天地蜥蜴
最前線が見えてきたのは、日が落ちかけた頃合いだった。空は赤く燃え、大地は黒く沈んでいる。
分厚く頑丈な石盾が並んでいるのが、おそらくは簡易本陣。
そこに二十名ほどの騎士がいた。残りの人員は領主邸や街などに配置されているのだろう。
決して踏み込みすぎず、身を潜めるための大盾。魔獣への抑止力として牽制で放たれる火矢。
ギルレイド領の騎士団は、防御陣形を徹底していたようだ。
だが、相手どっている大型魔獣の姿が見えない。
日没で視界が不明瞭とはいえ、大型の魔獣を見落とすはずがないのに。
「……前線は、少しずつだが後退を余儀なくされているようだな」
「えぇ。それでもよく持ち堪えている方でしょう」
「問題は、どう合流するか」
戦闘に長けた三人の会話についていけない。
フローリアには状況が全く読めず、何を警戒しているのかと首を傾げる。
その時、ズズズ……と空が動いた気がした。
いや、気のせいではない。
暗く沈んでいるとばかり思っていた空が、実際に動いている。よく目を凝らすと、真っ暗な上空には規則的な横縞模様があった。
フローリアが空だと認識していたのは、魔獣の腹部だったのだ。
「うっ、うそ……」
悲鳴を慌てて呑み込む。
天地蜥蜴。
天より高く地より広いという意味で名付けられた、巨大な蜥蜴の魔獣だ。
滅多に姿を現さないため、ほとんど伝説に近い存在。フローリアの人生で、まさか目にする機会があるとは思わなかった。
この巨体を相手に、前線を後退させるだけで済んでいるのは、むしろ奇跡ではないか。ギルレイド領の騎士達の実力が窺える。
「動きは、遅い」
「目もほとんど退化しているようですね。これなら合流も可能かもしれません」
「だが、他に感覚器官があるのかもしれん。決して油断するなよ」
戦闘に関して門外漢なフローリアは、彼らの作戦会議に口を挟むこともできない。ただひたすら結論が出るのを待つ。
「この大きさ、さすがに一太刀で殺せない」
「表皮が黒光りしている点が不気味ですね。見た限り火矢がかすりもしない。弾力があって刃が通らないのでしょうか?」
「大型魔獣討伐の定石、弱らせた上で魔核を衝く手法をとるしかなさそうだ」
フローリアも、魔獣についてなら少しくらい知識があった。
魔核は、心臓と言い替えてもいい。
魔獣特有の黒に近い血液が結晶化した、黒曜石のようなもの。どのような魔獣でも体内に一つだけ保有しており、これが砕けると命が尽きる。
魔獣は一般的に、どのような手法でも致命傷を与えさえすれば討伐できる。ゼインのようにドラゴンを一刀両断することも可能だ。
けれど大型が相手であれば、魔核を衝くのが一番手っ取り早いということらしい。
ただ、ここで問題が一つ。
魔核の位置は、魔獣によって異なるのだ。
それが解明されている種類もいるが、相手は伝説に近い天地蜥蜴。当然情報などほとんどない。
――つまり、ここは……。
フローリアが顔を上げると、話し合いをしていた三人の視線が集まっていた。
彼らも同じ結論に至ったらしい。
「靴の魔道具の出番、ということですね」
黄金鹿の角が、ここでも役に立つ。
魔核は魔力が凝縮されたもの。魔力の流れを読めば位置を特定できるはずだ。
それは、やろうと思えば誰でもできることだが、踵の高い靴を履かせて戦闘員の機動力を下げるわけにはいかない。非戦闘員で魔道具師でもある、フローリアゆえに相応しい役割。
ゼインが口端を持ち上げて笑った。
「そういうことだな。この開けた場所では危険だから、一先ず前線の騎士達と合流しよう」
話がまとまるのを見計らったように、前線の方から再び火矢が放たれる。
それは、天地蜥蜴の前脚に命中した。
これまでは足止め程度だったのに、明らかな意図をもった攻撃。ぬめる表皮にあっさり弾かれてしまったけれど、天地蜥蜴は大きく動いた。
ズズズッ
前線から勢いよく飛び出していく影。
おそらくフローリア達に気付いた誰かが、天地蜥蜴の注意を引き付けるために火矢を放ったのだ。
そして仲間達に注意が向かないよう、単身陣営から身を躍らせた。おかげで前線は破壊されないだろうが、あまりに危険な行為。
「危ない……!」
フローリアは遠ざかる影を引き止めた。
ゼイン達も同様に無謀だと思っているだろうが、これが合流のための好機であることも確か。仲間が作ってくれた隙を見逃さず馬を走らせる。
フローリアはメルエが進める馬に揺られながらも、小さな背中から目を離せなかった。
あれは……ロロナではないか?
