる」

「どうにもならないよ。

ただ、これだけは伝えたかった。

――わたしは"人を踏みにじってまで守る正義"なんて、

信じたくない」


涼子はそう言い残し、立ち去ろうとした瞬間――

玲央の手が伸び、涼子の手首をつかんだ。

「っ……!」

涼子がわずかに息をのむ。

玲央の指先が震えている。


「……行くなよ」

絞り出すような声だった。

「行くな……あいつのところに……」

涼子は、そっとその手を払った。

そして、振り向いて微笑む。

「ごめんね。

……でも、あなたを止めたら、

わたし、わたしじゃなくなっちゃう」

玲央が何かを言おうとした時には、

もう涼子は階段へと向かっていた。


ドアが閉まり、残された風だけが吹き抜ける。

玲央は両手で顔を覆い、空を見上げた。

「……あいつに、全部持っていかれた気がする」

そう呟く声は、誰にも届かなかった。


スタンドの片隅。

初夏の陽射しが白く、眩しかった。


歓声が響き渡る中、

蓮はひとり、ベンチコートの襟を立てて座っていた。

周囲の熱狂から、まるで切り離されたように。


スコアボードには「七星中 2―0 県立東浜」。

笛の音とともに、試合終了を告げる電子音が鳴り響く。


「――勝った! 決勝進出だ!」


ピッチでは、仲間たちが抱き合い、跳ね、泣いていた。

その光景は、蓮の胸の奥で何かを震わせた。

けれど、声は出なかった。


掌を膝の上に置いたまま、

ただ、指先に冷たい風が吹き抜けていく。


(……良かったな)


心の中で、誰にともなくつぶやく。

あれほど汗を流したグラウンド。

あれほど夢を見た仲間たち。


それでも――

今、自分はその輪の中にいない。


隣席の生徒たちが騒ぎながら立ち上がり、

旗を振り、スマホで記念撮影をしている。

蓮はその波に巻き込まれず、

ただじっとピッチを見つめていた。


(あの芝の匂い、

あのボールの重さ、

まだ全部、覚えてるのにな)


やがて、選手たちが観客席へ手を振り、

控室へと引き上げていった。

玲央も拓真も、そして1年たちも――

誰ひとり、蓮の存在には気づかない。


最後の一人がグラウンドを後にしても、

蓮は立ち上がらなかった。


観客席の影が長く伸びる。

あの頃のトロフィーを掲げる歓声が、遠くで反響する。


(……俺、何してんだろ)


呟いた声は、風に消えた。


頬をなぞる風は温かくも冷たくもなく、

その中で、蓮はぼんやりと空を見上げた。


青く澄み渡る空。

それが、あの頃“全国制覇”を夢見た日の空と同じ色だった。


けれど、胸の中には何の熱も残っていない。

ただ、時間だけが通り過ぎていく。


気づけば、スタンドはもう誰もいなかった。

係員が片付けを始め、風が紙くずを舞い上げる。


蓮はようやく立ち上がった。

膝が少しだけ重たく感じた。


「……おめでとう」


誰にともなく、小さく呟く。

その声は確かに優しかったが――

そこには、もう“生きた温度”がなかった。


彼の目の奥で、

何かが静かに凍っていく音がした。


その夜。

蓮は食卓につき、無言で箸を動かしていた。


テレビからは県大会準決勝のダイジェストが流れている。

実況の熱が、部屋の静けさを壊していた。


「七星中、2度目の決勝進出です!」


父がビールを置き、テレビをちらりと見た。

「今日も勝ったんだってな」


蓮は箸を止め、わずかに顔を上げた。

「……はい」


「お前、出てないのか?」

「補欠、です」


母が気まずそうに、笑顔をつくる。

「でも、頑張ったでしょ? ここまで来られたんだから」


「……うん」


蓮はそれ以上、何も言わなかった。

味噌汁の湯気がゆらりと揺れ、

白い光のように見えた。


父はビールを一口飲み、

「ま、無理するなよ」とだけ言って席を立った。


蓮はその背中を、ぼんやりと目で追った。

冷めた味噌汁を口に含みながら、

その味が、何も感じられなかった。


玲央と屋上で会ってから数日。

涼子は彼とはまともに会話していない。

けれど、それよりも痛かったのは、玲央の声の残響だった。


「行くなよ。俺からも、あいつからも」

胸の奥に焼きついたその一言が、

まるで錆びた釘みたいに、動くたびに痛む。


(どうして、あんな言い方しかできないの)

(どうして、わたしも、まだあの人のことを……)

階段を降りる途中で、目頭が熱くなる。


けれど涼子は、深呼吸をして涙を押し戻した。

泣いてはいけない。

泣いたら、あの頃の"優しかった玲央"の記憶が、

もっと遠くに行ってしまう気がしたから。


校門を出ると、夕陽が街を赤く染めていた。

コンビニの袋を提げた生徒たちが笑いながら通り過ぎていく。


涼子はスーパーで買い物を終え、

マイバッグを提げて家路を急いでいた。


駅前の通りを歩いていたとき――

ファストフード店の大きなガラス窓が目に入った。

ガラス越しに見えたのは、

テーブルを挟んで向かい合う二人。

東條玲央と、そして……山本結衣。

二人は向かい合って座っていた。

玲央が笑っていた。


結衣が、何かを話すたびに、ほんの少し照れたように微笑んでいた。

その光景は、まるで"誰かの未来"みたいで、

もう自分の届かない場所の出来事のようだった。


涼子は足を止めた。

視線を落とすと、カバンの中で何かが小さく光っている。

――ゲーセンのキーホルダー。

ピンク色のイルカが、彼女を見上げて笑っていた。


「……ありがとね」

涼子は、かすれた声でつぶやいた。

あのとき、蓮がくれたこの小さなイルカが、

いまの自分をつなぎとめている気がした。

(わたし、もう逃げない。

あの人がどんな道を選んでも、

ちゃんと自分の言葉で終わらせる)


夜風が、通りをすり抜けていく。

LEDの明かりが、ガラス越しの二人をぼんやり照らした。


宿題などを終えたあと、

涼子はスマホを取り出し、玲央の名前を開く。

指先が一瞬、ためらったが――

すぐに打ち込んだ。

《明日の朝、屋上で待ってる。》

送信音が、やけに冷たく響いた。

画面を閉じ、胸の前でキーホルダーをぎゅっと握りしめる。

その小さな笑顔が、彼女の迷いを振り払うように揺れた。


「……明日、ちゃんと話そう。

さよならを言うために」

その声は、風に溶けるように静かだった。


朝の屋上は、いつもより空気が重かった。

朝露の匂いがまだ残っていて、木々の緑が濃く茂っている。

梅雨入り間近の、少しだけ湿った風。

――決勝前日。

そんな大事な日に、彼を呼び出した自分を、

少しだけ責めていた。


涼子は制服のポケットに手を入れたまま、

胸の奥の鼓動を整えるように息を吐く。


ガチャリ、と鉄のドアが開く音。

「……来たのね」

振り向くと、玲央が立っていた。

寝不足のせいか、少し目の下に影が落ちている。

それでも、きちんとネクタイを締めているあたりが、玲央らしい。


「ごめんね。

決勝前っていうのに……呼び出したりして」


玲央は首を横に振った。

「いや、こっちこそ……あの時は、ごめん」

その一言に、涼子は少しだけ目を伏せた。

謝ってくれるなんて、思ってもいなかった。

けれど――それでも、言わなきゃいけないことがある。


「ねぇ、東條くん」

「……なんだ」

「あなたは、もう"誰かのため"に戦う人じゃなくなった。

いまのあなたは、"何かのため"に動いてる」


玲央が息をのむ。

涼子は静かに続けた。


「勝つため、評価されるため、

"上"に行くため……。

それが悪いとは言わない。

でもね…本当に誰かを守りたいなら、

あなたは"人の痛み"を感じるべきだったの」


玲央の拳が、また震えた。

それは怒りでも憎しみでもなく、

自分を責める震えのように見えた。


「……俺は、守りたかった。

お前も、蓮も、全部……」

「違うよ。

"全部"を守るなんて、誰にもできない。

でも、"見捨てない"ことはできたはずよ」


玲央の目が涼子を捉える。

言葉を失ったその瞳には、

まだ迷いが、まだ優しさが残っていた。


涼子は、微笑んだ。

優しい、でも、どこか儚い笑み。

「ねぇ……あの子のこと、責めないであげて。

蓮、あのとき本当に……泣きそうな顔してた」


玲央は目を伏せたまま、小さく息を吐いた。

「……俺、もうどうしたらいいのか分からない」

「分からなくていい。ただ、

"もう誰も傷つけないように"って、

それだけは覚えてて」

風が吹き、二人の髪を揺らした。


校舎の向こうから、チャイムの予鈴が鳴る。

もう、時間がない。

涼子は一歩、玲央に近づいた。

そして、そっとポケットから何かを取り出す。

玲央が福岡で買ったキーホルダー。

「これ……返すね」

玲央は言葉を失った。

ただ、風の音だけが二人を包み込む。


涼子は踵を返し、ドアの方へ歩き出す。

その背中に、玲央の声が届いた。

「……なぁ、涼子」

「うん?」

「お前、俺を……もう、見限ったのか」


涼子は立ち止まり、振り向かずに答えた。

「ううん。

"信じてたあなた"をまだ、

どこかで探してるだけ」

扉が閉まる音が、遠く響いた。


風が止んだ。

涼子の背中が、階段の向こうに消えていく。

そのドアが閉まる音が、心のどこかで"何か"を終わらせた。


屋上には、玲央ひとり。

空はやけに澄んでいて、朝の光が無遠慮に目に刺さる。

(……俺は、何をしてるんだ)

