暗転
「総員――同胞に肩を貸して下がれッ」
少し前までの己に罵倒したいのをこらえ、ガイエルは声を張り上げる。
その声音に、恐怖と焦りがこもっているのを自覚しながら。
だが、ガイエルの号令は届かない。
降り注ぐ光が閉ざされる。大きな影が、体が、日差しを遮る。
立ち上る黒煙の先、赤い目がギラリと光る。漆黒の体が、浮かび上がる。
――ドラゴン。災厄の化身。
「う、あああああああああああああっ」
錯乱状態に陥った牛飼いの息子、騎士トムソンが我を忘れて走り出す。逃げ出す。
一度そうなってしまえば、もう、どうしようもなかった。
騎士たちは千々に走り出し、そして。
動き出した者から、一人、また一人と、魔法によって殺されていく。
大地が渦巻き、天を衝く槍のごとく尖り、騎士の腹部を貫く。その体は、宙に浮かび、大地に背を向ける騎士は、絶望のまま、反転した世界を見下ろす――ガイエルと、目が合う。
助けてくれと、その目が語る。だが、ガイエルは動けない。
一つ、また一つ。悲鳴が、ガイエルの耳に届く。
視界の端、降りぬかれた尻尾により、巨木が枯れ枝のごとく粉砕され、同時に、人が、牛が、まるで木の葉のように舞い上がる。
闇の腕にとらえられた騎士が、空へと持ち上げられ、そして。
体は、影の先、ドラゴンのほうへと消えて。
異音が、響き渡る。骨が砕け、肉がつぶれる、最悪の音。
「……あ、ぁあ」
心が折れる音が、聞こえた。小鹿のように足を震わせ、ガイエルは、ただそこに立ち尽くすことしかできなかった。
一体誰が、このような怪物に立ち向かえる。誰が、ドラゴンと、ほんの少しでも戦いになると考える。一体誰が、ドラゴンを、人間の都合よく動かせるかもしれないなどと考えた?
(俺、だ。俺が……こいつらを、)
――死なせた。
言葉が、ガイエルの両肩にのしかかる。
後悔が、絶望が、渦巻き、まじりあい、ガイエルの心を飲み込んでいく。
強烈な風が吹き抜ける。
煙が晴れる。たった一度、翼をはためかせ、その動きだけで、煙が散った。折れかかっていた樹木が倒れ、くすぶっていた火種が消え、視界が開ける。
漆黒の巨体。軽く十メートルを超える怪物が、ガイエルを見下ろしていた。心を感じさせないうつろな赤の双眸が、ただ、じっと。
失敗した。過ちを犯した。
ドラゴンに、近づくべきじゃなかった。
後悔は、もう遅かった。
もう、動く者は誰もいない。立ち上がる者はいない。
ただ一人、動けずに凍り付いたままのガイエルを除いて。
また一人、物言わぬ騎士が――騎士だったと思しき焼け焦げた何かが、闇の腕に運ばれてドラゴンの口の中に消える。
激しい咀嚼音に、心臓がわしづかみにされたような感覚を覚えて、鼓動が早くなる。
「……は、はは」
乾いた笑い声が漏れる。それくらいしか、ガイエルにできることはなかった。
動けば、死ぬ。
動かなければ――死なない、のだろうか?
