辺境伯
大きな体を小さく丸めながら、ゼインは魔獣解体場所をあとにした。
トボトボと進む先には大きなカヤの木があり、そこにもたれかかって待ち構える人影があった。訳知り顔をするコルラッドだ。
「うちの奥さんをだしに、距離を縮めようとしないでくれます?」
何のことだか分からない。
ゼインはしかめっ面をしたまま答える。
「……口にしないだけで、メルエは実際ああ思っているはずだ。だから嘘ではない」
「何をとぼけてんです。ちゃっかり花祭りに誘ってたくせに」
知らぬ存ぜぬを通そうと思っていたが、無駄だった。彼はフローリアとの会話を、丸ごとすっかり盗み聞きしていたらしい。
共に祭りを回らないかという誘いに、彼女は嬉しそうに頷いてくれた。……レトやメルエ付きで。
善意から案内を申し出たのだが、微妙に落胆してしまったことは否めない。
王都に繋がる街道を、領民達が丹精込めて育てた花で飾る花祭り。
短い春と豊穣を祝うものだが、出会いの場という側面もあった。
この祭りには、男性が女性に花を贈って想いを伝えるという風習がある。女性側は意中の相手から花を受け取ったら、それで髪を飾るのだ。
あくまでただの案内のつもりだったが……フローリアの艷やかな黒髪に白い花を飾ったら、きっとこの上なく可憐だろうと――そんな妄想が頭をよぎったのは事実だ。
「まぁ、身分を偽ったまま誘ったこと自体が卑怯ですから。きちんと素性を明かしてから、また誘ったらいかがです?」
的確に急所を抉られ、ゼインは劣勢を悟る。昔からこの男には頭が上がらなかった。
「もちろん、隠し続けるつもりは毛頭ないが……俺の正体を知れば、おそらく彼女は今のように心を開いてくれないだろう?」
「あぁ……あの方の性格上、あまりに非礼だったとひれ伏すかもしれませんね」
「そうだろう。せっかく最近は、笑顔を見せてくれるようになったのに……」
ゼインは、フローリアに家名を名乗っていない。
それは機会がなかったからではなく、意図的なものだった。
ゼイン・フランツ・ギルレイド。
ゼインは、この厳しいギルレイド辺境伯領を治める、領主なのだ。
ちなみにコルラッド・ギルレイドは従兄弟関係であり、年は離れているが乳兄弟でもある。
今は穏やかで有能な補佐官としての顔が板についているコルラッドだが、幼少時の九歳差は大きい。当時無理やり木に登らされたり剣の稽古で滅多打ちにされたりしたことは、未だに根に持っている。
執務室に向かって歩き出しながら、彼は気安く話を続けた。
「でしたら、今より関係を進めるしかないですね。恋仲にさえなっておけば、今さら他人行儀に戻ることはないでしょう」
「こっ……!?」
「現状、あの方を正攻法で落とすのは無理でしょうから、今は様子見が正解です。魔道具作りに集中するあまり、視野が狭くなっておられるので。――ですが、心が疲れきっているのもまた事実」
言葉を失うゼインの肩を、悪どい顔をしたコルラッドが力強く揺さぶった。
「言うなれば今は好機です。一気呵成に攻め込むには、常に心に寄り添い献身的に支え続けることが肝要かと……」
「いや、ちょっと待て。お前が言うと、悪いことを企んでいるようにしか聞こえない」
「当然でしょう。たとえ善行でも、そこに愛されたいという下心があれば悪巧みと大差ないです。感謝するか嫌悪するかは受け取り方次第ですね」
「いやいやいや、それもちょっと待て!?」
ゼインは歳上の従兄弟の迫力に流されることなく、肩に置かれた手を掴み返した。
だって、コルラッドの言い分は、まるで。
「……それでは、俺があの方を好いているように聞こえるのだが」
「は?」
「俺は、良かれと思い花祭りを案内しようと……」
「はあぁぁぁぁぁぁ?」
コルラッドが、急速に柄が悪くなる。
「……お前さぁ、もしかして自覚なしなのか。どこまで奥手なんだよ」
「急に昔の態度に戻るな、心臓に悪い」
普段は慇懃無礼の仮面を被っているくせに、二人だけの時は実に気安い。
ゼインがフローリアを特別視していることも、コルラッドには筒抜けだ。
今さら取り繕っても仕方がないので、恥を忍んで本心を吐露する。