天地蜥蜴に比べたら、人間はあまりにちっぽけ。大きな前脚が、駆けていく背中に影を作る。
けれど彼女もさすがの俊敏さ。降りかかる大きな前脚を、紙一重のところでかわす。
仕留めたと判断したのか、はたまた興味を失ったのか。天地蜥蜴は再び動かなくなった。
その間に石盾の陰に滑り込んだフローリアは、生きた心地がしなかった。
口を両手で押さえ、懸命に悲鳴を堪えていたけれど、親しい相手だと分かっていながら冷静になれるはずなどなかった。
遠ざかっていた人影が、矢のような速さで前線まで戻ってくる。
「遅い! もう、持ち堪えるだけでも結構たいへんなんだからねー!」
器用に小声で叫ぶ、赤毛の少女。
小柄な体に詰め込まれた明るさと前向きさが、不安さえ吹き飛ばしてしまうようだった。
「ロロナさん……!!」
フローリアは、感極まってロロナに抱き着いた。勢いよく飛び込んだ彼女の体は小揺るぎもしない。
「もう、あまり無茶をしないでください……!」
「団長達なら気付いてくれると思ってたし。てゆーか何であなたが泣くのよ調子狂うわね」
「な、泣いてないです……」
体を離して顔を覗き込まれる。
慌てて目尻を拭おうとしたフローリアだったが、ロロナの左頬に走る小さな切り傷に気付く。
「ロロナさん、それは……」
強い視線に、彼女は頬を軽く撫でた。そうして何てことないように肩をすくめる。
「あぁ、魔獣の爪が掠ったか。これくらい平気よ。全然戦え……」
喋っている途中で、唐突にロロナが崩れ落ちる。
フローリアは慌てて彼女を支えた。
魔獣の毒素を甘く見たわけではないだろう。単純に、血液に触れていないから油断していた。
だが魔獣は、種類によっては爪や牙にさえ毒素を隠し持っている。
だから怪我をしないよう距離をとって戦うのが定石なのだが、天地蜥蜴はこの特殊な部類に入っていたようだ。
むしろ、これまで怪我一つしてこなかったロロナがおかしいというか、具体的な事例となり得なかった周囲の者達も同様というか。
「魔獣の傷は大小にかかわらず、素早く浄化して対応するしかありません。動かないで」
腕の中で痙攣しはじめたロロナを、フローリアはゆっくりと地面に横たえた。
魔獣の毒素を放置すると、重篤な病気に発展する。そのためだろうか、初期段階ではこうして顕著な拒絶反応があらわれる。
大勢の前で聖属性の魔力を……と躊躇っている場合ではない。
フローリアは素早く患部に手を添え、魔力を流し込んだ。
迅速に対処すればすぐに回復するというのは、八年前の戦争の時に知った。
突如出現した魔獣に傷を負わされた将軍――若き日のゼインが、即座に立ち上がり戦いに舞い戻っていったからだ。
「これで……大丈夫なはず」
フローリアが振り返ると、騎士達は何とも言えない顔をしていた。
どうせ知られてしまったのなら、できることをさせてもらおう。
「みなさんに、浄化と癒やしの魔術を重ねがけさせていただきます。ゼインさん達にも同じものを施しているので、危険はないと保証いたします」
それを制したのはゼインだった。フローリアを見つめる眼差しには、心配の色が濃い。
「あまり乱発しては、フローリア殿の魔力が保たないのでは……」
「お気遣いは嬉しいですが、今は全員が最大限の努力をすべきです。――勇敢なる騎士のみなさまに、確実なる勝利を」
戦時下を思い出していたフローリアは、また当時使っていた言葉を口にする。
魔術の重ねがけを終えると、騎士の内の誰かが呆然と呟いた。
「小さい聖女様だ……」
「はい?」
額の汗を拭うフローリアを置き去りに、呟きが波紋のように広がっていく。
「あぁ、間違いないぜ。フローリア様が小さい聖女様だったんだ……」
「俺達の小さい聖女様が、またこの地に戻ってくださっていたとは……」
「小さい聖女様が、立派に成長なされて……」
よく分からないが、何やら連呼されるのが猛烈に恥ずかしい呼称だ。
フローリアの頬は知らず赤くなっていた。
「ち、小さい聖女様……?」
「言ったでしょ、騎士団内にあなたの活躍が語り継がれてるって」
「わ、ロロナさん」
いつの間にか起き上がっていたロロナが、フローリアの耳元で囁く。
確かに、以前そんなことを聞かされたような。とはいえ、あの時彼女は、ずいぶん遠回しな表現をしてくれていたらしい。
ロロナはニヤニヤ笑っている。素直に回復を喜べばいいのか、間の悪さを悲しめばいいのか。
――と、とにかく恥ずかしい……。
当時を知る者は必ずいるはずで、コルラッドの屋敷に滞在していればいつかは気付かれると、ある程度の覚悟はしていたのだが。
そういえば、八年前の面影を残す者もちらほらと見受けられる。いつも追放聖女だと悟られないよう俯いていたから、気付かなかった。
「――小さい聖女様、これを」
一人の騎士からうやうやしく差し出されたのは、羽飾りのついた黒杖。
フローリアが製作した浄化の魔道具だった。
「俺達が使ってもかすり傷が治るくらいだが、小さい聖女様ならもっと使いこなせるんでしょう?」
「そういや、ドラゴンの時も効果絶大だったな」
懐かしそうに笑い合う騎士達。
天地蜥蜴を前にして、悲愴感が消えたのはいいことなのだが。
「……ありがたく受け取りますが……どうか今まで通り、フローリアとお呼びください……」
居たたまれない空気の中、フローリアは脱力しながらも黒杖を受け取った。




