悔いる他にできることがあるなら
レトと母親には、保温効果を付与した大きめのクッションを渡した。背中に当てると馬車の揺れも少しは軽減される。
普通に感謝され、父親の時のような反応がなかったことにホッとした。
彼ら家族が暮らす家には、何とか日暮れ前に到着することができた。しかも住居は、領主邸の敷地内にあったのだ。
レトの父コルラッドは辺境伯に仕える補佐官であり、側近でもあるらしい。道理で口が達者だし、迫力もある。
ちなみに母親のメルエも辺境伯の護衛官だという。偶然出会った一家の癖が強い。
砦を兼ねた造りの城塞は、近くで見ると圧倒されるほど堅牢だ。
八年前にこの地を訪れた際は正門から歓待されたものだが、今は東側にある使用人区画へと向かっている。元聖女であることが露見したらどうしようという不安はあったけれど、フローリアが当時十歳だったということもあって気付く者はなかった。
そう思っていられたのは、レト一家が住む石造りの屋敷に到着し、おいしそうな料理の並ぶテーブルにつき、人払いされた一室でコルラッドと二人きりになった時までだが。
「――聖女様ですよね」
対面に座す男性に開口一番切り込まれ、フローリアは絶句した。
「名乗りさえしなければ分からないだろうと高を括っていたのでしょうが、立ち居振る舞いが洗練されていらっしゃるのでまず違和感を持たれるでしょうね。その上、供のお一人もつけずに無防備に歩いていらっしゃった状況から察するに、何かやむにやまれぬ事情があったのではないかと愚考いたします」
つまり、見るからに訳ありだったと。
地方ゆえ王都の情報が入るのも遅いだろうと、安易に考えていたこともばれている。
聖女失格だとして追放されたフローリアを、コルラッドはどう扱うだろう。ギルレイド領の守りが薄いのは自身の力が及ばなかったせいだ。
糾弾され、石を投げられても仕方ない――……。
フローリアは一切の顔色を失くしていたのだろう、彼はこちらの気を引くように手を叩いた。おかげで正気を取り戻すことができた。
「詳しいご事情は聞きません。私のような一地方官には荷が重いので。ただ、上司への報告は義務ですので、辺境伯には伝えさせていただきます。フローリア様……とあえてお呼びいたしますが、あなたはこの地に滞在されるご予定なのでしょうか?」
彼の口振りから、聖女の地位が剥奪されたことも、公爵家から除名されたことも知られていることが分かった。
フローリアは観念して口を開く。
「家名を呼ばないご配慮、ありがとうございます。滞在ではなく……私はこのギルレイド領にて、平民として生きていくつもりです」
「なるほど……」
コルラッドは、指先でテーブルを叩きながらしばらく思案していた。
そうしておもむろに顔を上げると、とって付けたような笑みを浮かべた。
「もしこの地に身一つで生きていかれるおつもりでしたら、なおさら危機意識が足りないと言わざるを得ませんね。今のままでは、瞬く間に身ぐるみを剥がされてしまいますよ」
「たいへん申し訳ございません……」
「そういうところを言っているのですがね。まぁ、いいでしょう。長くなりそうですから、食事をしながら聞いてください。王都の高貴な方々には眉をひそめられるでしょうが、この辺りではそれが主流です。ギルレイドで生きるのなら慣れてください」
「は、はい」
確かに王都にいる時は、よほど親しい間柄でなければ共に食事など考えられなかった。
例外的に社交としての晩餐会はあっても、基本はお茶会が主流。フローリアも、夕食を共にして語らうのは庶民の振る舞いだとしつけられてきた。
何だか試されているような気がして、フローリアはちらりとコルラッドを窺う。感情の読み取れない笑みを返されるだけだった。
――私は、この地で生きていくのだもの……。
今さら貴族の流儀に沿っても仕方がない。
フローリアはカトラリーを手に取ると、まずはスープを口に運んだ。
「おいしい、です」
「それはよかった」
コルラッドの笑みに小さく頭を下げてから、本格的に食事をはじめる。