拳を見下ろすと、爪の跡が掌に食い込んでいた。

感情を押し殺すたび、指先に力が入っていたのだろう。

(あいつは……正しかったのかもしれない)

(でも、正しさじゃ、何も守れない)

胸の奥で、何かが軋んだ。

それはもう痛みではなく、冷たく沈むような感覚だった。


「……もう、戻れないんだな」

自嘲するように笑った。

朝の風が頬を撫でたが、温度は感じなかった。


ポケットの中のスマホが震える。

画面には、生徒会の通知―

「放課後、生徒会室へ。会長」

玲央は深く息を吐き、空を見上げた。

(ここで立ち止まったら、誰かが潰される)

(だから俺は、"上"に行くしかない)

そう自分に言い聞かせて、ドアノブに手をかける。


涼子の言葉が一瞬、頭をよぎった。

『本当に誰かを守りたいなら、

あなたは"人の痛み"を感じるべきだったの』

思わず、立ち止まる。

けれど、その迷いを噛み殺すように目を閉じ、

無理やり足を踏み出した。



放課後の生徒会室。


扉を開けた瞬間、空気が違った。

壁際にはSSが控え、中央には押田会長と倉原副会長――そして、結衣。


「遅かったな、東條」

押田の低い声が響く。

玲央は姿勢を正した。

「申し訳ありません」


押田は薄く笑う。

「構わん。お前も"上"に上がる覚悟を決めたようだな」

「……はい」

「いいだろう。ならば、来週の"特別講習"からお前を正式に迎え入れる。

七星の理念を、"血肉"として叩き込め」


結衣がちらりと玲央を見る。

どこか寂しげな目をしていたが、何も言わなかった。


倉原は黙ったまま手帳を閉じた。

玲央の瞳を見て、ほんの少しだけ眉を下げる。

(……あなたも、もう戻らないのね)


そんな彼女の声が、聞こえた気がした。

玲央はゆっくりと会釈をし、

"冷たい笑み"を浮かべた。

「……承知しました。会長」


その瞬間、

――かつて仲間を思って走っていた少年の姿は、

もうどこにもいなかった。


最終調整直前に蓮を呼び出し

誰もいないグラウンドの隅で、玲央が立っていた。

蓮が歩み寄ると、彼は何か言葉を探すように口を開いた。


「……蓮。決勝のメンバー入り、拒否された」

「……そう、ですか」


玲央は拳を握りしめた。

「俺も止めた。でも……“上”が動いた。

“事故の責任者”を出せってな」


蓮は無表情のまま、わずかに頷いた。

「仕方ないです。……分かってました」


「お前は、何も悪くない」

「玲央、俺、もうサッカーが怖いんです」


その言葉に、玲央は息を呑んだ。

蓮は続ける。


「ボールを見ると、殴られたときの音がよみがえる。

ピッチに立つと、誰かに睨められたり、卑下されてたり気がする。

もう、あの場所に“自分”がいちゃいけない気がするんです」


玲央は何も言えなかった。

沈黙の中、風が吹き抜ける。

彼の手の中で、決勝メンバー表が震えた。


「……ごめん」

その一言を残して、玲央は立ち去った。


蓮はその背中を見送りながら、

ゆっくりと目を閉じた。


1年の指導を終え、職員室に向かう蓮。

窓の外では、沈みかけた夕陽が赤く差し込んでいた。


平井先生の机の前に、蓮が立っていた。

手には、一枚の紙。


「……これ、退部届です」


「……全国が終わってからでも、いいんじゃないか?」


平井先生の声は穏やかだった。

だが、蓮は首を横に振った。


「今度の県の決勝で、辞めます。

チームが勝って、みんなが笑ってるうちに……

その景色を、最後に見たいんです」


平井はしばらく沈黙し、

静かに書類を受け取った。


「……分かった。

けど、お前が戻りたくなったら、いつでも来い」


蓮は小さく頭を下げ、

「ありがとうございます」とだけ言って職員室を出た。


廊下の先で、拓真が待っていた。


「……蓮?」


蓮は拓真と会い、すぐに顔を逸らした。

だが、拓真の目はすぐに気づいた。


「おい、まさか……」

「ごめん」


「どうしてだよ!」


拓真の声が、思わず廊下に響いた。

蓮は目を伏せたまま、

弱い笑みを浮かべる。


「……怖くなった。

もう、ボールが怖い。

人の目も、全部……。

本当にごめん」


「蓮……」


拓真は拳を握りしめ、言葉を失った。

蓮はその横をすり抜けるように歩き出す。


夕陽が廊下の窓を染め、

二人の影が長く伸びていた。


決勝戦当日。

青空が広がるスタジアムに、七星中の声援が響いていた。

手作りの横断幕、風になびくチームカラーの旗。

その熱気の中、蓮はひとり、ベンチの端に座っていた。


> 「七星中、キックオフです!」


アナウンスが流れ、歓声が爆発した。

蓮は無意識に耳を塞ぎそうになり、

それでも、拳を膝に置いてこらえた。


(……歓声じゃない。罵声みたいだ)


その声は、彼の中でねじれて聞こえていた。

「オタク」「無価値」「青春の粗大ゴミ」――

もう誰もそんなことを言っていないのに、

幻聴のように、過去の声が脳裏をよぎる。


ピッチでは、拓真と玲央が息を合わせ、

絶妙なパスワークを展開していた。


玲央の視線が一瞬だけベンチをかすめた。

その先にいる蓮を見つけたのか、

ほんのわずか、口元を動かした。


(……見てろ、ってことか)


蓮は小さく息を吐き、

スコアボードの数字を見つめる。


0―0。

だが、拓真の動きは鋭く、玲央の視野は広かった。

あの頃、グラウンドで共に走った“マーベリックとアイスマン”が、

今もそこにいる。

――自分抜きでもやっていけると、錯覚してしまうぐらいに。


前半終了。

控え選手たちが水を配り、声を張り上げる。

蓮も形だけ、ペットボトルを渡す。

その手を、玲央が一瞬だけ掴んだ。


「……見てろ」

それだけ言って、ピッチへ戻っていく。


後半、試合は激戦だった。

拓真のミドルシュートがゴールネットを揺らすたび、

スタンドが割れんばかりの歓声を上げた。


蓮は微笑んだ。

けれど、その笑みはどこか虚ろだった。


> 「試合終了! 七星中、2度目の全国への切符――!」


笛の音が響く。

拓真が、玲央が、仲間たちが抱き合って泣いていた。

顧問の平井先生が笑いながら拍手を送る。


その光景を、蓮はただ見ていた。

心の奥で何かがほどけ、

同時に、完全に吹っ切れた気がした。


「……良かったな」


その声は、歓声にかき消された。

ピッチに立つ仲間の姿が、

やがて表彰台へと移動していく。


蓮はベンチから立ち上がり、

ユニフォームの袖を軽く握りしめた。

その袖の中には、

もうチームの温度も、鼓動も残っていなかった。


会場がトロフィー掲揚の瞬間に湧く中、

蓮は静かにスタンドの出口へと歩き出す。


背中越しに、誰かのの叫び声が聞こえた。

「グース、もう一度――!」


その声に、蓮は一瞬だけ足を止めた。

けれど、振り向かなかった。


外に出ると、夕陽が沈みかけていた。

金色の光がスタジアムの壁を照らし、

まるで「終わり」を告げるように輝いている。


蓮は目を細め、その光を見上げた。

「――ありがとう」


その一言は、誰にも届かないまま、

風に溶けていった。


数時間後、野中 蓮の退部届は

自動的に受理された。


週明けの朝。


『七星中サッカー部 県大会2連覇おめでとう!』


校舎には中等サッカー部優勝を讃える垂れ幕が

飾られていた。


教室の前の廊下には、整列している生徒達が待っており

教室の教壇に立っている担任は廊下に並ぶよう促していた。


特別全校集会。

蓮を含む生徒達が講堂の中に待っていると、扉が開き

拍手と歓声が波のように押し寄せる。

壇上には、拓真、玲央、そして南――

県大会を制した主力三人が並んでいた。


照明が彼らの額を照らし、

その眩しさが、蓮には少し痛かった。


「これでこそ七星!」

「拓真サンカッケー!」

「玲央先輩、マジ神!」


歓声が広がり、体育館の床が揺れる。

蓮はその中で、静かに両手を叩いた。

その拍手の音は、どこか乾いていた。


壇上の拓真が笑いながらマイクを受け取る。

「えー……ありがとうございます。

俺たちだけじゃなく、みんなの応援があったから勝てました!」


玲央が続く。

「決勝で、俺たちは本気で“チーム”になれたと思います。

この勝利を誇りに、次の目標に進みたいと思います!」


南が一歩前に出て、

「応援してくれたみんなに、感謝してます!」


その瞬間、体育館中が大歓声に包まれた。

蓮は、手を叩きながら視線を落とす。

(……いいチームになったな)