「……自覚も何も、お前の見当違いだ。俺はただ、フローリア様の恩に報いたいだけなのだから」
八年前。ユルゲン帝国との戦争の最前線は、魔獣の森を挟んで国境を接している、ここギルレイド辺境伯領だった。
聖女だったフローリアが勇敢にもこの地に降り立った当時、まだ僅か十歳。
大人の庇護を必要とする年齢でありながら、彼女を守るのは最低限の護衛のみだった。
フローリアは自身を卑下しているようだが、幼い聖女が前線で体を張ってくれたおかげで、いくつの同胞の命が救われたか知れない。
ゼインもまた、彼女に助けられた一人だった。
初陣だったため、力が入りすぎていたのだろう。ユルゲン帝国の兵士への対処に必死になるあまり、魔獣への注意を怠った。
ゼインは、突如出現した魔獣の鋭い爪に、背中を切り裂かれた。
薄れゆく意識、全身を苛む激痛。
頬に触れる黒髪のくすぐったさと、震えを懸命に押し隠した指先。揺れる黒い瞳がゼインを見下ろしていたことを覚えている。
小さく非力な存在を守りきれなかった己への不甲斐なさと、今にも瓦解しそうな前線を必死に踏ん張って支えてくれる少女の頼もしさ。様々な強烈な感情が胸に渦巻いた。
それは、確かに感謝と尊敬だった。
胸に手を当てて考え込むゼインに、コルラッドは呆れ返ったため息をつく。
「あのなぁ。恩に報いたいだけなら、花祭りに誘うのに失敗してそんなに落ち込むかよ」
「…………」
また、急所を突かれた心地にさせられる。
八年を経て、あどけなかったフローリアは、美しく成長していた。
絹糸のように艶やかな黒髪は七色の光を弾き、黒曜の瞳は吸い込まれそうなほど鮮明だ。
危うさを感じるほど華奢な体、細い指先。
あの指が、己に触れ癒やしてくれたのだと思うと、胸が奇妙にざわつくようになったのは……いつからだろう。
他の者達にも触れたことに、苛立ちが込み上げるようになったのも。
はにかむような控えめな笑顔、伏しがちな睫毛が頬に落とす影。
魔道具について熱く語っている時の、星のようにきらめく瞳。触れたら壊れてしまいそうな儚さがあるのに、時折垣間見える凛とした強さ。
再会してから知っていった一つずつ、その全てを得難く感じるようになっていた。
やはりコルラッドには敵わない。
感情の名前が、ストンと落ちてくる。
「好き……これが、好き、というものなのか」
「心を知らなかった魔獣か何かかよ。あの方をうちに引き留めている俺に、せいぜい感謝しろよ。ご厄介になり続けるわけにはいかない、一人で生きていくって、結構頑なだったんだぞ」
「頑ななのではない、意志が強いのだ」
「はいはい、のろけをどうも」
コルラッドは適当にあしらいつつも、身内の顔で笑った。
「まぁ、先代のご領主夫妻が亡くなってから、一人でこの過酷な地を守り続けてきたんだ。自分の恋愛なんて二の次だったよな」
両親が魔獣との戦闘で命を落とし、ゼインは若くして辺境伯の位を継いだ。
何かと行き詰まった時も、八年前の戦争の時も、側で支えてくれたのはコルラッドだった。
「別に、自分の全てを犠牲にしてきたわけではない。俺にはずっとお前がいてくれた」
彼は途端に砂でも吐きそうな顔になった。
「……その滑らかな口説き文句、俺じゃなくフローリア様にぶちかませよ」
「くっ、口説いていないし、本心だ!」
「本当、悪い見本がすぐ側にいたのに、お前はいい男に育ったなぁ。……変態だけど」
ぼそっと最後に付け加えられた人聞きの悪い単語に、ゼインはギョッとした。
「変態とは何を根拠に!」
「ユルゲン帝国との戦争の時って、フローリア様は十歳だぞ。ヤバいだろ」
「当時は誓って尊敬していただけだ! というか、俺だってあの時まだ十五歳だったのだが!?」
コルラッドはケラケラと笑って、ゼインの背中を遠慮なく叩いた。そのままぐいと顔を寄せられる。
小馬鹿にされるのかと思いきや、間近にある従兄弟の顔は意外なほど深刻なものだった。
「だが、あんまりのんびりしてもいられないぞ。フローリア様の魔道具師としての才能――あれがばれたら大騒ぎになるかもしれない」