視線だけ動かして、ガイエルは気づく。すでに、己の片腕、左手は肘から先がなくなっていた。喪失感があって、けれど、痛みははるか遠く。
死が、体を満たしていく。心を、満たしていく。
諦めのまま、膝を屈し、このまま朽ちるのだと――そう受け入れて、目を閉じようとして。
「ぁぁぁぁぁぁ――」
声が、聞こえた。
聞きなれた声。ずっと追い続けていた背中。
赤が、翻る。煤け、色あせ、焦げ、けれど拭い去ることのできない、戦場に咲く花。血を吸い、咲き誇る妖艶な花。輝かしい、導。
「はあああああああああッ」
炎が燃える。剣を包み込むは、火炎の華。
業火を手に、彼女は走る。フリードリチェは、疾走する。
仲間の亡骸を踏み越え、焼け焦げた大地を疾走する。
土の針が、闇の腕が、次々とフリードリチェを襲う。
けれどそのどれもが、灼熱の炎をまとった剣に切り裂かれ、焼き消され、フリードリチェは止まらない。
走る。
走り続ける。
止まらない。
なぜなら、フリードリチェは騎士だから。
国を守るために立ち向かう、戦う者だから。
ぎょろりと、赤い目が動く。フリードリチェを捉えたドラゴンが、動き出す。
一瞬。黒い影が走り抜ける。それは、先ほど騎士たちを襲った、尾の一撃。
すべてを吹き飛ばすその攻撃を、けれどフリードリチェは空中に飛び上がることで避ける。
だが、動きは止まった。空中という足場のない空間にいる彼女を、無数の魔法が襲う。
「フリードリチェッ」
気づけば、ガイエルは走り出していた。
あれだけ体を満たしていた絶望も喪失感も、今はどこかに消え去っていて。
ただがむしゃらに、走り続けた。
片腕の喪失によりバランスの崩れた体が傾く。だが、強く踏ん張って、倒れこむ力を、前へと進む力に変える。
「おおおおおおおおおおッ」
間に合えと、手を伸ばす。その手の先、イメージを集中させる。
視界の先、フリードリチェが、笑う。やっと来たかと、待ちくたびれたと、笑う。
信頼しきったまなざしに射抜かれながら、ガイエルは叫ぶ。
「ガイア・コントロール」
土魔法――得意とするそれは、尾の一撃によって更地になったフリードリチェの下の土を動かし、持ち上げ、柱を作り上げる。ほんの少しの凹凸のある、垂直の階段。
爆発。剣を包む火炎が生み出した爆風が、フリードリチェの体勢を変える。
伸びる土の階段に手をかけ、足をかけ、フリードリチェは走り出す。
空を、まっすぐに。
どこまでも。
フリードリチェの背後を、闇が襲う。土の針が、岩塊が襲う。
だが、フリードリチェには届かない。四肢を持って空を上る彼女に、魔法は追いつけない。
「いっけぇえええええええええええッ」
「はああああああああああああああッ」
すべての思いを乗せて、ガイエルは叫ぶ。もつれ、倒れこみながら、視線は常に、フリードリチェへと向かっている。
その、視線の先。
階段の最後を踏みしめたフリードリチェが飛び上がり、そして。
深紅に燃える刃を、ドラゴンの片目へと振り下ろす。
かつて、ドラゴンスレイヤーの伝説を持つ男がいた。
その男は、ドラゴンの眼球を貫き、眼窩の奥へと刃を進め、その切っ先を脳に届かせ、災厄を屠った。
そして、フリードリチェもまた、ドラゴンの眼球に刃を通して。
「――フレア・ソードッ」
己の力のすべてを魔法に注ぎ込み、炎の刃を、奥へと伸ばす。
ドラゴンが、絶叫を上げる。
首を振る動きによって、フリードリチェの体は高く、放物線を描いて飛ぶ。
そのまま落ちれば、死は免れない――だから、ガイエルは走り出す。
その落下地点へと、疾走する。
土魔法を使い、滑るようにひた走り、そして、片腕でフリードリチェの体を包み込むようにし、横方法へと押し飛ばす。
抱き合ったまま、ゴロゴロと転がった先、倒れた幹に背中を打ち据え、ガイエルとフリードリチェは止まる。
「は、はは……ははははははははッ。やったぞ、ガイエル!」
腕の中、フリードリチェが笑う。魔法の使いすぎで体が少しも動かずとも、知ったことかと笑う。