道中は不安で食が細くなっていたせいか、体が訴える空腹に気付かなかった。久しぶりの温かなスープが、優しく体に染み渡っていくようだ。
野菜の酢漬けやメインの肉料理も味わい豊かでおいしいのだが、フローリアには一つだけ気になることがあった。
なぜか、パンがないのだ。
具だくさんのビーツのスープにパスタが入っていたから、食べ足りないというわけではない。これも王都との違いなのだろうかと考えていただけだ。
手が止まっているフローリアを見て、同じく食事をはじめていたコルラッドが、察して口を開いた。
「パンがないのは小麦の収穫が安定しないからです。ギルレイド領は特に過酷な地なので、領主の側近とはいえ贅沢ができるわけではないのですよ」
「……その、確かこの地方では、ライ麦を収穫していたはずですが」
「おや、よくご存じで。そういえば、八年前にこちらに滞在なさいましたか」
赤ワインをグラスの底でくゆらせるコルラッドは、完全に人を食った態度だ。おそらくこの慇懃無礼さこそが彼の本質なのだろう。
「魔獣の森に接しているこの地が、魔獣の被害を受けていることもご存じですか?」
「はい……数年に一度、魔獣の襲撃があると」
「情報が遅れておりますね。ここ最近は、ほとんど一ヶ月に一度の頻度です」
「えっ……?」
ナイフが皿の上に落ちて、耳障りな音を立てる。
フローリアは慌てて謝罪しながらも、指先の震えを抑えることができなかった。
ギルレイド領がいかに生きづらいか、知ったつもりになっていた。
だが、魔獣が頻繁に出現するとなれば、壮絶さは段違いだ。
人や家屋への被害もさることながら、不安定な収穫量もじわじわと領民の生活を蝕んでいく。
だから、領主の側近さえ小麦を節約しなければならなかったということか。
コルラッドは顎のひげを撫でながら、フローリアをつぶさに観察していた。
「ふーん……その反応、本当にご存じないようだ」
彼は深刻な表情になると、さらに説明を続けた。
魔獣の被害はその場限りのものではなく、討伐したあとにも問題があるのだという。
魔獣が流した血液には毒素が含まれているらしく、人が浴びると病気になるし、大地に染み込めば土壌が汚染されてしまうのだとか。
元々の農耕に適さない気候と相まって、最近は致命的なまでにライ麦の収穫量が減っているという。王都に何度も嘆願しているのだが、一向に対策を打ってくれないのだとか。
フローリアは、己の手の平を見つめた。
――大地の汚染……それなら、浄化の力を直接注ぎ込めば何とか……。
いいや、ギルレイド全土を浄化するほどの魔力は自身にない。
だが、魔道具ならば?
浄化の力を効率的に流す魔道具を開発できれば……力になれるかもしれない。
うっすら汗のにじんだ手を、ぐっと握り締める。
「あぁ。それより、あなたの身の振り方を話す方が先でしたね。辺境伯に申し出れば、公爵令嬢だった時と遜色のない待遇を受けることは可能ですよ。フローリア様がお望みになるのなら、ですが」
何とも、含むところのある言い方だ。
コルラッドの思惑は分からないけれど、フローリアの気持ちは既に定まっていた。
「できることなら、私は令嬢ではなく、平民として生きたく思います」
初めて、はっきりと自分の意見を主張する。
コルラッドは、真意を見通すかのような眼差しでフローリアを射貫いた。
「……過去のしがらみからは逃げられませんよ」
「逃げるのではなく、向き合うためです」
彼の言葉は本当に的確だ。
万人から認められる聖女になれなかった。国の平和を維持できなかった。公爵令嬢という地位さえ失ってしまった。
それら全てはなかったことにできない。
だが、逃げている場合でもないのだ。
「私は魔道具を作ることができます。地位などなくても、できることはあると思いました。魔道具職人としてできることが」
消えてしまえればなんて、むしのいい話だった。
フローリアにとっては自業自得、追放されるにおあつらえ向きな場所でも、ここに生きている人達に何ら非はない。
一刻も早く、彼らの生活を助ける魔道具作りを。
それが、フローリアが聖女だったせいで最も被害を被っていたギルレイド領のためにできる、せめてもの償いだと思った。