4 寄り道に鶴と亀
「中山、ちょっといい?」
教室を出たところで担任の高橋に呼び止められた。
「何ですか先生」
「キョウちゃんと呼びなさい」
そうだった。何故か呼び方を強制してくるんだったな。下の名前がキョウコなんだっけ。
しかしなかなか個性的な人だ。
「キョウちゃん、何すか。それだけですか?」
「いや、今日どうしたの? ビックリしたんだけど。どういう心変わり?」
「別に……伊野が大変そうだったので」
「まさか机に突っ伏してばかりだったのが、急に発言するんだもん。でも助かったよ」
「……ちなみにキョウちゃん、何であまり口出さないんですか? 結構やばい状況だと思ったんですけど」
「まあ、生徒のみんなの意思を尊重したいし……って言うのは建前か。実際はクラスの雰囲気が良くないのも分かってるんだけどね。どうしたら良くなるのかずっと手探りよ」
なるほど、教師も一人の人間だしな。あのクラスをまとめようにも手のつけ所に迷うだろう。でも何とかしようと一応頑張ってくれているのか。
「とにかくありがとう。その調子で勉強もしっかりやってくれると助かるわ。一年生の時の面談で話したと思うけど、元々文系教科だけなら頑張り次第で上位の大学狙えるんだから」
「あー、言ってましたね。気が向いたら頑張ります」
生来の勉強嫌いが歳を重ねたぐらいで治るのか、一年生の時ならまだしも二年生の勉強内容についていけるのかは分からないが、全く勉学に励まなかったことは大人になってからの後悔の一つだった。
多少は意欲を持ってみるのもいいかもしれない。
学校を出てからある場所を目指すことにした。この時代に来てからからずっと気になっていた場所。恐らくきっかけとなった場所。
陽の色が変わり住宅を照らす中、薬局を過ぎてひとまず川を目指し進んだ。しかしあの時成り行きで歩いていたせいか、上手く景色が一致せずに入り組んだ道に入ってから早い段階で頓挫してしまった。
楓の木や祠……行けば何か分かるかもしれないと思ったが見つからないなら仕方がないか。気晴らしに商店街へ寄って帰ろう。
「おお……懐かしいな」
丁度夕食前の時間帯ということもあってか活気に溢れている。もう二度と見ることが叶わないと思っていた光景に胸が躍った。
手持ちが無いことを悔やみつつ、一つ一つの店を噛み締めるように覗いて歩いていると急に目の前が真っ暗になった。
「だ〜れだ!」
……誰?
聞き覚えのあるような、初めて聞くような女性の声。アサミか? でも性格的にこんなことやるやつではないし。
「誰?」
「えー、何それー」
視界が戻り振り返ると同じ高校の制服の少女。
……いや、誰?
見慣れない顔だ。忘れているだけだろうか。隣を見るとユウトがニヤニヤして見ていた。
「いやー、アカネがどうしても声掛けたいっていうからさ。どうせならビックリさせてやろうかと思ってな」
「四組の鶴田アカネでーす。初めましてー」
「俺達最近付き合い始めたんだよ。鶴と亀で景気いいだろ?」
ユウトの彼女か。そういやいたような……。
高校時代のユウトが三年間を通して複数の彼女と付き合ったことは覚えているが、当時そんなに興味が無かったこともあり顔や名前は朧げだ。
恐らくこのアカネという子も、そんな記憶からこぼれ落ちた内の一人なのだろう。
「ああ、よろしくね。アカネちゃん」
「……ユウトの言った通りだね」
不思議そうにアカネに顔を覗き込まれる。
「だろ? シンペー急に変わっちまったよ」
「うん。シンペイ君ってもっと取っ付きにくい人だと思ってた」
「アサミ以外の女子となんてまともに喋れなかったのにさぁ、急にどうしたんだよ?」
またこの話か……これは暫く各方面からの対応に追われそうだな。適当にはぐらかすか。
「なんか……そういう気分になったんだよ」
「何だよそれ。新手の高校デビューか?」
「うるせーな、別にいいだろ」
やり取りを聞いていたアカネが笑みを浮かべて話に入ってきた。