ガイエルもまた、じわじわとこみあげる実感を胸に、ゆっくりと顔を笑みに変えていく。
ゆがんだ笑み。恐怖と緊張でこわばった表情はなかなか動いてくれず、けれど、フリードリチェの笑い声が、ガイエルの心の緊張をほぐしていく。
「勝った、のか?」
「ああ、そうだ。私たちは確かに――」
――勝ったのだ。
言葉は、続かなかった。瞬間、世界から音が消えた。体が押しつぶされるようなプレッシャーが二人を襲う。
時間が止まったような、世界が呼吸を止めたような、そんな、莫大な存在感の重圧。
それを放つのが、何者か、考えるまでもなかった。
ドラゴンは、人にどうにかできる存在ではない――そのことを、ぼんやりとガイエルは思い出す。
伝説のドラゴンスレイヤーだって、きっと、殺せはしなったのだろうと。
ゆらりと立ち上がる影を見ながら、ガイエルは諦めを心に満たし、ひきつった笑みを浮かべる。
闇が、うごめいていた。
切り裂かれ、焼けただれた片目、そこがうごめき、そして、時が巻き戻されるように、そこに瞳が戻る。赤い眼球が、現れる。
二つ目は、怒りに燃えていた。確かな敵として、ガイエルを――フリードリチェを、見ていた。
そのプレッシャーに、ガイエルは息もできなくて。
けれどそれでも、フリードリチェは笑う。
確かにやってやったと、哄笑を上げる。
「ああ、やったな。怪物が、私たちの立場に降りてきた。怒りを持った。……ここからが、本番だな」
殺せなかったからどうしたと、確かに、作戦通りだと。
フリードリチェは、どこか冷徹なまなざしをガイエルに向ける。「すべきことはわかっているな?」と視線で問う。
ガイエルたちの目的は、ドラゴンの進路の変更。
つまり、ドラゴンを誘導できれば、それでよかった。
一つ目の手段は、永い眠りから覚めて飢えているだろうドラゴンの前に牛という餌を突きつけ、走らせた牛を追わせて、進路を変えること。
そしてもう一つが、何とかしてドラゴンを怒らせて、自らに引き付けて移動させること。
ガイエルが提案したのが前者。そして、フリードリチェが考えていたのが後者。
そして、ガイエルの策は失敗し、今より、フリードリチェの計画が動き出す――が、フリードリチェは、もう、指一本動かせない。
だから。
「……頼む」
儚く、けれど、期待と確信をもって告げるフリードリチェに。
「任せろ」
一蓮托生の道を、一も二もなく受け入れて。
ガイエルは走り出す。
フリードリチェを抱え、ドラゴンの攻撃から逃れるべく、疾走を始める。
ガイエルは万能の剣士だ。
フリードリチェのように火力に偏ってはおらず、攻防どちらにも秀でた存在。
土魔法で大地を変形させ、あるいは地表を前に動かすことで、滑りながら走る。
迫る攻撃を土の壁でそらし、防ぎ、飛び散る土を足場にして、地中からの攻撃を避ける。
土の球体を壁にして、ブレスを弱める。
怒り狂ったドラゴンは、すべてを破壊しながらガイエルたちを追う。
息もつかせぬ連撃。ドラゴンは、余裕を捨ててガイエルを襲うも、あと一歩のところで届かない。
ガイエルは、傷を増やし、煤にまみれ、体の一部を焦がし、それでもフリードリチェを守りながら走り続ける。止まらず、疾走を続ける。
だが、その渾身の逃走劇も終わりが近づいていた。
魔法の発動に、限界が近づいていた。何より、血を流しすぎたガイエルは、もう、ほとんど体に力が入らなかった。フリードリチェの体を落とさないようにするのも厳しくなっていた。
そして、ついに終わりが訪れる。
足がもつれ、ガイエルの体が倒れる。
腕に抱きしめ、そして。
そのガイエルの頭上に、ドラゴンが追いつく。
一踏み――もはや食糧ともみなされない二人は、その影に沈み。
強烈な踏みしめにより、大地が歪み、うねり、大きく変形する。
隕石でも落ちてきたようにくぼんだそこに、もはや、ガイエルとフリードリチェの体は、影も形もない。
しばらく上空を浮遊しながらじっと見つめていたドラゴンは、やがて静かに、二人の頭上を飛び越え、王都とは反対方向へと飛んでいく。