胸の奥が、少しだけ熱くなった。


だが、次に響いたのは予想もしなかった声だった。


「えー……ここで少し、私ごとを話させてください。」


マイクを受け取ったのは、顧問の平井先生だった。

体育館が静まり返る。


「このたび、私・平井は今月いっぱいで退職することになりました。

後任は高等部の榊先生に引き継ぎます。」


「えっ……」「先生!?」

生徒たちがざわめく。

その声を静かに受け止めながら、平井は言葉を選ぶように続けた。


「このチームには、たくさんの才能と努力がありました。

 でも、その中に――一人の生徒がいました。」


体育館の空気が、変わった。

蓮の心臓が、ひとつ脈打つ。


「彼は不器用で、時に孤立もした。

けれど、ボールを追う姿は、どの選手よりもまっすぐでした。

皆から愛されていましたが……ある出来事をきっかけに、彼はチームを去りました。」


生徒たちが顔を見合わせる。

誰もが“誰のことか”を悟っていた。

サッカー部はその誰かは知っていたが、皆は口を噤んだ。


平井はマイクを見つめたまま、

ゆっくりと笑った。


「でも、彼がいなければ――七星はここまで来られなかった。

彼がくれた“気づき”があったから、チームは変わったんです。

私は、七星を誇りに思います。

そして、どんな形でも……“あの子”も、きっと同じ気持ちでしょう。」


沈黙のあと、誰かが手を叩いた。

それが連鎖して、体育館全体に拍手が広がる。

涙ぐむ生徒もいた。


蓮も、その中でゆっくりと手を叩いた。

涙は出なかった。

でも、胸の奥で小さく何かが震えていた。


(……ありがとうございます、先生)


その想いだけを胸に、

蓮はまっすぐ前を見た。


壇上の平井が、少しだけこちらを見て――

静かに、うなずいた気がした。


特別集会から数日後。

蓮は、目覚ましの電子音を耳で聞いているはずなのに、

音がどこか遠い。


布団の中に沈んでいる感覚だった。


(……起きなきゃ。

起きなきゃいけないのは、分かってるのに)


頭はそう言うのに、身体が持ち上がらない。


“朝ランの時間”は、

蓮の身体が最も軽く、呼吸が整う時間帯だったはずだ。


けれどもう、

走る自分の姿が思い浮かばない。


布団の端を掴んで、やっと上半身を持ち上げる。

疲労感というより、“空虚”が重くのしかかっている。


数分かけて、ようやく立ち上がった。


ダイニングに降りると、母が嬉しそうに声をかける。


「おはよう、蓮。

「……おはよう」

「昨日の試合が載っている新聞、買っといたわよ」


返事はできる。

声も出る。

でも心はついてこない。


「今日は食パンね。バター塗ってあるから」


蓮は席に座った途端、

ふっと視界がぼやけた。


食パンの焦げ目も、

湯気も、

香りも、

全部“情報”として認識しているのに──

胸の内側がピクリとも動かない。


(……食べなきゃ)


パンを持つ手は震えてはいない。

ただ、動かない。


「食べないの? 遅れちゃうわよ」


「……うん。いただきます」


一口だけ、口に入れる。

食感はあるのに味がしない。


(……これ、何の味だっけ)


よく噛まずに飲み込んで、

半分残して家を出た。


母が心配しないよう、

「ごちそうさま」とだけ言って。


通学路。

いつもなら走るように歩いていたのに、

今日はゆっくり、地面を数センチずつ踏みしめるように進む。


スマホで音楽を流そうとした瞬間──

アプリの動作が極端に遅くなった。


「……またパケット使いすぎたか」


音楽を諦め、ただ歩く。


風の音も、周囲の会話も、

全部丸くて遠く感じた。


校門。

昨日より検挙されている生徒が多い。


「生徒証、こちらに提示してください」

「申請外の物品を確認。脇のスペースへ」


オタク側の生徒が、

ひとり、またひとりと列に並んでいく。


蓮は歩みを止めずに見ているだけ。


(……またか)


そう思うだけで、

怒りも悲しみも湧いてこない。


代わりに、胸の奥がじんわり痛む。


(俺も……こうして並ぶ側になるのかな

でも……別に、いいや)


危機感がないわけじゃない。

“どうでもよくなり始めている”だけだ。


昇降口を抜けた瞬間、スマホが震えた。


《学内ネットワークに接続しました。

 デバイススキャンを実行します……》


「……はぁ」


呟きすら、息のようだ。


歩きながら画面を見ていると──


「そこの君。 歩きスマホ、危ないよ」


「あ……すみません」


SSは咎めるというより、

“心配しているような目”で蓮を見た。


それすら気づけるのに、

返す感情がない。


教室に入ると、

クラスは珍しく大騒ぎだった。


「演劇部のコンクール、中止になったらしいぞ」

「吹奏楽も負けたって……自由曲、急に変わって間に合わなかったとか」

「共同活動のせいじゃね?」

「サッカーも試合荒れてるって聞いた」


蓮の椅子に座る前で、

クラスの空気だけが熱く渦を巻いていた。


でも蓮だけ、冷たい。


まるで周りだけ夏で、

自分だけ冬にいるような感覚。


怒り

共感

不安

疑問


そのどれも湧いてこない。


ただ、情報として入るだけ。


(……そっか。

いろいろ大変なんだな、みんな)


蓮は席に着き、机に腕を置いた。


少しすると、担任が入ってくる。


「おはよう。席について。……今日は、連絡事項が多いから…」


蓮は顔を上げることはせず、

視界の端だけで担任を見る。


担任の声は聞こえるのに、

心に届かない。


一限目が始まった。


担任「では次、教科書の30ページを開いて──」


蓮は機械的にページを開く。

だが、目は文字を追っているのに、

内容は何ひとつ入ってこなかった。


(……あれ、これ……前にも聞いた気がする)


デジャヴのような感覚。

でも実際はただ“脳が処理を拒否している”だけだった。


黒板のチョーク音が妙に耳につく。

周囲のクスッと笑う声も、

やけに遠い。


隣の席の生徒が何か訊ねた。


「なぁ蓮、この式って──」


「……あ、ごめん。ちょっと考えてた」


嘘だ。

何も考えていない。


ただ、

“思考を始めるエネルギー”が足りないだけ。

自分に言い訳をしながら、授業を聞いていた。


昼休みのチャイム。

クラスの勢いが一気に廊下へ流れ込むように薄れる。


蓮は席に座ったまま、

しばらく動けなかった。


(……食べなきゃいけないのに)

(でも……喉が……)


鞄から弁当を取り出し、

校舎裏へ歩く。


風が強い。

それなのに、寒くも暑くもない。


ベンチに座り、弁当を開く。


「……」


少しだけ箸をつける。

味はしない。


匂いもしない。


胃が動いている気配すらない。

(……後で食べよう。

 たぶん……今日は無理だ)

蓮は弁当を閉じた。


この「後で」が、

「結局食べない」に変わる日々が始まっていた。


チャイムが鳴る。

周囲は帰宅準備や部活に向かうざわめきで満ちていた。


蓮だけが椅子に座ったまま、

しばらく立ち上がれなかった。


(……もう、部室には行かなくていいんだ)


理解はしている。

でも、胸の奥が空洞になったみたいに

ぽっかり穴があいている。


誰も蓮に声をかけない。


拓真も。

玲央も。

誰ひとり。


下駄箱をに出て校門に向かうと、

サッカー部ジャージを着た1年たちがグラウンドから元気に走っていく。


「野中先輩、今日もコーチング──」


声をかけかけて、

1年は口を閉じた。


同じクラスの誰かが小声で言う。


「もう退部したって聞いたよ。

 触れない方がいいって」


声をかけた元後輩は、少し不安そうに見

一礼してグラウンドに戻った。


蓮はうつむきながら小さく笑った。


「……だよな。」


笑ったはずなのに、

口角が上がった感覚がなかった。


「ただいま……」


自宅の玄関の扉を開ける。


「おかえり。今日は焼き魚よ」


「……ありがとう」


2階の自室に入ると、

鞄を静かに置き、机に向かう。


教科書を開く。

ノートを開く。


ペンを持つ。


(……やらないと)


宿題の内容は理解できないまま、

とりあえず文字を書き写す。


“書く”という動作だけをやっている。


問題を読むと、

読んだそばから意味が抜けていく。


(あれ……何書いてるんだっけ)


ペンを止める。


部屋が静かすぎる。

時計の秒針の音が大きい。


(……疲れたな)


深呼吸をする。

でも息が入ってこない。


食卓へ降りる。


「蓮、今日はどうだった?」


「……普通」


「サッカーの先生、退職するって聞いたけど……大丈夫?」


「……うん、大丈夫だよ」


本当は“大丈夫じゃない”。


でも説明する言葉が出てこない。


焼き魚の味がしない。

米の香りもしない。


箸が止まる。


「食欲ないの……?」


「……朝、ちょっと食べすぎたかも」


(嘘だ)


蓮は、

“家族を心配させないこと”だけで精いっぱいだった。


食事はほとんど残した。


風呂に入り、

歯を磨き、

寝る準備をする。


全てが“やらなきゃいけない動作”でしかない。


ベッドに横たわると、

暗闇がすぐに覆う。


天井を見つめたまま、

どれくらい時間が経ったのか分からない。


(……明日も、同じなんだろうな)