「いいじゃん、高校デビュー。いい方向に変わっていくなら。楽しくなりそう」
この子もノリが軽いというか、ユウトに通ずるものがあるな。
「まあな。今日の伊野とのやり取りとか最高だったぜ」
「……お前に言われるとそこはかとなく馬鹿にされてる気になるな」
「いやいや、ホント嬉しかったよ。なんか昔のお前っぽくて」
昔……いつのことを言っているのか正直分からない。
「何だよそれ」
「高校入学の時のデビューよりかはマシってことだよ」
屈託のない笑顔を向けるユウトを見て、ふと出会った頃のことを思い出す。
小学校の初めての教室。まだみんなと馴染めていない中、席に座って担任の話を聞いていた。そんな時、勝手に歩き回ってクラス全員に片っ端から挨拶をして回っていたのがユウトだった。
お調子者で友達も沢山いて時々それが羨ましく思うこともあったが、いつも下校時間になると特別目立つ存在でもない俺を誘ってきた。
それからは一緒に遊んだり、些細な事で喧嘩をしたり仲直りしたり……そんな風に同じ時間を過ごしていった。
高校生、そして大人になり俺が変わっても。時代の流れと共にこの街や商店街が変わってもこいつは変わらずに、同じ距離感であの亀井堂に居続ける。そう考えるとなんだか見守られているような気分になった。
「シンペイ君どうしたの? ボーッとして」
「あ、いや。別に」
「おかしなやつだなぁ。よし、じゃあ三人の出会いを祝して俺がタバタで奢ってやるよ」
「ホントにー? やったぁ!」
「マジか。手羽中の唐揚げか?」
「お前ホントそれ好きだなぁ。でも今日はコロッケな」
懐かしい味に舌鼓を打った後、ユウト達と別れ家路についた。
家に着き玄関で一気に疲労感に襲われそのまま座り込む。長い一日を終え体力と気力が限界を迎えたようだ。
「あらおかえり。あんた今日昼食代忘れていったでしょ」
声を掛けてきた母に返答しようとしたが、一瞬どんな風に接したらいいのか迷った。
「あー、うん。ユウトに借りたから大丈夫」
「……あ、そう。ユウちゃんに悪いことしたわねぇ。気をつけなさいよ」
今の微妙な間に少しの戸惑いがあった気がする。昔はもっとトゲのある感じで当たり散らしていただろうか。
リビングに入っていく母の姿を見ているとどうしてもあの日の棺の中がフラッシュバックしてしまう。
ずっと後悔して自分を責めていた。母は何を思って最期を迎えたのだろうと何度も考えて耐えきれなくなった。
会社を辞めて戻ってきたのも、どうしたらいいのか分からなくなった末に行なった身勝手な償いだ。罪悪感はきっと一生晴れない。
こうして図らずも母とまた会えた。少しでも失われた時間を取り戻せたらと思ったが、それは卑怯なことのようにも思えた。
夕食や風呂を終え、部屋に戻りようやく一息つく。煙草が無くなっていることに今更気づくほどの目まぐるしい一日だった。
久しぶりに母の手料理を食べられたというのに、結局ほぼ会話が無いまま終わってしまった。
ベッドに横になって身体を休ませても、頭の中が落ち着かない。この夢なのか現実なのか分からない状況がいつまで続くのかと不安が募っていく。
正直早く終わってほしい。アサミや母、クラスメイト達とまた会えて昔の街並みを感じることが出来たのはとても嬉しかった。でもそれだけでいい。
過去の記憶にキツく蓋をしていたはずなのに、力任せにそれが開けられて雑に取り出されたような気分になる。思い出したくないことまで思い出してしまったことが怖くなった。
あと一年ぐらいか……。
高校三年生の秋、アサミは行方不明になる。
この二十年前の世界が全く同じものなのかは分からないが、もし繰り返されるのであればどうしても避けなくてはならない。
もう二度とあの喪失感や無力感……同じ感情を味わいたくはない。
時間にはまだ猶予がある。それまでに終わらせなくては。
目覚めた時に全てが元に戻っているようにと縋るように願いながら、無理矢理目を閉じた。