心臓の音も、

呼吸の音も、

全部“存在するだけ”。


眠りは浅く、

途中で何度も目が覚めた。


それでも、朝はまた来る。


そして蓮は、また“生きているだけの生活”を始める。


1学期が終わってから数日、校舎は夏の空気で静まり返っている。

蝉の声だけが、やけに威勢がいいだけだ。


蓮は講習教室にいた。

ノートを開いて、鉛筆を持つ。


だが──


(……字が頭に入らない)


書いても書いても、意味が霧の中に消えていく。

先生の声も、黒板の式も、ただ音のかたまりにしか聞こえない。


周囲の生徒は真剣に問題に取り組んでいる。

蓮はその「集中」という現象すら

もう思い出せなかった。


ただ座り、ただ書き、ただ時間が過ぎる。


その“だけ”の世界。


講習のを終え、蓮は廊下へ出る。


ほとんどの生徒は帰宅し、廊下はガランとしていた。

重い足取りで校庭を横切ると──


高等棟の前で、誰かが出てきた。


「……野中くん?」


とても優しい声だった。


蓮が顔を上げると、

白い日傘をさしたともみが立っていた。


生徒会バッジをつけ、

書類を抱え、

汗をぬぐいながら微笑む。


「講習だったんだね。……お疲れさま」


「……はい」


返事はできた。

でも声に温度がなかった。


ともみの微笑みがふっと揺らぐ。

(……やっぱり)


目の焦点。

姿勢。

歩き方。

呼吸の浅さ。

返答の間。


全部がおかしい。


それは、

かつて自分が退部を告げられ、

“世界が灰色に見えていた時”と同じだった。


「少しだけ、話さない?」

ともみの誘いに蓮は頷かないが、

校舎裏の木陰まで、自然に横を歩いた。


「ねぇ、最近……朝はちゃんと食べてる?」

「……食べてます」


ともみは嘘だと気づいた。

それでも、責めない。


「講習、どう? 難しい?」

「……難しい、というか……」


蓮は言葉を探す。

でもうまく掴めない。


「……頭に、全然……入らなくて」

(やっぱり)


ともみは胸が少し痛んだ。


「ちょっと……休んでいかない?」

「……すみません。僕、帰らないと──」


「待って!」

ともみはそっと袖をつまむ。


「……帰す顔じゃないよ、今の野中くん」


蓮は拒まなかった。

拒む気力すらなかった。


二人は、誰もいないベンチに座った。


蝉の声。

遠くのグラウンドの笛。

校舎の影が長く伸びる。


ともみは、無理に笑わせようとも励まそうともせず、

ただ隣に座って同じ景色を見るだけにした。


熱中症対策に配布用で持ち込んだソルティーライチ味の小さな

ペットボトル飲料をともみが開け、蓮に渡す。

蓮は軽く会釈してから静かに飲んだ。


やがて蓮が小さく呟く。


「……サッカー部……ベスト4を通過したそうです」


「うん。聞いたよ。すごいね」


「…けど…“前より強そうに見えない”……って」


「……そうだね。試合の映像を見て、私もそう思う」


「……あんなに……頑張ってたのに……」


蓮の声が震えていた。

ともみは静かに聞く。


「……僕がいない方がいいって……

思われてるのに……」


「野中くん」


「……サッカーのこと考えると……

胸の奥が……空っぽのままで……」


蓮は初めて、

“痛い”とも“悔しい”とも違う感情を口にした。


「……何をしても、何も感じないんです」


ともみは小さく息を呑んだ。


(……ここまで、来てしまったんだね)


誰より早く気づいた。

誰より痛いほど理解してしまった。


それでも、ともみは泣かない。

泣けば蓮をさらに追い詰めてしまうから。


ともみは、そっと蓮の肩に手を置く。


「大丈夫。……少なくとも“私は”見てるから」


「……倉原先輩……」


「消えないで。

ちゃんとここにいて。

お願いだから」


夏の空気の中、

二人の影だけが揺れていた。


別の日の講習授業の昼休み。

校舎裏のベンチに、ひとり座る蓮。

昼食の弁当箱は開けられたまま、箸は動かない。

風に吹かれる髪だけが、生きている証のように揺れていた。


「……野中くん。」


静かな声が響く。振り向かなくても、誰かはわかる。

「……」


ともみは一歩、彼の前に立った。

「野中くん、ちゃんと食べて」

「……」

返事はない。


「野中 蓮!」

その声には、生徒会副会長としての鋭さが滲んでいた。


ゆっくりと蓮が顔を上げる。

焦点の合わない瞳。

「……倉原、先輩。」


かすれた声を残して立ち上がる。

だが足取りは重く、今にも倒れそうだ。


ともみは息を呑む。

弁当箱の中身がほとんど手つかずなのを見て、ようやく理解した。

(この子、何日もまともに食べてない……)


蓮は無言で弁当を片付け始め、その場を去ろうとした。

「待って!」

思わず腕を掴んだ。


「自分は、オタク側の人間です」

蓮の声は淡々としていて、まるで録音された音のようだった。

「話すことはありません」


「……なら、生徒会権限であなたを保健室に連れて行くわ」

「……好きにしてください」


その返答に、ともみは唇を噛み、静かにスマホを取り出し

SSのメンバーを呼び出した。


「副会長、どうされました」

「この子、体調不良よ。保健室まで運んで」


「了解しました」


「しっかりしろ!」

「大丈夫だ、今の俺たちは敵じゃない…」

SSに挟まれても、蓮は抵抗しなかった。

ただ、操り人形のように静かに引かれていく。

ともみは後ろを歩きながら、心の中で何度も呟いていた。


(……大丈夫。今度は、絶対に放さないから)


保健室のカーテンが静かに揺れていた。

窓の外では、夏の日差しがカーテン越しに淡く差し込んでいる。


蓮はベッドの上でうつろな目をして天井を見つめていた。

シャツの袖口には少し埃がつき、髪は乱れたまま。

それでも彼はSSの問いかけに「大丈夫です」と独り言のように言い張ったまま、

ベッドの上で呟く。


数分後、ともみは保健室に入り、看護教員に午後授業の欠席届を渡す。

仕切りカーテンの向こうには、横たわる蓮と、2人のSS生徒。

「あとは、私が引き継ぎます」


SSを見届けた後ともみは椅子に腰を下ろし、そっと買ってきた袋を開ける。

中には栄養ゼリー、スポーツドリンク、そして使い捨ての汗拭きウェットティッシュ。

「ほら、飲んで。少しでいいから」


「……いりません」

蓮の声は細く、乾いていた。


「飲まないなら、家まで連れて帰ることになるけど?」

「……脅しですか」

「脅しじゃない。……心配、してるの」


静寂。

時計の針の音だけが、二人の間に落ちる。


ともみはため息をつき、蓮の隣に座った。

そして、キャップを開けて栄養ゼリーを差し出す。

「……お願い。これだけでも、口にして」


蓮は迷いながらも、ゆっくり手を伸ばした。

震える指先が、彼女の指に少し触れた。

その一瞬に、ともみの心臓が強く跳ねる。


「……ありがとうございます…いただきます」

蓮が小さく呟き、ゼリーを飲む。

ともみは胸をなでおろす。


「先輩、午後の授業は………?」

「全部、私が処理しておいたわ。

『体調不良者の看護のため、欠席』扱いにした。

……文句言う人がいても、私が責任取るから」


「……そんなこと、してまで」

「してまで、よ」


ともみは少し笑った。

けれど、その笑顔の奥には深い痛みが滲んでいる。


「……野中くん。

あなたがここで止まったら、誰も“本当のあなた”を知らないままになるの。

……それが、悔しいのよ」


蓮の目が、わずかに揺れた。

言葉を探すように口を開くが、声にならない。


ともみは、ゆっくり彼の手を取った。

温度が伝わる。氷のように冷たかったその手に、自分の熱が滲んでいく。


「ねぇ……お願い。

もう少しだけ、生きてみて」


蓮は目を閉じ、唇を噛んだ。

頬を伝う雫が、枕に落ちる。


ともみは何も言わず、その涙を見届けた。

彼女の瞳にも光がにじむ。


「……ありがとう」

彼女は小さく呟いた。

それは、彼に向けた言葉でもあり、

“まだ死なないでいてくれたこと”への祈りでもあった。


生徒達の話し声が次第に強くなる放課後。

校舎の窓から差し込む夕陽が、長い影を作っていた。


保健室のベッドで、蓮は安らかな顔で眠っている。

少しだけ色を取り戻した顔。

傍らのテーブルには、空になった栄養ゼリーのパウチが置かれている。


ともみは椅子に座ったまま、彼の寝顔を見つめていた。

穏やかな寝息。

「こうしてみると、かわいいくて、かっこいい」

――ほんの数時間前まで、

この子の心は生きることさえ拒んでいたのに。


「……やっぱり、放っておけないよ」

小さく呟くと、彼女は静かに立ち上がった。


カーテンを整え、制服の袖を直す。

ふと見れば、窓の外はオレンジと群青のあいだ。

夕陽が差すその光が、彼女の頬を柔らかく照らした。


廊下へ出る前、ともみはもう一度振り返る。

ベッドの上で眠る蓮の姿を見つめ、

胸の奥が締めつけられる。


(どうして、こんなにも……)

(誰よりも不器用で、誰よりもまっすぐで……放っておけないのよ)


誰もいない廊下。

足音が静かに響く。


階段の手前で立ち止まり、彼女はそっと目を閉じた。

そして、誰にも聞こえない声で呟く。


「…やっぱり…好きだよ、野中くん。」


言葉が、夕陽の中に溶けて消えた。


その頃、保健室の中。

眠っていたはずの蓮の指先が、わずかに動いた。

まるで、遠い夢の中で誰かの声を追うように。


ともみの姿はもうなかった。

残されたのは、

ベッドの上に置かれた小さなメモだけ。


“元気が出たら、お昼休みいつもの場所に待ってます。”


蓮は、ゆっくりとその文字を見つめた。

どこかで、心の奥に小さな光が灯るのを感じながら。


数時間後、蓮の母親が保健室に向かい、一緒に帰った。


数日後

校舎裏のベンチ。

日差しは柔らかいのに、空気は冷たい。

蓮はぼんやりと桜の葉を見つめていた。

サッカー部のユニフォームはもうない。

胸元にかかる風が、やけに軽く感じた。


「……来てくれたのね」


穏やかな声。

振り返ると、倉原ともみが立っていた。

手にはマイバッグ――中にはパンとお茶が入っている。


「サボりですか?」

「どの口がいってる?…副会長の特権よ」

そう言って、彼女は蓮の隣に腰を下ろした。


二人の間に沈黙。

ただ、風と鳥の声だけが通り抜けていく。


「……また、食べてないでしょ」

ともみは紙袋からパンを取り出し、差し出す。

蓮は一瞬ためらったが、ゆっくりと受け取った。

「……ありがとうございます」

「それだけでもいいの」


少し間をおいて、ともみが静かに言った。

「ねぇ、野中くん。

あのとき……退部、止めてほしかった?」


蓮は俯いた。

風が髪を揺らす。


「……わかりません。

もう、怖かったんです。

誰かと笑って、ボールを追うことも、

“仲間”って言葉も。

全部、嘘みたいで……」


「……そう」

ともみは小さく頷く。


「でもね、あの日のあなたは、確かに“仲間”だったわ。

あの姿を見たとき、私、初めて“人を尊敬する”って気持ちを知ったの。

だから、どうしても言いたかった」


蓮は顔を上げた。

ともみの目が、まっすぐに彼を射抜く。

少し震えながら、それでもはっきりと言った。


「――好きです、野中くん。

あなたがもう一度歩けるなら、私はその理由になりたい」


風が止まった。

校舎裏の静寂に、心臓の鼓動だけが響く。


蓮はしばらく黙っていた。

そして、かすかな声で言う。


「……倉原先輩。

本当に、ありがとうございます。

でも……俺は、もう誰の想いにも応えられないんです」


ともみの笑みが、痛みに変わった。

それでも、涙は見せない。

彼女は立ち上がり、制服のスカートを整えた。


「……ううん。

それでもいいの。

あなたが、生きていてくれるなら」


そして、振り返らずに去っていった。

彼女の背中が夕陽に溶けていく。


校舎の陰に、一人の少女がいた。

佐藤涼子。

手に持つ封筒には、“野中蓮へ”とだけ書かれている。


「……やっぱり、遅かったんだ」


彼女は笑おうとしたが、声が震えていた。

指先が冷たい。

手紙を強く握りしめたまま、

視界が滲む。


「ごめん…ごめんね…

こんなになるまで…気づけなくて…」


ぽとりと、涙が地面に落ち続けた。


涼子は何も言わずに背を向けた。

通り過ぎる風が、泣き顔を撫でていく。


空には、雲一つない夏の青。

だけど、その色はやけに遠く感じた。


夏休みの午前九時過ぎ。

蝉の声はやたらとうるさいのに、蓮の部屋だけは、どこか時間が止まったように静かだった。


机の上には、夏休みのワークブックが広げたまま。

ノートの文字も、まっすぐではなく少し揺れている。

集中しているわけではない。ただ、手を動かしているだけ。


(……終わらせなきゃ)


義務感だけでシャープペンを握り、ページを進める。

頭には何も入ってこない。

“解けた”という手応えもない。


ただ、宿題を片づける自分を演じているだけだった。


サッカーを辞めてから、朝ランはなくなった。

夜も遅くまで起きているのに、寝起きはどこかぼんやりしている。

母に声をかけられれば返事はするが、それ以上の会話は続かない。


まるで“心の芯”みたいなものだけが、夏の熱気の中で抜け落ちていた。


(……ん?)


ふと視界の端に、白い封筒が見えた。

机の左端に、ずっと置きっぱなしになっていたもの。


「千束大学附属高等学校 体験入学のご案内」


読み上げるほどの気力もなく、蓮は指先で封筒をつまむ。

中身は薄いパンフレットとQRコードのついた案内。


(……そういえば、もらってたな)


七星が誇る“対抗校”の一つ。

玲央や拓真の知り合いも多い。

サッカー部の強豪校でもある。


だがいまの蓮にとって、それは眩しすぎる世界だった。


(でも……行ってみるだけなら)


蓮はタブレットを起動し、案内にあったQRコードを読み込む。

サイトのデザインは七星とは違い、どこか柔らかく開放的だった。

「部活動体験」

「キャンパスツアー」

「授業体験」

「個別相談」


どれも、七星で失われつつある“自由”を思わせる文字だった。


入力フォームに名前を打ちながら、蓮はぼんやり思う。


(……こんなに簡単に申し込めるんだ)


七星の体験行事といえば、

申請、審査、学生証、デジタル承認……

とにかく手続きばかりだ。


千束のフォームは、わずか数分で終わった。


階下へ降りると、母が昼食の準備をしていた。


「どうしたの、蓮?」


「……あの。

千束大附属高の体験入学、行ってこようと思って」


母の動きが一瞬止まる。

だがすぐに、優しい声を返した。


「うん。いいんじゃない?

夏休みだし、外の学校を見るのも大事よ」


蓮はうなずく。

母は“異変”に気づいている。

けれど深く踏み込もうとはしない。

蓮が壊れないように、そっと距離を置いて見守ってくれているのだとわかる。


「明日行ってくる」


「飲み物だけはちゃんと持っていきなさいね」


「……うん」


その返事だけで、会話は途切れた。


翌朝五時。

外は早くも熱気をまとい始めていた。


蓮はアラームより少し前に目が覚めた。

朝ランはもうしていない。

だが、体験入学へ行くための“最低限の緊張”が、蓮を起こしたのかもしれない。


顔を洗い、制服に似た私服を選び、最低限の身だしなみを整える。


鏡に映る自分は、以前より少し頬がこけていた。

目の下もうっすらと青い。


(……こんな顔で行くのか)


そう思っても、戻す元気はない。


家を出ると、朝の風が頬を撫でた。

七星へ向かう時とは別の方向──

千束大附属高校の最寄り駅へ。


(……どんな学校なんだろう)


期待でも不安でもなく、

ただ“わからない感情”が胸に小さく溜まっていく。


蓮の手には、母が持たせてくれた冷たいペットボトルがあった。

それだけが、いまの蓮にとって“唯一の安心”だった。


バスが停留所に滑り込むと、蓮は、人の波に押されるように降りた。

七星のある郊外とはまったく景色が違う。

高いビル、分厚い道路、地下鉄の流れる音。

夏の朝なのに、あたりは妙に涼しい。


人が多い分、空気に流れがあった。


(……東京、ってこうなんだ)


そこから徒歩数分。

千束大学附属高の正門が現れた。


七星の無機質な門とは対照的な、明るく開放感のある造り。

校章の周りには、オープンキャンパス用の立て看板がいくつも並んでいる。


「ようこそ、千束大附属へ!」


ボランティアの生徒らしき先輩が笑顔でパンフレットを配っていた。


蓮は反射的に背筋を伸ばす。

誰も怒鳴らない。

誰も睨まない。

学生証をかざす必要もない。


ただ「来てくれてありがとう」と言わんばかりの空気が、校門の内側に満ちていた。


(……なんか、違うな)


七星とは、あまりにも。


胸の奥に、少し痛みのような戸惑いが生まれる。


受付を済ませると、蓮はツアー班に振り分けられた。

付き添うのは、三年生の女子。

よく通る声で、


「はい、それじゃ最初は特別教室エリアから行きまーす」


と軽やかに案内を始める。


歩く速度は早いのに、声は優しい。

彼女を中心に、周りが自然とついていく。


(……七星の生徒会とは違う)


七星の案内といえば、

常に“監視されている”ような緊張感が漂っていた。

導線も決められ、自由に動けることはほぼない。


だが千束は──

図書館、音楽室、講義室……

どの教室にも「どうぞ入って見てください」と書かれた紙が貼られていた。


自由の空気があった。


音楽室では、吹奏楽部らしき生徒が体験参加者にレクチャーしていた。

緊張している中学生に対して、


「うまいうまい!指が綺麗に回ってるよ」


と笑って褒めている。


廊下を歩くたび、すれ違う生徒が「おはようございます」と自然に挨拶してくれる。

それが機械的ではなく、ほんのりと温かい。


蓮は反射的に頭を下げる。


(……なんだろ)


胸の中がざわついた。


七星では、こんな空気、感じたことがない。


どこにいても“階層”があった。

どこでも誰かの視線を気にしていた。

誤魔化した笑顔も、強がりも、役割も、全部必要だった。


ここには“肩の力”を抜いて立っていられる空気があった。


それだけで、蓮は疲れそうになる。


(……俺、こんな場所にいていいのかな)


そんな考えが自然と浮かぶほどに、

蓮は“七星の空気”に毒されていた。


「はーい、これで校内ツアーは以上です!

この後は自由参加の体験授業と、部活動体験がありまーす」


案内役の先輩がそう言うと、いくつかのグループが分かれ始めた。


蓮は手元のパンフに目を落とす。

「サッカー部体験」は人工芝グラウンド。


(……行くだけ、行ってみるか)


足が自然とそちらに向かう。

あの場所には、たぶん──


千束には柿崎や七瀬がいる。

玲央と拓真の“東京側の仲間”たちが。


そして、

蓮が一度も手に入れられなかった

“当たり前のサッカーの空気”があるかもしれない。


門をくぐったときより、ほんの少しだけ歩幅が広くなる。


蓮は人工芝の匂いが漂うグラウンドへ向かった。


スパイクを借り、ウォーミングアップの列に混ざりながら、

蓮は“久しぶり”の緊張に喉が乾いていた。


(……ボール、触るの久々だな)


身体は重い。

走れないわけじゃないけど、

「自分の身体なのに動かし方を忘れてる」感覚。


そんな蓮を見て、

千束高サッカー部の監督が柔らかく声をかけた。


「緊張してるか? 体験の子は怪我しないように、無理すんなよ」


七星とは違う“優しさ”があった。


蓮は小さくうなずく。


千束の部員たちは、明らかに“のびのび”している。


声を出す。

笑う。

ミスしても責めない。

プレーを褒め合う。


蓮はその雰囲気に少し困惑した。


(……なんか、自由だ)


数本走り、ボール回しの列が回ってきた。


蓮の足元にボールが来る。


トラップ──

自分でも驚くほど“自然に”止まった。


スパッ

ボールが芝を滑る音。

周囲の千束生が軽く歓声を上げた。


「あ、上手いじゃん!」「トラップきれい!」


蓮は一瞬だけ、胸が熱くなった。


(……サッカー、まだ……嫌いじゃないんだ)


でもその感情を、すぐ押し込める。

“七星”が脳裏をよぎってしまうから。


監督「体験の子も1回ずつ入れよう。無理はさせないから」


蓮は右MFとして途中出場。


味方の声。

スペースの指示。

パスのテンポ。


すべてが七星と違った。


─七星では

上級生の顔色を伺い、

オタク側のミスは嘲笑され、

技術より“ステータス”が優先された。


─千束では

蓮がボールを持つたび、

「ナイス!」

「いい判断!」

「下げてもいいぞ!」

味方が声をかけ続けた。


その優しさが逆に胸に刺さる。


(……なんで、こんなに違うんだ)


蓮は一度だけ、涙がこみ上げそうになるのを

ぐっと堪えた。


配られた水を飲みながら深呼吸していると──


「……やっぱりお前、野中(グース)だよな?」


背後から声。


振り返った蓮は、

本気で言葉を失った。


「……小野寺、先輩?」


蓮が中2の終わりに“突然消えた”と言われていた先輩。

噂では転校。

真相は誰も知らなかった。


小野寺は笑いながら近づいてきた。


「久しぶり。いや〜、お前変わったな。

でもボールタッチ見たらすぐ分かったよ」


「……俺のこと、覚えてたんですか」


「当たり前だろ。

あの頃、お前……誰よりも一生懸命だったからな。」


蓮は俯く。

七星にいた頃の自分が遠く感じる。


小野寺は水を飲みながら、遠くの夕空を見た。


「……なぁ"グース"。

七星、今どうなってる?」


蓮は嘘をつけなかった。


「……押田会長になってから、監視体制が強くなって。

俺みたいなのは……居場所がないです。

先日、サッカー部を辞めました。」


小野寺は、あの時と同じ苦い顔をした。


「やっぱりか。俺はイケメン側とはいえ、息苦しかった。」


沈黙。

風が芝を揺らす。


小野寺は蓮の肩を軽く叩いた。


「蓮。

“逃げる”ってな、負けじゃないぞ。」


蓮、目を伏せる。


「俺が逃げた時、

七星の一部のやつからは笑われたし、陰で「裏切り者」って言われたし……

でもな、千束に来て分かった。

世界って、七星よりずっと広い。

あんな檻みたいな場所だけが全部じゃない。」


蓮の胸に静かに刺さる言葉。


(檻……)


──自分は、檻にいたのか。


小野寺は少し照れながら言う。


「なぁ、蓮。

もし……サッカー、嫌いになってないんならさ」


蓮は小さく目を開く。


「……千束に来てみないか?」


風が止まったように感じた。


「……俺なんかが…ですか?」


「何言ってんだよ。

お前が“あの七星”でバランサーやって全国制覇したって聞いた時、

めちゃくちゃ驚いたんだから。」

「……」

彼は少し顔を赤らめた。


「お前は“壊れていい”人じゃねぇよ。

外に出たら分かる。

七星の外には……普通の世界があるから。」


蓮は返事ができなかった。


──喉の奥が熱い。

──声にしたら泣いてしまう。


ただ、ゆっくりと頭を下げた。


「……来てよかったです。」


小野寺は満足そうに笑い、

夕空に向かって伸びをした。


「またいつでも来なよ。蓮の席なら、空けとくからさ。」


蓮は、その言葉を強く胸に抱き締めた。


夕方。

靴を脱いでリビングに入った瞬間、蓮の肩がふっと落ちた。


「おかえり、蓮。どうだった? 千束の体験」


蓮は靴下を脱ぎながら、いつもの小さな声で答えた。


「……うん。

すごく、良かった。みんな優しくて……

監督も、ちゃんと名前呼んでくれて……

先輩にも、再会して……」


母は嬉しそうに笑う。


「よかったじゃない。

あんたが“笑ってる声”、久しぶりに聞いたよ。」


蓮は俯き、胸が痛んだ。


(……千束に行けば、きっと違う世界がある。

七星みたいに、誰かが傷つくこともない。

俺のことを“人”として扱ってくれる場所……)


夕飯を食べたが、味はよく分からなかった。


机に向かうが、筆記用具が重い。


(……俺、七星に戻って、耐えられるのか?)


千束のグラウンドで感じた温かさが、胸を締め付ける。


(でも……)


蓮はスマホのホーム画面を開く。


最上段には──

拓真/玲央/涼子 の名前。


(……あの人たちと、まだ学校を続けたい気持ちもある)


でも同時に胸の奥に広がるのは、

嘘、陰口、SS、そして押田会長の政策……。


蓮はベッドに倒れ込んだ。


目を閉じると、千束の小野寺先輩の言葉が蘇る。


『蓮。“逃げる”って負けじゃないぞ』


(……逃げたい。

 本当は、あそこに行きたい。

 でも……)


枕元に置いた“七星の心構え”が、蓮の目に入った。

蓮はそっと手に取る。


ページをめくりながら思う。


(……俺がいなくても、拓真は……玲央は……どうなるんだろう)


胸の奥で、微かにくすぶっている。


「誰かを置いて逃げたくない」

「せめて、最後まで自分の役目を……」


そういう“責任感”のようなもの。


蓮はまだ幼い。

でも幼いなりの“誠実さ”があった。


布団の中。

天井を見つめながら、蓮はそっと呟く。


「……俺、どうしたらいいんだろう」


答えは出ない。


ただ、


千束に行けば救われる。

七星に残れば、理不尽に扱われても誰かの役に立てる。


その狭間で揺れ続けた。


目を閉じる前、蓮は思った。


(……もう少しだけ。

ほんの少しだけ……信じてみよう。

七星が変わるって……)


自分でも気づかないほど小さな声で。


週明け教室の扉を開けた瞬間、空気がざわついていた。


「中等サッカー部……全国ベスト4で終わったらしいぞ」

「うん……準優勝逃して、三決(3位決定戦)へ行ったって……」

「試合、見たけどさ……なんかバラバラっていうか……」

「分かる。連携というより“個”が暴走してる感じだった」


聞こえてくる声は“批判”ではなく、

純粋な「疑問」と「落胆」。

蓮は席に着きつつ、胸が少しざわついた。

(……拓真たち、どうしたんだ……?

 何か……起きたのか……?)


息を吸い、久しぶりに“自発的な動き”をしてみる。

蓮は机にスマホを置き、

学校公式アプリを開いた。


――更新情報:なし。

――部活成績レポート:準決勝敗退の見出しだけ。


(……何も書いてない)

ただの表面的な結果だけ。

原因や戦術の変化、監督コメントも、どこにもない。


(……こんなの、七星じゃない)

蓮はゆっくりアプリを閉じた。

胸の奥で、小さな違和感が芽を出す。


(……知りたい。

どうして負けたのか……)

その“知りたい”という感情は、

蓮にとって久しぶりの“生の衝動”だった。


休み時間。

蓮はイヤホンを耳に差し、動画サイトで

「全国中体連サッカー 準決勝 七星 vs 日生学院附属中」

を探す。

アップされていた観客動画を再生した瞬間、

胸の奥が冷たくなった。


七星の動きは、確かに速い。

個の技術も高い。

……だが。

連携が、まったくない。

誰がどう動くかの“共通認識”がない。

ただ走り、ただ蹴り、ただ叫び、ただ苛立っている。

後藤と南は懸命に走っていたが、

明らかに指示がバラバラ。

湯田と1年の何人かは……距離を取って、様子だけを伺っている。

蓮は息を呑む。

(……俺がいないからとか、そういうことじゃなくて……

“チームとして成立してない”……)

さらに映像は衝撃を映し出した。


2年DFが報復で相手を押し倒し、一発退場。

高等部のコーチとして兼任で帯同した榊先生が

審判に詰め寄り、警告を受けてベンチに下げられる。

観客のざわめきが広がった。


「七星、どうしちまったんだよ……」

「あれじゃ勝てるわけ……」

蓮は再生を止めた。

胸が締め付けられた。


(……これが……今の七星……?)

イヤホンを外した手が震える。

でも、その震えは“恐怖”ではなかった。

──“悔しさ”だった。


久しぶりに、蓮の背中に熱が灯る。

(……俺がいなくても勝てるって思ってた。

でも……違うんだ)

(みんな……苦しんでたんだ……)

(玲央も……拓真も……後藤も……南も……湯田も……)


蓮は静かに息を吸い、

心の深いところにある“黒い霧”が少しだけ晴れるのを感じた。

(……戻りたいわけじゃない。

でも、逃げてばかりじゃ……ダメだ)

(少なくとも……あの人たちを、見捨てるのは……)


胸の内でひとつだけ、

確かな感情が芽生えた。

ー放っておけないー


チャイムが鳴った。

「それでは内部進学向け特別授業を始めます。

今日は数学の連立方程式について──」

授業が始まると、蓮はペンを握る。

(……戻りたいとかじゃない。

 でも……いつか、立ち向かえるように……)

(そのために……勉強くらいは、ちゃんとしよう)

久しぶりに、蓮は

ノートに文字を書く“意思”を持てた。

それだけで、ほんの少しだけ“生きている感覚”が戻る。


授業が終わる瞬間、

蓮はノートを閉じた。

ページは見事に埋まっていた。

以前の蓮なら、考えられないことだった。

(……よかった)

(……今日だけでも、進めた)

蓮は胸の奥に、

ほんの少しだけ“生き返る感覚”を覚えていた。


放課後。

廊下を歩く生徒たちの会話が、蓮の耳に届いた。


「なんか今回、生徒会の雰囲気おかしくない?」

「押田会長、最近見ないよね」

「3位って……去年は優勝だったのに」

「会長の"再構成"って、本当に意味あったのかな」


蓮は足を止めず、そのまま通り過ぎる。

でも、その言葉は胸の奥に引っかかった。


(……何かが、動き始めてる)


全国3位のニュースが広がって二日後。


特別講習の昼休みの廊下は、いつもよりざわついていた。


「押田会長、なんかやらかしたの?」

「副会長の倉原先輩が走り回ってたぞ……」


きっかけは深夜に投稿された生徒会室での「不適切な行為」を

撮影した動画だった。

投稿はAIの判断によって削除されたが、

その間に拡散されたことで、噂は加速度的に

生徒全体へ広がっていた。


その中心にいるのは、

もちろん生徒会役員の倉原ともみだ。


書類を抱え、何度も職員室と生徒会室を往復しながら、

指示を飛ばし、状況を整理し、

押田のフォローに回る役職者たちとぶつかりながら動き続けていた。


そんな中、

たまたま廊下の角で――蓮とすれ違った。


ほんの一瞬。

逃げようとしていた蓮の足が、彼女の呼び声で止まる。


「……野中くん」


蓮はゆっくりと振り返る。

「……はい」


ともみは胸に抱えた書類を少し持ち直し、息を整え、

それでも疲れを隠さずに、しかし真っ直ぐな瞳で彼を見つめた。


「投稿されたポストで生徒会……すごく荒れてる。

 あなたにまで何かが飛び火しないように、

 私が必ず……止めるから」


蓮の目がわずかに揺れた。

言葉の意味が、すぐには理解できない。

でも、それが"自分のため"の言葉だとだけは分かった。


ともみの声は、走り回って出来た汗と疲労を含んでいるのに、

どこか真っ直ぐで、美しかった。


蓮は小さく息を吐き、

無表情に見える目の奥で、ほんの少しだけ色が戻る。


「……ありがとうございます」


それだけを返すと、蓮は歩き出した。

ともみも振り返らずに走り去る。


互いの背中を、振り返らなかった。


だが――


その"数十秒の会話"が、

蓮の心のどこかに小さな灯をともした。


---


2学期初日の朝。

いつもより早く登校した生徒たちが、昇降口の掲示板の前で立ち止まっていた。


「……マジで?」

「押田会長が……」


蓮も足を止め、掲示板を見上げた。

白い紙に、黒い文字。


---


《生徒会長交代のお知らせ》


前生徒会長・押田 司は一身上の都合により

転校することとなりました。


これに伴い、新体制を以下の通りとします。


生徒会長:倉原 ともみ(高等部1年)

副会長:山本 結衣(高等部1年)


今後とも、生徒会活動へのご理解とご協力を

よろしくお願いいたします。


理事長


---


周囲がざわついた。


「えっ、押田会長が転校?」

「一身上の都合って……」

「何があったんだろう」

「倉原先輩が会長? 1年生なのに?」

「山本先輩も副会長って……異例すぎる」


蓮はその紙をじっと見つめた。


(……押田会長が、いなくなった)


詳しいことは誰も知らない。

公式発表は「転校」のみ。


でも、廊下で聞いた噂――

「内部文書の流出」

「不正」

「生徒会が荒れてる」


それらが、この結果に繋がったのだと、

蓮にも何となく分かった。


(……ともみさんが、会長に)


掲示板から離れる。

朝の光が差し込む廊下を歩きながら、

蓮は小さく呟いた。


「……変わるのかな、七星」


始業式。


体育館に全校生徒が集まった。

壇上には、新しい生徒会役員たち。


そして中央に立つのは――倉原ともみ。


校長の挨拶と生活指導の先生の話の後、マイクを握る。

彼女の声は、少し緊張しているように聞こえた。

でも、確かな意志が込められていた。


「……2学期から、生徒会長を務めます、倉原 ともみです

掲示板に貼り出せている通り、前生徒会長の押田 司は

一身上の都合により、転校となりました。」


沈黙と静寂。

その中で、ともみは一度深呼吸をしてから続けた。


「前会長の方針を見直し、

 より良い学園を目指します。


 まず第一に、一部生徒に課された

 『施設使用制限』を全面的に解除します。


 屋上、図書館、音楽室など、

 すべての生徒が平等に使用できるようにします」


体育館がざわついた。


オタク側の生徒たちが、信じられないという顔で顔を見合わせる。

イケメン側の一部は、不満そうに眉をひそめた。


ともみは怯むことなく続けた。


「加えて、共同活動をはじめとする各制度の見直しも行います。

前会長と同様、暴力的な指導は一切認めません。

すべての活動が、安全に活動できる環境を整えるため、一定期間

SSの監視を強化し、問題行動については対処していきます。」


蓮は、体育館の後方で静かに聞いていた。


(……本当に、変わるんだ)


胸の奥で、何かが動く。

それは希望なのか、それとも疑いなのか。

まだ分からない。


でも――


ともみの真っ直ぐな瞳を思い出す。

「あなたにまで何かが飛び火しないように」


あの言葉は、嘘じゃなかった。


拍手が再び起こる。

蓮も、小さく手を叩いた。


午前授業を終え、久しぶりに食堂に向かう蓮

食堂前の廊下は、いつもより少し騒がしかった。

「……聞いた?」

「え、なにが?」

「サッカー部。東條、辞めたってよ」

「マジ? だって全国3位だろ? なんで?」

「拓真と喧嘩になったらしい。“方向性の違い”だってさ」

「いやいや、バンドじゃないんだから……」

「でも、あの2人レベルで揉めたら終わりだろ」


その言葉に蓮は足を止めた。


(……玲央?)


胸がきゅっと締め付けられる。

けれど“噂だ”と言い聞かせて、食堂と反対方向へ歩こうとしたその時――


「――本当だよ」


蓮のすぐ背後で、低い声がした。


振り返ると、拓真だった。

額にかかった髪を乱暴にかき上げて、少し疲れた顔をしている。


「……拓真。ほんとに……玲央、辞めたの?」


拓真は短く息を吐き、視線を逸らした。


「……悪い。俺のせいだ」


「え?」


「違う、言い方が悪いな。

 “誰が悪い”って話じゃないんだ。

 方向性がズレた。“マーベリック”と“アイスマン”の間でな」


「……」


どんな言葉を返せばいいのかわからなかった。

全国で肩を並べて戦った3人の姿が、脳裏に浮かぶ。


「玲央は……多分もう戻らねぇよ。

 なら、俺がやるしかねぇんだよ。キャプテン」


その言葉に、蓮は確信する。


(……噂じゃない)


あの玲央が、退部した。


自分とは違う理由。

けれど、蓮の胸の奥に小さな痛みが広がる。


(……また、いなくなったんだ)


あの日の自分のように。

いや、それよりもずっと深い何かを抱えて。


拓真は気づいたように蓮の肩を軽く叩いた。


「……気にすんな。お前のせいじゃねぇし、

 玲央(アイツ)だって……お前の前じゃ絶対そんな顔しねぇよ」


「拓真は……平気なの?」


拓真は無言で笑った。

だが、その笑みは痛々しかった。


「平気じゃねぇよ。

 でもな、“グース”が走り出したんだ。

 “マーベリック”まで止まってられるかよ」


その言葉が、蓮の胸に静かに刺さった。


拓真は手を振って去りながら言った。


「蓮。……今日、朝ランしたろ?」


蓮は目を丸くした。


「なんで……」


「お前、走る後の顔してるわ。

 俺が一番長く見てんだから当然だろ」


振り返らずに去っていく背中。

その背中は、玲央を失ってもなお、

ひとりで前に進もうとしていた。


蓮は思う。


(……拓真は強いな)


同時に――


(俺も……少しずつでいいから、前へ進まなきゃ)


胸の奥で静かに、小さく、確かに灯りが揺れた。


放課後

いつものように下校する途中1年の中野と相澤が蓮を呼び止めた


「お久しぶりです、野中先輩」

「どうした? 部活は?」

「今日は、休みっすよ」

「…そういえば、そうだったな」


ぎこちない会話の後、少しの沈黙が流れる


「あの…こう言うのもなんですが…」

「その…サッカー部に、戻ってくれませんか」


蓮は、玲央の退部について察してたが、あえて聞かなかった。


「そっか…近くのコーヒショップにでも行こうか。奢るよ」

「でも…」

「サッカー部が今どうしてるか、知りたかったし…」


蓮と1年二人は少し離れた落ち着いた喫茶店に入った。


「野中先輩は、いつもここで行くんですか」

「たまに…ね」

店員が差し出すホットのブレンドコーヒが香りが漂う中

沈黙を破ったのは、中野だった。


「全国、3位になったのは…知ってますよね」

「うん、よく頑張ったと思うよ。ものすごいプレッシャーだったと思うし」

「あの試合、2位に行けたはずだったんです」


中野が怒りと悔しさを滲ませていたが、蓮は冷静だった。


「…榊先生が、全部を変えてしまった」


二人は静かに頷いた。蓮は「そうか」と言い、静かに少し冷めたコーヒーを飲む。

それを追うかのように慌てて二人も飲む。


「最初は玲央先輩が指導していたんですが、榊先生はものすごく怒ってました

「泥臭すぎる。日本代表になるものがそれでいいのか」と言われ、かなりメニューを

変えられてしまいました」

「先生の目を盗んで自主練とかもしたけど、それもバレて…」

「オーバワークになったとか…」

「いえ、玲央先輩のメニューをベースにこなしたんですけど…先生はどうしてもそれが

気に入らなかったみたいで…」


あの親善試合で分かったことがある。榊先生は、手柄欲しさのあまり、日本代表選手を見て表面的な

試合風景しか見ておらず、思想や戦略などは考えていない。だから、「魅せる」ことにこだわっていた。

その裏での努力などは「泥臭い」と吐き捨てたのだろう。

蓮は、彼が指導した高等サッカー部が少しかわいそうに感じた。


「一番ひどかったのは、全国大会に入った頃からです。試合が始まる前から罵詈雑言で、

駒を進めても『美しくない。ゴミのような試合だ』とか

『それでよくも去年制覇できたもんだ…教育省に示しがつかない』とか…

自分のことばかりで…」


一通り彼らの話を聞き、蓮は結論づけた


「それで玲央が堪忍袋の緒が切れて、退部した…と」

「実際は噂とかと少し違いますが…そんな感じです。それも、全国3位が決まった控室のことでした。」



全国3位が決まり、消沈気味するサッカー部員たち。だが、榊先生は励ますどころか怒りを部員にぶちまけた

「どういうつもりだ!高等部に次いで中等部も制覇できないだと!ここに居るのは能無しばかりだ!

先輩方に自分の不甲斐なさ、親に自分が今生きていることに申し訳ないと思わないのか!あぁ!」


部員が困惑し、泣き出す者も現れる中、玲央は静かに先生に近づく

「なんだ…文句か、反抗か…それとも、殴るか」

「どちらでもありません。いや、その価値すらありません」

退部届を提出し、榊先生の血を昇らせた。

「貴様…なぜだ?」

「このチームに未来はない。無駄な時間を過ごすつもりはありません」

「玲央、てめぇ!貴様の退部など、俺が認めんぞ」


榊先生は今でも殴りにかかりそうな態度だが、玲央は冷徹だった。

「退部届をこの場で破り捨てても構いませんが、私は「特別参与」です」

「だからなんだ、先生である俺に楯突くのか」

「「生徒会権限」を行使して、まもなく退部が受理されます。それと…榊先生も今日付で

顧問ではなくなっています。」

今度は玲央が榊先生の顔に近づき、小声で囁いた。

「テメェの悪事はとっくに知ってんだ。明日あたりにサツが来るから、覚悟しておけ」


玲央は、カバンとジャンパーを取り出し、振り返らず去る

それを追うかのように一人、また一人が控室を去り、榊先生だけが残っていた。



夕暮れ。

喫茶店からの帰り道は、ひぐらしの鳴き声が少し弱まり始めた初秋の気配が漂っていた。


「ただいま……」


蓮の声はわずかに掠れていたが、以前のように“無表情の義務”ではなく、

ほんの少しだけ柔らかさが戻っていた。


キッチンから母の声がする。


「おかえり。すぐご飯できるから、手洗っておいで〜」

「はーい」


そんな当たり前の言葉に、胸がじんと熱くなる。


食卓の上には、


肉じゃが


お味噌汁


冷やしトマト


そして蓮の大好物、母特製の玉子焼き


テレワークを終えて書斎から出た父は、蓮が座ると顔だけこちらに向けて笑った。


「おう、蓮。久しぶりに顔色がいいじゃないか」


「……そう?」


「うん。ちゃんとご飯食べてる顔になった」


「……うん。今日は、お腹空いてる」


母はその一言に、ほっとしたように微笑んだ。


「じゃあいっぱい食べな。部活やってなくても、勉強とかね、頭使うとお腹すくんだから」


「蓮、高校どうするんだ? 千束の体験入学にも行ったって母さんから聞いたぞ」


蓮は少し驚いて、箸を止めた。


「……うん。いろいろ、考えてる」


「焦らなくていい。

けど、お前が“まだ戦いたい”って思えるなら、それは嬉しいな」


ポツリと言った父の言葉が、静かに蓮の胸に染みた。


「ね、蓮。ご飯もっといる? 玉子焼き追加しようか?」


「……食べる。ありがとう」


食卓にはテレビの音と、食器の軽い音だけが響いた。

けれど、蓮の心の奥の “無感情の空洞” には、

確かに温かいものが一滴、落ちた。


「……ごちそうさまでした。」

食事を終え、蓮は自室に戻る。


机の上には内部進学特別授業のプリントと、千束大附属高の資料。

静かに椅子に腰を下ろし、数学のワークを開く。


(……やるか)


淡々と、だが確かに、鉛筆を動かす。

途中で何度も手が止まる。

ふと、全国大会の映像。

ともみの笑顔。

涼子が渡しそびれた想い。

玲央の退部の噂。


全部が、胸に蘇る。


だが、以前ほど重くはない。


(……みんな、前に進もうとしてる)


ページをめくる音が、部屋に静かに響いた。


20分、30分、1時間。


(……俺も、前に)


答案用紙の欄外に、蓮は小さく書いた。


「続ける」


意味はまだ曖昧で、輪郭はぼやけている。

けれど、

確かにこれは “前へ踏み出した自分の字” だった。


蓮は鉛筆を置き、窓を少し開ける。


夜風がそっと入り込む。

胸が、ほんの少しだけ軽かった。


朝焼けが街をほんのりと赤く染めていた。

虫の声は、昨日よりも少しだけ静かだった。


蓮はゆっくりと玄関のドアを開けた。

足元には、履きなれたランニングシューズ。

かかとを潰していた部分が、きれいに戻っている。


静かに歩き出す。

まだ誰もいない、夏の朝。


最初の一歩は、重かった。

けれど、次の一歩は、もう少しだけ軽い。


走り出す。

ゆっくり、呼吸を整えながら。


思考は、ゆっくりと流れ出す。


(……俺は、あの日、確かに終わったんだ

部を辞めて、目標も、仲間も、居場所もなくした

でも、それでも……)


足が、前に出る。


(今日、こうして走ってる

誰かに言われたわけでも、誰かのためでもない

ただ、自分はこうして……走ってる)


リズムは乱れていない。

それが、なんだか少しだけ誇らしかった。


(悔しいことは、たくさんあった

理不尽も、暴力も、欺瞞も、押しつけられた

それでも……俺はまだ、前を向こうとしてる)


──ただ、それだけでいい。


誰かに認められなくても、

記録に残らなくても、

勝てなくてもいい。


(俺は……俺自身に、負けたくない)


朝日が背中を照らす。

滲む汗。

弾む息。

鼓動は静かに、確かに高鳴っていた。


(……また、走れる)


蓮の口元に、ほんのわずかな笑みが浮かんだ。


[fin]

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